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16/9/10

二歳で生き別れた母との再会…そして三回の精神病を経て今、思うこと

Image by Olia Gozha

私は、物心がついた二歳の時には、伯父の家にいました。

父親は仕事で夜遅くしか帰らず、義理の伯母が母親代わり、三歳年上の従兄を「おにいちゃん」家は目黒区にあったので伯父と伯母を「目黒ママ」「目黒パパ」と呼んで育ちました。


「お母さんは病気で入院しているんだよ」と言い聞かされて育ったのですが、どこかで両親が離婚していることは気づいていたような気がします。

事実はどうなのか、確かめようがなかったのですが

「母は僕を捨てたんだ」と心のどこかで思っていたような気がします。

ところが私が20歳の時に父が亡くなりました。


伯父や伯母は「たった一人の本当のおかあさんなんだから」と私を母に引き合わせました。

私を前に泣く母を見て、私は「この人が僕のお母さんなんだ…」と思いながらも、何の感情もやって来ませんでした。

だって育ててもらった記憶が全くないのです。

ただ私が父親に引き取られた経緯を聞いたときは驚かされました。

母は一人っ子で、祖父や祖母にとっては、私は初孫でたった一人の跡取り…。

父は婿ですから当然、離婚する際には母方が引き取ることになっていたのです。

ところが当時父は母と祖父母にこう言ったそうです。

「ちょっとユウト(私の本名)を貸してくれ」

そう言われて貸したら、戻って来なかったというのです!!!

今ならもちろん裁判沙汰ですが、50年以上前のことで結局、母と祖父母は泣き寝入りするしかなかった、とのこと。


そんな母と何度か一緒に暮らしたこともありましたが、生活習慣のあまりの違いに、すぐにそれは無理なことが分かりました。

大学を出てから、就職もせずに、アメリカやインドを放浪し、25歳で初めて就職しても、安定など全く求めないで転職を繰り返す私のことを、心配していたことは間違いありません。


ある日母が私に尋ねました。

「いったいこれからどうするつもり・・・」


「僕は、いつ死んでも悔いのないような人生を生きたいので、安定とか安全のために仕事に就くつもりはありません」

と答えた私に対して


「じゃあ、死んだと思ったほうがいいってことね・・・」


そう母が言った瞬間、母がいかに私のことを思っているのか、が伝わってきて、感謝の気持ちが湧いてきた私は、


「ありがとうございました!」と母に言ったことを思い出します。


そんな母が、1994年に名古屋の会社に私が転職するために引っ越す直前に、突然おかしくなったのです。

当時私は、母の所有するアパートの一室を借りて住んでいました。

朝六時頃、突然私の部屋のドアが開き、母がそこに立ちすくんでいました。

そしてうつろな顔で言ったのです。

「ユウト、どうしよう!私、死ななくちゃいけなくなったの…。

どうしたらいいだろう!でもどうしようもない・・・」


ただならぬ気配に驚いた私は、すぐさま母を布団の中に引き込み

「お母さん、大丈夫だから、絶対大丈夫だから...」と言いながら必死で母を抱きしめたことを覚えています。

約一か月一緒にいて、懸命に改善のために手を尽くしたところ、奇跡的に回復し、私も名古屋に引っ越すことができました。


しかし、約10年後のある日、またもや始まってしまったのです…。

母の病気は「妄想」と診断されました。

幻聴が聞こえ、明らかに現実認識がおかしい…被害妄想です。

この時は私も東京に戻っていたので、約半年にわたり入退院を繰り返し…

ある精神病院で、どんどん症状がひどくなっていきました…。

私が行っても、会っても、一言も言葉を話さず、硬直して虚空を見つめる母…。

婦長からは「認知症が始まっています」と告げられました。

私が

「認知症って治ることはあるんでしょうか?」

と尋ねたところ、婦長は

「ありません」

と答えました。


「ああ、もうダメか、こうやって人間って壊れていくんだな…」と覚悟しました。

しかしそのとき、私はふと思いついたのです。

母を数か月にわたって介護してくれていた介護士の女性に電話をしたのです。

そして母にその電話を渡すと、受話器から聞こえるその女性の声に、言葉は一言も発さず、ひたすら頷いている母の姿がそこにはあったのです。


「あっ、反応した!!!」


驚いた私は、母の親戚、友人、知人に次々に電話をしました。

受話器から聞こえる彼らの声に、激しく反応する母…。

私は病院に、彼らを招き、母と引き合わせました。

そして母は奇跡的な復活を遂げ、退院!

一人暮らしがちゃんとできるまでに回復したのです。


「あの絶望的な状態からでも回復できるんだから、どんな状態でも回復は可能だ!」

と思いました。


しかし、なんとその一年半後に、また始まってしまったのです…。あの症状が!

実はそれは私の責任なのです。

母とは一か月に一回、食事をしていました。

しかし、あまりに問題がないまでに回復してしまったので、一か月手を抜いたのです。

すると、また始まってしまったのです。

母と一緒に代替医療の治療師がいる温泉施設に宿泊したり…。

よく、天を仰いで「いったいいつまで続くのか…」とつぶやいていました。


心が折れそうになることもしばしば…。

現在母は、神奈川県の施設に入居し、スタッフとも普通に会話し、安定した状態を保っています。

三回目の発症からもう7年が過ぎようとしています。

まだ母は治っていません。

しかし、私の辞書には「あきらめる」という言葉はないのです。

そんな私が、なぜか最近、介護関係のイベントを立て続けに主催するようになりました。

そして気が付いたのです。

私は、母の世話で心が折れそうになった過去の自分への応援のために、介護に関わるイベントを主催していたことに…。

合掌




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