1995年春、名古屋へ戻ってきたわたしは、
1年間は英語とは関係のないパートをやっていましたが、
その後、マンションを購入し定住するところができたので、
ふたたび、英語の仕事を始めました。
今度は自宅で教室を開くのではなく、派遣講師として、
幼稚園や既存教室へ英語を教えに行く仕事を選びました。
そして、1998年夏。
わたしは、その後の運命を切り開いてくれた
魔法の「神器」を手に入れました。
それは、パソコン。
Rogerがインターネット配信でライヴをやるというのです!
インターネットでしか見れないライヴ。
パソコンがないと見れないライヴ。
当時は、やっとインターネットというものが一般家庭に普及しだした頃で、
でも、まだパソコンがないお家が少なくないという時代でした。
当然、わたしもパソコンの知識はゼロでしたが、
このライヴが見たい一心でパソコンを手に入れたのでした。
当時は「ダイヤルアップ回線」だったので、
ライヴ配信は、ほとんど「バッファ中」で
結局、全然まともに見れなかったというオチがあるのですが、
わたしはインターネットを大いに活用して、
オフィシャルファンクラブの会長Jackyとメル友になりました。
まだインターネット人口が少ない上、
英語で日本のQUEEN情報をメールする人が他に殆どいなかったようなので、
Jackyはわたしのメールをとても喜んでくれました。
こうして、オフィシャルファンクラブとわたしの信頼関係が作られていきました。
そして、1998年11月。
Brian May Bandが2回目の来日を果たします。
わたしは今回も名古屋と大阪の公演を見に行くことにしました。
名古屋は11月13日金曜日。
平日だったので、学校から帰ってきた娘を実家へ預けてから、
ライヴ会場のボトムラインへ。
お仲間が先に並んでいてくれたので、
夕方、開場時間ギリギリにそれに合流。
オールスタンディングで超満員。
キャットウォーク近くに場所を確保したけど、
ライヴ中は、何度か命の危険を感じるほどもみくちゃになりました。(^_^;)
そんな状況の中、わたしはステージ上のある人に釘付けになってしまいました。
Brianじゃないです。ww
サポートギタリストのJamie Moses
彼は前回の来日公演の時もいたのに、その時は全然目に入らなかったのです。
その存在すら、まったく気に留めていなかった。
それなのに、このライヴでわたしは彼にノックアウトされてしまったのです。(//∇//)
ライヴ後、
Brianご一行が泊まるホテルへ先回りして、Brianと13年ぶりにご対面。
13年前は何も言えなかったわたしが、Brian相手に喋る喋る。(^_^;)
Brianもバンドメンバーも、集まったファンへとても丁寧に優しく対応して、
一人一人と写真を撮ったり、サインしたり。
その場が暖かい空気に包まれていたのを覚えてます。
翌日は、Brianご一行と同じ新幹線で大阪へ。
前日にもたくさん話したからか、Brianはわたしをすっかり覚えてしまったようで、
ホームで新幹線を待つ間も、話しかけるとジョークを言ってきたりした。

「雲の上の存在」だった人が、気さくに話をしてくれる。
なんだか、とても「特別」な気分でした。
これも、英語が話せるようになったから
言いたいことが言えるようになったから
「QUEENのメンバーと話したい!」
「だから英語が話せるようになりたい!」
どっちも実現させちゃったのよ、わたし!!!
ここで満足して終わってもよかったのですが、
天は、フレディは、わたしをそこに留まることを許さなかったのです。
そのキーパーソンになったのが、サポートギタリストのJamie Moses。
彼との出会いで、わたしの運命がさらに大きく動いていくのでした。
Brian May Bandの名古屋公演で、
わたしは彼にすっかり心奪われてしまいました。
大阪ではBrianよりもJamieを追っかけ、
帰宅してからは、彼について調べまくり、
彼にファンレターやプレゼントを送りまくりました。
(猛アタック (^_^;))
最初はオフィシャルファンクラブのJackyが
それらの転送を買って出てくれていたのですが、
かなりな頻度なので(猛アタック(^_^;))、
そのうちJamieから直接メールが届くようになり、
彼ともメル友になったのでした。
Brianにも以前から手紙やプレゼントを時々送っていたのですが、
この98年の来日後に、
なぜか急に返事の手紙やクリスマスカードがよく届くようになりました。
翌99年。
私設ファンクラブShadow Queenの代表の方がもう活動を辞めるということになり、
ファンクラブは新たな代表を立て、
名前もPartners & Crimeと変えて活動することに。
それに伴って、それまで一会員だったわたしがスタッフとなり、
ホームページを開設することになりました。
ホームページでは、ファンクラブの紹介のほか、
主に海外のサイトから拾い集めてきたニュースを和訳して載せていました。
じぶんで言うのもナンですが、常に迅速かつ正確な情報を載せていたので、
たくさんのアクセスがあって、すぐに人気サイトになりました。
わたしはそれにとてもやり甲斐を感じて、
持てる情熱をすべてファンクラブ活動やホームページ運営に注ぎ込んでいきました。
当時、日本国内でファンクラブ活動をしていたのは
このPartners & Crimeだけだったこともあり、
オフィシャルファンクラブとの繋がりは一層強くなっていき、
2000年になったあたりから、
わたしはオフィシャルファンクラブのJackyからある相談事をされていました。
それは、
「日本でもファンコンベンションを開きたい」
というものでした。
ファンコンベンションというのは、
イギリスでは毎年行われているファンの集いで、
2~3泊の泊りがけでQUEEN三昧をするというものです。
そのコンベンションを日本でも開催したいというのです。
日本でコンベンションが開かれるなんて
わたしにとっても願ってもないことだったので、
日本だったら、どんな形で開催できるのか、
いろいろ検討を始めました。
ところが、話が進むに従って、Jackyが
「もし私(オフィシャルファンクラブ)が主催でやるなら、
プロフェッショナルな内容でないといけないけど、それを日本でやる自信がない」
と尻込みをし始め、
「オフィシャルファンクラブが全面バックアップするから、
あなたたち(Partners & Crime)が主催してコンベンションを開催してほしい」
と言い出したのです。
スポンサーも資金もない、普通のファンが運営してる私設ファンクラブに、
そんな大きなイベントを開催する力があるのか?
きっと無理だ。
でも、、、。
すでに「日本でコンベンション開催」の夢に向かって走り出していた私たちは、
今さら諦める気にはなれず、
「ええぃ、やったるわい!!」
かくして、Jackyの来日に合わせて日程を組み、
試験的な「プチコンベンション」として、
2002年11月8日、
新宿で日本初のオフィシャルファンコンベンションを開催したのでした。
参加者100名弱の小規模だったけど、
「日本でもコンベンションを!」
という同じ想いを持ったファンが集まり、
日本で初めてのオフィシャルコンベンションは大いに盛り上がりました。

これは何としても次に繋げなくては。
「日本でもコンベンションを定期的に開催すること」
これが次のわたしの夢になりました。
話が前後しますが、わたしは私設ファンクラブの活動の他に、
99年に「名Q会」という東海地区のファンサークルを発足。
また、Jamieのファンサイトも運営管理して、
世界中のJamieファンと交流していました。
今思うと、よくまあやってたもんだと。
まだパートではあったけれど仕事もして、
母親であり家庭を守る主婦でもあった。
何足わらじ履いてたのか??
いったい、どうやって時間のやりくりをしてたんだか…。
謎。(^_^;)
世の中は徐々にインターネットが普及していって、
QUEENのオフィシャルサイトができ、
Brianも自身のオフィシャルサイトを開いて、情報発信をし出した。
Brianのオフィシャルサイトには、ファンからのメールに対して、
Brian本人が公開返信するコーナーがあります。
わたしも、Brianのサイトができた頃はそれを利用していました。
ある時、ヨーロッパのどこかの国のファンの
「日本でイルカが虐待されている」
という内容のメールがサイトに掲載されました。
そのメールには"虐待現場"のページリンクも記載されていました。
Brianはそのメールに対して、結構激しい調子で「これは許せん」と
批判する返事を公開し、
ほかの複数のファンがそれに同調して、日本バッシングのようなことが起きました。
そのページを見てみたら、
それは太地町のくじら博物館の人たちが傷ついたイルカを浅瀬に誘導して、
治療のために捕獲しようとしている、その様子のレポートでした。
そこに公開された画像には、傷ついて血を流しているイルカと
それを取り囲む人たちが写っていました。
日本語だけで書かれたページだったので、
最初にメールしたヨーロッパのファンが画像だけ見て誤解したんだな、
と思ったわたしは、
Brianに、そのページの内容を説明して、
「日本語が読めない人からの”情報”を鵜呑みにして、
何も確かめずにネット上で批判するというのは軽率だと思う。
自分の発言の影響力を考えたことあるの?」
とメールしてやりました。
それに対してBrianは
謝罪の返事を公開するというかたちで決着がついた。
Brianに説教したファンなんて、後にも先にもわたしぐらいだったかも?(^_^;)
これがきっかけで、
Brianとはかなり頻繁にメールのやり取りをするようになりました。
「Queenと話がしたい」と願った夢は、
こうしてさらにわたしが願った以上のものを与えてくれたのでした。
2002年の初めてのコンベンション以後、
わたしは「QUEENコンベンション実行委員会」を立ち上げ、
もっと本格的なコンベンションを開催すべく、全精力を傾けていきました。
どれぐらいの規模で、どんなことができるのか。
次回以降、オフィシャルファンクラブのJackyは
日本のコンベンションを全面的に後援するが、来日はできないという。
プログラムは?
予算は?
すべてが手探りでした。
当時の所属レコード会社の東芝EMIにスポンサーをお願いしたが断られ、
わたしと私設ファンクラブ会長は開催資金を作るため、
私物のQUEENグッズをヤフオクで売り、貯金を崩した。
「名Q会」メンバーのつてで、
98年にBrianが名古屋公演を行った「ボトムライン」を会場にすることができ、
東芝EMIからは、スポンサーになることは断られたものの、
販促グッズの在庫品を提供してもらい、
そして、オフィシャルファンクラブからは、
本来ならJacky不在では上映できない秘蔵ライヴビデオを貸してもらい、
BrianとRogerからは、
直筆サイングッズとビデオやメールでのメッセージを提供してもらい、
VOXアンプ販売元のKORGからも、AC30柄のグッズを提供してもらった。
QUEENファンサイトやファンブログをやっているたくさんのファン仲間が、
告知に協力してくれた。
そして、最後にQUEENプロダクションが動いた。
当時、ロンドンで上演していたQUEENミュージカル「We Will Rock You」
のビデオを貸してくれるという。
これはJacky不在では”絶対に”上映できないもの。
それを、QUEENマネージャーのJim Beachがわたしを信頼して貸してくれることになった。
つまり、QUEENプロダクションから「オフィシャル」のお墨付きをもらったのだ。
私設ファンクラブや名Q会のメンバーがスタッフとして準備を手伝ってくれて、
2004年10月23日、
週末2日間にわたるオフィシャルコンベンション
「TEO TORRIATTE 2004」を開催。
2日間で345人を動員することができました。
さて、わたしがコンベンション開催にこれほどの情熱を注いだ
その理由はなんだったのか。
じぶんの私財(QUEENコレクション)をなげうってまで、やり遂げた理由。
それは、ただただ、
「たくさんのファンと一緒に大好きなQUEENを楽しみたかった」
週末3日間もQUEEN漬けになって遊んでいるイギリスのファンが羨ましかった。
日本でもそういうことがしたい。
絶対に楽しいに違いない!!
それに、わたし自身が長年、孤独なファンだったのが、
QUEENファンの友達ができて人生が変わったので、
「同じように、まだQUEENファン友達がいない人をたくさんの仲間に繋げたい。」
その思いだったと思います。
ボトムラインでのコンベンションを開催した2004年、
わたしの家庭にちょっとした異変が起きました。
元夫が会社をクビになり失業したのです。
元夫が再就職するまで、わたしが仕事を増やして家計を支えることになり、
私設ファンクラブの活動とコンベンションの活動の両方をやるのが難しくなったため、
わたしは私設ファンクラブの方を退き、
「日本コンベンション実行委員会」の活動に専念することにしました。
また、私設ファンクラブは退いたものの、
イギリスのオフィシャルファンクラブの日本人会員で英語が不得意な人向けに、
入会や更新のヘルプをしたり、問い合わせに対応する役目をJackyから任されました。
よりたくさんの会員を獲得したいファンクラブ側が、
英語が障害になって入会を躊躇っている日本人への対策でした。
そこでわたしは、
日本人会員にももっとメリットを与えてほしいと訴え、
2005年のQUEENミュージカル「We Wii Rock You」日本公演の
プレミアショーのファンクラブシートの確保や
同年10月にあったQUEEN + Paul Rodgers日本公演の
ファンクラブシートの確保を依頼。
まずJackyがプロモーターと交渉をして、
その後の打ち合わせや手配準備などをわたしがやる、
という連携プレーでファンクラブシート提供を実現させしました。
さて、そのQUEEN + Paul Rogers日本公演で、
わたしはじぶんでも信じられないような展開が待っていました。
知らない間に、
わたしは「ただの追っかけ」から「バンドの友人」になっていたのです。
なんじゃ、そら?!
それは。。。
QUEEN + Paul Rodgersの来日公演が決まった時、
私設ファンクラブ時代から親交があったAさんから
「Brianがゲストパス出してくれるそうなので、あゆさんの分も頼んでおきました」
と連絡がきました。
Aさんは長年のBrianファンで、
とてもマメにBrianに手紙やプレゼントを送っていたので、
そのお礼にゲストパスを出すという話になったとのことでした。
憧れのバックステージへ行ける!ヽ(*´∀`)ノ
Aさん、ありがとう!
このバンドユニットのサポートギタリストは、
98年のBrian May Bandで出会って以来、
ファンサイトを運営したりして応援してきたJamie Mosesでした。
彼とも7年ぶりの再会です。ヽ(*´∀`)ノ
(実はこの間3回ロンドンに行ってるのですが、
タイミングが合わず、彼に会うこと叶わず。)
実は、QUEENの来日も嬉しいけど、
何より楽しみにしてたのはJamieとの再会でした。(^_^;)
QUEEN + Paul Rodersが日本に到着した日、
わたしは仕事で空港へお出迎えに行けませんでした。
でも、お出迎えに行ったお友達がJamieを掴まえて、
わたしに電話をかけてくれました。
メールでは頻繁に話をしていたものの、直接話しをするのは7年ぶりです。
舞い上がりました。\(//∇//)\
そして、Jamieから
「パスを出すから、やっと会えるよ!」と。ヽ(*´∀`)ノ
あ、わたし、BrianとJamieと二人からパスがもらえる~♪♪
再会の場は、横浜。10月29日(土)
ライヴ終了後、
パスを持って他の招待客とともにバックステージの「ゲストルーム」へ。
招待客は30人ほどいたと思います。
まずはBrianが登場。
限られた時間でゲスト全員に声をかけないといけないので、
さほどゆっくり話はせず、
メールでいつもやりとりしてることへのお礼を言って、
プレゼントを渡して写真を撮っただけでおしまい。
そして、待ちに待ったJamie登場!O(≧∇≦)O
久しぶりの再会に、ほんとに舞い上がりました。(^_^;)
「恋する乙女」でしたわ。(^_^;)
Rogerはずいぶん遅れて登場。
Rogerには何やら取材が来ていて、その場でビデオ撮影があり、
それが終わってファンへの挨拶もそこそこで退散していきました。(^_^;)
横浜は2日間公演があり、翌30日のことです。
前日と同じように「ゲストルーム」に行ったのですが、
ツアーマネージャーがやってきて、
「Jamieがここではゆっくりできないから、”楽屋へ来て”って言ってるわよ」
とわたしを、ゲストパスでは入れないバンドの楽屋スペースへ連れていってくれた!
楽屋スペースは、
サポートメンバー3人の部屋、Rogerの部屋、Brianの部屋、Paulの部屋と
4部屋に分かれていました。
サポートメンバーのうちの一人は、
「QUEENの5人目のメンバー」とも称されるSpike Edneyでした。
わたしは、Jamieを通して彼とも親交があったので、
Spikeはバンドのスタッフやセキュリティの人たちに
わたしのことを
「バンドの古い友達なんだよ」
と紹介してくれたのです。
「バンドの古い友達」
なんて素敵な響き!(ღˇᴗˇ)。o♡
この日はBrianの楽屋にも招き入れてもらって、
そこでBrianともゆっくり会うことができました。
QUEEN + Paul Rodgers 名古屋公演で、
わたしは娘が生まれた時に願ったこと
「いつか、この子と一緒にQUEENのコンサートに行きたい」
を果たしました。
この日はコンサートの始まる前と終わったあとの2回、
バックステージにお呼ばれをしたので、
バンドメンバー全員とゆっくり話すことができ、
また娘も紹介することができました。
Rogerには、94年の「あおによし」の折、
娘がホテルで花束を渡したことを言ったら
娘を見て、
「ああ! あの時の!
あの花はもう枯れちゃったけど、キミは大きく成長したんだね!」
と言ってくれました。
覚えててくれたのね~。(´;ω;`)感涙
この日はPaul Rodgersにも会うことができました。
とても気さくで優しい人でした。
このあとの福岡公演でも、
もう追っかけをする必要もなくメンバーに会え、
そして、翌年2006年のアメリカツアーにも「来るなら招待するよ」
というお誘いを受けてロサンゼルスとサンノゼの公演に行き、
バンドメンバーのみならず、スタッフからも大歓迎を受けました。

こういう待遇を受けるようになったのは、
なにもわたし一人の「手柄」ではありません。
もう一人、ギタービルダーのT氏のおかげでもあります。
彼は横浜でカスタムギターショップの経営をしていて、
たくさんの海外ミュージシャンと親交があり、
大のQUEENファンでもあります。
1998年に彼がJamieにプレゼントしたギターが縁で、
わたしはJamieを介してT氏と知り合い、意気投合しました。
そして、この時もバンドメンバーのギターについて相談に乗っていて、
一緒に行動していたわたしは、この夢のような待遇を手に入れたのです。
そして、同2006年、Aさんから、
「これ、Brianの個人メールアドレスです。」
と、Brianのプライベートのメルアドを受け取りました。
え?いいの??(; ^ω^)
恐る恐る、そのアドレスにメールしてみたら・・・、
「Hi Ayumi! Thanx. Bri x」
返事きた! \\\\└('ω')┘////
なんだか、もう本当に夢?!みたいな、
じぶんの状況が凄すぎて恐ろしくなりました。
でも。。。
じぶんの「ファン」としての立ち位置がこのように激変した一方で、
「コンベンション開催」の活動は年を追うごとに厳しい状況に陥っていきました。
2007年、2009年開催のコンベンションでは、
QUEENプロダクション後援のオフィシャルイベントであるにも関わらず、
相変わらず所属レコード会社の東芝EMIはスポンサーになることを拒否していました。
また、インターネットの普及でオフィシャルファンクラブへの入会者が年々減っていて、
ファンクラブ自体が存続の危機に見舞われました。
そして、コンベンションをきっかけに、
ファンレベルでイベントを開催することに目覚めた人が、
各地で気の合う仲間と小ぢんまりしたイベントを楽しむようになって、
「コンベンション」に新鮮味がなくなったのか、
だんだんと反応が鈍くなっていきました。
そして、2011年にQUEENが東芝EMIからUniversal Music Japanに移籍し、
Universalは東芝EMIとは比べ物にならないくらい、
QUEENのプロモーションに力を入れて、
東京でたくさんの楽しげなイベントを開催するようになりました。
そして、
Universal Music Japanは東芝EMIより冷徹でした。
スポンサー依頼に返事すらよこしませんでした。
ファンの自主企画イベントなんぞ、眼中にないのでしょう。
さらに、実はわたし自身が2006年秋に離婚をしていて、
母娘2人の生活を守るために必死で、
いろいろなリスクを負いながらコンベンションへ力を注ぎ続けることに
大きなストレスを感じるようになりました。
いったいわたしは何をやっているんだろう?
そんな疑問が沸き始めたのです。
もう、人は、時代は、
コンベンションなんてものを必要としていないように思えました。
それまでずっと一緒に苦楽を共にしてきた私設ファンクラブ会長のHさんとも
「もう潮時かもね」という話をして、
2013年のコンベンションを最後に「日本コンベンション実行委員会」は解散、
わたしは地元で細々とやっている「名Q会」以外の活動はすべて手放しました。
2014年8月18日
サマーソニック東京があった夜。
Spikeから「サマソニ後に一緒に飲もう」というお誘いがあり、
わたしはQUEENご一行が宿泊するホテルへ行きました。
しばらくロビーで待ったのち、
Adamにクラブへ連れ出されていたSpikeとRogerが戻ってきました。
心優しいBrianはAdamに付き合ってクラブに残っているとのことでした。
SpikeとRogerと一緒にエレベーターで上階のバーへ行く。
バーに入るとRogerが"This is perfect!!" と大喜びしていました。
Adamに連れ出されたクラブはうるさすぎて嫌だったそうで(笑)、
落ち着いた静けさのあるホテルのバーにホッとしたようっでした。
そして、Rogerが、
予約してあった窓際のソファー席ではなくカウンターで飲みたい、
というので、
わたし達はカウンターに並んで座ってカクテルをオーダーしたのでした。
2006年にサンノゼで会って以来の再会でしたが、
Rogerはずい分変化していました。
その8年間の間にRogerは3度目の結婚をし、
奥様の趣味で全身タトゥー男になってしまって、
ジャケットから出ている手首から手の甲にもタトゥーがありました。(T ^ T)
そして、顔やその手の甲にもシミが目立ち、「老い」を感じました。
でも、話をしながら見交わす瞳は、やっぱり昔の王子様のまま。(ღˇᴗˇ)。o♡
オーダーしたモヒートに添えられてる細いストローで
モヒートを「チュ~~」と飲む姿が、なんとも可愛らしかった。
Rogerがモヒートを飲み終えるほんの30分ぐらいの時間でしたが、
とてもリラックスしたプライベートな時間を一緒に過ごすことができ、
まさに至福の時でした。

英語が話せるようになりたい。
英語が話せるようになって、QUEENと話がしたい。
12歳の頃に願った夢は、こうしてプライベートを一緒に過ごすという、
まったく予想外の素晴らしい状況をもたらしてくれたのです。
夢をあきらめない。
時として、夢とは無関係と思えるような事柄でも、
それに真摯に向き合って全力で尽くすこと。
そして、何より、
苦労を苦労とも思わないほどの情熱をもって取り組むことで、未来が開ける。
わたしはじぶんの人生の大半を費やして、そのことを体現してきたのだなと。
そんなことを思いながら、この物語を閉じたいと思います。
最後までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました!
おわり。。。