闇に染まる
《これまでのあらすじ》初めて読む方へ
ごく普通の大学生、篠田桃子はあることがきっかけでショーパブでアルバイトすることになる。最初は乗り気ではなかったが、ショーと幼い頃憧れたバレエの舞台とが重なって見えた桃子。少しづつ指名も取れ、いよいよショーに出演する日が来た。でも心のどこかでそれを躊躇し不安になる自分もいたのだった。
あの日のことは 今でも鮮明に思い出せる
それは夢のように美化され、霞みがかった記憶だ
当時は決していい想い出などになるとは思わなかった
むしろ早く忘れてしまいたかったのに…
ショーのデビュー戦(あえてこう呼びたい)は散々だった。
途中、振り付けを忘れ棒立ちになるわ
退場する時誰かの足に引っかかってつまづくわ
1人だけ幼稚園のお遊戯状態だった。
舞台袖で佐々木が
「みっともねえなあ。」と大笑いしていた。
女の子たちは皆、そら見たことかとヒソヒソ笑っていた。
トイレに籠りたい気持ちの私に歩み寄ってきた玲子さんが
「大丈夫。初々しさと可愛らしさはあなたが1番だった。」
と優しく微笑んでくれたのが唯一の救いだった。
借りた8万円はすでに給料から引かれていた。
この足で逃げ出すことはできた。
でも私はそうしなかった。
なぜだろう。
聞けるものなら、当時の私に聞きに行きたい。
「おい!聞いてんの?」
「え?」
私は向かい合ってアイスコーヒを飲む拓也を見た。
「なんだよ。人の話スルーかよ」
「ゴメン、ゴメン」
「だから、内定のこと。〇〇と△△じゃどっちがいいかって聞いたのっ」
いずれも人気の大手企業だ。
2つ年上の拓也はすでにいくつかの企業に内定していた。
どうやら彼は社会的には高評価を受けるタイプの人間らしい。
きっと私には見えないところで優秀ということなのだろう。
私みたいな彼女でタッくんは損じゃないのかなあ
ふとそう思った。
拓也を見ると、何かをチラチラ気にしている。
視線の先には、楽しげにお喋りするミニスカートの女子高生たちがいた。
あからさま過ぎる態度に、なぜか嫉妬心は湧かなかった。
拓也は遠くのガラス張りの壁に映る自分の姿を捉えると
手ぐしで自分の額にかかる前髪を整え始める。
例え通りすがりでも可愛い子には片っ端からモテたいのだろう。
「あ、そうそう土曜の夜クラブのイベント呼ばれてんだけど桃子も来るだろ」
拓也は遠くの鏡に視線を合わせたまま言った。
「あ、土曜日は行けないや、ゴメン」
「バイト?」
「う、うん」
「あ、そうだ」
拓也が思い出したかのように言った。
「サークルの後輩が今週末、お前のバイト先で飲み会開きたいって。
少し割引してやってよ?なあ」
私はドキッとした。
しまった。バイトやめたこと言ってなかった。
「あ、あのさ。あそこ止めちゃったんだよね」
「はあ!?」
「いや、あの。ほら、厨房に嫌なおばさんがいるって言ったでしょ。
でね、実はもう我慢の限界でさ〜」
「おい」
「え?」
「え?じゃないだろ。じゃ、新しい所教えろよ。もう始めてんだろ。
先週のバーベキューだってバイトを理由に来なかったじゃん?
なんかさ、最近お前付き合い悪すぎじゃない?」
「ゴメン、ちゃんと教えるし、時間も作るからさ」
拓也はふてくされた顔で椅子にもたれかかった。
そして後輩にメールを送ると言ったきり最後まで口を聞いてくれなかった。
そして私はなんとなく分かってしまった。
すでに拓也を身近に感じられなくなっている自分がいることに。
土曜日は初めて同伴した。
佐々木からの許しが出たのだ。
客の扱いが上手くなってきたからだそうだ。
週の半分くらい指名をしてくる会社経営者の男性客は
とても学生じゃ入れないような高級寿司屋に私を連れて入った。
私は無邪気に驚き、さも美味しそうに食べた。
そして、その後はしっかりと店に来てもらった。
その客をお礼を言い送り出した私が階段を降りると
何やら男女の言い争う声がした。
客とホステスではないようだ。
階段を下りきった瞬間
「どうせ遊びだったんでしょ!!」
という金切り声とともに
見たことのある顔のホステスが私を押しのけて
脇を走り抜けていった。
顔を涙でクシャクシャに歪めていた。
残された軽薄そうな男はせいせいしたというように伸びをしている。
「よお、杏。調子はどうだ?」
伸びをした後、首をコキコキいわせながら
佐々木は例の皮肉っぽい笑みを私に向けてくる。
「おかげさまで」
「それにしても、嫌だねえ。オンナのヒステリックは」
私は黙って佐々木を見た。
サイテー男。
いろんな女の子にちょっかい出しては
ポイポイ取っ替え引っ替えしてるって噂は本当らしい。
「カン違いはもっとヤダよねえ?」
「そうですね」
「杏も気をつけろよ」
「私は大丈夫です」
私は佐々木に背を向け歩いた。
私には関係ない。
ていうか、アンタと関わるつもりないし。
たぶらかされる女も女だ。
いくらこの店でアンタに気に入られると都合がいいことが沢山あるんだとしても
私はゼッタイに…
「お前もよ〜俺の女になればあ?」
背後からの佐々木の野太い声に
私は一瞬、足を止めそうになったが
歩みを止めずそのまま佐々木から離れていった。
動揺したのではない。
どんな顔で言ったのか見てやりたかっただけだ。
待機席で客からのメールをチェックしていると
目の前にタバコが差し出された。
振り向くと隣でミホがちょうど鼻から煙を出していた。
私は思わずプッと笑った。
「ありがとう」
私はそれを受け取ると当然のようにミホに火をつけてもらった。
少し咳き込みながらも、また口に運ぶ。
当時はほとんどのホステスが喫煙していた。
話が途切れたり、手持ち無沙汰の時
タバコに火をつける仕草は
とても自然だった。
客に火をつけるために持っていたライターで
気づけば私も自分のくわえているタバコに火をつけていた。
数ヶ月前じゃ想像もしていなかったことだ。
染まるってこういうことを言うんだろう。
その時、頭上からボーイに呼ばれた。
席まで案内され戸惑った。
グラス片手に和かに座っていたのは飯島だった。
初日、ショーの最中、私の太ももを触った初老の大学教授だ。
もちろんいい印影ではなかったが、ニッコリ挨拶して隣に座った。
でも、私が戸惑ったのはそんなことではなかった。
飯島には指名して半年以上になる
イズミというお気に入りのホステスがいるのだ。
私は飯島と乾杯し、ウーロン茶をひと口飲んでから聞いた。
「あの、なぜ私を指名してくれたんですか?」
すると飯島は何食わぬ顔で
「イズミ、今日休みだしさ」
「でも…」
「だって杏ちゃん、可愛いしいい子だし。
いいじゃない。指名したって」
飯島はすでにほろ酔いで、いつもの気取った紳士っぽさがなかった。
「ショーもね、最近良くなってきたよ。
なんか一生懸命で応援したくなるよ。見てるうちにね、
何か気持ちを抑えられなくなってね」
飯島は、今でいうAKBファンの1人みたいなことを言っていた。
「それにさあ、正直言ってだよ。イズミにはガッカリしてるんだよ。
まあ、人気があるのは分かるけどあっちの席、こっちの席って
行ったり来たりで。目の前でよその男どもに愛想振りまいてね。
それでいて行かないと 寂しいだの。会いたいだの」
そんなもんだろう。ホステスなんて。
あんただって それ知ってて来てるんじゃないの?
飯島はまだブツブツ言っている。
「最初は杏ちゃんと同じ、この店の新顔で可愛かったよ。
でも最近は馬鹿馬鹿しくなってきてねえ。こっちは忙しい合間を縫って
それだけの料金を支払って来てるのに」
あ〜あ、馬鹿馬鹿しいのは今のあんたの熱弁だよ。
天下の有名大学教授がね
でも…よくよく考えたら今週はこれで指名が10件を超える。
もしかすると時給が上がるかもしれない…
私は、もうイズミの話題には触れず飯島の話に耳を傾けるようにした。
時折、私の腰に手を回したりしてきたが
さりげなく交わして、何とか楽しんでいる風に装った。
その甲斐あってか帰り際、飯島に
「また、会いに来る。杏ちゃんのためだけにね」
と言われた。
結果、私の時給は200円だけUPすることになる。
その時、私はまだこの世界の裏のことを何も知らなかったし
ただただ甘かったのだと思う
私は気づいていなかった。
そんな私を憎しみをこめた目で見る者たちがいることを。


