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16/8/20

母を憎み子供の頃から自殺未遂を繰り返す鬱病の私が赦しの機会を得、一生モノと思った鬱病を克服。母を愛し尊敬できるようになるまでの話

Image by Olia Gozha



もしあなたの中に誰かを憎む心があるなら

多分に一生本物の幸せを得ることは無理かもしれない

そう思ったりします。


これは半世紀近く母親を憎み続けて

孤独感の中で生きてきた私が

奇跡的に幸福感に満たされる人生を取り戻した話です。


目次:

自殺を繰り返した子供時代

突然に起こった赦し

まずは私の一歩から

幸せは猫が運んできてくれた

一生に一度の手紙

不幸は一生続くわけではない



自殺を繰り返した子供時代


20代も初めの頃、どう思い出そうとしても

自分の人生で楽しい事なんて思い出すことができませんでした。


多分に小学校2年生のクリスマスが最後の幸せの思い出。


転向し、いじめに遭い、わずか10歳で自殺を企てました。


幼い子供のトライでは死に切れず

再度15歳でリストカットをしますが

これは1ヶ月もの入院という結果で終わります。


学校に戻ればクラスメイトが私を怖がって離れていきましたので

さらに孤立。それからの方がもっと辛かったです。


親と絶縁をした20歳でも絶望で睡眠薬を飲み干したのに

それでも死に切れない私はもう自殺は無理なのだと悟りました。


親から、日本社会から逃げるように海外に出て

結婚して生活のサバイバルがなくなって安心した途端

今までの人生の母親に対する恨みつらみが爆発

そのぶつけようのない怒りは鬱という形でまた私を支配しました。


逃げても逃げても母親の言葉に支配されている自分。


「自分が本当の意味で幸せになれるのは

母親が死んだその時でしかない」


と、当時は本気で思っていたし

鬱時代にそれを本人に電話で告げてしまったこともあります。


私は海外で結婚したことも母に黙っていましたし

7年間、日本の実家に戻ることもありませんでした。


母は物事の良し悪しを教えてくれるより

『人からどう思われるかを気にして生きる』

ということを繰り返し私に植え付けました。


ですから、日本社会も怖かったのです。



突然に起こった赦し


母と日本社会から逃げて癒えるまでに

7年という月日が必要でした。


それで手始めに実家ではない場所を訪れる帰国旅行をし

大丈夫だという感覚を得てから翌年実家を訪れたのです。


相変わらず自分のことしか考えていない母に腹が立ちましたが

私以上に実家で母親の面倒を見ている姉やその子供達の方が辛く

逃げられた自分はまだ恵まれているのだということを知ります。


もういい加減母を許してやってもいいかな、とさえ思えました。


一体あれは何がキッカケだったのでしょう?


友達に勧められた興味半分で受けたお寺での

ディクシャというセッションの効果でしょうか

次回の冬の帰省で、母が昼間干しておいてくれた

ふっくらとした布団の中で


「許してやる、じゃない。

許されるべきなのは、私の方だったのだ!」


というひらめきとともに号泣した私がいました。



まずは私の一歩から


後ほど姪が結婚式を挙げることになり

その時結婚10年目にして初めて夫を家族に引き合せました。


その機会に夫と私と母とで温泉旅行に出かけたのですが

母はずっと無口のままで日本語を話さない夫とは

全く交流を持ちませんでした。


後ほどアメリカに戻って電話で話した時、母は

「なんだか、あの時はしゃべんなくてすみませんでしたね...」

そう、いつもの暗い声で言っていましたが

「え、あの旅行、楽しかったじゃない。楽しかったよねぇ?」

そう私があっけらかんと言うと

電話の向こうの母はハッとしたような雰囲気でした。


またいつだったか、電話で何気なく彼女のことを褒めた時

「やだぁ! わたしばかだからそんなこと言われたら信じてしまうよぉ!」

と、母は少女のように声をあげて喜んでいました。


今でもその時のことを思うと喉の奥にこみ上げるものを覚えます。


誰だって、褒められたい。


私が母に褒められなくて悲しかったように

もしかして母もおばあちゃんから

褒められることはなかったかもしれない。


まずは相手を認めること

それが始まりだったように思えます。


それから、母に優しい言葉をかけ

彼女のさりげないことを褒めたりすることが

自然とできるようになりました。


我が家族は優しい言葉をかける習慣がないので

最初はそうすることにかなりの勇気がいったのですが

一度してしまうと、あとはつかえが取れたように

スムースに言える自分であったのにも驚かされました。



幸せは猫が運んできてくれた


私と母の確執はそれで終わったのですが

今度は同居している母と仲の悪い姉の問題が残りました。


彼女は本当に長い間更年期鬱で

母に対するドロドロとした思いを

メールで垂れ流しで送ってきていました。


それに対して上から目線でもっともなことを言い

彼女や甥と姪を諭してきた私でしたが

やっと気づくことができたのです。


まずは相手を認めること。ねぎらうこと。褒めること。


その効果が少しずつ出てきたかの頃

私に直感の声が降りました。


〜〜〜 母に猫を買い与えよ 〜〜〜


姉は機嫌が悪くいつもしかめっ面をしている母を

『鬼瓦』と陰で呼んでいました。


その母に笑顔をもたらすものは残念ながら私でも姉でもなく

多分に無垢な子猫ではないかとそう伝えたのです。


自分がアメリカに来て夫と結婚し

大きなイエローラブと寝起きを共にすることで

私たち夫婦が次第に癒されてきたことからのヒントでした。


動物嫌いな姉は最初は躊躇していましたが、やがて意を決し

母を除いた家族が一団となって猫探しが始まりました。


そして姉が恋に落ちた運命の子猫をゲット

次の母の誕生日に子猫をプレゼントしたのです。


ところが奇跡は母にだけではなく姉にも義兄にも

しらけた家族全員に起きました。


なんと各自がそれぞれの部屋に閉じこもっていた仲の悪い家族が

猫がいるおかげでみんなリビングに集まったのです。


全てのメンバーが皆笑顔で猫を見守ったのです。


猫が実家に現れたその日から

姉のタールのようにドロドロとしたメールは

嘘のように明るい猫メールに変化したのでした。



一生に一度の手紙


姉に母へ猫を飼い与えるよう頼んだ頃

年老いた母親が突然死した時に

海外にいる自分が彼女に会えないことがあるかもしれないことを

ふと思いました。


それで母の誕生日に合わせて手紙を書くことにしました。


年老いた母が読みやすいように

大きな文字で書いた方がよいだろう、と

日本町の文房具店で太い縦線のついた和紙の便せんと封筒

そして細書きの筆ペンを購入しました。


母親に対しての手紙を

大きな文字で一字一字ゆっくり丁寧に書いているとき

年明けからなんとなく気休めでやっていた

『鉛筆習字』の時間は

今このときの為に準備されていたものだったのだ

ということに気づきさえしました。


もちろん、始めたときには

まさか母親にこのような手紙を書くことなど

予定していませんでしたが。


『Kさん、お婆ちゃん、お母さん、

このような歳になりますと、貴女をどうお呼びしようか

少々戸惑いを思えますね。


お誕生日おめでとうございます。


元気に81歳をお迎えしたことを、大変喜ばしく思います。

貴女の末娘も、今年48歳になりました。


48歳ともなりますと、さすがに50の数字が見えて

人生いろいろと振り返ってしまいます。


確かに辛いことや悲しいことが沢山あったのだけれど

今が幸せならいいかな、とやっと思えるようになりました。


お母さん


私たち家族の在り方は、決して自分が望み憧れた形では

ありませんでしたけれど

もう過ぎてしまったことなのだな、と腹で理解しました。


貴女のすべてを許します


ですから、貴方もどうぞ至らない娘の存在を

今まで淋しい悲しい思いをさせ続けてきましたこと


ごめんなさい


本当に、本当にごめんなさい。


そして、私たち、娘達を一生懸命育ててくれてありがとう


いつの間にか家からは温かいものが消え去って

笑顔のない寒々しい家族になってしまいましたけれど

もう私たちが貴女に笑顔を作ってもらうようなことは

できなくなってしまったけれど

でも、私は心から本心で、貴女のそう残り少ない人生に

優しさと温かさと笑顔を取り戻して

過ごしてもらいたいと思っています。


そしてお姉ちゃんに

貴女に猫をプレゼントするようお願いすることが

私たちにできる最高の親孝行なのではないかと

試みてみました。


お姉ちゃんのメールで、家に子猫が加わり

皆が笑顔でリビングに集まっているというニュースを聞いて

大変嬉しく思っています。


私もとても幸せな気分です。

お正月には帰ります。


家族と迎えるお正月なんて、本当に久しぶりなので

とても楽しみにしています。


貴女の余生が健康で楽しい日々に溢れることを

心からお祈りいたしております。


2009年10月

                  まこ』


大変に静かな気持ちでした。


このような手紙を書いている自分が

ちょっと信じられないようにも思えました。


5年前の私だったらまったくあり得ない行為でした。


母親の返事はありませんでしたが

暮れの帰省時には玄関先で満面の笑顔で向かい入れてくれた母と

照れなくしっかりと抱き合うことができたのです。


そして翌朝、なんと私は

家族の笑い声で目が覚めるという奇跡も経験しました。


みんなが子猫を見て笑っている!


私は辛い寒い朝にもかかわらず布団から飛び起きて

その笑いの輪に加わったのでした。



不幸は一生続くわけではない


人生のある時、夫の事でどんな辛いことがあっても

「私には帰る家はない」と絶望を感じ

死に切れないことは承知で死ねるなら死にたいと思った日もあります。


それが私がいつでも帰れる実家を持つことになった。


母親にとって「出来が悪い娘」だった私が離婚をしたら

きっと叱られるだろう、嘆かれるだろうと懸念したにもかかわらず

彼女は私が幸せであるかどうかを確認しただけでした。


私が変わることができたように

母も私が長い間信じていた彼女ではもうなかったのでした。


子宝に恵まれず不妊治療で神経を逆立てていた姪も

猫が家に来てからあっさりと妊娠

新しい家族を迎え実家は更に笑顔に満たされます。


互いに思いやり家族が一体になって平和に暮らしている。


海外に住む私が長い間滞在することも遠慮なくできる。


帰る家があるというその安堵は

私のそれまでずっと抱えていた孤独感と鬱々した気持ちを

拭い去ってくれました。


そして、母はいつの間にかすっかりポジティヴで明るい

聡明なチャレンジ精神の高い輝く老人になりました。


それはいちいち様子を伝えてくる姉の目から見てもそうなのです。


私も姉も母に似ています。


ということは、彼女のように死ぬその間際まで

しっかりと自立して明るく晩年を生きられるという

見本を見せてもらいその保証をしてもらっているようなものです。


人生はどこでどう展開するか

本当にわかったものではありませんね。


直感に従う勇気

それが大きな人生の分かれ目だったかもしれません。


長いストーリーを

最後まで読んでくださってありがとうございました。


親子関係で苦しんでいる方がこれを読んで

前向きになるきっかけを持ってくれたらと思い

このストーリーを掲載することにしました。





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