罠
《ここまでのあらすじ》初めて読む方へ
大学生の篠田桃子はあることがきっかけでショーパブ「パテオ」でアルバイトをしている。葛藤や苦難を乗り越え徐々に野心に目覚め自分の居場所を見つけ出そうとする桃子。そこへ突然、大学の助教授、苗代がパテオへ顔を出す。表向きは学生想いの優しい先生である彼は、桃子に脅迫じみた言葉を言いパテオに通うようになるのだった。
春になり、私は無事に3年生へと進級した。
同じ学科の生徒は三分割され、それぞれの担当教授のもとでゼミが展開される。
後で分かったことだが、私が売春しているという噂を広めたのは、やはり由美だった。
根も葉もない噂…というわけではないが
何でそこまで言われなきゃならないのだろう。
確かに彼女は成城のお嬢様で私とは、育った境遇が違う。当然価値観も…
元彼の拓也と同様に、キャバクラで働くような女を心底、軽蔑するのも分かる。
でも入学当初、1番最初に私に話しかけてくれたのは彼女だった。
仲良くなり、週の半分はカラオケやショッピングなどしていつも一緒だった。
色んなわだかまりはあったけど、ここまで嫌悪されるだなんて…
人間関係とは一寸先まで分からないものだ。
恐ろしいものだと思った。
幸運なことに由美は仲間たちと共に他のゼミを取ったので
これからは、そんなにしょっちゅう顔を合わせなくて済む。
私はエレベーターを出て廊下を進むと賑やかな声のする教室にドアを開いた。
苗代を囲んで10人ほどの学生たちが談笑していた。
私の姿を捉えた苗代は、屈託のない笑顔で言った。
「お、篠田も来たね。よしじゃあ、始めよう」
胡散臭い顔
私は無表情のまま席に着いた。
何がおかしいのか、苗代の話に耳を傾ける学生たちは皆
些細なことに驚いたり、笑ったりしている。
ついこの前まで私なら彼らの一員でいられたかもしれない。
苗代を挟んで眺める彼らは、もはや私にとって別次元の生き物に見えた。
「えーっやだ!先生、嘘でしょう!?」
高野聖子というクラスメートが苗代の言葉に
ワザとらしく口を覆い、目をパチパチさせて驚いていた。
苗代の裏の顔を知ったらそんなに驚き方じゃ済まないだろう
連日、教え子の勤めるショーパブでたかってるって。
昨夜だってそう。
ショーの終わる時刻に来て、次のショーが始まるまで
ガンガン飲んでた。
指名の私以外にヘルプについた女の子たちにヘラヘラいい顔して。
飲み代はもちろん私持ち。
2時間ほどで帰っていくが
タダ飲みできるからって平気で新しいボトルを開けるのだ。
おかげで昨夜は2万円を超えた。
指名客が昨夜だけで5人もあったので私は度々彼の席を外した。
赤ら顔の苗代はヘルプの女の子の肩を抱いて
「行っといで、売れっ子さん」
いけしゃあしゃあと言った。
それでいて、帰りの支払いになると
「助教授なんてなあ〜、聞こえはいいが実際は
じいさんたちの助手みたいな扱いなんだぞ。給料だって
寂しいもんさ。分かるだろ、篠田」
などと毎度下手な演技を繰り広げる。
私はウンザリした気持ちでボーイを呼んで耳打ちするのだ。
ハッとして前を見た。
苗代が私を見てニヤニヤしている。
私はすぐさま視線を逸らした。
本当にたまんない…
大学の正門を出たところで
「篠田さん」
という声が聞こえたので足を止め振り返った。
高野聖子が神妙な顔で立っていた。
聖子とは入学以来、同じクラスだが
親しくもなく会話らしい会話をした記憶もない。
聖子はいわゆる、地味なタイプだった。
化粧っ気のない顔に古着のような服を着て、チョット太めな体格。
由美がよくダサイ女の代名詞と言ってネタにしていた。
それでも3年生になってからコンタクトに変えて
髪にパーマをかけたり垢抜けたという噂も聞こえていた。
そして、それは苗代のためではないかという噂もあった。
「何?」
「実は見たの」
「…?」
「あなたと苗代先生が一緒に歩いているところ」
「いつ?」
「一週間位前。あなた、すごく派手な服装してた」
もしかすると無理やり同伴させられたときだ。
嫌だったが、苗代がどうしてもと言うので
仕方なく応じた。
確か料亭で食事して、それからパテオへ行った。
あのとき、どこかで聖子に見られていたのだ。
「偶然会ったの。それでゼミの課題について
聞いていただけだけど?」
私はできるだけ自然にそう言った。
「へえ…そうなの」
聖子はまだ何か言いたそうな顔をしていた。
「苗代先生って誰にも優しいでしょ。ああいう良い人が
何か面倒なことに巻き込まれるのは、私嫌なんだ」
「え、それどういうこと?」
聖子は私をキッと睨んだ。
「前のあなたならともかく、今のあなたは
苗代先生にふさわしくないって言ってるの
今のあなたはただの不良だから」
聖子はそれだけ言うと、私に背を向けて
なぜか校舎の方へ戻っていった。
私は坂を下った。
面倒なことに巻き込まれてんのは私じゃない
情けないし、腹立たしかった。
昔から自分の方が彼女より優位にいると思っていた。
とんだ勘違いだった。
あの子からあんなこと言われきゃならないなんて。
私も落ちぶれたものだ。
また夜が来た。
そしてショーが終わるとまたあいつがいた。
また新しいボトルを開けている。
そして、最近お気に入りらしいへルプの茜の肩を抱いている。
「あれ〜?もう戻ったの?せっかくいいとこだったのに」
このデレっとした赤ら顔を今夜も見なくてはならないのだ。
座ってから、変な違和感があった。
ヘルプの茜が席を退かず、苗代にくっついたままなのだ。
私の怪訝そうな表情に気がついて苗代が
「あ、そうそう。これからは茜も指名することにしたから。
なあ、茜。健気にもさ2人目の女でもいいって言ってくれたんだよ」
「は〜い。私健気な女ですう〜。ねえ〜〜ナシロ先生」
茜が苗代の腕に自分の腕を絡ませたとき
私はどっかがキレそうになった。
コイツら何!?
この人どこまでエスカレートすれば気がすむの!?
私は立ち上がった。
「あれ〜篠田、どちらへ?」
「化粧室です。ここでは杏って呼んでください」
私が言い背を向けると
「ゆっくりして来ていいぞ〜。
もうちょっと化粧濃くした方が俺の好みだ」
苗代の声に茜の笑い声がうるさくまとわりつく。
イラ立ちマックスの私に
待機中のホステスをからかっていた佐々木が
何か話しかけて来たが
聞く耳が持てなかった。
「イライラしてんな〜。今月何回目の生理だ、杏ちゃんよ」
という紛れもないセクハラ発言だけが
しっかり耳に届いて来たのも癇に障った。
茜の指名料まで入ると結構な支払いだった。
このままこれが続くのだろうか。
閉店した店では遅番のホステスだけ残される。
私は更衣室に入り鏡の前に座っていた。
コットンで化粧を拭っていると
ホステスたちのヒソヒソ声が聞こえて来た。
「茜ってさ、今日指名多くなかった?」
「知ってる?1人は杏さんのお客さんだよ」
「え!?それってマズくない?」
「あ、でもね。茜から聞いたんだけどさ
なんか、杏さんとその客の関係がおかしいんだっって…」
「えー!それマジ!?支払い杏さん持ちってこと?」
驚きと笑い声が聞こえる。
茜はすでに早帰りしてたし、帰り支度で急ぐホステスで
人口密度の多い中
彼女たちは私の存在に気がついていないようだ。
「じゃあ、ただってわけだよねー。その客どんな人〜?
指名してもらえないかな 。今月まだ一本も取れてなくてさ」
笑い声が大きくなった時だった。
「やめなよ」
という声がした。
そっと振り返って様子を見ると
店のナンバーワンのミサキが髪をとかしながら言った。
「そういう考え方、個人的に嫌い」
更衣室が静まり返った。
私はそそくさと鞄を持って外に出た。
地下からの階段を登りきったところに佐々木が立っていた。
「お疲れ様でした」
行こうとする私に佐々木が言った。
「杏、お前さ、なんかヤバイ状況なんじゃないのか?」
私は振り向いて佐々木を見た。
強面でガタイのいい男が派手なネクタイに黒いスーツ姿で
凄んで来たら誰でも真っ当な人間じゃないと思うだろう。
「別に…そんな」
「バーカ、オマエ、俺バカにしてんの?
何も知らないと思ってたのかよ。
脅されてんじゃないのかって聞いてんだよ!」
私は佐々木の顔をマジマジと見た。
初めてかもしれない。
柄にもなく、いつものふざけた薄笑いは1つも見えなかった。
私はその時、なぜだか
目頭が熱くなった。
私は小さくコクンと頷いた。
「でも、大丈夫です。なんとかします」
「そうか。マジで困ってんなら言えよ」
「はい」
立ち去ろうとする私に佐々木言った。
「それと…杏、コレ持っとけ」
私はそれを見た。
そしてそれを受け取った。
小さなテープレコーダーだった。