私は大きくなってからヲタクになったタイプでした。
オレはヲタクになる!
小学生の頃はドラマばかりみていたマセガキだったのです。
それが中学を出る頃に、友達の影響で天空戦記シュラトにハマり、
漫画では孔雀王などの、ちょっとアッチ系のものからハマりこみました。
ヲタク道の師匠との出合い
高校に入ってから出合った友人がこれまた凄い筋金入りで、
私にアニソンを仕込んだ伝道師であったりもします。
彼は今、モンハンポータブルとか作ってるチームの偉い人になりました。
でも当時は普通に突き抜けたヲタク道の師匠でした。
演技が好きと気付く
元々私は演技や歌うことが好きでした。
物心付いた頃には演歌歌ってました。祖父が喜んでくれたのが動機でした。
ドラマにせよ歌詞にせよ、タイトルは覚えられないのに、30分ものや1時間モノのセリフを
丸暗記できてしまうので、それを感情込めて再現するのが得意でかつ面白かったのです。
そういうことができると、学校の国語とかの詩とか読まされるときの棒読みが耐え難い苦痛だったりしましたね。
よし!声優になろう!
話が逸れました・・・。
そんな私は大学受験に失敗しまして、
英語だけが致命的に悪かったので仕方なかったのでしょうけれど、
浪人は許されなかったため、声優の道に突き進むことにしました。
始めは新聞の募集にあった養成所。
それだけでは足りないということで、
何を血迷ったか代々木アニメーション学院 大阪校声優タレント科に進学。進学なのか?
学校法人じゃないのでなんともいえませんが、当時は学校だと思ってました。
そこで一通りのレッスン、主に標準語矯正の訓練をしましたね。
腹式呼吸はよくわかってませんでしたが、実は既に身についてたというオチに気付くまで三ヶ月かかりました。
そんなこんなで、舞台にも出、大手養成所にも受かり、これからってときに親に反対されて全てポシャりました。
声優候補生としては上京できなかったのです。
意地でも上京してやる!
それから1年バイトで稼ぎながら、代アニの先生がやるミュージカルの劇団員として過ごすうちに。
「自分はやっぱり歌がないと生きていけない!」という思いを強くし、
自分に命題を突きつけてみました。
「一生歌えなくなるのと、一生舞台に立てなくなるのとだったら、どちらを選ぶか?」と。
「歌えなくなるなんて、死にも等しい!!」
という結論に至り、どうにかして上京し、再び代アニ東京校に・・・。
上京はしたけれども・・・
結果から言うと、代アニはタメにはならないって事でした。
ただ、業界知識を得るという意味では少しだけ役に立ちました。
知ってても普通の社会では雑学以下の価値しかありませんけど。
ボイストレーニングやキーボード演奏、DTMなどを学びました。
でもMacintoshとソフト高いので、更新出来なくなってサヨウナラしてしまいました。
結局オリコンの人や代アニ音楽科の先生らが言ってたように、
99%の努力ののち、、1%の運をつかめなければデビューなんて夢のまた夢という事。
そういう意味では、AKBに興味はないけれど、
あの子らが夢のために骨身を削ってでもしがみつくあの場所には、
それだけの理由と価値があるのだろうなと私は思う。
あとこれはそろそろ18年も前の事ですが、
活動費に割く為に、友人2人と一緒に3人でマンションを借りてルームシェアをして生活をしていました。
貧乏な下積み時代なんて、みんなそんな贅沢できるわけじゃあない。
なら助け合えばいいじゃないのさ・・・と。
ルームシェアとかシェアハウスとか、最近出てきた言葉みたいですけど、
昔からあったんじゃないの?とは思います。
そうでなかったら、あの当時にしては不動産屋も対応に困ったような先取り的な事をしていたのでしょうかね(笑)
しかし何事も為しえないまま更に2年が過ぎ。
結局自分には、運も実力もなかったんだと思う事にしました。
ダメな自分というのを認めることは、なかなかに難しいことです。
大学受験の時のように、英語さえなければ偏差値70越えだったとかいう
精神的逃げも出来ないわけです。
認めるしかない。
自分はダメ人間、ダメな大人なんだと。
そうして大阪の実家へ帰る事になりました。
大阪で再起 介護業界
1年ほどは資格取得とか色々なアルバイトや派遣を試してみました。
東京に居る時にやってたマルチの関係で、
「これからの時代のビジネスは、「環境か高齢者福祉だ!」みたいなのがありまして、
「(自称)環境ビジネス」は悪徳マルチだったので、
じゃあこんどは介護だなという流れになったというか、
母が介護保険法成立以前から有償ボランティアで訪問介護をやっていて、
ヘルパーとして多くの人の手本にされているような人物だったのです。
私もヘルパー2級を取った結果、こういうヘルパーが沢山増えれば、
利用者さんのQOLも満たされるようになるのでは?と考えていて、
何度も独立しよう!と炊き付けていたのですが、
私同様自己評価の低い人でしたから、なかなか腰を上げなかったのです。
私はそんな中で、母と同じ会社で介護輸送に携わりながら、
介護保険請求業務の手伝いや会社のWEBページ製作なんかをやっていました。
当時はまだ介護タクシーが生まれる前でしたので、
非常に多くの事業所が、この介護輸送をしていました。
これが儲かると見られると、大手企業がこそって参入してきて、
本来在宅介護に重心を置くべき訪問介護事業所が、
この介護輸送で点数を奪い合う始末となり、
またタクシー業界からも白タクだとかなんとか業界圧力が加わった事で、
介護保険法改正に当たって様々な規制が入ることになりました。
二種免許が必要であるとか、陸運局に登録が必要であるとか、
介護輸送に関わる単位が厳密に決められたりであるとか。
そして介護タクシー協会の誕生。
一回100円で利用できていた利用者さんが、タクシー代+介護輸送の個人負担分を請求されるようになりました。
あの法改正で本当にこまったのは、利用者さんじゃないのかな。
事業者への規制が突然入ったことで、多くの事業所が縮小を余儀なくされました。
私もその影響で退職する事に。
起業
結局人に使われてるうちはやりたい事も出来ない、結果も残せない!ということで、
3ヶ月の準備を経て母と共に独立に向けて動く事にしました。
母の理念は、
祖母のような高齢者の自殺を見なくて住むような逃げ場所、安心できる場所を作りたいという願いにありました。
母はデイサービスがやりたかったのです。
祖母は元気だったのですが、色々あって精神的虐待もされていた様で、
9.11の事件がおきる直前に自殺してしまいました。
カレンダーの裏に「○子は鬼や」と書かれてありました。
母はそれを見つけ、処分される前にこっそり持ち帰ってきました。
そんな気持ちを誰にも訴えることが出来ないまま苦しんでいるような人を出さない為にも、
安らげる場所になりたいというのが母の願いでした。
しかし、法改正である。
母が有償ボランティアでやっていた頃はなかった様々な設立に関する規制。
結局、非介護保険サービスとしてやるしかなく、
人手もたりず、8ヶ月程でそのサービスは継続を諦め、
訪問介護事業所としてヘルパー派遣業をすることに。
ケアプラン作成などの介護支援事業の方は、
元職場ほか、付き合いのあった会社にお願いしました。
ヘルパー派遣の方は本当に好評で、
ヘルパー指名で外注されるくらいでした。
加えて有償サービスも行っていたので、そちらへの需要も高く。
都合6期運営しましたが、前年度比200%位で売上が伸びました。
好調なのに廃業するハメに
廃業する事になった年も、決算では1200万程の利益が上がってて、
次年度はもっと伸びる予定でした。
しかし不幸は重なるものですね。
母に肺がんが発覚しました。
STAGE4 末期の肺腺癌です。余命半年。
「・・・え?」
更に、高齢化の進むヘルパー層を支える次世代幹部育成を進めていました。
私と同世代ばかりです。
しかしこちらにも不幸が・・・。
旦那さんが重大な内臓疾患で看病に専念しなければならなくなったり、
癌が発覚したり、
祖母の高齢者福祉施設入りを承認するかわりにアナタはウチで働いてくださいという引き抜きなど・・・。
旦那の転勤で他県へ引っ越していかなければならなくなったり。
都合5名が僅か1ヶ月の間に、
母の肺がん発覚から2ヶ月の間に起きました。
元々20人前後の小さな事業所です。
しかも若い世代中心にした離職です。
2年ほど求人を出していましたが、新規で来てくれたのは2名だけという深刻な担い手不足です。
時給は1500円です。もちろん交通費別途支給です。
通所施設とか850円とかですよ。同業他社の時給は1200円とかの時代ですよ。
有償サービスは2000円で請け負ってました。
それでも応募が無いくらいの厳しい状況の中、
仕事は有るけど動けるヘルパーさんがいない。
いつまでも他の会社にヘルパーさん出してもらい続けるわけにも行かない。
決算を区切りに会社を閉めるしかない・・・。
惜しまれて止めるのは、まだ幸せな事なのかもしれない。
母の死
母が抗癌剤治療を諦めた。
余命半年から1年が過ぎていた。
効果がなくなってきた、しんどいということで正月にそんな話しをしていた。
妹が群馬に嫁いでいて、正月帰省していたので、
最後に終末治療を国立高崎病院で受けないか?ということで正月早々群馬へと旅立って行った。
8月の末に肺炎を起こしてから酸素吸入器が必要になり、
10月には祖母の遺産問題で弁護士の処理やらで色々忙しくなったりするなか、
11月に危篤の知らせを受け、取るものとりあえず群馬へ急行。
なんとか持ち直したものの、吸入器二台必要になったり、
それでも退院して自宅療養にしてもらったりと色々な二ヶ月。
妹の誕生日、12月22日に緊急入院となり、
正月に痛みが出てきた為、麻酔による昏睡化。
そのまま1月13日に息を引き取るまでの2週間は現実を受け入れるのが大変でした。
母も私も、家族もみんな、介護を通じて人の死というものを見てきたつもりです。
やがてくる死と向き合う為に、どのように心積もりをし、どのような準備をし、
どのようにすれば心穏やかに逝けるのかを知っているつもりでした。
自宅療養になる前と、緊急入院の後の母の言葉の数々は、
そんなものでは割り切れない切実なモノだったと今でも感じます。
最後に会話をした元旦の夕方、帰り際に母は何を伝えたかったのだろうか。
言いかけた言葉をさえぎって、また明日も来るからと。
介護で培った経験がそうさせた帰宅の方法が発動する。
しかし、母に明日はなかった・・・。
地域おこし協力隊との出会い
母が亡くなっても、生きている者は生活をしていかなければならない。
会社を閉めた今、正社員経験もない元経営者に働き口なんてそうそうない。
結局追い詰められて短い期間とはいえ生活保護のお世話になってしまった。
「社会から受けた恩は、社会へ返す」
そう考えるようになったのは、このときの事だと思う。
それでも仕事が見つからなければお世話になり続けるハメになるのであって、
恩返しどころではない。
ハローワークに通いながら、WEBでも仕事を探していて偶々生き抜きで見ていたマトメサイトで地域おこし協力隊を知る。
北海道虻田郡喜茂別町が10名募集するという。
地域おこし協力隊とはなんぞや?という興味から調べだす。
総務省が管轄する事業で、なんだかよくわからないけれど、地域おこしをする仕事みたいだ。
そして他の地域も募集していないかを探していると、
岐阜県高山市とか岡山県美作市などで募集しているのを見つけた。
美作市には、湯郷温泉というのがあって、
母との最後の思い出作りで湯治に行った御縁がありました。
母が「こういうところで生活できたらいいのにねぇ」とか言ってたのを思い出す。
「1人募集だけど、採用になったら精一杯頑張ってみよう!」
ということで応募締め切りギリギリまで書類を精査して応募。
なんだか不思議な御縁に恵まれて採用になった。
美作市地域おこし協力隊
なんだかわからないけど、ノープランで行くわけにも行くまい!
私とて、一度は事業主をやってた身なのだから、
事業プランの一つも提示せずに行くなどありえないだろう!
ということで、色々考えつつ、また同時に自分の後ろ盾になるような人の繋がりを、
グループを作っていこうと考えていました。
ネットゲームでのギルド運営は10年以上の経験があり、
たかがゲームなのに会社組織か!?と批判もされ、晒されもされるほどの運営実績と、
対人戦績は詰んできましたが、所詮は仮想世界での仮想の繋がり。
ゲームが終われば知らない人、何も残らない。
それでは悲しすぎるだろう!ということで、
「仮想を現実に繋げる!」
これが目標でした。
その為にはてなブックとAmebaに記事を書き始め、
その頃話題になってきていたTwitterとFacebookも登録してみた。
そして美作市で採用が決まった。
1人採用といっていたけど3人採用になったから。と担当者が言う。
44歳のおじさんと、20歳の若者なんだけどーと。
40代のバブル組・・・。
使えないオッサンだったら自分がシッカリしないとダメだろうなと覚悟を決めての初顔合わせ。
そこには思いもかけないカリスマ人がいた。
私がこれから10年かけて作ろうと思っていた組織と、仮想世界で私が振舞っていたのと同じような仕草や、冷静だけど熱い語り口。
ダメなおっさんじゃない!すごくイケてるオッサンがそこにいた!
その時私は、自分のプランを捨てた。
「この人とやって行こう!」と。
それがあかんかってん。
結論から言うと、それが良かったけど、それがダメだった。
矛盾してるやん?と思うでしょう?
美作市地域おこし協力隊(MLAT:Mimasaka-City Local Activation Team)としては良かった。
チーム一丸となって課題の中央突破を図るのは兵法の常道です。
そこで誰かが自我を優先して別行動をしていたら、歩みは大きく遅れていたと思います。
ではなぜダメだったのか。
それは個人的な資質としてダメだったという事で、
私はそういう体制に依存してしまいがちなのです。
つまり、デキるリーダーが居ない時は自分がリーダーを努めるから努力もするし、頭も使う。
しかし、デキるリーダーに「ついていく時」は、代理は出来ても自分が頭を張る発想を持たない。
チームや組織を円滑に回すために、必要な裏方や小さな処理をして穴を埋める方向の努力をするタイプになるのです。
そうするとどうなるか。
3年しかない任期を終えて、他のメンバーの支えはしても、自分の事業を起こす事が二の次になる。
3年の間に、自分の生業を作る事が出来なかったのです。
自分の頭で考えるという事も放棄しました。
だから、自分で考える力が退化してしまいました。
3年前の自分が今の自分を見たら嘆くだろう。
ダメな中年のオッサンがここにいる!と(笑)
彼は偉大で、強力なカリスマを持っていました。
私は以前にも似たような経験がありました。
「私は誰かについて行ってはダメ」なのです。
自分で立たないと!
それを思い出したのは今年の1月でした・・・。
残り任期3ヶ月。
実の所この1年は、バカに戻っていくアルジャーノンの心境のようでした。
昔神童、今凡人を地で行ってるなと。
転機
3月。任期残り一ヶ月。
家の改修も進みきらず、周りにも心配をかける中、
急遽別の家が見つかった。
この3年でつくづく感じたのは、
「家も出会いだな」という事。
「出会うべくして出会う時というものがある」という事。
であったけどうまく進まない、納得しきれないという時には、
それは本当の「時」ではない可能性があるという事。
その出会いが、この新しい家なのかもしれないっ!と。
しかし迷った。
3年務めて来た集落ではないのだ。
つまり、新しい家に行くという事は、裏切りにも等しく、
またこれ以上一緒には続けられないという事でもあり、
そしてゼロからの再出発になる上に、仕事もない!という現実が立ちはだかるのであった。
あれから2ヶ月。
任期満了を経て、新居の手直しをしつつ新しい集落で出来る事を探しながら生きています。
そこはゼロ出発のようで居てゼロではない。
この3年という積み重ねてきた活動と、今も頑張っている同志のお陰である。
そしてご多分に漏れず、だれもが「ココには何も無い」と言っている(笑)
いや、何かありそうなんですよね、ここの集落も。
入って一ヶ月では何も分らない。
でも、直感がヒシヒシと訴えてくる。
何が有るのかは分らない。
ただ、どこにでもある課題と、それが顕在化していない状況に一発で気付けるというのは、
まごうことなき3年の成果であるのだろう。
5年後には農地の担い手が高齢化して限界を迎えるだろうこと、
水路掃除が限界に来ていること、
40代以下の若者が3人しか居ない事。
10年後を想像し可視化するという手法は、ココでも使えるツールであることは間違いない。
それプラスαが面白くできるか否か、
きっとココにも何かが埋もれてると思う。
そして、別れが新たな出会いも生んでくれる。
一見袋小路な人生ですが、
まだまだこれからですっ!
なんといっても、今はまた再び一人チームでこの大地に立っているのですからっ!
面白くなければ、面白くするまでなのです!