天国と地獄
《ここまでのあらすじ》初めて読む方へ
普通の大学生だった桃子は、あることがきっかけでショーパブ「パテオ」でアルバイトをしている。野心に目覚めた桃子は少しずつ頭角を表し店の売れっ子へと上りつめていく。そんな最中、ある夜襲われかけた桃子を店のチーフマネージャーの佐々木が助ける。そして、その夜を境に桃子は佐々木への想いをハッキリと自覚するのだった。
佐々木はそれからも、週一度のペースで私を、あのカジノバーに連れて行った。
客とのアフターに差し支えないようにと、佐々木は前々日くらいに声を掛けてきた。
私は店をあがると真っ先に、一本先の交差点付近で横付けしている佐々木の車に乗り込むのだった。
カジノも楽しいが、ゲーム中はお互いそっちに気をとられるので、私はその後2人でまったりと飲む時間の方が好きだった。
佐々木の話は面白く聞いていて飽きなかった。
彼は決しておしゃべりではないが、絶妙な間といい、人を笑わせるセンスと才能に長けた男だった。
聞いていると次から次へと笑いがこみ上げてくるのだ。
それはパテオの中のことだったり、世間話だったり
私はくだらない話でバカ笑いするのは、あまり好きではなかったが
佐々木の話を聞いていると、自分でも意外なくらい大きな声で笑ってしまうことがあった。
佐々木は人をネタにして少々口は悪いが、露骨にその人を否定したりけなしたりはしなかった。
もしかすると私は、ずっとこの口の悪さだけで彼の人格を判断してきたのかもしれない。
おかしなものだ。
ある時期は、その言動全てが粗雑で荒っぽい佐々木をヤクザじゃないかとさえと思っていたというのに。
ずるいな…
1番、嫌な奴だと思っていた奴が
ちょっと良いとこ見せると
今までが全部、私の誤解だったってくらいにいい奴に見えるんだから
私は、思った。
もしかして
パテオで働くことが定められた、運命のあの夜
佐々木は本当に私の携帯だけを拾ったのかもしれない。
財布はきっと、誰かを別の人間の手によって
盗まれたんだ。
だって
佐々木は…
果たしてそんなことができる人間なのだろうか?
罪もない善良な学生から財布を奪うだなんてことが…
あの人は
そんなことできないんじゃないか
私は、改めて部屋の鏡の中で突っ立っている女を見た。
その女は下着姿に靴下だけ着用し、ちょっとマヌケな姿なのにもかかわらず
顔は何か思いつめたかのように、熱のこもった目を開いて
ぼんやりとしていた。
これは、誰かに想いを寄せている女の顔に違いなかった。
こんな顔の友人の顔を、これまでにいくつも見てきた。
あくまで、他人事としてだが。
そんな熱病に侵された顔を見ながら
私はこうなることはない
と思っていた。
でも今こうして
目の前にいる女はまんまと、その1人になった。
それは紛れもなく私だった。
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その夜も、忙しくなりそうだった。
メールと電話だけでも
常連客が何人も、顔を出すよと約束してくれている。
でも、客に会うことは私のパテオでの地位を確立、維持するための義務の行いくらいに思っていた。
もちろん新人の時から、変なやましさを表に出さず応援してくれた客は別だ。
でも、それ以外のやたら体を近づけたり、来れば必ずアフターを要求してくる客たちには
正直、少しの情すらもったことがない。
でもそれは私が冷たい人間だからだけではない。
どんな綺麗事言い合ったって
所詮は客とホステスだ。
下心の全くない客なんていないだろうし
お金目当てじゃないホステスなんてどこにもいない
蓋を開ければ、どのホステスも私と似たり寄ったりだ。
それでも当時、私はパテオにくるとワクワクした。
佐々木に会えるから。
一言も言葉を交わせなくたっていい。
私達は必ず、目と目が合った。
その瞬間、会話するのだ。
それで十分だ。
何か別の用事などで佐々木がいない日は
なんとも味気ない夜になった。
早く帰りたい…
それだけを思いながら、客とグラスを合わせていたものだ。
その夜、ショーの衣装に着替えステージに向かって歩いていると
背後から男女の揉めている声がした。
佐々木が慌ただしく、出て行こうとする姿に
カナが執拗に絡んでいる。
思わず私は眉間にシワが寄せた。
ねえ!と甘えた声を出して腕にしがみついている。
私は、生まれて初めて全身がカッと熱くなるのを感じた。
なんだろ…あのオンナ…
私が、今にも駆け出したい気持ちを抑えていると
「杏、早く。舞台上がりなさい」
玲子が冷めた瞳で私を促す。
私は仕方なく舞台に上がって、もう一度2人のいた方を見た。
佐々木が、カナの腕を振り切って出て行くところだった。
BGMの音できこえなかったが
カナは佐々木に向かって何か罵倒していた。
幕が上がっても
私は全然ショーに集中できなかった。
ショー終わりに舞台袖にいる玲子が
先ほど以上に冷めた目で私を見つめていた。
そのまま通り過ぎようとすると囁くような小声で、口早に言った。
「誰かさんに、うつつを抜かすのもいいけど
ショーには集中して。あれじゃお客さんに失礼よ」
私は、玲子を振り返った。
「うつつを抜かすって、なんの話ですか?」
「ま、いいけど。
とにかく、知ってた?
あなたは今うちの店で上から数えて3番目に人気のホステスだって。
それ、忘れないでちょうだい」
私はなにも言わず、玲子に背を向けた。
玲子が薄々、私と佐々木の関係に気づいているのは分かっていた。
玲子の態度が私に対して、どんどん素っ気なくなっているのが分かるから。
うつつを抜かすだなんて…
嫌味ったらしいセリフ言っちゃって
玲子は、やっぱり嫉妬しているのだ。
この私に…?
そう考えると
不思議と優越感と焦りの混じった思いになった。
私はショーの衣装を着替え、常連客の元へ行った。
客も、ショータイムの私は少し変だったと言った。
私は、めんどくさいなと思いながら
だって(常連客の名前)さんが観てるんだもん!
緊張しちゃって振り忘れちゃったあ!などと言ってごまかした。
すぐ向かいにカナの横顔があった。
金髪ガングロのチャラそうな客に、もたれかかりタバコを吸っている。
私は、自分に言い聞かせた。
きっとさっきのはなんでもないこと。
カナが佐々木に長期休暇でも要求して断られたんだろう。
今夜も佐々木に、誘われている。
あと数時間すれば
あの声が、すぐ耳元でずっと聞ける。
そう考えるだけで、幸福感に包まれた。
特定の人物のことを思うだけで
ここまで気持ちが高ぶるってことを
私は生まれて初めて知った。
でも、そんな幸福な戸惑いも
その夜で終わりだってことを
私は後に知ることとなった。
そして、その先にはまだ私の思いもよらなかった
更なる、どん底があるってことも
人は誰でも、狂うことができるということも。
今思えば、私が本当におかしくなったのは
この辺りからだった。