愛と恐れ
《ここまでのあらすじ》初めて読む方へ
普通の大学生だった桃子は、あることがきっかけでショーパブ「パテオ」でアルバイトをしている。野心に目覚めた桃子は少しずつ頭角を表し店の売れっ子へと上りつめていく。そんな最中、大学のゼミ担当の教師から脅迫まがいのことをされ、ついには襲われかける桃子。それを店のボーイを取り仕切るチーフマネージャーの佐々木によって助けられる。その夜を境に粗野で皮肉屋な男だと思っていた佐々木に対して桃子の気持ちが急激に変化がしていくのだった。
母を苦しめた父を私は知らない。
生きているのか死んでいるのかも。
母が言うには、ギャンブルに狂う前までは真面目で堅実な人だったらしい。
父の豹変ぶりと裏切りに母がどれだけ苦しみ、悩んだことだろう。
でも1番辛かったのは愛する人を、憎まねばならないことだ。
女にとってこれほど惨めな人生はない。
私は幼い頃から、それを本能的に知っていた。
私にとって男性は脅威だった。
父は母の幸福だった人生をドン底にした。
人を愛する純粋な従順な心を蝕んだのだ
どんなに芯のある女も、男によって萎れてしまう。
女の理性や感情を操る男の存在が
私は怖かった。
私は学生時代から男子とはある一定の距離を置いてきた。
はたから見れば、私は模範的な生徒だった。
成績も上位だったし、遅刻やサボりもなく
すっかりまわりに溶け込んでいるかのように見えただろう。
男子はよく私に絡んできた。
やい、髪型がおかしい
やい、ホクロが鼻くそみたいだの…
私は適当にそれをあしらい、時には笑い飛ばした。
周りからは男子を軽んじてるように見えたかもしれないが
そうじゃない。
なるべく当たり障りなく接しようと気をつけていたのだ。
壁を作りすぎず、近づきすぎないように。
中学校も卒業間近になる頃
1人の男子に呼び出され、付き合ってほしいと言われた。
それが初めてではなかったが
その男子に関してはそれまでと少し違った。
彼はいわゆる不良で、よく隠れてタバコを吸ったり
深夜、遊んでいるところを補導されたり問題児だったのだ。
当時、購読していた漫画には決まって
不良っぽいイケメン男子が登場した。
彼もルックスがよかったので、女子から密かに想われていた。
また、人気漫画に登場するヒロインの相手役に似ているという噂があった。
私もその漫画を愛読していた。
「ねえ、どうなの?俺と付き合ってくれんの?」
少年の眼差しは、鋭く私の心をとらえていた。
少し照れ臭そうに、時折目を瞬かせていた。
思わず胸が高鳴った。
私は必死で母の言った言葉を思い出そうとした。
「 せっかく私が桃子をここまで立派に育てたんだからね
つまんない男に引っかからないでちょうだいよ」
私は少年を見据え、ごめん…
とだけ言った。
少年は急に赤くなり
「あっそ。何だよ。ブス!からかっただけだっつーの!」
と最低なセリフをぶつけ引き返して行った。
私は、へなへなとしゃがみこみ
よかった…と思った。
そうだ
私は、一流大学に入って…一流企業に入って
偏差値と年収の高い、いわゆる将来性のある男性と結婚するのだ。
3年後
私は、第一志望はダメだったが希望の国立大学に合格した。
育ちが良く、一流大学に通う彼氏もできた。
でも…
今にして思う…
私は彼の何が好きだったのだろう。
少なくともあの日のような胸の高鳴りはなかった。
結局、彼とは私がショーパブでアルバイトしたことが
別れるきっかけになった。
私は彼よりこの世界を選んだのだ。
あんな模範的な恋人は、そういないのに。
彼だったら私の心にドカドカと侵入してきて
そのまま居座ったりしないのに…
私はソファに沈み、目を閉じて瞑想していた。
「おい」
私は瞼を開いた。
佐々木の顔があった。
「大丈夫か。お前」
「はい」
「ほらよ、先週きたオッさん。またお前に会いにきたって。
すげーじゃん。今夜で指名5本目だぞ」
佐々木が顎で示した先で、一目でヅラと分かるオカッパ頭の
男性が挙動不振そうに座ってキョロキョロしている。
私は佐々木を見上げた。
「また、帰り送ってやっから、頑張れ」
佐々木が微かに微笑んで私を見下ろしていた。
「えー、なあにそれ。杏さんだけいいなあ〜〜」
「ウチらも送ってよ〜〜。助手席乗せろ〜」
斜め向かいに股を広げて座っているカナや周りの女の子が口々に言った。
「うるせーよ、おめーら。杏さんはな、色々大変な思いしたんだよ!
おめーらが助手席なんて100年早いわ!」
佐々木は私がトップ5に入った頃から私のことを、さん付けで呼ぶようになった。
新人の頃はひよっ子呼ばわりしてたクセに、虫のいいヤツである。
「ゲゲッ!100年て笑えねー!可笑しいじゃんっ」
ミサたちはさらに股を広げ大騒ぎしている。
彼女は確か入った時期は私と同じだ。
歳も同じくらいだった気がする。
金髪にヤマンバメイクのミサは自分を最先端ギャルだと思っているらしい。
ノリノリでイケイケ女なのでガテン系の男によく指名されている。
ただし金回りの良い客には
品のない受け答えをする彼女は全く人気がなく
私との人気の落差は歴然としていた。
ミニスカートからピンクのレースの下着が丸見えだ。
気にならないどころかワザと見せつけるかのように
ミサの両太ももは、はしたなく動き回る。
「てめーら勝手にほざいとけ」
佐々木がうざったそうな声を出す。
私は呆れながら、それを尻目に立ちあがった。
佐々木の前を通り過ぎる時、また目が合った。
イカつくコワモテの印象だった佐々木の目が優しく感じられた。
最後の客を送り出すと私は、更衣室へ素早く駆け込みヘアメイクを整えた。
うがいまでした。
着替えながら、どこかワクワクしている自分がおかしかった。
更衣室に入る時、玲子がすれ違いざまに
「あら、まだアキちゃんに送ってもらってるの?」
と聞いてきた。
しばらくは危険だからと言って
佐々木が私を送るようになってからもう1週間経つ。
もちろん玲子も事情を知っている。
玲子の余裕のある微笑みに、なぜかイラっとした。
「ハイ」
私は素っ気なくそう言うと更衣室へ入った。
ミホの失踪以来、玲子との間に見えない溝が生まれていた。
単に私の一方的な気持ちに変化に過ぎず
彼女は気に留めていないだろうが…
いや、今となってはそれだけではない。
佐々木が玲子の恋人だという事実
言うまでもなく、私の中に女としての対抗心が芽生えていたのだった。
割り込んできた車に、佐々木は舌打ちして
クラクションを鳴らし続けている。
「ざけやがって」
私はそろそろ見ていられず
「もう、それくらいにしたら?」
とだけ言った。
「クッソ!」
佐々木はシートにもたれた。
気持ちを落ち着けているようだった。
ガキだなあ…とずっと年上の佐々木を見て思った。
「ほらよ。飲むか?」
佐々木が缶コーヒーを差し出した。
「あ、どうも」
私は受け取った。
缶はまだ十分温かかった。
私はいつものクセでそれを頰にあてた。
「あったかい…」
佐々木は私をチラッとだけ見た。
「お前、ちゃんと眠れてんのか?」
私は黙った。
「眠れないんだろ」
私は小さく頷いた。
「やっぱ、まだ…恐いのか?」
私はもう一度頷いた。
「目閉じるとあの顔が見えそうで…時々夢にも出てくるし」
本当だった。
あの時の
あの男の息遣い、硬く重い体の感触
地面の冷たさや身体中の鋭い痛み
1つ1つ克明に覚えている。
何かの拍子に思い出すし、夜はたまらない時がある。
「無理もねえよ…」
佐々木がつぶやくように言った。
そして、缶を開けるとコーヒーを口に流し込んだ。
「お前も、飲めよ。あったかいうちに」
私も缶を開け、口をつけた。
甘くて暖かくて、美味しかった。
「無理に忘れようとすんなよ。そのうち忘れる、絶対」
「うん…」
アパートの前で車が止まった。
佐々木がハンドルを握ったままこちらを見ている。
「ちゃんと戸締りしろよ」
私はいつものように
「ありがとう」
と言いドアを開けようとした。
「なあ、明日休みだろ」
私は佐々木を振り返った。
明日は日曜日だ。
「今からさ」
佐々木が探るような目で私の目を見た。
「どっか行くか?」
「え…」
「いや、お前どうせこれから1人だろ。男もいねーみたいだし」
「そ、そりゃいないけど」
私はハッとした。
狭く暗い密室で佐々木と見つめあっていることを思い出し
慌てて目をそらした。
そして静寂を取り繕うかのように言った。
「ど…どこへ?」
佐々木が笑って言った。
「さあな。それはお楽しみ〜〜」
もう一度、背の高い佐々木を見上げた。
あの日の少し照れ臭そうな少年の顔と重なって
胸が騒いだ。