1
生まれた時、私は「間違えた」と思った。
ああ、失敗した。ここじゃなかった。いまじゃなかった。と。でもそれは、歓迎してくれる幾つもの大人によって、納得させられなければいけなかった。
生まれるべきだったと。最高だと。この国の、この時代の、この地域の、この幸福な両親の元に生まれたことは、最高だと。嘘でも。
もちろんそれは、幸福な人生の始まりだったし、明らかに不幸な死への始まりだった。だけどそれに私が気づいていることは、あまりにも酷なことだと思った。両親に申し訳ない。私は幸せ。
両親が風変わりなせいで、私の家は風変わりだった。それとも、この家が風変わりだから、両親は風変わりになってしまったのかもしれない。
家は平屋で、庭の方が広く、庭にはたくさんのハーブや季節の花、葱や大根なんかも生えていた。私はそこに生えているたっぷりのレモングラスが好きで、こっそりと、たくさん摘んでは、一気に枯らして、母に叱られた。
私達は「その日暮らし」だった。
「その日暮らし」というのは、毎日が「その日」の繰り返しで、続かないという意味。
毎日「その日」はやってくる。毎日が「その日」なのだ。「その日」を「暮ら」すことが、父の命令だった。だから私は、毎朝「その日」を見極めて、「その日」らしい一日をめざし、「その日」らしく、過ごし、「暮らし」ていた。だから、全く同じような一日だったり、何もかもが新しい一日だったりした。
「今日を、昨日の続きにするな。今日を、明日に持ち越すな。」
一日一日を大切にしろ。
それが父の口癖だった。理にかなっていると思う。
2
学校に行ったとき、やっぱり「間違えた」と思った。だけど周りを見る限り、私と同い年の、私と身長も体重もさして変わらないような男女が大勢いることに、私はまたしても認めて、納得せざるをえなかった。私はここにいるべきだ、と。
学校は何でも教えてくれた。ちっとも面白くないことを、一時間ごとに区切って、何種類も教えてくれた。私が覚えたのは、感情移入の定理と、数字を美しく描くことだった。
あとは何もかもが、無意味だった。だけど、頭の片隅の、箪笥の右から三番目にしまっておいた。いつか探したくなる日がくるだろうから、その日のために。
そして、いつの間にか、私は一人ではないことに気づいた。ふわふわと、ほにゃほにゃと、友達がいた。そして、いつの間にか、私は一人だと気づいた。友達は、ふわふわとして、ほにゃほにゃとして、可愛かったのに。
私はあの頃を思い出して、つらくなる。
学校は、いろんなものを、私達に与え過ぎるし、私達からあらゆるものを奪っていく。
私はせめて、孤独だけは奪ってほしかった。何を与えられてもよかった。学習の歩みの評価が、「もう少しがんばりましょう」でも、「忘れ物に気を付けましょう」でも、与えられたものはすべて受け入れたのに、孤独を奪ってくれなかったせいで、ついでのように絶望も与えられ、受け取ってしまった。
それらは今では親友となり、私は孤独と絶望に頼って生きている。
学校は、何一つ間違えてなかったのだと気づく。
3
いつだったか、母が台所に立っていた時に、聞いてみたことがある。お母さんは、どうしてお父さんと結婚したの?と。素朴な疑問だった。お母さんはこんなに美人できっかりとしているのに、なんであんな、よくわからないものと生活しようと思ったのだろう。
母は一つにまとめた髪の毛に、ターバンを巻いて、ポテトサラダを作っていた。私の嫌いなものだった。あの、ほぐれたじゃがいもにどろどろと巻きつくマヨネーズの、だらしなさといったら。
「それはね、パパが、結婚して!と言ったからよ。」
私はびっくりした。そんなこと、頼むように言うことだろうか。
「結婚して!って、言ったの?」
「そう。結婚して!って言うから、いいよ!って言ったの。面白いでしょう。」
そこでようやく、母は陽気なガールだったのだと気づいた。そうか、母は陽気なガールで、わけのわからないものを、面白かったから、即答でオーケーしたわけだ。
「ふうん。」
そう言って、私は少しそっぽを向いた。
結婚とは、もう少し、おごそかであってほしかった。そして、ロマンティックであるものだと思っていた。あの、ガラスの靴をそっと履くような、壊れないとわかっていても、ぴったりのサイズだとわかっていても、もしだめだったら?もし合わなかったら?もし壊れたら?
そういった不安と哀しい予感と、目をぎゅっと瞑って星に願いを込めるような、淡いものだと。そういったものだと。
だけど現実、母は父と陽気に「その日暮らし」をしているし、「その日暮らし」をしていたら私が生まれたわけだ。
それは本当の意味で、奇跡だったに違いない。いや、奇跡というよりも、むしろ驚愕に近い。だから、私は生まれた瞬時に、「間違えた」と思ったのだ。ここじゃない、いまじゃない、と。
そんな気まぐれな父と母は、気まぐれに死んでしまった。私が高校生になる直前の春。
きっと、「その日暮らし」に飽きたのだ。だけど毎日をまっすぐに生きようとして失敗して、
「ごめん、お先に。」
と言って、死んでしまった。
私は驚きもしなかった。
むしろほっとした。
4
「ほっとしたの?」
恋人は尋ねる。
私は恋人のために、ゆっくりと、慎重にカフェオレを作った。真っ白の生クリームを沸騰する直前でとめ、濃く淹れた真っ黒のコーヒーに一対一で混ぜ合わせる。豊かな、ゆるりとした色のカフェオレ。
「うん。ほっとした。」
私は両親の死に対する「ほっとした」と、カフェオレの成功を祝う「ほっとした」を、心の中で掛け合わせて、どうでもよさに腹で笑った。
ありがとう、と恋人はカフェオレを受け取り、角砂糖をぼとんぼとんと二つ入れた。黒糖の、私たちのお気に入りの角砂糖。
「よかったね。」
そんなことを平気で言う恋人も不謹慎だ。だけど真意がわかるので、私だって平気だ。
「やっと君らしく、生活ができるんだろう。」
5
恋人が帰ったあと、私は
「もういいよ。」
と言った。
かさこそと、トトロのまっくろくろすけのように、孤独と絶望は姿を現した。
「さびしかったでしょう。」
私は恋人の痕跡を跡形もなく片づける。アルコール消毒までする。
孤独は私に寄り添い、絶望はリラックスしている。
彼らとは、もう二十年近く一緒に生活をしていて、兄弟のような、家族のような、それでいて恋人のように大切な存在だ。
孤独は私が一人でないと知ると寂しくて消えそうになるし、絶望は私が満ち足りた気持ちでいると絶望のくせに絶望する。
「大丈夫よ。私は、なんにも、どこにも属していないし、誰のものでもない。たったの、ひとりぼっちの、ほんの端くれだから。」
ソファに座って、私は見えない孤独と絶望に語りかける。
壁には絵が飾ってある。つばの広い、大きなリボンのついた白い帽子を被っている幸福な少女が、群青色の背景と深みのある花に囲まれて、こちらを見ている。
「ねぇ、あなたも思うでしょう。」
私はこの少女に、よく語りかける。
「今の彼、どう思う。」
少女は困った顔をする。
「前の彼よりは、ましだと思わない。」
私はかまわずに、だって、と続けた。
「だって、私のこと、まったく理解していないのよ。理解していないくせに、理解した気でいるの。」
かわいい。
そう言って、私はウォッカを飲む。
かわいいわ。
そして、ばかばかしい。
なんてつまらない人間。生きていて楽しいのだろうか。あんなやつ。
後ろを振り返って、今度は初老の、杖をついたおじいさんの肖像画を見る。
「ねぇ、今日は何の歌がいい?」
私はおじいさんに向かって笑いかける。
おじいさんの生きた時代はいつかしら。ねぇ、大正よね。違うかしら。浜辺の歌を歌ってあげる。
そう言って、明らかに中世の北欧出身だと思われるおじいさんに向かって、かまわず私は浜辺の歌を歌う。
けらけらと笑って、私はそのまま眠りにつく。
明日はどんな一日にしようか。
毎日を「その日暮らし」にしないといけない命令は、私の体のすみずみにまだ残っている。
「今日は昨日の続きではないし、今日を明日に持ち越すな。」
だけど私は一年後や十年後も生きなくてはいけない。そのためには、毎日を連続させなければ、計算が狂ってしまう。
計算が狂いそうになるたびに、私は酒を飲む。
今日の恋人の来訪は、最悪だった。
6
春。
春なのに、春と言えば桜なのに、私は今年も桜を見逃した。この国に生まれたのに、私はその要素を使いこなせないでいる。気づいたら、全部青々とした緑でいっぱいなのだ。
ミニチュアのダックスを連れて、私は散歩をしていた。散歩というより散策だ。私はいつもすべてを一日にして忘れてしまうので、毎日が新しいのだ。新しい景色だなぁと、不思議なものを見つめるように歩く。
ダックスが、もう十分、という目でこちらを見てくる。
「あら、なんてやる気のない子なの。」
私は仕方なくダックスを抱いて、家路につく。
そのダックスでさえも、ぬいぐるみなのだ。
だから道行く人は、私を頭のおかしい人だと思って見て見ぬふりをして、通り過ぎていく。ぬいぐるみを引きずり回して歩き、しまいには抱いて帰る。
じゃないと、私はひとりでないことになってしまう。絶対に、孤独を裏切ってはいけない。
そして、絶望も裏切ってはいけない。だから桜も、わざと見逃すのだ。本当は、その素晴らしさを知っているのに、ああ知らなかった、残念。と、わざと言って聞かせる。
毎日、あの、幼いころに奪ってくれなかった孤独と、与えられた絶望に気を使って生きている。優しい存在だからこそ、私は自分以上に大切にしなければいけないと思っている。
7
寒い。
夏。
夏なのに、寒い。ニュースキャスターは、異常ですね、といった。記録的な猛暑です。熱中症にくれぐれもご注意ください。
冷房が効き過ぎている、と思ったけれど、冷房なんてつけていないし、裸で寝てなんかもいない。
私はファンヒーターを取り出して、スイッチを押す。生暖かい風が、足元からゆっくりと温めてくれる。
あとで湯船に浸かろう。じゃないと、凍えてしまう。
急いでバスタブにお湯を注ぎ、またファンヒーターの前に座った。
幸福な少女は、私を見つめる。
「あなたも寒いでしょう。そんな恰好して。帽子なんか被っていたって、熱中症にはなるわ。ちょっと待っていて。」
私はまた完璧なカフェオレを作る。
寒さも熱中症も何もかもが支離滅裂な口実で、私はただ、彼女のために何かしてあげたかった。幸福な少女は、いつも悲しそうにしているのだ。
「どうしてあなたは、そんなに悲しい顔をしているの。」
いつだったか、尋ねられたことがある。あの、間の悪い恋人に。
「どうしてかしらねぇ。」
私はそれでも愛おしいと感じなければ、やっていけなかった。もう、ほとんど義務だった。そういう血なのだ。
「いつか、本当の笑顔が見られたらいいな。」
そう言って帰っていく。
ああ、なんて間の悪い男。
そんなことを言ってくれるのなら、ずっと一緒にいてくれたらいいのに。
彼もまた、私の持つ孤独にひどく緊張して、気を使っている。
誰も、私から孤独を奪ってくれない。
心の中で、そっと絶望する。
そういう時、絶望は孤独に向かって、勝利の笑みを向けるのだ。
「喧嘩はしないでね。」
私はすかさず咎める。その、繰り返しだ。それが、連続で、人生だというのなら、両親があっという間に死んでしまった理由もわかる気がする。つまらないのだ。
8
私は死を待っている。
両親が、「じゃ、お先に。」と言ったように、私も、「じゃ、お先に。」と言って、死にたい。
でも両親がどうやって死んだのか、思い出せない。確か、私も一緒だったはずなのに。どこかのバンジージャンプで、陽気に、こっそり紐を切っていった。
死を待つ私に、孤独は訴えかける。わたしがいるじゃない。
反して、絶望はうなずく。それでこそ人生の終わりとして、ふさわしい。ぼくがそのために今日まで一緒にいた理由だ、と。
私は振り向いて、初老のおじいさんに尋ねる。
「ねぇ、おじいさん。どうやったら、私、そっちの世界にいけるのかなぁ。私も、絵の中に入ってみたいな。」
そう言ったとき、なるほど、と思った。
そうだ、私の絵を描いてもらえばいいのだ。
私を描いてもらって、私を閉じ込めてもらう。そして、私は死に、私の絵は残り、孤独は寂しくないし、絶望は失望する。
ああ、なるほどなぁ。
私はダックスを抱きしめた。
ああ、なるほどなぁ。
私は、いつまでたっても、ずっと行き止まりなんだねぇ。
私はどこに行っちゃったのかなぁ。
9
「今までで、一番泣いたことはなに。」
私はすぐに答えた。
「中学生の時。一年生の時の、夏休みの宿題。ローマ字のプリント。ローマ字を美しく書くことが正しいことならよかったのよ。だけどね、問題は、『友達の名前』をローマ字で書きなさい、という課題だったのよ。」
彼はひどく驚き、私以上に悔しい顔をした。
「ひどい宿題だね、」
そう、と私は続けた。
「友達がいることを前提とした宿題って、酷なことだと思わない。せめて、たとえばジャパンとか、アメリカとか、パブリックなものだったらいいと思うのよ。どうして、友達というものが、大切で、大切なものを認識させるためのツールに、友達を持ち出すのかしら。学校は、ひどいわ。」
私はぼろぼろと涙をこぼしながら答えた。
私に孤立を与え、孤独をそのまま温めるような学校で、私はその課題に絶望した。
たったその一問をこなすのに、何時間泣いただろう。たった十三歳の心では、受け止めきれなかった。なんてひどい。なんてひどい。
なんて、なんてひどいの。
10
私は今日もウォッカを飲みながら、なぜかきちんと、北欧の歌を歌った。知りもしない歌。知りもしない言語。なのに、歌った。
おじいさんと、お別れしなければならなかったからだ。
初老のおじいさんは、初老というだけあって、もう寿命が短かった。だから私は別れの歌を歌ったのだ。
その一時間後、おじいさんは静かに息を引き取った。
そっと額縁をはずし、額縁によって隠されていた一枚の写真を見て言った。
「久しぶり、お父さん。」
父は写真の中に閉じ込められ、出してくれ、出してくれ、と叫んでいた。私はそれを無視してカッターをちちち、と出し、
「うるさい。」
と言って、引き裂いた。
12
「君は、何を奪われたと思う。」
私は少し考えた。奪ってくれなかった、与えられた、とばかり考えていたけれど、奪われたものについては、考えたことが無かった。
「わからないわ。何も奪われていないのかもしれない。私って幸せね。」
私は答えた。
彼は違う、と言った。
「君は、すべてのものに、君自身を奪われた。君は、君を失ったんだ。」
私は、久しぶりに大声を出した。あああ、と。あああ。あああ。うあああああ。
もう取り戻しに行くことのできない私を思って、泣いた。残っていない私の大事なすべて。私という誇りのすべて。残った、パン屑のような、がらくたの自分。
だれか、だれか私を助けてよ。
13
幸福な少女は、もうすでにわかっていた。
私が少女に向かって、まっすぐと立ち、まっすぐに少女を見つめると、少女は頷いた。
いいよ。ごめんね。と、瞼を閉じた。
私は持っていたガラスの花瓶で、幸福な少女を叩き割った。何もかもが粉々になるまで無心で叩き壊したので、自分の手も足も血だらけになった。
そして、額縁の裏に隠された、一枚の写真。
それはすでに、ガラスの破片によって、真っ二つに切り裂かれていた。
「ばいばい、お母さん。」
14
孤独と絶望は、私を恐れるようになった。
誰も彼もが、私を恐れている。
私は涙した。
みんなどこへいってしまったの。
みんな、どうして私をひとりにするの。
恋人がやってきた。
ぼろぼろの、めちゃくちゃの、何もかもが粉々の部屋を見て、真っ先に言った。
「この粉々は、あなたの心かな。」
私はぺたんと座りこんで、ウォッカを飲んでいたところだった。もう何本目かわからない。
「星になりたいだけなの。」
私は言った。か細い声で。
「星になって、どうするの。」
「わからない。」
「一番星になってもらわないと、星は数が多すぎて、ぼくは見つけられないよ。」
彼はなぐさめるように、私の心の破片を探しながら言った。
「私は星になっても、はやくはやくって、急がなくちゃいけないの?」
彼は手を止めた。
「だって、一番星って、最初に光らなくちゃいけないんでしょう。数ある星の中で、いっちばん最初に光った星だけが、一番星になれるんでしょう。誰よりも早く、誰よりも速くって、ずっと競っているのよね。私は一番星にならないといけないの。」
「ちがうよ。ならなくていい。ぼくが悪かった。」
彼は戸惑った顔で言った。
「私は、星にもなれない。」
彼は、私から最後の希望を奪ってしまったことに気づき、そのままへたりこんでしまった。
行き止まりだ。
もうどこにもいけない。
もうじき夜が明ける。
私は眠りについた。