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16/11/23

6浪して大学へ: 貧乏,どん底の挑戦

Image by Olia Gozha

6浪学生のここでしか聞けない話!


■さえない小中学時代

「中国地方って中国の領土ですよね?」
 これは中学生のとき社会の先生に質問したことだ。先生は答えた。
「そんなわけあるか!ふざけんな」
 なぜ怒られたのかわからなかった。
 生まれつきぜんそくを患い、小学生のころから学校を休みがちだった。「理科」や「数学」という言葉を見るだけで吐きけがするほど嫌いで、日本地図もろくにわからず、アルファベットを正確に書けるようになったのも中学2年の5月。


 自分を振り返って思い出すことは毎日毎日テレビゲームをしていたことだ。本当にその記憶しかなく今考えると恐ろしい。学校を休んでゲームしていたこともあったし、定期テスト期間中なんて普通はみんな一生懸命勉強して焦るのに、「授業もなくて学校が早く終わってラッキー♪」という感じだった。

 大人になるのが嫌だった。だから自分の思い通りに動くゲームに逃げていたのかもしれない。そんな私が中学3年生になり、初めて進路について考えた。

  どの高校がどのくらいのレベルで、どのくらい勉強しなければいけないかなんてわからなかったため、あまり勉強しなくて済むような卒業単位の少ない、総合学科高校という選択肢をとった。

  自分で好きな授業を取れて、さらに料理や音楽、コミュニケーションなど、普通科ではあまりないようなことが学べるらしい。机に向かってやる勉強が少なくなるならと、中学3年の12月くらいから高校受験の勉強を嫌々ながらやり始めた。

 勉強といったって普通の中学生が日常にやっている時間や質よりもあきらかに劣るものだったが、自分なりには精一杯やったつもりだ。そしてなんとかその高校に合格できた(あとでわかったことだが当時の入学者の中で成績がビリから3番目であった)。

そしてそのあと私の人生が大きく変わった。

■学びの原点

 忘れもしない人生の岐路、それは高校一年生のころに受けた予備校の授業でのことだった。中学校を卒業するまでは毎日毎日テレビゲームをして過ごした。学校の授業もつまらなかったし、これといって打ち込むこともなかった。

  それでもなんとか高校受験を乗り越え、神奈川県藤沢市の単位制総合学科高校へ入学。小田急線沿いで、周りには何もないところだった。

   当時のこの高校は地域からの評判が悪く、近くのコンビニからここの高校生は利用禁止という勧告がなされたこともある。自分は悪いことをしていないのに制服を着て歩いているだけで地域の人の目が気になってしまう。

  せっかく高校に合格したものの、ほぼビリの成績で入った私はどこかで少し焦りを感じていた。そう思っていた折、予備校の無料体験の案内がきて行ってみることにした。そこで、


  人生が変わった!

 体験授業初日、英語の先生が放った一言は強烈だった。
「みなさんが高校生活で成し遂げたいこと、将来やってみたいことはなんですか?ぜひ目標を持ってください。人生が変わります!」

 そうか!今まで自分がバカで何の取り柄もなくだらだら過ごしてきた原因は、「目標がなかった」からだったのだ。


   この一言で私はこの先生の虜になり、気がついたら授業にも熱中していた。おそらく今までの人生の中でこんなに何かに熱中したことはないくらいに。わかりやすい説明、適度なスピード感、あふれるユーモア。

「皆さん!takeは持っtakeです!」
「ninthにeはいらninth!」
「さあ、この問題スーパーダッシュで解きましょう!」
「え?この問題間違えたんですか?さよならバイバイ!うそです。僕も昨日解いて間違えました笑」

 今まで学校で受けてきた授業とは比べ物にならないほどの高い質とテンションに圧倒された。堅苦しいイメージだった勉強というものがとても身近なものに感じることができた。何より、それまで教わってきた先生とこの予備校の先生の決定的な違いは、

「情熱」「本気」そして「楽しそう」

 仕事に対して、生徒に対して、そして自分自身に対して、この先生はどんなことにも情熱的かつ本気になれる人なのだろうと感じた。いや、実際そうだったはずだ。何も考えていない私のような人間の心をこんなにも簡単に動かしてしまうのだから。みんながこんな先生に教わることができればどれだけ多くの人が学問に目覚めるだろうか。

   私は、いままで嫌いだった勉強が一瞬のうちに「好き」に変わった。すごく不思議な感覚だった。

 その後は金銭的な理由で予備校に通うことができず、この先生ともそれっきりになってしまったが、この日の体験がなかったら私は今ごろ公園にブルーシートで暮らしていたかもしれない。

「人間は一瞬にして変わることができる」ということを自分の一番嫌いだった勉強というものを通じて教えてくれた体験授業だった。


■理想と現実とのギャップ

 目標を持てといわれてもどう探せばいいのだろう。何かに全力でがんばったことも、情熱的になったことも、本気になったこともない、そんな人間に何ができるのだろう。んー、あれでもない、これでもない。やりたいことなんてない。でもせっかく心に火がついたのだからなにかやりたい。あ!そうだ!

「先生になろう!」

 自分の人生を変えたくれた存在になる!これなら本気になれると思った。まず大学へ行こう。よし!これで方向性が決まった。

 しかし私は大きな壁にぶつかっていた。もちろん中学生のころまで勉強をサボっていた分の勉強をしなければいけないということもあったが、それ以上に経済的な問題があった。日常家族で暮らしていてもガスや水道が止まることもしばしばあった。高校の制服や教科書を買うときも借金をしたり、親類に頼ったりした。だから先生になると決めたはいいものの、大学へ進学するのは物理的にほぼ不可能なことのように思えた。
 高校受験のときも交通費がなくて、先生に800円を借りた。高校の定期もまとめて買えないから、1ヶ月ずつ、ちまちま買っていた。「全日本高校生定期更新回数選手権」のようなものがあったら問答無用で優勝だっただろう。

  それすら買えないときは、1時間半かけて自転車で通学したり、学校を休んでアルバイトをしたりしてお金のやりくりをした。

 アルバイトでは高校1年生にして、月に8万円くらいはコンスタントに稼いだ。放課後と土日しか働けない高校生にとってこれだけの金額を稼ぐのは至難の業であり、勉強との両立も簡単なことではなかった。バイト先の人からは、「若いのにそんなに働いて、何を買うの?」と言われたが、「いえ、ほしいものはありません。生活のためです」なんて言えなかった。アルバイト代は基本的に生活費や光熱費に回す必要があり、好き勝手に使うわけにはいかなかった。たくさん失敗したし、理不尽なことを言われたりもした。でもここであきらめたら今までの人生に戻ってしまうと思い、歯を食いしばった。
 とにかくこのような状態で勉強だけに集中するわけにもいかず、かなりの頻度で働く必要があった。大学の費用なんて3年間頑張ってアルバイトをしても到底足りそうにもなかった。お金の不安を抱えながら高校生活を送る日々が続いた。

  

 ■祖母の病気


 後述するが、中学2年生くらいからうちは貧乏になり始めた。もともと母子家庭で妹もいて、余裕のない生活だった。家賃が払えないからと言って、一人暮らしの祖母の賃貸アパートにもぐりこみ、4人で住んだ。

 ある時、突然祖母が倒れた。脳卒中という脳の病気だ。毎日のお酒とたばこが楽しみだった祖母がそのせいで病気になり、寝たきりの状態になった。要介護5という一人では話すことも食べることも排せつもできない。文字通りつきっきりで誰かがついていないといけない。唯一の収入のある母が仕事を辞め、介護にあたった。

 老人ホームに入れようにも、要介護5というのはなかなか受け入れてもらえず、入居費用も当時はとても払えるような値段ではなかった。そのため祖母はしばらくの間自宅で介護することになった。

 介護はとても過酷な重労働である。精神的にもストレスになり、収入はゼロになり、支出だけがかさんでいく。1年ほどたったとき、ようやく祖母が施設に入れることになった。でもそのときは母も精神的に疲弊し、とてもではないが働けるような状態ではなかった。このあたりから貧乏まっしぐらになっていった。人生どこでなにが起こるかわからない。健康であることがどれほどありがたいのかを実感した。


■新たな出会い
 

  何はともあれ高校生活は始まった。驚いたのは私の通う高校はどちらかといえば勉強が嫌い、もしくは苦手な人が集まっているはずなのに、みんな真面目に授業を聞いている。評判が悪いのは一部の生徒に過ぎず、全体的には真面目な人が多かった。

  当時は学園系のドラマが流行っていた。私の高校のイメージはまさに学園ドラマに描かれている状況その ものだった。シンナー、タバコ、お酒、喧嘩、暴力、学級崩壊など、実際の高校でもそれが日常茶飯事に起こっているものだと思っていた。とある学園ドラマに 関しては、生徒がバットを教師に振りかざし、先生はそれを見事にかわし、生徒にぴしゃりとビンタをする。高校の先生ってすごいなと感心したものだ。そんな状況にもしっかり対応できるようにと、どうやって先輩の誘いを断るか、学級崩壊のような状況のときどうふるまうべきかなど自分なりにかなり予習した。

 こんな貧乏で学力も低くて、ドラマと現実を混同する高校1年生に未来はあるのだろうか。私の勘違いや間抜けさはところどころ現れた。英語の授業でお相撲さんのようなネイティブの先生が授業にやってきた。そして、私にこう質問した。

「Do you eat a bagel?(ベーグルを食べますか?)」という他愛もないものだ。どんないきさつであったか覚えていないが、唯一覚えているのが当時の私には、

「Do you eat a米軍?」と聞こえたことだ。「bagel」と「米軍」を聞き間違えて、赤っ恥をかいたことがある。

   他にもアルバイト先の飲食店で後輩に指導しているとき、何か気に食わなかったのか口答えをしてきた。私は「口答えするな」と言ったつもりが、

「歯ごたえすんな!」と言ってしまった。しかも全力で。

  そんな私が「大学へ行きたい」と言っているから今思えば自分でも笑ってしまう。

 

  高校の授業を受けてさらに「先生になりたい」という気持ちが強まった。もごもご話したり、なんの刺激もない授業をしたり「情熱」や「本気」を感じなかった先生もいたものの、担任の英語の先生だけは違った。親身になって話を聞いてくれるし、授業もわかりやすく、遠慮なくものを言う先生だった。ときには自分自身が出勤している高校なのにもかかわらず、「子どもができ たら絶対この高校には入学させない」とまで言っていた(笑)うそ偽りがなく、しっかりと自分の軸を持ち、生徒からの信頼も厚かった。


 こんな短期間に二人の素敵な先生に出会えた。これはもうやるしかない!自分なら、この先生たちのようにおもしろい授業をすることができると信じ込んでいた。少なくともだらだとした「覇気のない大人」になるのは嫌だった。とりあえず大学受験を目指してみることにした。

 大学の名前なんて東大、慶応、早稲田くらいしか知らなかった。担任の先生の話によると英語はどの大学を受けるに しても必要だということで、英語の参考書を買った。わからないことは担任の先生に聞いたり、進学校へ通っている友人に聞いたりした。最初は単語一つ覚えるのにかなり時間がかかった。慣れないことばかりでたいへんだったが、どんなにつらくても「やめたい」とは 思わなかった。それだけ本気で「先生になりたい」と強く願っていた。

 「夢に向かって努力する」という新しい人生の喜びと刺激を知った。今までは「努力」とか「頑張る」ってなんかダサいことだと思っていたが、一番ダサいのはなんの目標もなくダラダラ過ごしてきた自分自身だった。

 気がついたら、テレビも観なくなり、ゲームもしなくなっていた。今思い出しても不思議だが、机に向かったり、勉強したりすることが日課になり、なんだか楽しかった。いままで毛嫌いしてきた勉強というものにこんなにも一心不乱に取り組む自分が不思議で、別人のように感じた。目指すべき目標があることでこんなにもがんばることができるのかと驚いた。

  

■バイト, ボランティア, 勉強の3年間


 高校3年間は毎日毎日ほんとに休みがなく、アルバイトに精を出し、合間の時間を見つけて、受験参考書を読むという生活を3年間続けた。週に7日、あの有名なドーナツ屋で働き続けた。朝学校が始まる前にバイトをし学校が終わってからも働いた。高校1年生から平均して一日7時間は働いていた。それでも日々の生活費に消えていき、高校生の私はうまくお金の管理をすることができなかった。


  正直、尋常ではないストレスを感じた。そんなとき私の通う総合学科高校では学外での活動やボランティアに参加することで卒業の単位になる(つまりその分授業をうけなくていい)ということを知った。後述するがこの不純な動機で始めたボランティア活動が私の人生においてとても大きな意味を持つものとなった。

   ボランティア活動は単なる偽善であり、無償で誰かのために何かをするなんて何の意味があるのだろうというのが私のイメージだった。しかし実際に参加してみると、思いもよらない価値がそこにはあった。ボランティアだからこそできた経験、ボランティアに参加したからこそ出会えた人たち。「誰かのために」と思っていたボランティアが結果的には「自分のため」であるということを知った。何事もやってみなければわからないものだ。

 

  それ以降はバイトと勉強の日々に疲れたらボランティア活動でリフレッシュという日々を過ごした。思いっきり遊んだり、それ以外のことをする余裕はなかったが、とても充実していたし、何より少しずつ目標に近づいている気がしてわくわくした。

       

 ■地獄の浪人時代 1浪目

 

  現役時代、ある私立大学に合格することができた。しかしここで私は何とも言いようのない挫折を味わった。

「入学金がなく、進学できない」

  あてにしていた教育ローンの審査が降りなかった。

   悔しくて悔しくて仕方がなかった。高校3年間がんばってきたことが一夜にして否定されたような気分でもあった。


   浪人して更にいい大学を目指してやると、そのあと一年間アルバイトをしながら受験勉強をし、それなりにいい大学に合格したものの、同じく経済的理由で断念。通信制の大学に通い始めたが、自分には合わずこれも断念。浪人一年目は勉強に時間を使いすぎて思った以上に資金を貯めることができなかった。

  当時の私は、お金がなくても頑張っていればなんとかなると思っていた。でも違った……。こんなにがんばっても最後はお金がものをいう世界に辟易した。物に八つ当たりしたり、貧乏に生まれたことを恨んだりもした。自分はなんて無力なのだろう。20歳前後の若造に、お金を稼ぎながら、受験勉強を平行させるのは至難の業だった。私の周りにも、「お金がない」と嘆いている人がいた。でも彼らは、車を持ち、家を持ち、親もしっかり働いている。これはお金がないのではなく、「贅沢をする余裕がない」というべきだ。ただ心のどこかでそんな彼らを羨ましく思う気持ちもあった。「お金がない」というセリフを口にするのも、耳にするのも惨めだから、必死に貧乏であることを隠した。

 

  通常、浪人生は毎日何時間も勉強に没頭するが、私はそうはいかなかった。生活費や今後の学費のためにアルバイトをしなければいけない。浪人生とアルバイトを両立するとき、何が大変かといえば、頭の切り替えである。勉強して集中スイッチが入っているのにも関わらず、アルバイトの出勤 時間になったりする。逆に、アルバイト直後で仕事モードが抜けず、机にじっとすることができない。これは大きなストレスになる。

  浪人していることも、お金に困っていることも誰にも知られたくなかった。自分を大きく見せるために必要のない嘘もたくさんついた。本当の自分をさらけ出すのが怖かった。ある日、年下の高校生のアルバイトに、「佐藤さんは普段何やっているんですか」と聞かれた。浪人生にとってこの質問ほど苦しいものはない。 「とりあえず毎日を楽しく生きてるよ」というようにお茶を濁した。

 

  そもそも時給800円程度ではどんなに頑張っても、大学にかかるくらいの費用を貯金するには無理があった。さらに私の場合は家にお金を入れる必要もあった からなおさらだ。「あきらめなければなんとかなる」ということをよく耳にしていたから、次の年も大学を目指してやると誓った。教育ローンの審査も検討し た。でも親が働いていなかったため、審査は通らなかった。


■地獄の浪人時代 2浪目

  

  2浪目に入った。お金がないなら稼ぐしかないと、無我夢中でアルバイトに励んだ。複数のアルバイトを掛け持ちし、高校時代のように週に7日休みなく1日平均8時間アルバイトをする生活になった。この年の1日のスケジュールはこんな感じだった。

朝7時に起床。

午後1時まで勉強。

午後2時から夜10時までアルバイト。

夜12時就寝。

  この繰り返しだった。半年くらいは頑張れた。しかしもう限界だった。身体的な面よりも精神的ストレスが尋常ではなかった。午前中を勉強時間に割り当てるも、前日のアルバイトの疲れが残っていたり、先の見えない不安が私を襲った。


  じゃあ何を削るか?睡眠時間は5時間が限界であり、資金不足で大学受験を失敗したため、アルバイトを削るわけにもいかなかった。犠牲になったのは「勉強時間」だった。しだいに勉強に手がつかなくなった。一年前にできた問題が途端にできなくなっていて、知識がこんなにもすぐ抜けてしまうのかと驚いた。

 

  ストレスを減らそうと浪人生の本業である受験勉強の時間を削ることは本末転倒かもしれないが、それほどまでに追い詰められていた。何よりつらいのが孤独であるということだった。

 読者の皆さんの中には、「甘ったれるな。それくらい乗り越えてみろ」と思っている人もいるだろう。しかしこれはやってみなければわからない。受験勉強だけでも大変なのにそれに加えてアルバイトもしないといけない環境であれば、誰だって不安になるだろう。

   常に葛藤や焦りがあった。バイトをすればするほど、勉強時間はなくなる。勉強時間をとれば、収入が減る。浪人をしたらある程度偏差値の高い大学に入らないとかっこ悪いという子どもじみたことも考えていた。

    受験勉強そのものに強いメンタルが求められるのにも関わらず、私の場合はそれが2倍にも3倍にも感じられる状況にいた。気持ちが乱れている中勉強をしてもまったく頭に入ってこない。   


  しだいにアルバイトをすることにも嫌気が差してきた。

「なんでこんなに働かないといけないのだろう」

同時に頭の中は

「お金がない・・・・・・」という呪文のようなフレーズが私を支配していた。もはや何をやっても無駄なんじゃないかという気もした。結局この年も十分に貯金ができず大学入試自体見送った。

    

■方向転換すべきか?


 本当に自分に必要なのは大学という場所なのだろうか。先生になるという道なのだろうか。こんな思いをしてまで挑戦する必要はあるのだろうか。

  たしかに大学受験において浪人生の存在は珍しくない。しかしこんな貧乏生活をしながら、学費を自分で稼ぎ、大学を目指すとなるともはや絶滅危惧種である。

 

  そもそも暮らしていくのでさえ、精一杯な状況なのにも関わらず、大学受験なんて贅沢すぎた。しかしここでやめたら今まで頑張ってきたことがゼロになる気がした。だから何があっても大学へは行くと心の奥深くでは念じていた。

 

   家族関係もうまくいかなかった。毎日毎日ケンカし、めちゃくちゃだった。掃除機や包丁が飛び交うこともあった。貧乏は人の心も貧しくする。心の余裕がなくなる。自分のことしか考えられなくなる。


  生活保護という選択肢もあった。実際何度も何度も役所に足を運んだ。相談に行くと役員がとても嫌な顔をして、密室へ連れて行かれる。そこはまるで警察署にある尋問を受ける場所を連想させる。そしてこのような質問をされ続ける。

 

「生活保護を受ける理由は?」

「親戚には連絡したの?」

「きみ若いでしょ。ご兄弟もいるみたいだし、もっと働いたら?」

「はっ?大学いくの?こんな状況なのに本気で言ってる?」

 

  惨め以外のなんでもない。ありとあらゆる個人情報を書かされて終わった。たまたま私の住んでいた地域の対応が悪かったのかもしれないが、貧乏人には冷たい世の中であると感じた。世の中の全員が敵にみえた。

   

  このような生活状況の下、幼いころから暮らしてきた。私だけでなく、母や妹も心身ともに相当なダメージだったはずだ。貧乏は恐ろしい。人間の頑張りたいという気持ちに歯止めをかけ、普通に生活をする権利さえ奪ってしまうのだから。

   

 ■地獄の浪人時代 

3浪目(もはやフリーター)


  3浪目ともなると二十歳を越える。大学に進学した同級生たちは、就職活動に励み、早くも次のステージを目指している。一方、私はずっと同じ場所をうろうろしている。性的にも満たされず、なんだかいつもイライラしていた。

   

  自分は何をやってもだめなんじゃないか、ずっとお金のことで悩んでいくのではないか。自分の未来が真っ暗だった。勉強とアルバイトだけをしている日々は孤独と不安でいっぱいだった。周りの人にもいろいろなことを言われた。


「いつまでそんな生活しているの?」

「もっとがんばったら?」

「やる気あるの?」

 

 私は心の中で思った。

「体験していないあなたに言われたくない」


 一方で何も言い返せない自分がつらかった。とにかく耐えるしかなかった。どっかで絶対見返してやると誓った。こんなに苦しまなくとも、もっと適切な生き方があったのかもしれないが、精一杯やることで自分を励ましていた。

  

   日本では20歳を過ぎたら「大人」とみなされる。私が幼いころイメージしていた大人というのは、バリバリ仕事をしたり、学業に励み、教養が高く、どっしり構えている存在だったはずだ。そのどれにも当てはまらない……。


   受験勉強というものにも飽きた。もっと違った角度から学問をしてみようと読書に目覚めた。小説からビジネス書までかなり読み込んだ。アルバイト代もそれに費やした。貯金なんてもうない。生活費にも回さなければいけないし、このまま貯金を続けても先が見えなかった。

  

  特に読んだ分野は、自己啓発だ。これを読めば心が軽くなるだの、読むサプリだの、人生に絶望している人へだの、そういった類の本に手を出した。参考になった部分もあればそうでない部分もあったが、いずれにせよ、最終的には自分次第だということにいきついた。自分がやりたいようにやることこそ大切なのだと改めて実感した。でもそれを環境やお金が邪魔をしてくる。

  

 ■地獄の浪人時代 4浪目      

  

  まさか4浪目に突入するなんて思ってもいなかった。もし大学に入学していたら、今頃は大学4年生。

「いったい自分は何をしてきたのだろう?」


  高校生のころ抱いていた未来への希望はどこへ行ってしまったのか。あのころに戻りたい。とにかくがむしゃらにがんばっていれば道は開けると信じていたあのころに……。


  完全に無気力だった。せっかく高校生のころに学問に感動し、恩師と呼べる担任の先生に出会い、受験勉強をし、アルバイトをし、ボランティア活動にも参加し、不安になりながらも有意義な高校生活を送ってきたはずだ。それが今、たった数十枚のお金という紙切れなんかに行く手を阻まれている。


「もういいや。大学受験やめちゃお」

 

  もう限界だった。なんにもしたくなかった。アルバイトで忙しすぎる毎日に、不確かな未来。その一方で、大学へ行き、先生になりたいという気持ちが頭の中を飛び交う。もう何が何だかわからなくなった。このままいったら冗談抜きに死んでしまう。どうにかしてこの状況を打破しなければいけない。

  

  そう思ったとき、一人暮らしをするという決意をした。家にいたってどうせろくに手伝いもせず、お金も入れず、文句ばかり言い、ケンカの毎日なら、いっそのこと別々で暮らしたほうが楽になれる気がした。家賃3万程度の古い木造住宅で決して便はよくないが、一人になれる環境を見つけた。

    一人暮らしをすることで、いろいろなことが見えてきた。まずは家族のありがたみを知った。どんなに狭く苦しい住居環境でも、家事はすべて母親に頼っていた。母親が何気なくやっていた家事がこんなにも大変で重労働なことだと知らなかった。


  一人暮らしを始めたころは炊飯器を使ってご飯を炊くこともできなかった。家賃、光熱費、食費、雑費などありとあらゆる生活費を全部人一人でやりくりするのも予想以上に大変なことだった。 

  人間一人が生活するのにこんなにもお金がかかるのかと驚いた。貧しいながらも何の手伝いもしなかった私を見捨てなかった母の偉大がいかに偉大であったかを感じた。

「なんだかんだ言って自分は親に甘えて生きてきた」

 

 ということに気がついた。ずっと大学受験に目を向け、それ以外のことは一切考えてこなかった私が初めてこれまでの人生を反省した瞬間だった。一人暮らしという選択をしたことで、貯金などできず、これまで以上に必死にアルバイトをした。もちろんいままで以上に生活は苦しくなったが、だからこそ、家族という存在のありがたみを知ることができた。

       

 ■一通の手紙


 長い間目指してきた大学受験や先生になりたいという「夢」や「目標」が、いつの間にか「理想」に変わり、そのままどこかへいってしまいそうだった。これまで歩んできた生活が私にとっては過酷過ぎて、高校生のころに抱いた勉強に対する感動や将来に対してワクワクしていた感情も今やないも同然だった。 

 

  引っ越しの際、かき集めてきた荷物を整理していると、見覚えのある小さなお手紙が出てきた。それは私が高校生のころボランティア活動の一環として参加した子ども会のキャンプで、小学3年生の女の子がくれた手紙だった。

 

「さとけい先生へ

きょうはきてくれてありがとうございます。鬼ごっこをしたときのさとけい先生の顔がほんとに鬼みたいで泣きそうになりました。でもすごくたしかったです。またきてください」


 これを読んで私は当時のことを思い出した。高校生のころはどんなことにも全力だったなー。アルバイトも勉強もそしてボランティア活動にも。自分が最も輝いていた高校時代。思えばこれまで先に先に進むことばかり考えて、自分がどんなことをしてきたかを振り返ることがなかった。

 片付けの中で、大きなファイルも出てきた。開いてみると、高校3年間で参加したボランティア活動の記録書だった。なんと3年間で128時間ボランティア活動をしていた。ページを繰っていくと例の子ども会のキャンプの項にたどり着いた。

 

「この活動に参加しようと思ったきっかけは何ですか」

「あなたがこの活動で学んだことや気づいたことは何ですか」

「改善すべき点は何ですか」

など項目が並び、その中にこんな項目があった。

 

「この活動で印象に残っていることは何ですか」

「子どもたちからもらったたくさんの『ありがとう』です」


 これだ!今の自分に欠けていることは!あのころの苦しいながらも輝いていた自分を思い出した。そういえば最後に「ありがとう」を言ったのはいつだろうか。浪人してからは、誰かに「何かをしてもらった」ことよりも、「してもらっていない」ことの数を数え、その多さを嘆いてきた。

 

  涙が流れてきた。逃げるように自ら描いた将来をあきらめ、そして自らの努力不足、精神の弱さや甘えを「貧乏だから」を理由にごまかしてきた。いったいどれだけの人に支えられ、ここまで生きてきたのか。ここでやめたら私を支えてくれた人たちの好意も無駄になる。もう一度、もう一度、がんばってみよう。

      

 ■地獄の浪人時代 

5浪目(舞台は世界?)


  気持ちを新たにし、大学受験に向けて再チャレンジを試みた。

  焦ろうとする自分自身を抑えつつ何かいい方法はないかと考えた結果、行き着いたのは、


「そうだ!イギリスへ行こう!」

何を考えているんだこいつは!と誰もが思うだろう。長い長い浪人生活のせいで、正常な思考ができなくなっていたのかもしれない。

  考えてみれば、これまで大きな目標を達成した経験がなかった。その快感がどれほどのものか実感してみたかった。

  「旅をすれば何かが変わる」ということを聞いたことがあったし、いい刺激になると思った。受験勉強で鍛えた英語を使い、なるべく遠くの国へ行きたかったため、イギリスを選んだ。

 

  集めた情報によるとイギリスのロンドンで1ヶ月留学するなら、安いところだと航空費、生活費、語学学校の授業料全て込みで40万程度だそうだ。一人暮らしにも慣れ、それなりに節約し、少しずつではあったが貯金もできるようになっていた。これくらいならなんとかなりそうだと、早速手続きをし、アルバイトに精をだした。


  気持ちを完全に切り替えるために、ひたすら留学に必要なことだけを考えた。

   何か目標を持ったとき人はこんなにも情熱的になれるのかと我ながら驚いた。嫌々やっていたアルバイトも楽しくなり、留学することが待ち遠しくて、久しぶりにウキウキしていた。これは高校1年生のころに初めて目標ができたときの感覚とまったく同じだった。

 

  2012年5月、成田空港からロンドンへ出発。初めての海外、初めての一人旅。飛行機の上から地上を眺め、「今までこんな小さなところで右往左往していたのか」と思うと、何だか気持ちが楽になった。外から見たら、自分の悩みなんて小さいものだ。これから1ヶ月というほんの短い期間ではあるが、新しい生活が始まる。いい経験になることを祈って。


■I am sixty hive years old? 

 

  ロンドンでの1ヶ月はとても貴重だった。人生で初めて1ヶ月の間アルバイトがない生活だった。思えば勉強以上に必死になって取り組んだアルバイト。それが今はない。

時間がゆっくり流れた。お金より大切といわれる時間というものを時給800円くらいと交換してきた。

「もし今までアルバイトにつかってきた時間を別のことに使えたら、どれだけ多くのことができただろう」などと余計なことを考えた。

 

   語学学校では様々な国籍や年代の人たちがいた。私のクラスでは10人前後のクラスメイトがいた。18歳の韓国人、20代のサウジアラビア人、30代のドイツ人、40代のイラン人、60代のブラジル人のおばあちゃん。挙げればキリがないが、日本人の私を快く受け入れてくれた。


  それぞれ自己紹介を始めた。受験勉強ばかりでスピーキングの訓練なんてしていなかったからうまく話すことができなかったが、難なく溶け込めた。60代のブラジル人のおばあちゃんに関しては、前歯がなくて、I am sixty five years oldと言うべきところを、sixty fiveがsixty hiveと言って場を和ませた。

その人が常に言っていた言葉がある。それは、

 

Today is the first day of the rest of my life.

今日という日は残りの人生で最初の日である。

 

   過去をひきずってきた私にとってこの言葉はとても含蓄のあるものだった。なにより新鮮だったことは、国籍も年代も違う人たちが一つの教室で同じことを勉強しているということだ。それは日本では見たこともない光景だった。考えてみればなぜ彼らはわざわざここへ勉強しに来ているのだろう。


  直接聞く機会はなかったが、なにか目的があるはずだ。目的や目標がないならあんなにも真剣に勉強しようなんて思わないはずだ。それぞれの目標に向かって、国籍も年代も異なる人たちが一つの教室で一緒になって勉強するという光景に感銘を受けた。

 

 ■50年後に後悔しない人生を!

 

  心が不安定であること、環境のせいにして自分が前に進もうとしていないこと、なんとも言い難い虚無感など自分のことを現地の先生に相談する機会があった。英語で心のモヤモヤを説明するのに苦労したが、先生は一言で返してくれた。

 

 Do not regret your current life in 50 years from now.

「50年後に後悔しない人生を生きろ」

 

  私は奮い立った。「何歳になっても勉強していいんだ!やっぱりもう一回大学を受験しよう」。4浪目のころ再び意識しはじめた大学受験をしようという気持ちが、ここへきて確固たるものとなった。このロンドンでの1ヶ月はほとんど観光もせず、日本からとりあえず持ってきた受験参考書に毎日かぶりついた。ぜったいに大学に行く。ぜったいに。

 

■もう一回やってみよう

 

  帰りの飛行機の中でも受験勉強をするほど全力だった。日本に戻ってきたのは6月。受験まで半年程度しかない。そのため、1年半をかけて挑戦しようと考えた。このときすでに5浪目。6浪で合格するとを決意し、これで最後にしようと誓った。

 

  しかし「孤独感」には常に悩まされていた。とにかく耐えるしかなかった。孤独は人を強くするという言葉をどこかで聞いたことがあった。それを信じた。もうやるしかない。

 

 貧乏、学力不振、孤独、それに伴う頭痛や吐き気などの症状。それでもやっぱり大学へ行きたいという気持ちが自分を動かそうとしてくれた。なんでこんなに大変なんだろうと思いつつも、これを乗り切れば、ものすごい人物になれるような気がした。最後の挑戦、どうなることやら。

 

 

■横浜市立大学AО入試

 

   繰り返しになるが、精神的には常に不安定だった。気持ちの余裕がなくなり、感情を表現する機会も減った。意味もなく発狂したり、頭痛や肩こり、不眠症などが日々、私を襲った。そんな中での受験勉強はもはやなんとも表現しがたい境地だ。

 

 長らく大学受験から離れていたため、練習のつもりで大学を受験しておこうと考えた。とにかくいろいろな選択肢を増やそうと、AО入試というテストの点数ではなく、人物評価の入試選抜に挑戦しようと考えた。わかりやすく言えばオーディションのようなものだ。


  私が目をつけたのは横浜市立大学だった。学費も安く、総合大学のため、いろいろなことが学べると思ったのがきっかけだ。 

ささっと志望理由書を仕上げ、これだけの内容だったら現役生に負けるわけがないと自信に満ち溢れていた。しかも当日に関しては面接だというのに、Tシャツ、ジーパン、スニーカーというスタイルで挑んだ。周りの現役生たちは、制服でビシっと決めているのに自分はサンダル、ハーフパンツにポロシャツ(笑)


結果は、 

「不合格」


 今思えば当たり前なのだが、ショックだった。

 AО入試という人物評価の試験なだけに、人格そのものを否定された気がした。どちらにせよ、この時期に合格しても、資金不足だったから入学できなかったのだが、これをきっかけにさらに火がついた。

 関係ない話しだが、「国公立大学」なのになぜお金がかかるのだろう。国立大学くらいタダでいかせてもいいのに。

. AО入試がどういうものか身体でわかり、何をしなければいけないか明確になった。来年で最後の挑戦。今までお金がないということでバカにしてきた連中や社会を見返してやる。ぜったいに受かってやる。


■地獄の浪人時代 

6浪目(最後の決意) 


 6浪目ともなると24歳になる。これが最後の挑戦。全力でやる、ただとにかくそれだけだ。気がついたら、多少のことで精神を病んだりしなくなっていた。知らぬ間に強い精神力が自分に備わっていた。

 

 AO入試というのは、テストのように点数化し、客観視するのが難しいだけにはっきりした対策もよくわからなかった。これといった武器もなく、何を自分の強みにしようか改めて考えた。そして見つけたのが、「誰も体験したことのない経験」だ。

 

 これこそが自分自身の一番の武器だと考えた。お金がないということだけで、数々のことをあきらめ、我慢してきた。何度も悔しい思いや惨めな思いをした。精神も病んだ。何も手がつかないこともあった。こういった経験やそこから生じた感情を学問的に捉えようと考え、心理学を勉強したいと思った。心理学を勉強すれば、自分があの時なぜ、あのような感情を感じたのか、どうすればよかったのかなど、過去の自分を見つめなおすことができるのではないかと考えた。

 

 心理学は教育にも大きな影響をもたらし、それらをより深く理解するためには歴史的背景や国際的な視点も大切なのではないかと考え、それらを体系的に学べるのが横浜市立大学だった。


そして​「合格」を手にした!

 添削してくれる人や練習してもらえる相手もいなく、常に自己の内面と対話し、ボイスレコーダーで録音し、対策をした。圧倒的に不利な状況だったが、「想い」はだれにも負けない自信があった。今回は今までと違い、入学金も準備し、しっかり入学することができた。

 

 ここでそもそも横浜市立大学のAO入試というのはどのような形式なのかを簡単に紹介したい。

 

一次審査:A3用紙2枚の白紙に「今までどんな経験をしてきたか」、「今後どんなことを学びたいのか」を明記し、これに加え、英検2級以上か、TOEIC500点以上の資格を有している必要がある。

二次審査:書類を踏まえ、10分間のプレゼンテーションと20分間の質疑応答がある。

 

 合格者人数は少ないものの、センター試験と二次試験を受けるよりは敷居が低いように思える。しかし一方で数値化できないAO入試の対策は不安も募りやすい。


 ■精神的ダメージを乗り越えるために

 

 もっとも苦労したことは、お金のやりくりでも勉強のやり方でもなく、感情のコントロールだった。これを読んでいる人が浪人生(特に男子)であればなおさら実感してもらえるかもしれないが、10代、20代は異性に対する興味がこれでもかというほど強い。高校生であればクラスで友人との時間があり、気を紛らわす環境がある。


  しかし浪人生はそうもいかない。毎日毎日予備校に通ったり、自宅で勉強したりと完全に友人や社会生活から隔離される。もちろんある程度の交友関係を保つことは可能だが、一線を引き、勉強が最優先であることを意識しておかないと次の年も浪人する羽目になる。

 若さという情熱とエネルギーにあふれた年頃の人が、机にじっと座って受動的な勉強を1年間することは簡単なことではない。同級生たちはすでに進学し、新しい生活を送っている中、勉強一本ですごす日々のつらさやむなしさは体験した人にしかわからないだろう。

 一方で、1年くらいの浪人であれば、自分を強くする数少ない機会にもなる。10代後半という若さで、目標に向かって、全力で躍進していく経験は浪人生ならではの経験かもしれない。


 精神的にも不安定になり、異性への憧れが人一倍強くなった。アルバイト先にはもちろんたくさんの女の子がいて、大学生活を送っている。彼女たちは容姿も内面も輝いていて、一緒に遊んだりいっぱい話をしたいという欲望に駆られた。でもどこに浪人生だかフリーターだかわからないような男に魅力を感じる女性がいるだろうか。


「もっと友達と遊びたい」、「もっといろんなことをしてみたい」という思いが日に日に強くなっていった。常に心も頭の中もざわざわしていた。


「大学にいきたい。先生になりたい」という目標がどんどん遠くなっていく気がした。目の前のことや一日を過ごすことに時間が奪われ、感覚が麻痺していった。残ったのは人間が本来持っている三大欲求(食欲、睡眠欲、性欲)のみだった。


 ただ心のどこかで、「これを乗り越えたら一角の人物になれる」という思いがあった。

  中学生までの無気力で自堕落な自分がこんなに自分で動けるようになったのは教育のおかげだった。教育には人を変える力がある。そんな分野で自分も活躍したいという気持ちは消えることはなかった。

 

  本当にこれ以上は無理だと気持ちが押しつぶされそうになったら、「将来子どもたちに、『あきらめるな』、『希望を捨てるな』という立場になる人間がここであきらめてどうする!」と自分に言い聞かせた。しかしそれでも感情が安定することはなかった。ただそのざわつきをごまかすことくらいはできた。


  受験にしても、仕事で何か達成しようとするときも、感情をコントロールできるかどうかが成功の分かれ目になる。自分の私的な欲求を押し殺し、むしろそれをエネルギーに変えることができれば大抵の場合うまくいく。それがマイナスに作用してしまうと、過度なストレスや負のエネルギーになり、犯罪のような悪事に走ってしまうのかもしれない。

 

 感情を抑えようと、コントロールしようとすればするほどイライラした。どうにもならないもだと割り切り、あえて忙しくした。


  アルバイトの時間を増やし、常に何かをやっている状態をつくった。一人でいると邪念や妄想が襲ってくる。勉強の時間は減っていく一方だったが、気持ちが落ち着かないことが一番つらかったた。


 勉強とアルバイトという単調な日々を輝かしく、情熱的なものにするために、なるべく多くの人と関わるようにし、刺激をもらうようにしていた。しかし人と会えば会うほど自分が惨めになることもあった。かといって一人で日々を過ごすことも切ない。やり場のないエネルギーがストレスに変わり、感情が安定することはなかなかなかったが、どんなに回り道をしても、自分の目指すべき場所は見失わないようにしていた。

   


 

 

 

■浪人生活から学んだこと 

   大学に合格し、入学することがこんなにも大変なことだとは思わなかった。親からの経済的援助が一切ない中、自分で学費を稼ぎ、勉強し、士気を保つことは簡単なことではない。改めて実感したのは「どんな出会いをするかで人生が変わる」ということだ。

高校生のころに出会った予備校の先生、学校の先生、イギリスで出会った人たちなど、それぞれの節目で大切な出会いがあった。

 

   あのような出会いがなかったら、今頃私は何をしているのだろう。人生はふとしたきっかけから変わる。逆に言えば、悪い人との出会いが人を破滅に追いやることもあるのだ。その点私は、経済的に恵まれない環境にいたものの、人生の早い段階で自分の歩むべき理想に出合うことができた。そのことには本当に感謝している。長い長い戦いだった。

 

とにかくがむしゃらにやっていれば道は開けると信じていた高校時代。

 

学業とアルバイトに精を出し、がむしゃらに頑張り自分を鼓舞してきた1浪時代。

 

「貧乏」というものが自らの行く手を阻み、世の中のすべてが敵にみえ、本格的に精神を病みはじめ、さみしい、むなしい、くやしいという感情と戦い続けた2浪時代。

  ​

   肉体的にも精神的にも限界を感じ、投げやりになり、もはや大学受験そのものをあきらめかけ、どうすればいいかわからなくなった3浪時代。

   一人暮らしを始め、何から何まで自分でやらなければいけない環境に身を置くことで、改めて過去を振り返り、初めて客観的に自分自身を見つめることができた。そして今後の方向性を考えていたとき、ある1通の手紙が私を励ましてくれた4浪時代。

   再び芽生えた大学受験に対する気持ちを、確固たるものにし、新しいことをやろうと決意したイギリス留学。そこでの出来事がさらに自分自身を学問の道へと駆り立てた5浪時代。

   金銭的な見通しもつき、最後の力を振り絞って全力疾走し、やっとの思いで大学合格を果たした6浪時代。

 そんな浪人生活が私に教えてくれたことは、次のようなことだ。

「どんなに苛酷な環境であっても、その中で最大限に努力をすること」


 18歳から24歳という期間は、本来いろいろなことに挑戦し、行動できる年代である。その期間を受験勉強とアルバイトに費やすことは、合理的な選択ではないかもしれない。


  ただ、いかに自分を律し、精神力を鍛えるかという技を手に入れ、普通の人が経験できないようなことを経験できたのは大きな収穫だった。

 

  これまで「お金がない」という台詞を何度も口にしてきた。自分が大学に進学できないのは、全部お金のせいだと思っていた。しかし、今振り返ってみれば、自分の実力や努力不足をお金がないという問題にすり替えていただけなのかもしれない。そう考えることである意味安心していたのかもしれない。


  もちろんお金のことでは本当に苦しんだ。電気やガスが止まったことも、家賃が払えないこともあった。ときには一つのカップラーメンを家族3人で分け合い、「おいしいね」と言って食べたものだ。

 

  こんなに時間もお金もかかることが予めわかっていたら、高校を卒業した時点で社会で働き、しっかりと自立してから大学受験をしてもよかったかもしれない。ただこれでも当時の私にとっては精一杯のことをやってきたつもりだ。


  貧乏はありとあらゆる行動を制限する。ときには行動だけでなく、正常に思考することや普通に生活する権利まで奪う。


  一方で、どん底を経験した人は謙虚になれる。そしてなにより、人一倍努力する機会を得ることができる。大切なのは「与えられた環境の中で最大限やることなのだ」


  最後に私がイギリスで出合った一編の詩を紹介して締めくくりたい。

 

I asked for riches, that I might be happy.

But I was given poverty, that I might be wise.

「幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった」


人はそれぞれ問題を抱えている。でもいつだって本気になれるチャンスはある。

 

あなたは何を本気でやりますか?

 

 

   

 




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