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16/6/14

【ミーハーの一念、岩をも通す】「QUEENに会いたい!」子どもの頃の夢を実現させたわたしの物語 第二章

Image by Olia Gozha

QUEENとの第一次接近遭遇から3年後の

1988年11月、わたしは娘を出産し、

元夫の転勤で神戸へ移り住みました。


わたしは知らない土地での初めての育児に翻弄され、

QUEENや英語に構っている余裕がなくなりました。


でも、いつQUEENが来日するやもしれんと、

新聞の興業欄の情報だけはチェックして、


「いつかまた、QUEENが来日したら、この子(娘)とコンサートに行きたい」


それがわたしの「夢」になっていました。


 


娘の育児中のわたしの唯一の楽しみは、

娘の世話の合間に洋画のビデオを見ることでした。


レンタルショップから借りてきたもの。

実家のWOWOWで録画してもらったもの。

それらを見まくっていました。

 


ある日、ふと、


「これ、字幕を見ないようにしたら英語の勉強になるんじゃないかな?」


そう思いついて、

字幕を見ないでセリフを聞き取るように心がけ

映画を観るようにしてました。



そんな日々を過ごしていた1991年3月。

MTVで久々にQUEENのPVを見ました。


QUEENは私の知らないあいだに

MiracleとInnuendoの2枚のアルバムをリリースしていた。


I'm Going Slightly Mad


このPVを見たわたしは、なにか不吉なものを感じました。


題名のとおり、狂気じみた映像と不思議な旋律。


それにも「おや?」とも思ったけど、


フレディの姿にただならぬものを感じたんです。

 


「え? こ、これ、フレディ?!」


わたしがQUEENから離れている間に、

フレディはかなりイメージが変わってしまっていました。


口ひげを生やしたマッチョだったフレディが、

ものすごく痩せてしまっている。


何かおかしい。

いったい、何が起きているんだろう。。。


ざわざわする気持ちを抱えたまま、

それでも、

だからといって、

当時はすぐさま情報収集する術も時間もなく、


相変わらず育児に追われていき、、、



1991年11月24日(日本時間)。


この日は娘を連れて実家に帰っていました。


テレビでニュースを見ていたら、

フレディが大写しになり


「QUEENのボーカリスト、フレディ・マーキュリーさんがHIV感染を公表しました」


ああ、、、、

わたしの不吉な予感はこれだったのか。。。


あと、どのくらい・・・?


もうQUEENのコンサートを見ることはできないのかな。


いろんな思いがないまぜになって、

悶々とした気持ちで一夜を過ごした翌日、


またニュースで、


「QUEENのフレディ・マーキュリーさんが現地時間24日夕方、自宅で亡くなりました」


最悪だ。


もうおしまいだ。


わたしの人生、終わった。


もう、夢も希望もない。


それから半年のことは、ほとんど記憶にない。



フレディの訃報は、しばらくは信じられなかった。

それを実感させたのは、

翌年1992年4月のフレディ追悼コンサート。


WOWOWで放送されることを知り、それに合わせて実家へ帰った。


第2部、残された3人のメンバーとゲストが入れ替わり立ち替わり、共演する。


そのうち、フレディも出てくるかもしれない。


出てきて


出てきて

出てきて!


でも、最後まで出てこなかった。

 


本当に、もうフレディはいないんだ。


もういない。


もう、


おしまい。



それからは、暇さえあればQUEENを聴き、

フレディの不在を嘆く毎日。


そんなある日、いつものようにCDを聴いていたら、

ふと、聴き慣れたある曲が心に留まった。


Spread Your Wings


それから、なぜかこの曲をヘビロテで聴くようになり、

その歌詞を噛み締めていたら、、、、


降りてきた!


フレディが!!



この曲はジョンが書いた曲だけど、

歌詞を通して、フレディが語りかけてきた。


「まだ終わりじゃないよ。今こそ翼を広げて、飛び立つんだ!」


はいっ!!(>д<)ゝ”


何かがわたしの中で弾けて、

それから、わたしは行動を開始したのです。


まずは、やっぱり英語を上達させたいと思い、

大手の英会話スクールへ入学。


そこで驚くべきことが起きたのです。



専門学校を卒業後、やっていた事といえば

洋画を字幕なしで見ることぐらい。


他には勉強らしいことは何もしていませんでした。


にも関わらず、レベルテストを受けた結果、

わたしの英語力は「上級者レベル」だったんです。


これには本当にびっくり仰天!


専門学校卒業時には英検2級も取れてなかったヘタレなのに、

いったい、わたしに何が起きたの?!


そして、実際にレッスンに参加して先生に言われたことは、


「発音がものすごく綺麗ですね!」 


ええー?!(°д°) 

あの。わたし、専門学校時代の発音の成績は「C」だったんですけど。。。(^_^;)


本当に、わたしにいったい何が起きたの?!


ずっと映画見てただけなのに、こんなことあるの?!

 


そして、さらに気づいたのは、

あれ?わたし、知らない間に「英語の壁」越えてた。。。。

 


つまり、日本語を一切介さずに英語が出てくる状態に

知らない間になってたんです。


(言いたいことを頭の中で「日本語→英語に変換」とやっているうちは「英語の壁」が越えられません。)


そして、その数ヶ月後には、

その英会話スクールのフランチャイズで

英会話教室をやらないかと打診されたのです。


それが現在に至るわけです。



洋画学習法、おそるべし!!

 


じぶんでも面白いぐらい英語が口をついて出てくるもんだから、

英会話スクールも楽しくて仕方ない。


結局、これまでスクールに通おうとしても長続きしなかったのは、


言いたいことの半分も言えないじぶんが

情けなくて惨めだったからなんだな、

とその時やっと気がつきました。



ということで、1993年春には自宅で英会話教室を開校しました。


それと同時に、英会話スクールにも通い続け、

さらに英語をブラッシュアップするという生活が

阪神大震災が起きるまで続いたのでした。



フレディから「翼を広げて、飛べ!」との

お告げがあった翌年の1993年、

一つの朗報が飛び込んできた。


「ブライアンがソロで来日する」


。゚ヽ(゚´Д`)ノ゚。ヤッター 


喜び勇んで大阪のウドー事務所へチケットを買いに出かけたのを覚えています。


神戸へ引っ越してきて5年目にして、初めて大阪へ行ったのでした。(^_^;)



そして、同じ年、新たな出会いもありました。


ある夏の晩、お風呂も済ませて娘と遊んでいると、

玄関のチャイムが「ピンポーン♪」


スッピンだしパジャマなので、ドア越しに

「どなたですか?」


そしたら、


「トテモステキナホンヲ、プレゼントシニキマシタ」 


外人だ!

英語喋れるぞ!\(^o^)/


当時のわたしは、週1で英会話スクールに通い、

自宅で子ども相手の英会話教室をやっていましたが、

それでも英語が話せる機会を貪欲に求めてました。


「英語を話すチャンスだ!」


そう思って、迷わずドアを開けた。

 


そこにいたのは、アメリカ人の青年2人。

モルモン教の宣教師でした。


当時住んでいた社宅にモルモン教の信者の方が住んでいて、

そこを訪ねたついでに来たようでした。


宗教の勧誘とわかり、一瞬ひるんだものの、

英語が話したい!という欲望には勝てず、

玄関にてしばし立ち話。


それまで「モルモン教」は新興宗教で怪しい、

というイメージを持っていたけれど、

目の前にいる青年たちは、至ってまとも。


「モルモン教の話を聞いてほしい」


そう言われて、

「これは英語をもっと話せるチャンスだ!」と思ったわたしは、

「いいよ!」と快諾。


こうして、彼らが頻繁に我が家を訪れるようになり、

英語を日常的に話す環境を手に入れたのでした。



さて、そして11月。

果たして、Brian May Bandが来日。


娘はまだ5歳だったので一緒に連れていくことはせず、

元夫に留守番と子守りを頼んで、ひとり大阪厚生年金会館へ。


当時の私はQUEENファン友達もおらず、

情報を得る手段もほとんどない状況だったので、


「どれぐらいの人が来るんだろう」

「まだQUEENファンっているのかな」


そんなことを思っていました。


そんな心配を覆すほど、会場にはたくさんの人がいて、

みんな、久しぶりのQUEENに興奮気味な様子だった。


最初のブライアンの登場で号泣。

QUEENの曲をやるたびに号泣。


号泣、号泣、また号泣。


フレディはもういないけど、

残されたメンバーはまだこうしてがんばってる。

これを応援しないでどうする!?


わたしは、ファンの最後の一人になっても、

QUEENを、残されたメンバーを全力で応援するぞ!


そんなことを心に誓ったのでした。



Brian May Band来日の翌年1994年。


今度はRogerが、

5月に奈良の東大寺で行われる音楽イベント

「あおによし」にX-JAPANのYoshikiとコラボで出演する


というニュースが飛び込んできた。


奈良かぁ。。。


しかも金土日の開催。


金曜日は幼稚園があるし、

元夫はサービス業勤務で土日は仕事が休めず

帰りも遅いから、預けることもできない。


幼い娘を連れて奈良まで行くのは難しい。。。


「今回は見に行けない」


そう判断し、泣く泣く断念。(T ^ T)


このイベントは他にも錚々たる顔ぶれのもので、

新聞にも度々大きく広告が出ていた。


そこには協賛企業も載っていて、

その中に大阪の或るホテルの名前を見つけた。


「Rogerはこのホテルに泊まるに違いない」


そう確信したわたしは、

そんなことをしてもどうにも何にもならないのに、


「あおによし」の当日、ホテルに電話をしてみた。


「そちらにRoger Taylorさんはお泊りですか?」


有名人の宿泊は、たいていの場合マル秘扱いで、

こんなふうに電話で問い合わせがあっても、

「お泊りはございません」と答えるのが普通。


(わたし自身、ホテル勤務の頃はそう答えてたからね。)


この時も、当然そう言われるだろうと思っていたけれど、

それでも電話をせずにはいられなかった。


ところが、オペレーターは


「はい、今お部屋へお繋ぎしますので、しばらくお待ちください」


え?


え?


お部屋へお繋ぎしますだって?!?!?!\(◎o◎)/!


え?


どーしよー、Rogerが出たらどーしよー!(;・∀・)アセアセ

 


しばらく呼び出し音が鳴り、

ふたたびオペレーターが


「申し訳ございません、お呼び出ししましたがお部屋にいらっしゃらないようです」


(*´ỏ`*)ホッ


焦ったー!Rogerが出たらどうしようかと思ったよー。


しかし、これで気持ちが決まった。


コンサートには行けないけど、ホテルへ会いにいくぞ!

娘も連れて、子連れ追っかけだー!!


かくして、わたしは無謀にも、

子連れで人生初の追っかけに大阪へ向かうのでした。



1994年5月21日

わたしは5歳の娘を連れて、

人生初の「追っかけ」をするため


神戸の自宅から大阪市内のホテルへ向かいました。


ホテルに着いてみると、

ロビーには同じく「追っかけ」と思われる人がたくさんいました。


勢いでホテルまで来てみたものの、

さて、これからどうする? 


追っかけなんかしたこともないのに、どうしたものか。。。(。-_-。)


Rogerが下りてくるまで、ひたすら待つしかない?

というか、待ってたら下りてくるのか?

裏口から出ていくということはないのか?


など、だんだん不安になってきた。


幼い娘を連れて、あてもなく待つのもしんどい。


そこで、勇気を出して、

同じようにRogerを待っていると思われる

QUEENのTシャツを着ている人たちに声をかけてみた。


今思えば、これも運命の出会いでした。


声をかけた人たちは、

「Shadow Queen」という私設ファンクラブの人たちで、

気さくにわたしを招き入れてくれました。


そして、

「まだ降りてくるまで時間があると思うので、一緒にお茶でも飲みましょう」

と言ってもらって、ラウンジでお茶を飲みました。


その際に、

「昨日ホテルに電話したら、Rogerの部屋に繋がった」

という話をしたら、


もう一度電話して、何時ごろホテルを出るか聞いてみよう!

ということになり、


ふたたび、ロビーの電話からRogerの部屋に繋げてもらう。



またしても心臓バクバク!


そして今度は応答があった。Σ(゚∀゚ノ)ノキャー


Rogerではなく、スタッフだった。

(たぶん、当時のツアーマネージャーのGerry)


「Rogerは何時にホテルを出ますか?」

「Rogerに会うことはできますか?」


「4時頃だよ。ロビーで待ってね」


ということで、4時頃にRogerがロビーに降りてくることはわかった。



が、今度は近づけるのか?という問題が。

ガードがかなり固いらしい。。。


そしたら、ある方が、


「以前、子どもに花束を持たせて近づいたら、うまいこといったって人がいたよ」


という話をしてくれた。


はい、そのアイデア、いただきます。(*˘˘*)


ホテルの花屋でお花を買って娘にも持たせて、準備万端。


果たして、4時すぎにRogerが降りてきた。


しかし、案の定、ガードが固く、

Rogerのまわりに集まった追っかけの人たちは

みんなボディガードに跳ね除けられてしまっている。


そこで、娘を盾にして、

Rogerの正面から突っ込んでいくと、、、


ボディガードに止められそうになった時に、

Rogerがそれを制止して、

娘から花束を受け取ってくれた。


そして、娘とわたしに握手をしてくれた。


ヽ(・∀・)ノヤッター





Rogerが娘を見てにっこりしてるの!!(*´∀`*)



かくして、初めての追っかけは、

また「話をする」は実現しなかったものの、

初めてにしては大成功に終わったのでした。



その日は朝ホテルに着いたのが11時頃。

それから夕方4時過ぎまで、


ミーハーな母親に付き合って、

退屈しながらも辛抱強く待って、

この大役を務めてくれた娘に大感謝でした。



この初追っかけで、

わたしは初めてQUEENファンの友だちができました。


声をかけて知り合った方たちの私設ファンクラブ「Shadow Queen」に入会し、


そこで、渡辺プロがオフィシャルファンクラブを

運営していることを知り、そちらへも入会し、


それまでの孤独なファンから卒業したのです。



そして、同じ1994年夏、

Rogerがリリースしたソロアルバムのツアーで来日する

とのニュースが飛び込んできた。


初追っかけの成功に味をしめたわたしは、

Qファン仲間も得たことで、さらに勢いがつき、

今度もやるっきゃないでしょう!となり、


9月29日大阪

9月30日名古屋


この二日間、追っかけをすることにした。


幸か不幸か、その夏、娘はある大病を患って、

長期入院のあと、自宅療養中で幼稚園を長期欠席中でした。


ということで、どっちみち幼稚園休んでるし、

でも元気だし、実家で預かってもらっちゃお♪


と、前日に娘を実家に連れて行き、

母は追っかけに出陣していったのでした。



9月29日、

Rogerが泊まると目星をつけたホテルに集合。


果たして、Roger御一行に遭遇。

ライヴ会場へ向かうRogerにちょっとだけ

声をかけることができた。


そして、わたし達もライヴ会場へ。


ところが、この日は台風が来ていて、

どうやら夜に大阪直撃という予報が出ていた。


だんだん強まる雨風に、交通がストップする懸念が出てきて、

なんと、ライヴは中止となってしまったのでした。


ファンクラブシートの超良席チケットを持っていただけに、

この中止は痛かった。(T ^ T)


すっかり落胆してホテルに戻ってきたけれど。。。



ちょっと待て。


外は台風で外出もままならない状態。


ということは、、、、


Rogerはホテル内で食事するに違いない!!


がっかりしている暇はない!


これは、同じホテルに宿泊しているわたし達には

大きなチャンスよっっ!!



すぐさま、ホテル内のレストランを偵察に行く。


そして、ステーキレストラン前に東パトの伊藤さん発見!!

(QUEENのボディガードで有名な人です。)


ライヴが中止になって落胆しているわたし達の気持ちを察してか、

伊藤さんは「騒がないなら」とレストラン前で待つことを許してくれた。


わたし達の他には、ファンは誰も来ていない。


Rogerを独占できる!!ヽ(*´∀`)ノ


果たして、食事を終えて出てきたRogerとご対面!


CDにサインをもらって、プレゼントを渡して、

「ライヴが中止になったことが残念」と伝えて。。。


そして、一緒に写真を撮ってもらいました。




Rogerが小脇に抱えているのが、わたしがプレゼントしたものです。



ほんの10分程度でしたが、

こうして、わたしはやっと、


「QUEENのメンバーと会って話をする」


を実現させたのでした。



台風よ、ありがとう!!!


1985年にBrianと遭遇した時は

頭の中が真っ白になって何も言えなかったけど、


今回はRogerとしっかりと言葉を交わすことができ、


「英語を勉強し続けていて、本当によかった!」


と実感した瞬間でもありました。


でも、わたしの勢いは留まることを知らずか、

フレディが後押ししてくれているのか、


翌日、そのまた翌日にも、ミラクルは待っていたのでした。



翌9月30日の名古屋公演はクラブクアトロ。


オールスタンディングで整理番号もないため、並んだ順での入場でした。


大阪公演が中止になって、まだ一度もライヴを見れていないわたしは、

何としても最前列をゲットしたいと思い、早朝にホテルをチェックアウトし名古屋へ。



夕方、クアトロ前で会場入りするRogerに遭遇。


ツアーマネージャーのGerryとは大阪で顔見知りになったので、

「Gerry!」と声をかけてみたら、わざわざこっちへ寄ってきてくれた。


そこですかさず、翌日の予定を聞くと、名古屋空港からロンドンへ帰るとのこと。


チェックアウトの時間まで教えてくれた!

(当時は名古屋-ロンドンBA直行便がありました)



さて、クアトロでは果たして最前列をゲット!

でも、足元すぎてRogerの視線は頭の上を通り過ぎていってました。(^_^;)


そして、ライヴ後。


出待ちはせずに会場内でゆっくりしてたら、

ステージでは後片付けが始まって、

RogerのドラムテクのMartinがいました。


ふと、ダメもとでMartinに、


「Rogerのスティックちょうだい~」と


声をかけてみたら、、、


1組くれました!Σ(゚∀゚ノ)ノキャー


しかも、使用済みのやつ!


かくして、家宝がまたひとつ増えたのでした。


この日は、ホテルに戻ってからも追っかけはせず、

仲間と食事に行ったり、ゆっくりと過ごしました。


そして翌朝。

Rogerの宿泊ホテルとわたし達のホテルは目と鼻の先だったので、

まずは、Rogerのホテルで出待ち。


タクシーに乗り込むRogerを確認してから、


自分たちもタクシーに乗り込み、先に出発。

空港に先回りして待つ作戦です。


そして、空港に着いて

タクシーから降りたRogerをゲット!


まだ、他のファンの人は来ていない。


やっとツーショットを撮るチャンス到来です。

(∩´∀`)∩ワーイ


当時はまだデジカメがなくてフィルムのカメラだったので、

後日、現像した写真を見て愕然。


ツーショットではなく、スリーショットでした。_| ̄|○



後ろにいるのはドラムテクのMartin


なに邪魔しとるんだてー! ヽ(`-´#)ノ


しかも、オマエがいちばん好い顔してるやんかー!(`Δ´)コラー


ゆっくり写真を撮る余裕はなかったため、

わたしは顔がこわばったまま。(T ^ T)


でも、この写真を撮った後に、

わたしはあることに気づいたんです。


Rogerのネクタイ。。。


なんか、見覚えあるぞ。。。


あれ、わたしが大阪でプレゼントしたやつだー!!


\(◎o◎)/!



なんと、Rogerはわたしのプレゼントしたネクタイを

着けてくれていたのでした。


ちゃんとプレゼント開けてくれたんだ~。

しかも気に入って、着けてくれてる~。


(ಥ﹏ಥ)


Rogerと一緒に写真を撮ったあと、

ご一行様はチェックインカウンターへ。


それを遠巻きに見ていたけれど、

ご一行様は何を待っている様子で動かない。


まわりに追っかけも取り巻きもいない。


・・・考えるより先に体が動いてました。


ふたたびRogerのもとへ行って、

「サインしてください」とマジックと背中を差し出した。


その時着ていたTシャツはShadow Queenで作ったオリジナルRogerTシャツ。

その背中にサインをしてもらいました。


なんか、やりたい放題になってきた。(^_^;)



「英語が話せる」という自信は、行動までも大胆にするように思えます。


85年にQUEENに遭遇したときは、英検2級も取れてなかったわたしは

メンバーを目の前にしても、とっさに言葉が出てこない状態だった。


それが、

この時はすでに「英語脳」になってたので、思ったことがそのまま英語で言える。

スラスラと英語でコミュニケーションできるので、

Rogerや、まわりのスタッフにも気軽に声をかけることができる。


結果、大胆になっちゃうんですね。(^_^;)


その後も、Rogerは空港内をウロウロ。


これまで「雲の上の存在」で、

ちらっとでもお姿を垣間見れたらラッキー♪ぐらいに思っていた人が、

一般の人達と同じように振舞っているのが何だかとても不思議で新鮮でした。


そして、わたし達は、

そんなRogerがラウンジに入るところまでついて行って、

最後のお見送りをしたのでした。



初めて本格的に追っかけをして、

これほどまでにRogerにアプローチできたのは本当にラッキーでした。


「英語」という最強のツールと仲間を得て、


「QUEENのメンバーと会って話をする」


という夢は、ひとまずこうして実現したのです。



------------------------

翌年1995年1月17日

阪神・淡路大震災発生


この地震で元夫の会社が壊滅状態となり、

営業再開のめどが立たなくなったため

娘の卒園に合わせて、6年住んだ神戸を

離れて名古屋へ戻ることに。


そのため、自宅でやっていた英語教室も

いったん閉校することになりました。

-------------------------


フレディの死によって、

残されたメンバーも、わたしたちファンも、

一度「死んだ」。


でも、こうして残されたメンバーが相次いでソロ活動で復活の狼煙を上げ、

わたしたちファンも生き返った。


そして1995年には、

残された音源でQUEEN名義最後のアルバム

「Made In Heaven」がリリースされた。


こんなふうに、QUEENの活動が徐々に活発になってきている状況に反して、

渡辺プロが運営するオフィシャルファンクラブはまったく「やる気」がなく、

遂には消滅。


そんな状況に憤りを感じたわたしは、

イギリスのオフィシャルFCへ入会し、

私設FCの活動に段々とのめり込み、

情熱を注いでいくのでした。



第2章おわり。



 

 

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