最近、広告会社に就職した東大生が1年目で自殺した報道を目にした。
私は彼女の詳細はよく知らないし、事件の経緯もわからない。
私の大卒時の最初の就職先も広告会社だった。
彼女のいた会社よりももっと小規模で、特定のサービスに特化した広告会社。
私はそこを一年あまりで自己都合により退職することになる。
それまで想定した進路とは全く違う結末になってしまった。
私の昔の話と彼女を重ねるつもりはないし、本当のところ彼女に何があり、何を考えて自分で命を絶ったのかはわからない。
ただ、死んでしまうくらいなら、辞めれば良かったのに、それが結局彼女はできなかったんだという意見について、それは難しいかもしれないということを書くために、自分の物語を書いてみようと思う。
1 進路
大学生の頃の私は、自分の将来について一生懸命考えていた。
自分探しから始まり、職業分析をして、適職判断をし、インターンシップなどにも熱心に参加していた。
就職活動に対する学生向けのイベントを仲間としたこともある。
旅費をはたいて尊敬している人に直接会いに行って、その人の話を聞いたりした。
こう書くと、私は、今風に言えば、意識高い系にあたるかもしれないが、本音は違っていた。
私は、夢がなく、自分の将来像が描けないことに悩んでいた。
取り立てた能力も経験もなく、野望といえるものもなく、何が好きかもはっきりわからない。
ただ、それまで求められたことをどれだけできるかを学生の世界の中で果たしていただけ。
臆病で人見知りで現状維持がベターだと思う平凡な人間だった。
しかし、それではいけないのだと自分に言い聞かせるようにして、社会人になるための先取りをすることで、何とか生きていくための道筋を見つけようとしていただけだった。
ただ自分への不安があり、それをなくすために、あるいはそれを見ないように、大人ぶって振る舞っているに過ぎなかった。
けれど、当時の私にはそういう自分の弱い部分を見る余裕などなかった。
社会人へのタイムリミットは間近に迫っているように思えた。
私は考え抜いて何とか進路を確定し、どうしてそこに行くのか理論づけをして、何となくの将来のルートをイメージした。
1年で最初の会社を辞めるなど論外だった。
それはあってはならないこと、絶対にやらないこと、想定する意味すらないことだった。
ここまで考え、行動してきた自分なら、絶対にそんなことにはならない、そう信じていた。
それが、就職後の自分を苦しめ、追い詰めることになる。
2 就活
氷河期の就職活動は思っていたより苦戦した。
最初考えていた会社はことごとく落ちてしまい、落胆から少し諦めが始まっていた頃、とある広告会社に内定が決まる。
当初考えていたような会社ではなかったが、私は妥協し、また理論づけをした。
この会社も悪くはない、こんな良いところもある、自分も活躍の道がありそうだ、就職できたことを前向きに祝おうじゃないか、取ってもらった会社に感謝しようじゃないか。
大学4年生の私はとりあえず安心した。
何とか悪くない将来への切符を手にした。これは勝ち取ったものであり、幸運だったもの。
だから、絶対にこの未来を確かなものにしたい。
そのために、人一倍の努力も多少の自己犠牲もやっていこう。
私はそれができるし、しなければならないんだ。
そうして、私はその会社に就職した。
3 時間
入社1日目は午後6時台に帰った。
2日目は7時。3日目は8時。そこから9時終わりが当たり前になる。
朝は、午前7時台には会社に来て、会社の掃除や朝の準備をする。
朝のラッシュの地下鉄は、ホームに人が溢れかえって、まるでチューブに人が流し込まれるようだった。
まず体力がついていけなかった。
私はスポーツ人間でも体力に自信のある方でもなかったが、これはそういうことではないと思う。
多くの時間を会社で過ごすということは、自分の何割かの元気が常に損なわれた状態で毎日過ごすことになる。
健全で正常な思考や感覚や意識が、ずっとない状態で生きていくということだ。
土日の休日はあるにはあった。
けれど、土曜はまず疲れを取ることに費やされ、日曜の午後あたりでやっと、さて残りの時間をどう過ごすか意識できるようになる。
前もって休日の計画なんてできる余裕はない。
そして、土日の休みがいつもあるわけではなかった。
そんな状態では、もう平日の午後7時位になってくると、頭がどうやっても働かなくなり、心は冷えて固まってしまったようだった。
疲れてたというより、崩れてたという感じだった。
給料は使う暇さえなく、口座のお金はただ増え続けた。
そして、仕事が繁忙期を迎えるようになると、退社時間は午後10時を超えるようになり、終電間際ということも珍しくなくなった。
私はまず身体から段々と追い詰められていった。
身体が少しずつ悲鳴を上げ始めた。
朝、会社に出られない日が少しずつ出始めた。
4 消耗
最初はまず10年は働くだった。
1ヶ月でそれが5年になった。
半年経つと、何とか3年は働きたい、になった。
そんな私もその会社を辞めるつもりはなかった。
それは、まず、学生の頃の自分の不安から逃れたいという思い、安心を手放したくないという思いだった。
自分がこれまで考え抜いたことが、全て無駄だったなんて思いたくなかった。
それに、社会人をこなしていくという普通の生き方を、自分が果たせないなんておかしいという見栄。
普通じゃなくなるという怖さ、その先に待っているよくわからない暗闇。
そんなものが私を自分から締め付けて、重い足を無理やり前に進ませようとした。
果てしない消耗戦。
いや、もう終わりは見えている消耗戦だった。
でも、その頃の自分は、自分が追い詰められていることすら判断することは難しかったと思う。
生きる屍のように、毎日をただこなすだけ。
頼る同僚も、弱音を聞いてくれる上司もおらず、ただ、もっと、もっとと自分の不足を指摘され続けた。
大学時代の仲間にも、自分がどういう状態で、何に苦しんでいるのか、伝える余裕さえなかった。
死にたいとか、死んだほうが楽になるとまでは思わなかった。
正直、そんな発想すら考える余裕はなかった。
ただ、追い詰められていたから、あのままだったらどうなっていたかはわからない。
進むことも辞めることもできず、長く重い日々が過ぎていった。
5 幻想
そんな私がもっと追い詰められるというか、今思えば救われたかもしれない経験をする。
一つは9月。もう一つは翌年の1月。
9月にその頃の自分の思いをあるだけ詰め込んだある企画をした。
会社とは別に、休日に施設に依頼をし、協力を取り付け、仲間を集めて、企画を練った。
自分の思いがきちんと果たす場を作ることができれば、仕事のモチベーションもまた上がるはずだと思った。
少ない休みの時間を削って、パソコンに向かった。
その企画を終えたとき、私は違和感と疲れしか残らなかった。
あれ、このために自分はあの会社で働いて、ゆくゆくはこういう進路で生きていきたいんじゃないのか。
何かがおかしい、自分に対する疑いが始まった。
そして1月。
会社である大きなイベント事業があり、その準備と当日運営に奔走した。
それこそ不眠不休でくたくたになりながら仕事をして、その最終日の帰り。
その大きなイベント会場の、大きなゴミ捨て場を通ったとき、私は当日自分たちが行ったイベントのごみの山を見ることになった。
プラスチックや発泡スチロール、弁当の残りとかが、本当に大きな山になって積まれていた。
それを見たとき、何か言葉では言えない、失笑が生まれた。
何だ、結局残ったのはゴミの山か。
これだけのものを作るために、自分はこれをやる価値はあるのか。
何か変だ、そう思った。
あるとき、終電終わりで帰って、着の身着のままでベッドで寝てしまい、朝急いでシャワーを浴びているとき、涙が勝手に流れてきた。
そのことに失笑しながら、もう限界だな、そう思った。
6 退職
辞めると決めてからは早かった。
上司には少し止められたが、すぐに納得された。
同僚からもほとんど声もかけてもらえなかった。
辞めるのも時間の問題だと思われてたのかもしれない。
辞めることに不安はもちろんあった。
不安だらけだった。
でも、辞めるしかない、それもはっきりしていた。
退職日、職場のひとりひとりに挨拶するとき、何か銅像に向かって話しているような気持ちだった。
これで終わる、そのための儀式、それを終わらせることでも必死だった。
仕事をやめたら、まず驚いたのは、体の不調が3日で全ておさまったこと。
その後の、ぽっかりした2週間は幸せだった。
もう朝、あの会社に行かなくていい、自分の好きに時間を使えるだけで、泣きたくなるくらい嬉しかった。
その後は、もちろんこれからどうなるだろうという不安は襲ってきた。
でも、今思えば、やっと正常な思考や意識が戻ってきたのだと思う。
7 生きる
「辞めることも、辞めないことも、同じ決断には変わりはない。」
自分が仕事を辞めようか相談したとき、仲間が言ってくれた言葉だ。
そのとおりだと思う。
辞めることも、辞めないことも違いはない。
どちらにしろ、その決断を背負って生きていかなくてはならない。
そこに優劣も、間違いもない。
今、あの会社を辞めたことに後悔はない。
今の自分でも勤められないと思う。
でも、そのことを良かったとか、正しかったとか、そんな風に決めるつもりもない。
会社のことを悪くいうつもりもない。
ただ、私には無理だったし、会社側もどうしようもなかった。
会社には迷惑だけだったかもしれないが、私には大切な経験になった。
仕事が原因で自死してしまうことは不幸なことだとは思う。
そうなってしまう可能性はどんな人間にもあるし、ほんのタイミングで起こってしまうと思う。
それを検証することは大事だし、原因があればそれを改善することは大切だ。
そして、自殺者にはその人なりのドラマがあった、それをきちんと尊重することは、何よりも大事だと思う。
「本当に決めたときには、迷いなんて起こらないものだよ。」
相談した仲間がもうひとつ話していた言葉。
私はあの広告会社を辞めることを決めて、今生きている。
会社を辞めた後にもつらいことや、苦しいことはいっぱいあった。
傷は増えた代わりに、私は今ここであのことを書くことができた。