20代後半、北海道大学文学研究科修士課程を卒業し、国際協力機構JICAに入った僕は、両親にカミングアウトをしました。
僕の実家は岡山県津山市(旧勝北町)。中国山脈にあり、このようにのどかな田園風景が広がるところです。父と母は酪農業を営んでいて、専業農家。
大学時代に生まれてはじめてのカミングアウトをした僕。友人のI君に何時間もかかっての初のカミングアウトをし、その後は同じ部活の友人、大学院の研究室の人、指導教官など、自分がゲイであるということをカミングアウトするようになりました。
カミングアウトはその行為自体がとてもセンセーショナルだったり、注目されがちですが、実はその後がとても大切だと感じます。つまり、ゲイだと正直に伝えることで、相手も僕をゲイだと認識するようになり、その上で築いていくことのできるいける人間関係があり、それを大切に作っていくこともカミングアウトの大切なプロセスの一つ。
それまでは隠していて言えなかったことを話せるようになることで、相手も僕をより深く知り、二人の間でよりいろんなことが話せるようになってゆきます。
僕は大学からカミングアウトを続けていますが、これまで否定的なことをおっしゃる方に出会ったことはほとんどなく(というか、記憶する限りゼロ。)、みなさん、そうなんだね、とか、言ってくれてありがとう、と受け止めてくださっています。
このように自分の周りにも言えるようになり、ゲイであることを隠さず生きれるようになって、新しい人間関係が周りと作れるようになった僕。その時、やはり家族のことが頭によぎりました。
また、結婚の話も話題に出るようになって、親にその話をされるたびに、自分は違うんだけどな、本当はゲイなんだけど、って何も言えない僕がとても歯がゆくも感じていました。
親にも知ってもらいたい。
僕はゲイとしてカミングアウトできて、こうしてゲイであることを誇りに思えるようになってきて、だから両親にもちゃんと知ってもらって、その上で両親といい関係を作っていきたい。
世界に二人しかいない、僕を産んで育ててくれた両親。特別な存在。その特別な二人と、もっと正直に、もっと言い関係を作りたい。
そう思うようになりました。
しかし、結果的にはそれは僕の一方的な期待で終わってしまったのですが。。。
大学で生活していた札幌ではLGBTのコミュニティがあり、当時はレインボーマーチ札幌というパレードを大通り公園で行っていたりと、とても活発な活動がありました。そのコミュニティでたくさんの人と知り合いましたが、その中に「親の会」という会もあって、LGBTの子どもを持つ親達の会でした。
その存在を知ったときとてもうらやましく思いました。
親にカミングアウトして、それで親も理解してくれて、
セクシャリティを隠さず伝えることでより深い親子関係が生まれて。
「僕も、そんな親子関係を作ってみたい。」
と思いました。
ゲイであるということは、別に選んで生まれてきたわけでもなく、ただそのように生まれてきただけ。
それでいろいろ悩んだし、自分を否定したり、高校時代は絶対にばれないようにって誓って生きていたけれども、ようやく自分を受け入れられるようになり、カミングアウトをしたりと、今は本当に幸せだから、そんな幸せな僕を知ってもらいたい。
そう思って、親にカミングアウトをすることをより具体的に考えるようになりました。
その一方で、タイミングには気をつけようと思い、
就職しないうちから親に言うと、「仕事に就けないんじゃないか」「将来困るんじゃないか」、そんな風に心配されるだろうから、就職するまでは待とうと決めたのでした。
20代後半で僕は、国際協力機構JICAの職員になりました。JICAはODA(政府開発援助)を行う独立行政法人です。倍率も高く、給料も国家公務員並みで、海外出張も多くて英語を使う仕事。
そんな仕事に就けたということで、親はとても喜んでいました。
そんな姿を見て、このタイミングなら親も心配しないだろう、と思い、
ある正月の帰省の時に、両親にカミングアウトをしたのでした。
言い逃げは嫌だから、
帰省する期間の前半で言おう、そしてその後ちゃんとフォローが出来るように、
と思って、帰省した2日目くらいにカミングアウトすると決めました。
夕食の後、両親に、
「話があるんだけど」
と切り出した僕。
テーブルに二人座ってもらって、話し始める僕。
これまでそんな切り出し方をしたことがなかったので、とても心配そうな顔になる両親。
勇気を出して僕は、
「実は僕ゲイなんだ」
って言いました。
「そうか、まあびっくりだけど、お前が幸せだったらいいんじゃないか」
そんな言葉を期待していたのですが、
両親とも一気に顔が曇りました。
そして父親も母親も心を取り乱して、いろんなことを僕に言ってきたのでした。
父親は、
「これは両親に対する裏切りだ。」
と言いました。
「これまで小さい時から大切に育ててきて、高校、大学、大学院と行かせて、お金も支援してきて。これから結婚していくと思っていたのに。」
「だめだ。」
と。
母親は、自分の運命を恨んで泣いていました。
「嫁いできて、しんどい思いもいっぱいして、そしたら今度は子どもがこんな風になって。」
「私の人生はとっても不幸だ。」
と、ワンワン泣いていました。
理解しあえることを期待していた僕は、もうどうすることもできませんでした。
「ゲイっていうのは別に病気でもないし。僕はお父さんとお母さんにも感謝しているんだよ。」
「これからもがんばって生きるから」
と言ったことを伝えても、
とにかく二人はシャットアウト。聞く耳を持ってくれませんでした。
結局話し合いは途中で終わり、それぞれの部屋に帰っていきました。
僕は部屋でふとんにうずくまり、どうしたらいいのか本当にわからなくなりました。
自分の生まれた家なのに、両親の反応もあって、ものすごく居心地が悪くなり、真っ暗な夜スーツケースを持って飛び出そうかと思いました。
もちろん飛び出しても冒頭の写真のようにただ田んぼと山が広がる田舎。どこに行くこともできません。
ただただ、涙が出てきて、胸が本当に苦しくなりました。
わかってもらえない。
裏切りだと言われた。自分の運命をうらまれてしまった。
これまで周りの友だちや知り合いにカミングアウトをしてきてとてもいい関係がつくれるようになっていたのに、両親に対するカミングアウトはこんなに違った。その現実をどう受け止めたらいいのかさっぱり分からず、気付くと、札幌の知り合いに泣きながら電話をかけていました。
そして深夜遅くになって寝ようかと思ったとき、母親が部屋に入ってきて、
「さっきの話だけど、治らないのか?」
「ずっとそうじゃないだろうし、いつかかわるから、決め付けないで治そうとしなさい。」
そんな風に言われました。
「治るもんじゃないんだよ。自然にそうなっただけなんだよ。」
と言っても、母親も全く引き下がらず、
最後は僕は、
「もう寝たいから出ていってくれない?」
と母親を部屋から追い出したのでした。
たまたまゲイとして生まれてきて、自分は別にゲイになろうと思ったことなんて一度もなくて、
気付いたらゲイだっただけ。
それなのに、親から「治せ」と言われる。
それまでの人生でこれほど両親と衝突したことがなかったので、ここまで親にしかられ、泣かれ、つらそうな顔をされるというのは本当にきつかったです。
逃げ出したいと言う気持ちにしかなりませんでした。
ただ、母親は少し理解のある発言をその後してくれたのでした。
カミングアウトから二日後東京へと戻るため、母親が岡山空港に送ってくれたのですが、その車の中で、
「考えてみたら確かに女のことばかり遊んでいたし」
と。
さらにびっくりだったのですが、母親も悩んだのでしょう、
「親戚のおばさんや、牛飼いの知り合いの~~さんにも相談してみた」
って言うのです!
早!
相当ショックで母親としても相談せざるを得なかったのでしょうね。
僕もきつかったですが母もきつかったのでしょう。
ただ、この会話を最後に、現在39歳ですが、今まで全く自分がゲイであると言うことについて、両親と会話をしていません。
だからといって絶縁関係になったわけでもなく、今も両親とはいい関係で、僕のことを応援してくれてもいるのですが、ゲイということについてはノータッチを続けています。
僕は、今のところ、これでもいいのかな、と思っています。
当事者の子どもからすれば、「理解してほしい」、「ありのままを知ってほしい」、「その上でいい関係を作りたい」、と思いますが、それはあくまで子どもの勝手な期待なんだな、って今は冷静に思っています。僕がそう期待しても、両親がそうあってくれるかなんて、まったくわからないもの。
血は繋がっていて、お互い応援しあっていても、お互いに理解できないこともある。
血は繋がっていても、別の人格。別の人。
また、僕は2年前までサンフランシスコで半年ほど生活しましたが、
例えばこんな風に男の子同士が手をつないで歩いていても、全く目立たない、だれも特別視しない環境がサンフランシスコでした。
あの田んぼと山に囲まれた田舎で、酪農業をずっと営んでいる両親ですが、
もしこうしたサンフランシスコに生まれていたのなら、きっと全く違う考え方を持ったと思うのです。
つまり、環境や社会によって、何がいいのか、悪いのか、も全く違ってくると思います。あの田舎で育った二人に、いきなり「ゲイ」のことを理解しろ、と言ってもそれは難しいことなんだな、と今は思えています。
ですから、無理に今は両親にこの話を蒸し返したり、理解してもらおうとすることはなくなりました。
でもだからと言って、自分がゲイであるという生き方を変えようとは全く思わないですし、自分は自分がゲイであることを誇りに思っています。
そうであっても理解してもらえないこともある。血の繋がった両親と言っても別の人。
しかし、それでも大好きな両親でもあり、尊敬の念を抱いています。
父は酪農業一筋ですが、僕が小さい頃は田舎でもたくさん酪農家がいましたが、自由化の流れでどんどん小さな酪農家はなくなっていき、今では町でも数件しか残っていません。
また酪農は休みがありません。毎日、毎朝、毎晩搾乳をして、24時間牛の管理をしなければいけない大変な仕事。
それをずっと続けて着ている、つぶれないでやり続けているというのは、父親は本当にすごいなと思っています。
また、人気者でもあるようで、例えば中学校の頃大人の人に町で話をして、「どこの子だ?」と聞かれて、父親の名前を出すと、みんな「あー、~~さんの息子か」と知っていたのにはびっくりでした。
そのくらいみんなとのネットワークを持っている父。だからこそ、この厳しい酪農業で、破綻もせず続けて来られているのだと思います。その人間力には脱帽です。
また、母親はとても天然で、愛情いっぱいの人。
東京で1人暮らしをする僕によく食べ物を送ってくれるのですが、僕からは実家で作っている米を送ってね、とお願いしても、
届いた荷物は、このとおり、
米が見えません。これを掘ると米が出てきました、笑。
そのくらい食べ物でいっぱい。
昔は、何でお願いもしないものまで送ってきて、なんてひねくれたことを思っていたのですが、
「これが母の僕に対する愛情なんだ。」
って思えたときから、なんてありがたいことなんだろう、と感謝の気持ちしか出てこなくなりました。
息子のことを思って、出来るだけたくさんの食べ物を送ってやりたい、という純粋な愛情。
その見返りを求めない愛があふれる母親にも脱帽です。
と、ゲイであるということについては、あれほど相容れなかった両親と僕ですが、今も良好な関係です。本当に二人には感謝の気持ちしかありません。
両親に感謝の気持ちを込めて、今回のストーリーの筆を置きたいと思っています。
ps ちなみに、家族の話をすると、僕のおばあちゃんはとっても元気。
大正生まれで、今年で92歳。
足腰も強く、実家の2階に住み、階段を上がり降り。畑で野菜を育て、グラウンドゴルフに毎週出かけ。
ぼけることを知りません。
昔川で釣ってきた魚を庭の池に放して飼っていた僕。ある日の夕ご飯で魚のから揚げが出てきて、どこの魚かおばあちゃんに聞いたら、
「池の魚だ」
と言われたときは、もうこの人、人間じゃない!!!
なんてぶちきれたものですが、
そのタフさが、この祖母を92歳にして、この元気さにさせていると思うと、これも感謝ですね。
笑。