天才研究
それから、feiさんとは折々でよく話をした。
バイトで友達になった人で、家にまで行ったり呼んだりする仲になったのは初めてのことだった。
10月のある日、立川立飛駅そばの大型店舗建造で一緒の現場になった。
ヘルメットの汗を拭いながら、休憩時間にfeiさんに訊ねる。
青井「天才って、具体的にどうやったらなれるの?」
fei「簡単ですよ。まず最初に「自分は天才だ」と決めればいいんです。」
青井「え? 自分が決めることなのそれ?」
fei「はい。自分が決めることです。他人に認められてなる天才もいることはいますが、多くは最初自分で自分のことを規定します。」
青井「他人が決める場合は何で判断するの? 賞とか受賞したりとか?」
fei「業績や華々しい結果などは必要ありません。ただ一点、「新しい概念を表すために自分で作った言葉」を持てば、その人は天才です。」
青井「ふーん……。自分で作った言葉、か。」
正直、とてもハードルの低い設定だ、と思った。
人間生きていれば誰だって一度や二度は新しい概念に出っくわすだろうし、新しい発明もするだろう。
fei「もちろん、それは天才に至る階段を一段上った、というだけの話です。その階段を登る人全てを天才、または天才予備軍。ぼくはそれを称してジニアス、と呼んだりします。」
「それも、新しい概念を表す言葉?」
fei「ん、そ、そうです……。」
そういって彼は顔を赤らめ、そっぽを向いてヘルメットを外した。
それからは少し、二人で黙ってもそもそと米を噛み潰していく時間が流れた。
でも、自分はこのときに気付いてしまった。
自分もfeiさんも、世間が一般的に言っているような発達段階は踏んでいないのだと。
他人の言うことを聞き、斟酌し、小中高大会社員、潤滑油や歯車のたとえを自分に課すような、そんな発達段階は、踏めないし踏まないのだと。
ということは敷衍して考えると、いわゆる世間が発達障害と呼ぶようなものは、全て「別の道に発達していく予定だったが、道やモデルケースが示されていないため試行錯誤している状態」なのではないか。
そんな仮説が頭に浮かんだ。
青井「ねえ、feiさん。」
fei「なんですか?」
青井「自分のこと、天才って決めました。」
fei「おめでとうございます。」
青井「次は何したらいいですか?」
fei「そうですね、さしあたっては自分だけが知っている新しい概念を見つけてください。」
青井「雑草タバコ、とかでもいいですか?」
fei「ぐぐってヒットするようなのではダメですよ。」
青井「そうですか。」
fei「でも、その先に何かがあるんですよね。」
青井「それは、あります。確実に。」
fei「じゃあ極めてください。新しい言葉はその過程で必ず見つかります。」
雑草タバコを極める。
その提案は、自分にとって、とても魅力的なものに映った。
極めた先に何があるのかまだ全くわからなかったけれども、きっと何かが起きる。そんな予感だけが二人の間に横たわっていた。
この話のわずか十数ヶ月後、新しい概念を発見しその名付け親になることになるのだが、この時点ではまだその先触れすら見当たらなかった。