東京簡易裁判所に
オムツと 哺乳びん
粉ミルクとお湯を持参した女
50年生きてみて というタイトルで書き始めたストーリー
結局 1年以上経って
続きを書いている
必然的に
"51年生きてみて" に 変わっちゃってます(笑)
これも 最善のタイミングということで
続きを書きたいと思います
それはそうと
このわたしのストーリーを
想像を遙かに超える数の方が読んでくださって
とっても驚きました
そして 「続きが読みたい」というアクションをしてくださった方も
たくさんいらして
とっても嬉しかった
本当にありがとうございました
では 続きを書きます
最初の結婚 は その893のデザイン会社
あ いや その
893の世界に 何かと関係がある デザイン会社 ですね
そのデザイン会社に入社した時に
眼の前に席に居たのが
最初の旦那さんでした
2つ上で 山口県出身の
国立大学を
中退して上京した
デザイナーの先輩
育った環境も 見てきたものも
まったく違うひと でした
不思議な魅力を感じて 付き合うことになるワケですが
実は その時彼は
同じ社内で コピーライターの助手をしていた
アルバイトの大学生の女の子と
付き合っていた みたいで
それを 後から知り
血気盛んだったわたしは
「どっちにするのかハッキリしやがれ」的な感じで
3人で話しがしたい と申し出ました
そして ほどなくして
新宿の 西新宿の
深夜までやってるファミレス
彼と その女子大生が 話しをしているところに
夜中 呼び出され
百恵ちゃんの "絶対絶命"をリアルにやりました
"絶体絶命"の歌詞 そのもの でした
「さぁ さぁ さぁ さぁ」
「はっきりカタをつけてよ」
「やってられないわ」
「そのひととわたしのどちらを選ぶの」
さすがに 実際にこの言葉を言ったわけではありませんが(笑)
モロ そんな雰囲気
「別れてくれ」とも言ってないし
とにかく どっちつかずの状態が気持ち悪いから
どっちかにしてくれ という内容で話しをしてたんだけど
こういう時 男は煮え切らないね
話しが煮詰まってくる
あっという間に 1時間くらい経ってる
そのうち
女子大生は こう言い出した
「別れてあげてもいいですよ」
「でも」
「この人(元ダン)が 抱かせろって言ったら 今まで通り 抱かせますけどね」
そう言い放って ファミレスを出て行きました
その言葉が すっごい衝撃的でね
30年も経ってるのに ほら 今だに忘れられない(笑)
年下の子に
そんなこと言われて 呆気に取られたし
なんか
すっげぇな って
年下なんだけど すごく オトナに感じた
わたしだったら そんなコト 言えないな って
勝ったのか
負けたのか
わかんない
妙なモヤモヤ(笑)
まぁ でも フタマタから ヒトマタになって
フツーに付き合うようになり
待てよ・・・
プロポーズ って されたんだっけなぁ
もう思い出せないや
御両親に逢うために 実家(山口県)に連れて行かれたのは
結婚する1年前 くらいだったかな
謂わば 顔見世興行
プロパンガスの匂い
五右衛門風呂
ぼっとん便所
広い空
工場の建ち並ぶ港
その煙突から白い煙が立ち上がる
「田舎」を持たないわたしにとって
その場所は
初めて持つ「故郷」に思えた
義両親となるひとたち
義兄や義姉 となるひとたち
従姉妹や これから親戚になるたくさんのひとたち
みんな あたたかく迎えてくれた
しかし
わたしが ひねくれていたせいで
一様に
その人達の根底から 音もなく立ちのぼり漂って来る
「この子は 東京もん」 という のを
どうしても感じてしまっていた
「東京なんか 住むところあるんじゃろうか( ゚,_ゝ゚)」
と 言われた時には
「いや 住んでっから!!!」 と ツッコミ入れたくなる衝動に駆られた
ちょと待て
待って
「東京なんか」 って
( ゚Д゚)え?
って その時は少しだけ
ハラワタが沸騰しかけた(笑)
しかし きっと その時の自分が未熟で
勝手に疎外感を感じていたに過ぎず
実際 離婚してからも変わらずに 最初の嫁 として
(元ダンはそのあと再婚して2番目の嫁がいる)
これ以上ないほど可愛がってもらったし
何より ふたりの子ども達は
ずっと 孫たちであり
従姉妹たちであり
甥っ子たちに変わりはない
とてもありがたいことだと本当に感謝している
その中でも
元ダンのお父さんには 本当に可愛がってもらった
お酒が好きで
わたしがお酒を飲めることをすごく喜んでくれて
帰省することが決まると すぐに作り酒屋に一升瓶を買いに行って
わたしが来るまで保管しておいてくれるような
そんな キュートすぎる義父だった
五橋 という地酒を 義父とふたりで酌み交わした夜のことは
今も 昨日のことにように思い出される
義兄や
その奧さんである 義姉も
最高に素敵なひとたちだった
とりわけ 義姉には もう ありとあらゆる事柄において
一瞬で 戦意を断たれるほどに 負けていた
いや 別に 勝負しようなんて気はハナっから微塵もなかったのだけど
もし 万が一 競り合ったとしても
何もかもが負けていた
とにかくいつも笑っていて
いつも 気配りが出来ていて
義母とも 仲が良いし(こことても大事ね)
優しくて
あったかくて
女神のようなひとだった
義兄と その奧さんである義姉には
ちょっと
足を向けて眠れないほど
子どもたち共々 大切にしてもらった
最初の結婚は 9年間続いた
元ダンには 本当に いくら感謝してもしきれないくらい感謝している
感謝 という言葉すら
薄っぺらく思えるほど
心の底から感謝している
ありがたいことが多すぎて途方に暮れるほどだが
その中でも
ふたりの子どもを産ませてもらった というのがいちばん大きい
また 追々その話しについては書いていくけど
この51年の人生で
というか
きっと
後にも先にも
わたしが手にした最高の宝物は
紛れもなく
ふたりの息子たち だから だ
だから あの人たちの母親にさせてもらえたことは
本当に本当に
どんなに感謝しても しきれるものではない
元ダンは 結婚前
わたしに対して コンプレックスを持っていた らしい
それは結婚後に 義母から聞いて知った
東京で生まれて 東京で育って
東京に友達がたくさん居て(当たり前(笑)
彼の目には
わたしは何でも持っている と
映っていたのだという
あるとき
デザイン会社の同僚たちと連れだって
クルマで遠出をしたとき
運転していた彼は
前のクルマに追突してしまったことがあった
ほんのちょっと脇見した一瞬の出来事だった
保険が適応されず
賠償金を 支払わなくてはならなくなり
彼は サラ金から借金をすることになってしまった
それを わたしには言えずにずっと隠しながら 返済を続けてた
コンプレックスが そうさせたのだと思う
彼の様子が なんとなくおかしくなったことに気付きながらも
その原因が サラ金への返済だったと知ったのは
結婚して 少し経った頃だった
彼は 結婚と同時に
転職先だった 別のデザイン会社を辞め
わたしは寿退社をして
結婚してすぐに 夫婦で無職 という異常事態
(今思えば不思議(笑)
さらに
彼は
パチンコに溺れるようになっていった
夜になっても灯りも点けずに
部屋の隅っこで うずくまっていたりする
パチンコで負けた日は 決まってそんな感じだった
ようやく 借金を抱えていることを打ち明けられた
その頃は
自転車操業という最悪の状態に陥っていた
誰にも言えなかった
義両親にも もちろん わたしの母にも
友達にも
誰にも相談出来なかったし
そもそも このことを相談する という選択肢が なかった
新宿までの交通費がなくて 中学の同窓会を欠席したこともあった
婚約指輪は 質屋に持ってって お金に代えた
あの頃は
固定電話にも権利があって
電話の加入権を 売ることが出来て
それも 質屋でお金に代えることが出来てね
8万円だったかな
まぁ 結婚してすぐ 質屋通い という希有な経験を
させてもらいましたわ(笑)
元ダンは ようやく仕事に就きトラックの運転手になって
わたしもバイトを始めた
デザイン会社のつながりで
筆文字のロゴを依頼されることもあったりした が
不定期だったので確実ではない
いろんなバイトしたなぁ
持ち帰り寿司のチェーン店で
鉄火巻 巻いたり(笑)
夜は 向島の料亭で お運びさんもしたなぁ
交通費を浮かせるために
向島まで 30分くらい チャリで通ってた
今だったら
なんでダンナの借金のために
アンタが働くの?
なんで もらった指輪売ってまでお金作ろうとするの?
「絶対そんなことしないで!!!」 って
全力で 自分にアドバイスするけど
あの時のわたしは それが 最善の道だと思った
知らん顔して
働かずに のうのうと生きて行くなんて
そっちのほうが
罪悪感で死にそうだったんだろうね
だから 結局
その時も 決して仕方なく じゃない
自分で選んで それを やってた
その頃は もちろんそんなことを思っちゃいない
結婚した男に借金があって
それも知らないまま結婚し
その所為で・・・・・ って
悲劇のヒロインになれる材料は完璧に揃っていた
しかし あの日から20年以上経とうとしている頃
何もかも ありとあらゆる出来事は
自分が選んでやっていた と 思い知らされた
(この "自分で選んでやっていた" という話しは
とても大事な部分なので あとでまた ゆっくり書く)
借金って
返済しても返済しても 元金が減るまでには至らないんだよね
その月の利息分しか送金出来ない
サラ金業者から催促の電話
この 催促の電話を受けるのは 何しろキツかった
明らかに脅しの含まれた
絵に描いたような取り立ての電話
呼び出し音は 全身を硬直させるための 合図のようなものだった
やるせなさと
情けなさと
あらゆる負の感情が ごちゃまぜになって襲いかかってくる 恐怖の瞬間
そのうち
電話機は
呼び出し音が聞えないように
布団に くるまれた
わたしは デザイン会社に復職し
ふたりで返済を続けた
少しずつ 少しずつ 払い続けてた
元金はなかなか減らなかったけれど
返済は 必死に続けていた
そして 結婚4年目にして ようやく妊娠
お互いが 待ち望んでいた妊娠
延々と返済が続く 先の見えない未来だったけど
それでも
一筋の光が差し込むような 至福の出来事だった
妊娠したのを機に
家賃の安い
都心からかなり離れた 川渡ったら千葉県 という場所の
ボロアパートに引越をした
借金抱えてるなんて知らずに
バブルの名残もあって
新婚の新居は 新築のピカピカのマンションに住んだ
借金あるってわかったんだから もっと家賃の安いところに
早いとこ住み替えればよかったのに
そもそも
その 引っ越し費用を出せる状態じゃなかったっていう ね(笑)
引越会社に依頼出来るようなお金もなく
彼の 勤務先のトラックに 荷物を詰め込んで
ボロアパートに向かった
12月だったかな
荷物をふたりで運び入れて
(妊娠してるっていうのに ね)
ようやく片付けが一通り終わって
初めてその部屋で 夜を迎えたとき
築30年くらいの 寒いボロアパートだったけど
やっと いろんなことをやり直せる気がした のを
鮮明に思い出す
そんなこんなで ふたつの季節が過ぎて行き
出産予定日を数日過ぎた朝
トイレを終えた直後 生暖かい水が太ももに流れる
破 水
早朝 通院先の新宿の大学病院まで
タクシーぶっ飛ばしたのが
平成⑦年⑥月④日
破水してるから 病院着くなり 即陣痛促進剤を
渡されたんだけど
⑦ ⑥ ④ って
なんか や じゃない?
どうせなら
⑦ ⑥ ⑤
って 続けたいじゃない?(違う?(笑)
陣痛促進剤飲んじゃったら
すぐ産まれちゃいそうでしょ
⑦ ⑥ ④ で
だから
看護婦さんがくれた促進剤
速攻 ゴミ箱に捨てたの
看護婦さんに
「飲みましたよね?」って訊かれたけど
「はい 飲みました!」 ってウソついた(笑)
死ぬ時も
産まれる時も
自分が選んだ日と時間なんだって
だとしたら 数字が続くように
長男が決めてて
それに わたしが協力しただけなんだろうね
この母なら やってくれる って
すごい信頼されてたんだと思う(笑)
破水しているにも関わらず
陣痛促進剤を飲まない というのは
ある意味 危険を伴う 命がけの行為だった ようで
この行為は 後日
すっごく怒られた
なので
マネはしないでください
日付が変わったら
すぐに出て来て欲しかったんだけど
なんと 病院着いてから36時間!!!
壮絶な陣痛のあと
やっと 産まれた
平成7年6月5日
⑦ ⑥ ④ じゃなくて
⑦ ⑥ ⑤ で
本当に 本当に嬉しかった
「債務整理」 という方法が世に出たばかりの頃だったと思う
家賃の安いボロアパートに引越するも
育児に専念する中 収入は減り
まだまだ返済が続く中
借金を整理するという方法があることを知るわけです
元ダンには
借金のことを考えずに
とにかく1日でも早く
トラックの運転手を辞めて また大好きなデザインの仕事に
復帰してもらいたかった
「とにかく 相談だけでもしてみよう」
そう思い立ち
産まれて半年も経たない長男を 抱っこひもの中に押し込んで
弁護士事務所に向かった
途中 雪が降り始め
そのうち 大雪になり
抱っこひもの中に押し込まれた長男に
絶対に雪が掛からないように
それだけを考えて 雪を踏みしめて歩いた
弁護士さんは それは親切に話しを聞いてくれて
借金を支払わなくても済むか
あるいは大幅に減額されることもある ことを
丁寧に教えてくれた
それに伴う手続きの仕方や方法も教わった
何より
その手続きを始めた瞬間から
取り立てがなくなる ということを聞いたとき
全身の力が抜ける思いがした
大雪の降る帰り道
抱っこひもの中ですやすや眠る長男の顔を見つつ
嬉しくて 泣きながら歩いた
元ダンは 仕事に専念してもらって
わたしが
各サラ金会社と
裁判所で個別に話し合うことになった
10社を超えるサラ金会社
ひとつずつ ひとつずつ 片付けていく感じ
その時は いつも
長男を抱っこひもの中に押し込んで電車に乗り
東京簡易裁判所に行った
1日に 複数社との話し合いがされる日もあって
オムツや ミルクも持参した
調停中にお腹が空いたことを訴えて泣く赤ちゃんに
用意してきたミルクを与えつつ
話し合いを続ける
露骨に嫌な顔をする人もいた
長男に笑いかけながら 話しを進めてくれる人もいた
赤ん坊など視界に入っていないかのように 無表情の人もいた
乳飲み子を連れて 借金の返済交渉
昭和枯れすゝき さながらのシチュエーションを展開し
それは 本当に仕方の無い経緯だったけど
相手方の会社の担当者は 乳飲み子を抱えた若い母親を見て
多少ならず
退いてた と 思う
と 同時に
その光景を目の当たりにして
法外な利息を搾取していたことを心の中で詫び(笑)
きっと 返済に関しての最大限の譲歩をしてくれた ハズだ
そういう意味では with 赤ちゃんin抱っこひも の威力というのは
ある意味
凄まじいものがあったと思う(笑)
すべての会社と話し合いを終え
大幅に減額された残金で 返済計画が決まり
元ダンは ほどなくしてトラックの運転手を辞め
デザインの仕事に復帰した
少しずつ 普通の生活が
少しずつ 余裕のある暮らしが 出来るようになっていった
築30年の "ボロアパート" から
ちょっと築浅の
ちょっと小綺麗で
ちょっと広い "コーポ" なるものに 引越すことも出来た
自分がひとりっ子で
母親が 常に働いていたこともあって
長男には
きょうだい がいる という経験を
どうしてもさせてあげたかった
4年の間 子宝に恵まれず
その間 既に孫との対面を果たしていた親戚の伯母たちから
「まだ おばあちゃんになれないの?」 などという
強烈な嫌味を言われて
居たたまれなさそうな母が 苦笑いで誤魔化しているのを
間近で見ていて
胸をえぐられるような思いをして
子どもがいる! ということだけでも
天にも昇るような幸せを頂いてはいたけど
きょうだい を 作ってあげなければ と
躍起になっていた
4年も妊娠しないと
何らかの原因で不妊なのではないか
わたしたち夫婦には 子どもは望めないのではないか という
不安がよぎることもあった
しかし
こうして 妊娠して出産することが出来たということで
データは塗り替えられ
一転 俄然 やる気 だった(笑)
長男が 1歳を過ぎ
再び 妊娠した
そして 妊娠初期の ある朝
下腹部になんとなく違和感を感じ
トイレに行ってみると
膝まで 鮮血が大量に流れていた
よくないことが起こっている ということを察知し
可能な限り流れた血液を拭いて
急いで 産婦人科まで行った
すぐにエコーで 赤ちゃんの状態を確認してもらうと
赤ちゃんは
心臓の動きを止めていた
"リ ュ ウ ザ ン"
まさか 自分の身にそれが起こるなど想像もしていなかった
でも それは突然やってきた
どうしようもない悲しみが襲ってくる
手慣れた医師や看護婦さんは その悲しみが少しでも軽減されるように
丁寧にわたしを扱ってくれた
でも
「赤ちゃん死んじゃった」 という言葉は
止まることなく頭の中で回り続けた
全身麻酔で 意識が遠のく
その間に子宮から胎児を掻き出す
なのに カラダに痛みは何もなく
堕胎手術を終えたあとの
まるで何もなかったような その"普通加減" が
さらに悲しみを増大させた
「赤ちゃんが死んじゃったのに わたしには何の痛みもない」
その 呆気なさが
例えようのない悲しみを生んでいた
都内でも 子どもが育てやすい区として
若い夫婦が多かったその町では
お腹の大きな妊婦さんをよく見かけた
そんな 一瞬チクっとするような痛みを1年ほど味わって
思いがけず また妊娠することが出来た
妊娠全期間を通して
トイレのたびに 出血していないかチェックした
心配症の小心者は
トイレットペーパーを毎回恐る恐る確認してた
長男が ⑦ ⑥ ⑤ で
今度は どんな数字かと思えば
出産予定日は
なんと!
⑩ ⑩ ⑩ と 出た(笑)
もう ヒャッホイ気分だった
その頃は 長男を保育園に預け
チャリで3~40分かけて仕事場に向かう毎日
雨の日も 風の日も 灼熱も極寒も
チャリに乗って
長男とふたりで川っぺりを走らせた
大きくなるお腹で チャリを漕ぎつつ
仕事もして
家事もして
そんなお母さんは 今 この瞬間 日本中にたくさん居るだろう
みんな本当に
よく 頑張ってるよね
いつになったら終わるんだろうと思っていた子育ては
今となっては あっという間に終わってしまった
長男と違って 2時間ほどで するんと産まれた次男は
ちょっとばかし早く 地球の空気が吸いたかったみたいで
結局 ⑩ ⑩ ⑥ に産まれて来た
その 次男が 1歳になって半年くらい過ぎた頃
最初の結婚が 終わりを迎えることになる
借金を返済することからスタートした 最初の結婚生活
自分の中に いつも
「何とかしなきゃ」 という思いがあった
「何とかしなきゃ」
「わたしが 何とかする」
そんな風に 何かに追い立てられながら
ずっと生きて来た
そんな9年間 だった
これは 思考のクセだった
文字通り 「何とかして」それまでの人生を生きてきたという記憶があったし
デザイン会社で
イメージタイマンをやって
積み上げられたものも大きかっただろう
「何とか出来る」 というデータもあった
「何とかしなきゃ」 という思いは
必然的に 「頼りない夫」 を作り出すことになる
でも 本当は
「頼りない夫」だから「何とかしなきゃ」と思うのではなく
わたしが
「何とか出来る」ために 「頼りない夫」が必要になるだけだ
よく言えば 「向上心の強い上昇志向」
悪く言えば「足ることを知らない餓鬼」
わたしは そんな人間でした
「何とかしなきゃ」 という思いというのは
実際は 頼りがいのある素晴らしい夫 を
「ダメな夫」 に作り変える 最高の材料になる
もちろん
その時は そんなことを思えるハズはなかった
何年も経って
やっとわかったことだった
なので
この 最初の結婚を終えて
次の結婚をしても
また このカラクリに気付けないまま
「ダメな夫」 をこしらえてしまうことに
なるの だが・・・・・
50年生きてみて③ に 続く
職業:ぱをら瑞恵(旧姓 山志多みずゑ)
東京志ん宿生まれ
現在 千葉県勝浦市在住
『バカでいられる自分を取り戻す学校』SOB創始者
メンタルセラピストを生業として10年
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