ヨルダンで大どんでん返し
ホテルの支配人「これは、君のパスポートだ」
ホテルの支配人が、ケイシーの赤い日本の表紙のパスポートをこちらに差し出してきました。
ホテルの支配人「君の履歴書も読んだよ。君は旅人なんだってね、君の経歴は旅ばかりだ。ヨルダンも旅の通過点なんだろう?僕たちホテルは、働くなら長い間ここで働く人材を求めているんだ。君もわかるだろう?大切な技術を教えきって、そしてやめられたらこっちの損害なんだよ。」
そこまで言って支配人は、能面のような表情を一層こわばらせるようにして続けました。
支配人「だからねえ。君は、日本に帰ったほうがいいんじゃないかい?」
だんだんと自分の置かれた状況が現実味を帯びてくるとケイシーの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が出てきました。
そしてなによりも、彼の頭のいい風に流暢な英語をしゃべる雰囲気にふつふつと腹が立ってきました。頭の中を、この三カ月の間来る日も来る日も仕事のできる日を待ちわびたことや、くじけそうな気持ちを支えてきてくれたお友達やアラウィや彼の家族の顔が浮かんでは消えてゆきました。
ケイシーはキッと支配人に向き直ると言いました。
ケイシー「でも、そんな私の経歴を全部知ったうえで私を雇うって決めたのは、このホテルじゃないですか!」
支配人「まあ、そうなんだけどね」
支配人はいけしゃあしゃあと認めます。隣にいたコンプライアンスの部長が、席を立つとケイシーに向かって歩いてきました。
部長「まあまあ、そう泣かないで」
ケイシー「これが取り乱されずにいられる状況ですか?」
彼らの態度はケイシーの神経を逆なでするばかりです。
ケイシー「今日は入寮日だって聞いたから、自分の持っている荷物も全部まとめて、皆にお別れをして、彼も仕事を休んでここまで荷物を運ぶのについてきてくれて、たくさんの人に迷惑かけたっていうのに、ここにきて私を雇えない?どこに帰っていいですって?仕事が終わったら帰って寛ぐことのできる家があるあなたと違って、私には帰る家なんてないんですよ!?」
白い肌にフチなしメガネをかけた、太り気味の部長は薄いグレーの瞳で取り乱すケイシーをメガネの中からじっと見てきました。
部長「いいから、これから僕のオフィスに行かないかい?」
ケイシーも少し落ち着いてきて、彼の眼の中をじっと見返しました。
感情の感じられない支配人の表情と違って、彼の瞳からは、いくばくかの同情を感じます。そこで支配人部屋を出て、彼の部屋についていくことにしました。
支配人室を出ると、一緒についてきてくれた彼が座っていたベンチから立ち上がりました。
ケイシー「ごめん、もう少し時間がかかりそうなの。先にお仕事に行ってくれる?」
ケイシーが彼の目を見ることができずにか細い声でそう言うと、彼はただならぬ雰囲気を感じたようです。
彼「大丈夫、一緒に行くよ。君がとっても不安そうだから」
そう言ってついてきてくれました。
コンプライアンス部長のミスターイマドは、ガラス張りになった自分の部屋にケイシーを招き、奥にある小さな冷蔵庫から瓶のスパークリングウォーターを取り出して渡してきました。
部長「ほら、これを飲むといい」
ケイシー「有難うございます・・」
冷たいお水を一口飲みながら、ケイシーはあたりを見渡します。ガラス張りのオフィスは地下にあり、すぐ隣の入口にはまたデスクが置かれて、彼の秘書らしき大きな体にスカーフを被った女性がパソコンの前に座っているのが見えました。その向こう、扉前にあるベンチにはアラウィが腰かけているのも見えます。アラブの世界では女性は働かずに家にいて家族の面倒を見る、というのがやはり一般的ではあるようですが最近では働く女性も多くなったのか、ホテルや観光産業など文化的施設などで女性従業員を見ることも多いのです。
部長「ところで、今回のことだけどね」
ミスターイマドが切り出しました。
部長「悪かったね。君には非がない、ということは言っておこう」
ミスターイマドのいきなりの謝罪に、ケイシーは驚きました。
部長「これは僕個人的な謝罪だ。今回のことはホテル側の責任ではある。とはいえ君は、外国で生きるということはどういうことかというのをわかっていないのだよ」
ケイシー「・・・一体、なんと言いたいんです?」
部長「君がシェフのセクハラを訴えたことに、悪気はなかった。君が同じことを日本やヨーロッパ、アメリカでしたというのならまだ君は守られたかもしれない。でもここはヨルダンだ。ムスリムの国だ。欧米の習慣に近づいていっているとはいえまだまだここには男尊女卑が存在する。これが何を意味するのか君にはわかるかい?そしてさらに君は観光客だ。観光ビザでひとりでこの国に入ってきた。これがどういうことか君にはわかるかい?」
彼は何度も何度も確認するようにそう繰り返します。
部長「君は、この国で誰の保護下にもないってことさ。日本人でこの国にくる人間は、皆政府からの援助で来ていたり、仕事で来ている。おおきなバックアップがある。でも君は単なる一人の観光客という立場でしかないんだよ。何かあっても、誰も君のことを守ってはくれない。」
ケイシー「・・・」
ケイシーにも、彼が言いたいことはなんとなくわかってきました。
何の後ろ盾もない観光客日本人ケイシーと不祥事を起こしたヨルダン人シェフ。ホテル側は法令順守よりも長年勤めているシェフを庇い、ケイシーの口封じをしようとしているのでした。
ケイシー「でも、あまりにも理不尽です。私はここで働けるとわかってからビザも三カ月待ったし、貯金も時間も使い果たしてしまいました。私の観光ビザはもう切れてしまうんですよ?帰る家だってないし・・・こんなことあなたに言っても仕方ないかもしれないけれど、あんまりじゃありませんか?」
話しながら悔しい気持ちや悲しい気持ちがあい混ざり、また泣けてきました。
ぽろぽろと涙をこぼすケイシーに対してミスターイマドはティッシュの箱を差し出してくれました。
部長「ケイシーこれが社会ってものなんだよ、お気の毒に。でも、確かに君の状況には同情のしようもある。僕のポケットマネーを少しあげよう。今日はこれでダウンタウンのホテルにでも泊まるといい。そして支配人には僕から、君のことを何とかしてくれるように頼んでみよう」
ケイシー「・・・本当ですか?」
思ってもいなかった展開に、ケイシーはティッシュでズビー!と鼻をかみながら涙をひっこめました。真っ暗なトンネルの中にわずかな、ほんの小さな光明が見えた気がしました。
部長「君の観光ビザは、もう一刻の猶予もないのだろう?これから延長申請に警察に行ってくるんだ。明日、また僕のオフィスに来たらいい。そうだな、午後にしてくれ。午前中には僕が支配人に話をしておくよ」
そういってミスターイマドはケイシーに五十ディナール札を三枚渡してくれました。
部長「さあ、もう行きなさい」
その夜、観光ビザを延長したあとでダウンタウンのシドニーホテルに身の回りの荷物と一緒にチェックインしたケイシーはへとへとに疲れていました。誰とも話す気力もなくて部屋に閉じこもり、小さな個室に置かれた真っ白なベッドの上に倒れるとまた不安な気持ちが押し寄せてきます。
そこにコンコン、と部屋の扉がノックされる音がしたかと思うとひょこりとタリックが顔をのぞかせました。
タリック「大丈夫かい?」
ケイシー「ええ・・・でも少し、ひとりになりたいの。ごめん」
ベッドの上に半分起き上がると、そう言います。
タリック「わかった、必要なときにはいつでも呼んで」
ケイシー「・・・有難う、タリック」
ヨルダンに初めて来たときには、ケイシーには誰一人として友達はいませんでした。でも半年たって気が付いたら、いつもすぐそばに友達がいて、ケイシーのことを家族のように気遣ってくれているのでした。そんな友達の優しさのかけらはケイシーの孤独な心を癒し、窓から見える真っ黒な夜空にひとつの希望のように星の光をともしてくれるようでした。