良い子は絶対に真似しないでください。
巷では有名な僕の話をします。
「ケガ」と言えば「僕」で、「僕」と言えば「ケガ」でした。
それはなぜか?
今からするお話は
おそらくあなたが今まで聞いたことがない話かもしれません。

小学3年生のとき、
学校の敷地内に『わんぱく広場』という、
アスレチックがたくさんある小さな広場があって、
放課の時間はよくそこで遊んでいた。
ちょうど校舎から体育館に行く途中にわんぱく広場があり、
階段を上がるとそこには僕の大好きなアスレチックが広がっていた。
ある日、いつも通りに放課の時間に遊んでいて、
チャイムが鳴ったから教室に戻ろうと
走って階段を駆け下りようとしたときにつまずき、
もうスピードで駆け落ち、階段の先にある、
小さな塀に頭の左部分をぶつけた。
血がぶわっと出て、大泣きをして、病院に運ばれ、
4針を縫うケガとなった。
今でもそのぶつけた小さな塀は、
新しくしたおかげでそこの塀だけ周りと色が違う。
これは今の小学生たちは誰も知らない。
小学4年生のとき、
友達の家の近くで焚き火をしている場所があった。
そこは川沿いで、周りは田んぼだらけ。
燃やした後は、灰になっていて、まだかすかに煙が立っていた。
何を思ったのか、友達と一緒にその灰を飛び越える遊びをした。
そして、僕だけ灰を飛び越える前につまずき、
顔面から灰に突っ込んだ。
「熱い熱い」とわめく僕を友達がおんぶし、
近くの川に連れて行ってくれ、冷やしてくれた。
その後は、親が来て、病院に向かい、
車の中でも「熱い熱い」とずっと叫んでいた。
病院に着いて、車イスに乗せられ、
病院内でも「熱い熱い」と大声で泣き叫んでいた。
気付いたら集中治療室にいて、
父と母が全身の白衣を着ていた。
ドラマなどで見る完全防具のようなタイプの白衣だ。
僕はほぼ全身ヤケドを負い、約2週間の入院をした。
退院後に更に辛かったのが、
ヤケドの跡が残ってしまうという理由で、
1年は太陽を浴びない方がいいと宣告されたこと。
夏でも厚手の長袖長ズボンの全身防具で手袋もし、
太陽に浴びないようにしていた。
顔は布で覆い、サンバイザーをして出かけた。
お祭りのときは、
「あいつ何格好つけてるんだ」と、
よそ者によくからかわれた。
今思えば、あの灰を飛び越える遊びは、
例え僕が転ばなくても、
友達の誰かが転んで大ヤケドを負っていたかもしれない。
自分で良かったと思う。
そう思うしかない。
小学5年生のとき、
原因不明の右ひじ骨折。
今でも原因は分からない。
「なんか右ひじ痛いなぁ」と思う日が続いて、
病院に行ったら骨折をしていた。
しかも、いつも何かあったら行く病院なのに、
その日はなぜか別の先生で、
その時はレントゲンを撮って、シップと包帯をされ、家に帰った。
その日の夜、病院から電話があり、
「骨折してます」と言われ、もう一度病院に行った。
そしたらいつもの先生がいて、ギプスをされた。
どうやら最初に診てくれた先生は新米の先生だったらしく、
レントゲンを見間違えたことが分かった。
この右ひじ骨折は本当に不思議で、原因不明だった。
小学6年生のとき、
キックボードが流行っていて、
友達と急な坂を駆け降りる遊びをしに行った。
本当に今思えば、アホなことをしていたなと思うけど、
急な坂を駆け下りるスリルがきっとたまらなかったのだろう。
ここまで読んでくださったあなたは、
この後どういう展開になったかお分かり頂けるだろう。
そう、僕は転んだのだ。
しかも、豪快に。
駆け下りている途中で、キックボードが止まらなくなり、
友達にぶつかりそうになって、
姿勢を崩して宙に舞った。
ヒュ~~~~
バタンッバタンッズドドドド・・・
明らかに体の一部がおかしいことが分かった。
左の鎖骨に違和感を覚える。
このときばかりは分かった。
「これは完全に折れてる」と。
友達が近くの湧水の流れているところに連れて行ってくれ、
汚れている箇所を洗い流し、
周りに落ちている枝を使って、とりあえず腕を固定してくれた。
普通、小学6年生でここまで処置はできないと思うが、
この友達はヤケドをしたときに川に連れて行ってくれた友達だ。
あとで聞いた話によると、
ヤケドの時に経験したから冷静でいられたとのこと。
なんてやつだ。
案の定、僕は左鎖骨を骨折した。
でも、医者には
「運動神経が悪かったら、頭を強打していた」
と言われ、少しホッとした。
運動神経がもし悪かったら
僕はそのままキックボードで死んでいたかもしれない。
でも、鎖骨骨折をした日の2日後に実は地区の陸上大会を控えていて
多数の小学校が集まり、
僕は100m走の選手だった。
当然、辞退するしかなかった。
悔しかったのが
その大会の100m走の優勝タイムより
自分の方が速かったことだ。
とても悔しい思いをしたし
先生にめちゃくちゃ怒られた。
完治するまでに1ヶ月半はかかった。
とても痛い思いをした。
僕は、ジャッキー・チェンがすごく好きで憧れていた。
友達の周りでは、
「ジャッキー・チェン」と言えば「僕」で、
「僕」と言えば「ジャッキー・チェン」というぐらいだった。
それぐらいジャッキー・チェンが好きで
友達にも映画を観せていた。
ジャッキー・チェンも数々の大ケガをしてきたが、
僕はそこだけが似てしまったようだ。
ジャッキー・チェンはアクションスターだからケガをしてきたのに、
僕はアクションスターでもないのにケガをたくさんした。
僕はこんな周りに迷惑をかけるどうしようもない子だった。
わんぱくというよりただのアホだった。
でも、実はまだ僕の武勇伝は終わらない。
毎年のようにケガをしていたが、
中学ではピタッと止まり、やっと終わったかと安心していた。
だが、高校に入り、再びケガのオンパレードが始まった。
僕は中高とずっとバスケ部で、
どちらかと言うと注目される選手だった。
高校1年生のとき、
バスケをしているときに
右足首をひねってしまい、約1ヶ月の松葉杖生活となった。
高校2年生のとき、
これもまた練習中、ジャンプシュートを打った着地時に、
周りの人の足を踏んでしまい、グニャっと変な風に左足首が曲がり、
また骨折をして、松葉杖にお世話になった。
剥離(はくり)骨折と言って、
骨が筋肉によって引っ張られてしまう骨折と言われた。
まだまだ終わらない。
同じ高校2年生のとき、
バスケをしているときに
ぎっくり腰になり、そのまま椎間板ヘルニアと診断された。
17歳でヘルニアになり、人生が詰んだかのように思えた。
じゃあ、高校3年生では何をしでかしたのか?
僕は高校3年生を経験していない。
そう、高校を中退したのだ。
勉強から逃げ、未来が見えなくなって怖くなって
高校を辞めた。
原因はうつ病です。
※この話はまたしようと思います。
今度は心を折ったのだ。
とにかく、
ケガ・ケガ・ケガ
の少年だった。
そして、またこの話をしたことによって
僕はケガをした。