父親のこと、好きですか?

私は嫌いです。
母親は好きですが。
ただ、なにもなく父親を嫌いになったわけではありあせん。
少しだけ私が父親を嫌いになった生い立ちを聞いてください。
「お父さんがいなくなった」
現場事務所で母親からの電話を受け取った時の第一声でした。
何を言っているのか理解できず、頭は真っ白。
この時、「平凡な生活が終わった」という不思議な感覚に襲われたのを今でも覚えています。
昭和60年、阪神が掛布・岡田・バースを擁して優勝した年に新潟県魚沼市で私は生まれました。
魚沼出身で祖父の代からやっている建設業を営んでいた父と、同じく魚沼出身の母の間に。
父は私が小学校に上がるころに自宅を建て、姉も含めた家族4人で平々凡々に暮らしていました。
私が小学生の頃に流行っていた遊びはテレビゲームはもちろんのこと、ミニ四駆、バスフィッシング、
遊戯王やポケモンのカードゲーム、ビーダマン、ハイパーヨーヨー、などなど、、、
なにをするにしてもお金はかかりますよねw
特にミニ四駆にかかるお金はやばかった気がしますww
周りの友達に比べ私の家庭では欲しいものはある程度買ってもらっていたので、
少しだけお金持ちなのかな?と幼心に思っていました。
中学生になるとさすがに↑のような遊びはしなくなり、川で泳いだり山に登ったりとザ・田舎な遊びをしてました。
なにをやっても友達と一緒だったらなんでもよかったんでしょうね。
今となっては懐かしい思い出ですが、
当時はトゥナイト2やミニスカポリスといったお色気バラエティが深夜に放送されていたので、
思春期真っ只中の私は眠い目をこすりながら違うものもこすっていたわけです。座布団2枚。
そんなムラムラしながら深夜起きている時に、
たまたまテレビでプロレスをやっているのを発見し衝撃を受けました!(男性の体に興味はありません。)
そこからはもうプロレスマニア一直線。
毎週プロレス雑誌を買うのは当たり前。
まだyoutubeがない時代だったので、近所のTSUTAYAに行っては昔のプロレスのビデオを何本も借りて観てました。
私も純粋だったので、何度がプロレスの試合に感動して泣いたこともありますw
男子なら一度は通るであろう、友達との関節技のかけ合いはほぼ毎日。
冬は雪の上でパワーボムやバックドロップなどの投げ技のかけ合い。
このころから将来はプロレスラーになりたいと思うようになり、
高校生になったらレスリング部のある学校に入学することに決めました。
ただ、レスリング競技はマイナーなスポーツのため私の地元にはレスリング部がある高校はありません。
そこで、実家から出てレスリング部のある高校で下宿生活をすることにしました。
普通は下宿生活にかかる家計への負担を心配するのでしょうが、
私の場合はお金に関する心配をすることなく育ってきたので何も考えてませんでした。
元々進学校に行く予定だったので父親には多少反対をされましたが、
「後で後悔したくないからやらせてくれ」
とちょっとかっこいいセリフを吐いて説得したのを覚えてます。
父親の説得に見事成功し、無事に新生活がスタートしました。
これまで特に運動をしてきた訳ではなかったので、レスリング部生活は想像以上につらかったです。(特に先輩からのいじめがw)
レスリング部での生活にも慣れ始めたこと、実家の母親から電話がありました。
母「もしもしけいちゃん?」
私「久しぶり!どうした?」
母「あのねー、お父さん癌だって。」
私「え?マジ??」
母「何年も健康診断に行ってなかったんだけど、たまたま行ってみたら癌が見つかったみたい。」
私「え、大丈夫なの?」
母「早期発見だったから、手術すれば大丈夫みたいよ。」
私「そうなんだ、それならよかった。」
母は私を心配させなたくなかったのか、淡々と話していました。
そのあと父からも直接電話があり、
「心配しなくて大丈夫だから」
とだけ言われました。
大丈夫とは言われましたが、この時はずっとそわそわしていたのを覚えています。
癌なんてテレビの中でしか聞いたことがないのに、まさか親父が。。。
私の心配をよそに手術は無事に成功し、その後の経過も良好でした。
プロレスラーになる夢はあっけなく散り、高校生活を終えた私は千葉の短大に進学後、都内にある小さな工務店に現場監督して就職しました。
新卒で配属された現場が鬼のような忙しさで、朝から晩まで現場にいるのは当たり前。
家に帰るのはいつも深夜で、繁忙期には3か月休みがないなんてこともありました。
母から電話がきた時も、いつもと同じように現場事務所で作業していました。
母の第一声が、
「お父さんがいなくなった」
でした。わけがわかりません。
母は動揺していたので会話がめちゃくちゃでしたが、
話を聞いていると父から自宅にいた母の元へ電話があり
「借金取りが家の外にいるから気をつけろ」
「俺はもうだめだから死ぬ」
と言われたみたいです。
とにかく実家に帰って状況を確認しようと思い、所長に事情を説明して翌朝の新幹線で新潟に帰りました。
初めて見た父の涙
実家に帰ると親戚が集まっていて、すでに捜索願いを出した後でした。
父との連絡は最後に母に電話をかけてきてから取れていません。
ただ、母との最期の会話では車で北海道に向かっていると話していたようです。
この時の私はなにが起きているのか現実を受け入れることができず、なにをしていいのかわからない状況でした。
親戚との話し合いの結果、
「捜索願は出したから、自宅でお父さんからの連絡を待とう」
という意見で固まっていました。
私はなにも考えることができず、ただただ状況を見守ることしかできません。
日も暮れ、親戚達が帰ろうとしていると
普段は意見を言うタイプではない母が、
「北海道に行く!」
と親戚を説得しだし、私達家族と親戚数名で北海道に向かうことになりました。
父が見つかるあてはありません。
しかし、母の意見に反対する人はいませんでした。
出発した時間が遅かったので夜通し車を運転し、
青森からフェリーに乗るころには日が昇っていました。
フェリーから海を眺めながら、
「親父はどんな気持ちで海を見ていたんだろう」と考えてました。
北海道に到着し、ダメ元で父に連絡してみるとなんと電話に出ました!
初めは私達に会いたくないと言っていましたが、なんとか説得し新千歳空港で会うことに。
今まで張りつめていた空気がようやく和んだ瞬間でした。
空港内の待ち合わせ場所に行くと、申し訳なさそうな表情の父が立っていました。
父は泣きながらみんなに謝っていました。
1000万円の借金
父は癌が見つかってから、ずっと精神的に不安定な状態だったみたいです。
ちょうど私や姉の進学に伴う費用がかかる時期だったので、もし自分が死んだらどうなってしまうのかと考えていたようです。
そんな時期にたまたま病院で出会った人から投資の話を持ち掛けられやってみるもうまくいかず。
銀行から1000万ほど借金をしている状況でした。
親戚からは、たった1000万で死のうなんて思うな!と怒られていましたが、金額以上に精神的に追い詰められていたんでしょう。
いつからかはわかりませんが、建設業の方もうまくいっていないみたいだったので。
きっと私たち家族を不安にさせないように振る舞っていたんだと思います。
最後に父が、
「これから頑張る、今回は本当に申し訳なかったと」
謝罪し、この事件は幕を閉じました。
その後私は都内に戻り、何事もなかったように忙しい毎日を過ごしていました。
北海道から帰って来てちょうど1ヵ月くらいたった時のこと、
久しぶりに母から電話がありました。
母と話すのはあの事件のあと初めてです。
母「お父さんと離婚しました!」
「うん、わかった!」
少しだけ驚きましたが、母が決めた決断だったので反対はしませんでした。
というかすでに離婚してから連絡がきたのでw
父の自殺未遂事件の中で、母の中でなにかあったんでしょう。
私はそれまでこの事件のことは思い出さないようにしていました。
私たち家族にとって消したい記憶だと思っていたので。
しかし、母から離婚の報告を受けてからよくよく考えてみると、母を置いて自分だけ楽になろうとした父が許せなくなりました。
そんな訳で、父が嫌いです。
北海道で父と会ってからは一度も会ってません。
あれから10年くらいたつでしょうか。
そんな父に対する嫌悪感すら忘れていた先日、姉から電話がありました。
ちなみに、姉とは昔から仲が良くないので普段は全く連絡を取りません。
なぜか嫌な予感がしたので電話に出ませんでした。
というより出れなかったという表現が正しいかもしれません。
なぜか、出れなかったんです。
しばらくすると母親からも電話が来たので出ると、
母「おねーちゃんが電話に出ないって言ってるから出てあげて。お父さんのことで話があるみたい。」
私「わかったー。」
母にわかったと返事をしたもののすぐに電話をかける気になれず、
久しぶりに父の事を思い返していました。
1時間ほどたったあと、ふーと息を吐いてから姉に電話をかけ直しました。
私「もしもし、ケイイチロウです。」
姉「あ、私だけど、お父さんのことで話があるんだけど時間大丈夫?」
私「はい。」
姉「おばさん(父の姉)からお父さんの様子がおかしいって連絡があって家に行ったら寝たきりで動けない状況だった。今は病院に運ばれてるんだけど、重度の貧血だったみたい。命に別状はないんだけど、もう歩けないんだって。」
私「わかりました。ありがとうございます。」
この時、家族が大変な状況になったというよりは遠い他人の身に何か起きたという感覚でした。
お見舞いに行きたいとも思いませんでした。
冷たい人間と思われるかもしれませんが、素直な気持ちです。
ただ、歩けなくなったというフレーズがどうしても頭から離れません。
数日間モヤモヤした気持ちで過ごしていました。
もし、自分の身に起きたら何を思うんだろう?
明日目が覚めて、歩けない体になったら、、、
もっと、いろんな場所に行きたい。
そうだ、日本一周の旅に出よう。
全国の風景を親父に届けて楽しんでもらおう、そう決めました。
歩けなくなって人生に失望しているなら、
少しでも生きる楽しみを感じてもらいたい。
どこかで、父が自殺未遂を起こしたのは自分にも責任があるのではと思っていました。
父を嫌いになることでその責任から逃れようとしていたのかもしれません。
こんな状況になった今でも、父は嫌いです。
でも、感謝はしてます。
私と、父のために、この夏が終わったら日本一周の旅に出ます。