「年内いっぱいで閉店となります。
ご愛顧いただき、ありがとうございました。」
と書いた紙をお店の受付に張り、お客さんに頭を下げていると、次の職場はどこにするの、そこに行くから連絡してね、と励ましの言葉をかけてもらった。
ありがたかった。
どこの馬の骨ともわからない私を、この街は受け入れてくれ、必要としてくれたのかな、と涙がにじんだ。
そして、ドラえもんに連絡をとった。
私、この近辺で開業したい。時期と方位を教えてもらえますか?
そして2度目の、八王子の事務所の扉を開いた。
前回と同様に応接室に通され、ほどなくしてドラえもんがやってきた。
どうですか。
この1年でずいぶん色々なことが変わったでしょう。
顔つきも変わりましたね。だいぶしっかりしてきた印象を受けますよ。
1年前のあなたでは、お話になりませんでしたからね。
あの頃のあなたは、開業したい、と口では言っても、
なぜやりたいのか、というものはありませんでした。
ただ現状から逃げたかっただけです。
理念もなにもありませんでしたよ。
そんなお店がオープンしても、お客さんが迷惑するだけです。
あなたには判断力がなかったのです。
当たり前ですが。
そうなるように動いてしまっていましたからね。
お渡ししたマニュアルもしっかり読めましたか?
あれの意味が伝わらない人も多いのですよ。
実際、時期と方位を示しても、動かない人もいます。
それも致し方ないと思います。
私もボランティアでやっているわけではないので。
無理強いすることはありません。
ただ、わかってほしいですよ。
自分が何を求めるのか、わかって動いてほしいんですよ。
あなたの人生を私が代わりに生きることはできないんです。
私も必死でやっています。
年末まではお仕事があるわけですね。
そこから最短の時期を出しましょう。
いいでしょう。自分の店を持つ。
貴方、やれるでしょう。
私は前回と同様にファーストキッチンの座席について、封筒からマニュアルを取り出した。
購入したコーヒーにはミルクと砂糖を入れた。
まだ湯気の上がるコーヒーに少しだけ、口をつけた。
『2008年2月7日から3月4日の間に、
別紙、地図の東南、若しくは北西の範囲内に
事前の情報収集なしに、事前の連絡や下見なしに、
突然にテナントなどを探し始めて(それまでは人に言わず行動もしない)
2008年2月7日から3月4日の間に
事業などの場合は、
連絡の開始または、下見したり、営業を始めたりすること。』
今日は2007年12月7日。
年末で仕事が終わって、1月の間はじっとしているのか。
開業準備を始めるには、都合がいい。
『指定期間が到来するまではじっと待つのです。』
はいはい。よくわかりましたよ。
前回先走って伊勢佐木モール店の話を受けちゃって大変だったものね。
さて。
やるんだな。
ついに。
自分で。
自分のやりたいことを。
もし、お客さんが来なかったとしても、すべて自分の責任。人のせいにはできない。
それでも、不安を感じるよりも、期待で胸がいっぱいだった。
こうして私は、縁も所縁もなかった横浜元町で開業することになった。
でもまだ元町で物件に出会えるなんて、この時はまったく想像もしていなかった。
年始に実家に帰って、こっそり母に「まだいつどこでとは言えないが、近々自分で開業することにしました」と伝えると、おっ、何とかって占いの効果が出てきた、面白いわね、ママもそういうのやってみたいな、と言って、また笑っていた。
1月は、同業の仲間のお店に足を運んでコンセプトや料金・メニューをみて、施術を受けたり、整形外科・接骨院・カイロプラクティックらと整体院の違いを理解するため、腰が痛くなる状況を作ってから通院し、どこでどんな治療をするのか体験してみた。資金繰りの勉強もして、融資についても学んだ。一丁前に事業計画も書いてみた。従業員を雇った場合、このくらい売り上げられればこのくらいの支払いになって、家賃は最大これくらいで、と電卓をたたく。お金をかけるもの、省くもの、ネット購入可能なもの、最低限の家具、欲しいものではなく必要なものから先に、洗濯機や掃除機は自宅にあるものでまずは補うこともできる、と予算繰りをする。そして自分はなぜこの仕事をするのか、どんな人に来てもらって、自分は何ができるのか、とことん考えてみた。スタッフは入れず、一人でやってみよう、1対1で相手の不調をちゃんと聞く場を作ろう。どこにも提出することはなかったけど、とても熱い事業計画書ができあがった。融資を受ける必要はない、という結論も出た。お店の場所がまだ決められないので、住所を後回しにして、HPや看板・チラシを自分の手で作製した。色々なところで働いた経験が爆発したような準備期間だった。これまでの経験が何一つ無駄ではなかったと、思い知った。
指定期間が訪れると、よーいどん、という勢いでダッシュをかけた。
指定された方位は2つ。北西と東南は対角線上にあり、両方を一日で回るのは難しかった。
当初、指定された範囲内ならどんな物件でもいいんでしょ?と紹介された物件の間取り図を次々にFAXでドラえもんに送っていると、
もっと真剣にやりなさいよ
足の豆が潰れるくらい歩き回ってください
死ぬ気でやってくださいよ
短い期間内に決めないといけないんですよ
わかってほしいですよ
もっと必死でやってくださいよ
あなたの命を輝かせる場所を、あなたが決めなきゃ、だめなんですよ
私が決めるんじゃないんですよ
と喝をいれられた。
指定された場所は中華街から開港記念館、横浜ワールドポーターズ、桜木町と抜け
もう一つの範囲は外人墓地から先、本牧方面へ伸びていた。
元町内は私の自宅から中華街までのわずかな範囲だった。
その小さな二等辺三角形では、もう様々なお店が営業している。
1年この町に住んで、元町について学んでいた私は、
そりゃ元町で開業できればいいけどさー
高いんだし
狭いんだし
指定範囲にちょこっと被っているだけだし
そんなに都合のいい空きがあるわけないじゃないか
今のお店に通ってきてくれていたお客さんに来てもらうには、
元町でできれば一番いいけどさー
無理に決まってるじゃない
空いてないし予算もないっちゅうの
とぶつぶつ言いながら足を棒にして歩いていた。あまり通らない河沿いの道を歩いて自宅に戻ろうとしていたところだった。
「空き部屋あります」
という看板が目に入った。
看板は6階建ての建物の階段の壁に張られていて、階段の隣では和菓子屋が営まれていた。
え?
鳥肌が立つ。
これまで路面店ばかりを見てきた。
お店は1階、が常識だと思っていた。
ここは元町商店街。
周りを見渡すと、ビルの上の階でも商売をしている人がいた。
地下鉄の駅からは徒歩5分とかからない。
目の前は河。
雑多なところではない。
私が好む、静かだけれども利便性の高い場所だった。
え?
急いで自宅に戻り、パソコンを立ち上げ、地図を確認する。
自宅からの距離、直線で136m。
北西の範囲内。
近い。洗濯物も持って帰れる。
指定された範囲内のわずか130mの河沿いの中にその物件は入っていた。
住所は元町1丁目。閉店したお店があった場所からは歩いて来れる距離。
手が震える。
いやいやいやいや。でも高いかもしれないし。
急いで看板の前に戻る。自宅から徒歩5分もかからない。
え?
え?
ここ?
ここなの?
そこから見える不動産屋に飛び込んで、もちろんその不動産屋も指定範囲内で、
あの看板の物件、見せてほしい、と伝えると、うちの物件じゃないんで、担当してる不動産屋紹介しますよ、看板の前で待ち合わせてください、と言われた。
担当の不動産屋はすぐに取り合ってくれ、建物の3階の部屋を案内してくれる。
1階から2階までは外階段だが2階からはエレベーターが付いていた。
これなら、膝や腰が痛い人でもなんとか上がって来れる。
もし上がれなければ、出張に出たっていいんだ。そうだ、私、出張もやって来たんだ。
鼓動が激しくなる。
今は近所の宝石屋さんの倉庫になっているんですけど、元は住居用に作られているんですよ。テナント扱いじゃない物件ですけど、整体業ですよね?おひとりでするの?
大家さんは1階の和菓子屋さんで、上の階に住んでいるので、とても安心ですよ。
テナント扱いであれば契約時に保証金を用意しないといけない。相場では家賃の10倍だ。住居用であれば、通常の賃貸契約、つまり敷金・礼金・前家賃で済む。
大家さんが1階にいてくれるのも、安心だった。
何かあったときには、すぐ相談ができる。1人で営業するということは、防犯の備えも必要になる。1フロアに3件の部屋が入る建物は、横並びではなく、L字型をしていた。住居用の部屋とは印象が違った。
外階段からフロアに入るのにガラスの扉があり、廊下が明るい。通された部屋は、角部屋で、四角から突き出た煙突のような形で小さなベランダがあった。洗濯物も外に干せる。ベランダへの出入りの扉を含めて窓は3面。換気も十分にできる。隣の大きな宝石屋の建物の陰になり日差しは入らないが、お客さんからすれば施術ベッドに顔をうずめているので、日差しはいらないように思えた。小さな部屋なのに、イメージが浮かんでくる。ここに更衣室を作って、シンクのあるところはカーテンを引いて控室にして、完全貸し切りの予約制にすれば、待合室はいらない、・・・。
家賃も管理費を負けてくれてくれることになった。
払える。予算内だ。
鳥肌が全開になる。
私、ここでやる。ここに決めた。
無理に決まってる、と思っていた。でも無理に決まって、いなかった。
勝手な想像で、勝手な常識で無理だと思い込んでいた。
曖昧な常識で、すべてを考えていた。
そうではなかった。そうではなかった。
急いで間取り図をドラえもんにFAXすると、
このベランダの出っ張りが吉相なんですよ。
これが人を呼ぶんですよ。
あなたみたいな職種は、1階で営業しなくったっていいんです。
上にあがったって十分やれます。
あなたが見つけた場所です。
あなたが見つけなきゃ、だめなんです。
よし、いいでしょう。
という電話が入った。
こうして2008年2月23日、縁も所縁もなかった横浜元町で、借金もなく、指定期間内の指定範囲内に、私は開業当日を迎えた。
通常、整体師や美容師や調理師などが独立をし、自分でお店を始めるときには、以前勤めていた所のお客さんを連れて行かないことが暗黙のルールとしてある。それをするのは恩知らずというものだ。自分を育ててくれたお店に恩を仇で返す行為とみなされる。
しかし今回の私の場合、勤めていたお店が閉店となってしまった。
お客さんは行き場をなくした。私は躊躇なく、閉店から一月半が経っていたが、担当していたお客さんみんなに案内の手紙を書いた。
去年1年、散々ポスティングやチラシ配りをしたおかげで、開業時には一切これらをやらなかったのに、連日満員御礼となった。前のお店で指名をしてくれていたお客さんがそのまま移動したようなものだった。
この街に来て、ここで出会ったお客さんから本当に沢山祝ってもらえた。
足を運んで予約をくれるだけでなく、開店祝いよ、と言って大きな素敵な鏡を持ってきてくれた人も居たし、花やケーキや沢山の気持ちが届いた。場所が決まる前、アパート経営をしているお客さんが、自分のところの部屋を使ってくれないか、と言ってくれたこともあった。場所が指定範囲から外れていたのもあって、お断りさせてもらったのだが、
自分の所の物件は変な人に貸したくないのよ。
先生が使ってくれるなら大歓迎なんだけどな、と言ってもらえた。
それだけで、本当に嬉しかった。
ケーキを持って来店してくれたお客さんの中に、私の自宅の向かいの料理屋で板前をしている人がいた。この人は翌年の元旦に、私の夫となった。
私は結婚しないのかもな、と思っていたのに元町に越してきたお陰で出会った人だった。
魔女の宅急便、を地で行くとこんな感じなのかもしれない。
私はこの2年、何度もこのDVDを見た。
藤沢から元町に引っ越して、決して楽な道ではなかったが、得たものは大きかった。
『磨かれて玉になる』
まさにその通りだった。困難ばかりだったが、決してどれも無駄にはならなかった。
ゴツゴツしていた私はあちらこちらで磨いてもらい、気が付けば玉の様に丸くなっていた。
余分なものを削ぎ落として、芯だけになったような気がする。
それは現在もまだ続いているように思う。
元町とは言え、河沿いの通りにお店を開いた。ここは元町の中でも裏と呼ばれる場所で、不法投棄も多く、花壇の植物もジャングルの様に茂っていた。
私はそこをコツコツと片づけ、花を植え、伸びた枝を伐採し、落ち葉を掃いた。
普通であれば、わざわざ3階から降りてきて、変な人、と感じるだろう。
しかしなぜか、通りの多くの人の目に触れ、通りでお店を出している人たちが出てきて、一緒に片づけてくれるようになり、更には土木事務所まで出てきて伐採した枝やゴミを撤去してくれ、通りの会の会費から苗代が出るようになり、ついには煉瓦で囲った花壇まで作ってしまった。この場所は横浜市の土地であるにもかかわらず、管理してくれるならばとハマロードサポーターから資材の提供も受けている。花の咲いた通りから、河が見渡せるようになって、運河パレードもやってきた。それに合わせて河岸テラスというイベントも開催するようになった。
通りは1丁目から5丁目まであり、まだまだ先は長い。
花壇がきれいになったからと言って、お客さんが増えるわけではないが、それでも綺麗になった通りは気持ちがよかった。通りかかる人たちに、「花が咲いているって、いいわよね」と微笑んでもらえることが、嬉しかった。
そして1人でお店をやっていると思っていたが、いつの間にか沢山の商店街の仲間ができた。
なぜか、ではない。
もういい加減よくわかった。
この場所で開業して、9年が過ぎようとしている。
こんなに長くできるとも思っていなかったし、ずっと満員御礼というわけでもない。
10年来のお客さんもいるし、亡くなった方もいる。場所柄、外国人の方も多く来店していた時期もあったが、東日本大震災を境にほとんどが日本を離れた。
営業期間が長くなれば、お客さんの環境も変わり、結婚・出産・転居などで通えなくなってくる人もでてくる。また逆に、来店し始めたころは中学生だった娘さんが、気付けば社会人になっていて、親子2代で通ってくれるようにもなった。
末期癌だとわかった母を自宅によんで在宅看取りをする際「介護休暇をいただきます」と言って2ヶ月近くお店を閉めたこともあった。営業再開後は沢山の供物が届き、もう一度、私に仕事を始める活力を与えてくれた。本当に、元町に越してきてから、色々なことが起きた。移り変わりの激しい商店街でこれまでやって来られたのは、自分の努力だけではないと確かに感じるものがあった。運がいい、という言い方もある。でも私は、運が良くなるように動いた、と思っている。努力が実る時期と場所を教えてもらって、満身の力をふりしぼることができたのだ。
私がせっせと生きていたこの9年の間に、ドラえもんが亡くなった。
ドラえもんが脳梗塞を起こした、と知ったときに私は独学で九星気学を学び始めた。
もう尻を叩いてくれる人が、相談できる相手が、いなくなる。
自分で学ばなければ、と思ったからだ。
色々な本を読み、ネットも見、実践もしてみた。
自分が何をしたのか、引っ越しで自分に何が起きていたのかを知りたかった。
学んでみて、解った。
生活の場を変えることで様々な変化が起きることが、占術のデータとしてあることも知った。それも10年20年という検証データではない。何千年だ。
そして、言われた通りに引っ越したし、これで安心、と言うものではなかった。そこから行動する事が大事だということが、よく解った。
多くの人は、もちろん当初の私も、占いに対して受け身でいると思う。
何か言われて、当たってる、当たってない、と言っておしまい。
しかし占いとは、そうではなかった。
私に占いを紹介してくれた高校時代の友人は、専門学校に進学する際に実家を出ていた。卒業と同時に実家に戻ってきた時期と方位が悪かったことが、私でもわかるようになった。
彼女はそのまま実家で10年過ごしていた。勤め先が次々に閉店や倒産したのも、今では意味が解る。そしてその10年を取り戻すのに、さらに10年かかった。ようやく最近彼女は、やりたい道が見えてきてそこに進むべく努力をしている。きっとそれが報われる日が、近いうちにやってくると思う。途中彼女は、自分には効果が出ない、と嘆いていたが、私から見ればジワジワと変化していっていた。長かったかもしれない。でもあの時、彼女が一歩踏み出さなかったら、もしかして今、彼女は生きていなかったかもしれない。
最初に彼女がドラえもんに会いに行ったとき、
5~6回、引っ越しをすることになりますよ
と言われていた。
占ってもらった、これで何もかも良くなるんだ、すぐに良くなるんだ、
そうではない。そうではなかった。
私が出会った占いは、想像以上にスパルタだった。
ドラえもんに渡されたマニュアルは、くり返し読み過ぎてボロボロになっている。
『低迷しているのに、
理解しない人、やりたくない人、努力したくない人は、物事を深く考えずに、
持っている常識で判断して、自分を信じて周囲の状況を意識しないで生きること。
人生は意識しなければ物事の本質に気が付きませんから、何か変だなと思いつつ、
押し寄せる困難に疲れ果てながら死が来るまで生きているだけですから、
それでいいと思います。
より良い精神的な状況を求めるならば、
自己の考え方や生き方を尊敬され、相互理解しあう人間関係に恵まれる状況を求めたり、豊かな自然の中で、ゆっくり流れる時間に癒されながら生きることに心の充実を求めるならば、それを優先するべきです。
ご自身が生きていくのに関係することや、好きな分野については、先ず知ること。ともかく知ること。知らないと選べないからです。知ることは喜びをもたらします。知ることは教養を磨きます。当たり前なのに、多くの人は知ろうとしません。無関心です。
自己を大切に思うならば知ること。知ること。知ること。
見てくれで、物事を判断することは避け、本質を知るのです。
質を知るのです。物事を判断する際に、何を優先するかです。
心の充実を求めてください。それは個人個人、違うものなんです。
知ってください。とにかく知ることです。知らなくては何も選べません。』
求めろ、と。
何に充実を感じるか、自分自身を知りなさい、と。
『物がもたらす快楽には限界があることも知っておくべきです。』
お金はあるに越したことはないが、それだけでは満たされない。
自分で自分を理解して認めることから、生きていくことが始まるんだな、と思った。
なんだかとても当たり前のことなのに、実現できている人は少ないと思う。
だって、とか、でも、とか、仕方がない、とか言っている間に人生は終わってしまうのに。
占いとは個人個人の、本人にもわかっていない特徴を割り出し、一生の中でその人の良い時期・悪い時期を示すことができた。誰にでもビックウェーブは来る。波に乗るぜ、と言って山に向かっていく人に突っ込みを入れるのが占い師だ。
やみくもに努力をして、徒労に終わるか称賛されるかでその人の輝きは変わる。
私だって当初はドラえもんに、判断力がない、と言われてカチンときたものだ。
ドラえもんは、悪い時期に悪い方位に行くと判断力が低下して、努力をしても実らず、認められもせず、話も理解できなくなり、勝手な人になるんです、それはあなたの個性ではないんです、と言いたかったのに。
でも、きっとわかりやすく言ってくれたとしても、理解しなかっただろう。
まさか、とか言って。
冬に種を撒いて、芽が出ない、と嘆く人に、
春に撒けば芽が出ますよ、と教えてくれるのが占い師なんだ、と思った。
それが、時をよむ、ということだった。スピリチュアルな要素など、まるでない。事実、としてそこにあるだけだ。
その後、水をあげ、肥料をあげ、育てていくのは本人がすること。
何の種を撒くかは、自分で決めることだった。