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16/5/20

挫折を繰り返し、みんなからサルと呼ばれた女が、ダイエットの先生になりYouTuberになったストーリー

Image by Olia Gozha

私はただの『サル』だった。

『サル』だったけど、諦めなかった。

『サル』だったけど、負けたくなかった。



『サルがなぜダイエットの先生になったのか!?』

『サルがなぜYoutuberになったのか!?』





はじめまして。Chisaと申します。

本名は、丸山知紗です。

長いですがわたしがなぜダイエットの先生になり

なぜ、YouTuberになったかのストーリーです。



私は山梨県の甲府市で産まれた。


父は元警察官で白バイ隊員。

母は元幼稚園教諭。


母の実家は、

祖父の代から天然石を扱う卸会社を営んでいいて、

父はその会社を継ぐために白バイ隊員を辞め、婿入りをした。

母も(結婚を機に)幼稚園教諭を辞め、祖父の会社の経理をするようになった。



そして、忘れてはいけないのが、お姉ちゃん。



私とは正反対の姉。

美人で何でもできて、

私が誰よりも憧れ、誰よりも大嫌いだった、

2つ年上のお姉ちゃん。



そんな家の次女として、私は産まれた。




ちょうど私が産まれた頃から、日本はバブル時代に入り、私と姉もその恩恵を受け何不自由なく育てられた。




教育ママと厳しいパパの元

『お嬢様風に』


お嬢様育ちの母は、

私と姉を自分と同じように育てたかったのだと思う。



普段は物腰も柔らかく穏やかな「奥様」だけど

私が何かしでかすとヒステリックに怒り出すから大っ嫌いだった。



父も元警察官らしく、

躾がとても厳しかった。

うっかり食事中に肘をついてしまったり、

脱いだ靴を揃えるのを忘れると

大声で怒鳴られた。



テーブルと椅子での食事なのに、

椅子の上で正座は当たり前。




友達の家に行くと、

優しいお父さんに面白いお母さん。

うらやましかったのを覚えている。




厳しかったから反抗した。


厳しかったから自由になりたかった。




親としては、姉と私を同じように育てたのだ…と思う。

でも成長するにつれ、違いが顕著になってきた。




美人で頭が良く、スポーツもできて誰からも好かれる人気者の姉。



鼻ぺちゃで「ちさブー、ちさブー」とからかわれ、頭も悪くスポーツも苦手な私。


脳みそのない本能で生きる「野生のサル」のようだった。


実際に専門学校にいた時は

思った事は考えずにすぐ言葉に出す、行動する。

人の事は何も考えていない。

本能で生きる『野生児のサル』

と呼ばれていた。





姉が中学生で私がまだ小学生の頃は本当によく喧嘩をした。

両親だけでなく姉に対しても反抗期だったのだと思う。



私はコンプレックスの塊だった。

特に姉に関しては。

今思い返してみると記憶の中の姉はいつも優しいのに、なんであんなに喧嘩したんだろう。



そっか。

憧れていたからなんだ。

今なら分かるのに。




喧嘩の原因を作るのは姉ではなく、決まって私だった。


姉に憧れ、姉の洋服を勝手に着る、おもちゃを使う。

口で勝てないから手が出る、負ける。

姉からしたら、とんだ迷惑だ。


どこに行くにもついてきて、自分のものを勝手に使われ、取り返したら怒り出す。

負けても負けても立ち向かってくるチビザル。

相当うざったかったに違いない。




でもついにその姉に勝つ日が訪れた。


私が中学生で姉が高校生のある日。

私は喧嘩に勝ったのだ。

もともと姉はおしとやかだから、

身体が大きくなってきたらサルの私の方が勝てるのは当然といえば当然だけど。


それからは姉も私のことを認めてくれたのかもしれない。



その喧嘩を機に私たちが喧嘩することはなくなった。


でも相変わらず私はサルだったし

親には怒られてばかりだった。





中学では

「上目遣いが気に入らない」

という理由だけで7人からリンチされ



学校でいじめられる+家では親がうるさい=おきまりのパターンで


プチヤンキーの出来上がり。



他校の友達とつるみ、朝5時に帰ってくることはザラ。

タ○コで停学、万引きで補導。




【Chisaが中学2年生の頃⬆︎】他校の生徒とつるんでいた頃


私をお嬢様に育てたかった(本当はおっとりな)母は、

ヒステリックさに磨きをかけ

私も反抗して覆い被さり、殴ったこともある。



娘が補導された

なんてみっともない話を

昔の警察仲間に知られたくない父とも

取っ組み合いの喧嘩をして柔道技で押さえつけられた。




「お嬢様」なんてとんでもない。


「脳みそがない野生のサル」そのものだった。





中学のイジメで「友達なんて信用できない」と思っていた私は

いじめられたくないという理由だけで姉がいる高校に入学した。


優等生で、

先生からも男子からも大人気の姉がいれば絶対にいじめられないだろうという、

完全なる他力本願。


高校でも

相変わらず勉強なんかしなかったけど、

その時できた彼氏のおかげで

少しだけ女の子らしさを取り戻すことはできた。




【Chisaが高校1年生の頃⬆︎】高校で1番仲のよかった友達との写真


その彼氏のお嫁さんになりたい一心で、

親を丸め込んで、

お料理教室にまで通わせてもらった。



でもあっさりフラれ、

また目標を見失うことになるのだけれど。

相変わらず付き合っていた彼氏との電話代金に八万も使い

ママに怒られたりと言う

バカな脳みそのないサルっぷりは健在だった。



【Chisaが高校1年生の頃⬆︎】日サロに通うコギャル時代



ところが神様は私を見放してはいなかったのかもしれない。


「また、大して面白くもない学校生活が続くのかー」

とうんざりしていた矢先

私の人生を変える出来事が起きたのだ。



その年、私が通っていた高校が甲子園に初出場することになった。



しかもその年から、

甲子園での応援が採点に加算されることもあり

ユーモアのある理事長先生が、

東京から有名な振り付けの先生を呼んで即席のチアガールチームを作ると言い出したのだ。



その振り付けの先生はなんと、SMAPや浜崎あゆみの振り付けをしているという。



学校中が沸いた!



女子がクラスに2~3人しかいない高校だったので、チアガールチームへは強制参加。

(と言っても、ど素人の高校生がするので、手や脚を上げるだけの簡単なものだったけど)




チアガールとして甲子園にお応援に行ったら、

『報知高校野球』という

有名な雑誌のカメラマンに写真を撮られ、

表紙になった。




いつも悪いことでしか学校の先生に呼ばれたことがなかった私が、

雑誌に載ったことで

理事長室に呼ばれお褒めの言葉をいただいたときは、

今までにないくらいの高揚感を味わった。



【Chisaが高校2年生の頃⬆︎】左下に松坂大輔がいる。松坂大輔より大きく写っている笑



チアガールをキッカケに、

振り付けの先生とプライベートな話をするくらいに仲良くなった。



「タ○コははだにわるいからやめなさい!」


「親が心配するから夜遊びはやめなさい!」


「学校で喧嘩するのはやめなさい!」


「髪を染めるなら卒業してからにしなさい!」



言っていることは他の大人と同じだったけど、

その先生に言われたらなぜか言うことが聞けた。



初めての「信用できる大人」だった。



【Chisaが高校3年生の頃⬆︎】大好きな恩師の先生との写真


その先生は劇団四季出身で自身のミュージカル作品も手がけているすごい人だった。



ある日その先生から


「私は劇団四季にいたから、知紗も少しでも興味があるなら見に行きなさい」

と言われた。




なぜか、心が動いた。



私が更生するキッカケをくれた

先生の言葉ということもあり、

母はすぐに劇団四季のチケットを取ってくれて、

私は東京に行った。




18歳の春だった。




世界が変わった。




脳みそのないサルが、

初めて「夢」というものを持った。




『私も劇団四季の舞台で、歌って踊りたい!」



劇団四季の舞台は、バカなコギャルを一気に華やかな夢の世界に連れて行ってくれた。




学校に戻り先生に報告したら

「四季に入るのは小さな頃からバレエやダンスや歌や演劇をやっている子たちばかり。

知紗は何もしたことがないから、

まずは芸事の勉強をしてから四季を目指しなさい」


と指導された。



脳みそのない野生のサルは、

何とか高校を卒業して、

大阪のミュージカルスクールに入学した。



夢を膨らませて入ったものの、

小さな頃から芸事をしているスクール生に敵うわけがない。



挫折を感じる日々だった。



ダンスのレッスン

バレエのレッスン

タップダンスのレッスン

歌のレッスン

演劇のレッスン



私はいつも、一番前のど真ん中でレッスンを受けようとした。



だって

「早く上手になりたい!」


「みんなに追いつきたい!」



でも


「できないのに一番前に出てくるな!」

と先生に怒られた。




そりゃそうだ。

周りの子たちは小さい頃からバレエやダンスや、

中学・高校で演劇部、

大学でダンスチーム、声楽をやっていた人ばかり。



補導、タ○コ、喧嘩、万引き、取っ組み合いの喧嘩に彼氏のお嫁さんが夢なんていうふざけた私とは格が違う。

キャリアが違いすぎる。



【Chisaがミュージカルスクールの頃⬆︎】ミュージカルスクールの舞台の楽屋での写真


挙げ句私は

身体はガチガチ、声は大きいが音痴、少しどもり症ぎみなので台詞は噛みまくり。




スクールでは年に2回テストがあったが

もちろんビリの成績。





でも

『夢は劇団四季』

ここだけはブレていなかった。


私はスクールが終わってからも

教室が空いているかぎり

歌の練習、台詞の練習

夜はバレエ教室、ダンス教室。




先生たち、スクール生にバカにされながらも

時間の許すかぎりレッスンしまくった。




【Chisaが20歳の頃⬆︎】地元の友達との写真


成人式の日でさえ

山梨からとんぼ返りして夜には大阪のミュージカルスクールでダンスのレッスンをした。



バカにされているのは知っていた。



というより、相手にすらされていなかった。

でも、私には夢があったから苦ではなかった。





【Chisaがミュージカルスクールの頃⬆︎】ミュージカルスクールの同期との写真



スクール最後のテストの日

私は総合成績で一番になった。



その年、スクールから劇団四季を受けた生徒は6人。

先生たちも、小さい頃から練習をしてきたセンスの良いスクール生が受かると思っていた。




でも実際

合格したのは私だけだった。

しかもそのスクールから合格者が出たのは13年ぶりだった。




私は大阪の新幹線乗り場で

ミュージカルスクールで1番仲の良かった友達に見送られ


今までを振り返り

辛かったことを思い出して

号泣しながら東京に夢を膨らませて劇団四季の研究生として入団した。





劇団四季の入団初日。

今でも覚えている。

劇団四季の玄関の花壇に黄色いちょうちょが飛んでいた。


私は、ちょうちょが劇団四季に迎えられた私を

歓迎して、応援してくれていると思い嬉しくて舞い上がり


「ちょうちょだ!ちょうちょだ!わーい!嬉し〜い!可愛〜い!」


と興奮し、隣にいた研究生仲間の1人に同意を求めようと話しかけたら



ニコニコしていたが、スルーされた…



またもや、

「脳みそのないサルが来た」

とバレた瞬間だっただろう。



そりゃそうだ

研究生といっても

まわりをみたらすごい人材ばかりだった


めっちゃくちゃ踊れる人か

めっちゃくちゃ歌が上手いか

めっちゃくちゃ芝居が上手いか

身長スタイルが良い人か

高学歴か

キャラクターが目立つ人か


何かみんな魅力があった人



そういう人しかいない世界だった。



「バカな脳みそのないサル」はいなかった。


いたとしてもすぐにクビになっていた。


今の劇団四季がどうなのかは分からないが、

私がいた時代の劇団四季は

実力があってもクビになるスーパー集団「劇団四季」だった。



とにかく、1日がすさまじかった。



朝言われたことが

昼には変わり

昼に言われたことが

夕方には変わり

夕方に言われたことが

夜には変わっている



なんとも理不尽な不思議な世界だった。



そして、明日が我が身と思うくらいに、才能ある人がクビになってどんどん消えていく。

それでも

私みたいに夢を見て四季に入りたいと門を叩く人はいっぱいいるから

成り立っているのだと思った。



こんなに厳しい世界の中で、みんな命を削って舞台を作っているから、

素晴らしい作品になるのだと思った。


一瞬一瞬、一つ一つの舞台をガチでやらないと!

必死にやらないと!


だって手を抜いたら明日はないのだから…


研究生には入れても、

1年後に研究生を卒業して四季の舞台には立てずにクビになっている人がほとんどだった。



私は劇団四季の40期生だった。

この40期はものすごいラッキーな年だった。


劇団四季のボスが直々に週一で歌のレッスンをしてくれたのだ。

設立当初を除き、研究生全員がボスに一週間に1回指導されることなんてあり得なかったので、非常にラッキーな年に入団できたのだ。



しかも、

朝はクラシックバレエ、ジャズダンス、タップダンス、ペアダンスなど、

色々なダンスを学べて


現役の四季の主役が歌の先生だったり、芝居の先生でレッスンもついてくれた。

ものすごい恵まれた環境だった!


ミュージカルスクールは学校だから、当然レッスンにはすべてお金がかかっていたのに

日本トップのスーパー講師たちがしてくれる、スーパースペシャルなレッスンを無料で受けられたのだ。


なんというラッキー研究生40期➕サル


四季の研究生時代はミュージカルスクール以上に自分なりに必死でレッスンした。


東京に姉がいたので一緒に住んでいたが、

お家の玄関に入るたびに


「おね〜ちゃぁぁぁぁんT^T」


と泣きついていた。


できなくて!

くやしくて!

できる子がうらやましくて!


夜中12時にこっそり劇団にいき何回も歌の練習をしたりもした。




全力でレッスンして、力つきて

帰宅してもご飯が食べられず


お姉ちゃんがスプーンで、

ごはんを食べさせてくれたことも

しばしばあったくらいに

全力でやらないとついていけなかった。



研究所ではサルパワー全開で必死に食いつき



私は無事に研究所を卒業していろいろな舞台に立つことができた。



そして

ありがたいことに色々な作品に出させてもらった。



【Chisaが劇団四季の頃⬆︎】ライオンキング出演している時の写真



ここでは書けないが

舞台の裏ではいろんな辛い苦しいことがいっぱいあった。

人間不信にもなった。


私は四季にいた時はストレスで

5キロ太っていたし

肌はボロボロだ

ホルモンバランスが崩れていて生理不順だった。


私はここで

くじける

復活!

くじける

復活!

くじける

復活!

の繰り返し…エンドレスエンドレス…etc



劇団四季では、今まで以上に忍耐強さが身についたように思う。

苦しかったけど、感謝している。



私は四季を辞める直前に、

トップの俳優女優がキャスティングされた作品にキャスティングされた。



が、結局

キャスティング争いの中、

出演はできなかった。


キャスティングされたおかげで

劇団四季の最高峰のキャストさんたちに

芝居をじっくりと教えて頂けた。

出演はできなかったが、その部分では本当に貴重な経験ができた。



でも。



出演できなかった。



完全に負けたのだ。



もう限界だった!

逃げたかった!



例えキャスティングされても

キャスティング争いで舞台に出演できないことが何度もあった。


毎回毎回、そのプレッシャーに押しつぶされそうになる。

キャスティングされて喜んで、外されて落とされて、また喜んで、落とされて。


その繰り返しがもう耐えられなかった。



私は四季を去ることにした。



挫折したのだ。


夢の世界についていけなかったのだ。




最後に四季のトップ俳優、女優と一緒に芝居ができたのだ。

それだけでもいいと自分に言い聞かせた。




それよりも



もうできない!

もう続けられない!

もう逃げよう!

毎日びくびく生きたくない!




劇団四季は華やかだが

裏では色々なドラマがあった



クビになっていく人

劇団を去っていく人

舞台で輝いている人

振り付けする人

舞台のスタッフさん

衣装さん

ヘアメイクさん

40期の研究生同期のみんな


そしてボス。




最後まで夢を追い続けたかったが

自分は夢を追い続けるのをあきらめた。




劇団四季を辞めたとき

サルは24歳になっていた。



疲れ果てていた。





四季を止めてから私はしばらく何もしなかった。



劇団四季にいた時は

思いっきり遊んだり、

出かけたり旅行したりする

時間がなく

お金だけは貯まっていてしばらく生活はできたので、ずっと家にいた。



普通の女の子の生活がしたかった。


地元の友達は大学に行って、キャンパスライフを送ったり、彼氏を作ったり、

友達と旅行に行ったり。

そういう遊びを18歳の夏から24歳までしたことがなかったから憧れていた。





四季をやめてしばらくして、ママから電話がかかってきた。



四季を辞めたことを伝えたら


ママ「ちさちゃん、四季を辞めたなんて、することないじゃない!どうしたらいいの!?」

ちさ「もう限界だったの。もう四季に戻りたくない。普通の生活がしたい」

ママ「そうなの…」




ママは何となく不満そうだった。



1週間後くらいに

またママから電話がかかってきた。

そしてびっくりするような事を言われた。


ママ「ちさちゃん1週間後に山梨で結納が決まったから結婚しましょう!」

ちさ「えーーーーーーーーっ!結納!?結婚!?なのでそうなるの!?意味がわからない!!!!」

ママ「ちさちゃんがお付き合いしてる彼のお母さんとお会いして決めましたから来週山梨に来てね!」

ちさ「だって彼氏からプロポーズなんてされてないし、結婚するなんてわからないよ」

ママ「お付き合いしてるんだもの。結婚してもらわないとママが困る!」



そうなの…



いつもママはそうなの!

ママは世間体を気にする人だった。



プチヤンキー、コギャルの時もそうだった。

世間体がよくないからと。

世間から、負け組と思われたくないのだ。

普通の型にはめたいのだ。



私が四季を挫折して辞めて

夢も目標もないと恥ずかしいからだ。



だから勝手に彼氏のお母さんに会って話をつけてきたのだった。



でも正直、

私もつらい荒波に乗り続けるのをやめて

普通の生活がしたかった。



ちょうど良かったのだ。



ママの言う通りにすれば、

恥ずかしい思いをしない!

負け組にはならない!

間違いない!とその時は思ったのだ。




その時の彼は、初めての一目惚れの彼氏だったし、最高の彼氏と思っていたから

それでよかったのだ


彼氏も

「結婚するなら

ちさと思ってたから別にいいよ」と

了承してくれたので

24歳の初夏、

結納をし結婚した。





結婚生活はお金はなかったが楽しかった。



やっと普通の生活!


バンザーイ!!


一週間¥3000という本を買い節約しまくった。


お金がない部分では苦労したが

仲良く暮らしていた。




お金がなかったので人生初めてのアルバイトもした。



ヨガのインストラクター

と、

憧れの銀座で働いてみたかったのと

「しーすー」が好きだったので銀座のお寿司屋さんで働いた。

賄いにお寿司がなかったのは残念だったけど。



25歳にして初めてのアルバイトだったので、私は社会常識を知らないな…と思う場面も度々あった。


そりゃそうだ



脳みそのないサルが

ずっと芝居か、歌ってたか、踊ることしかしてなかったから


世間知らずだった。



社会の常識を覚えるのには苦労したが

いい経験をした。



【Chisaがヨガのインストラクターの頃】インストラクター仲間との写真



その後、

クラシックバレエ講師

ダンスインストラクター

イベントの歌のお姉さん

モデルウォーキング講師


と努めてきたが

正直どれも1年以上続かなかった。




【Chisaがクラシックバレエの講師の頃】バレエ教室のイベントでの写真



それは

元旦那さんが亭主関白だったからだ。



一見優しく見守ってる風だが


仕事で遅く帰ったり

朝が早いと

その仕事は良くないのではないか?と言われ


言われるたびに

彼の言う事を聞いて

やりたい仕事を辞めてきた。



自分のやりたいことをガマンして

ガマンガマンの生活をしていた。



元旦那さんは自分が仕事に行く時は見送り

帰ってきたら

ご飯があり出迎えて欲しい人だった。



言う通りにしていた。



私は結婚したから

旦那さんの言う事をきかないといけないと思っていた。




今思えば

飼い慣らされたサルだった。



毎日靴下も履かせてあげていた。



言う事すべて「はい」と聞き、Yesマン


Yesサルだった。



自分の意思はあっても気持ちを殺して、

旦那さんに嫌われたくない一心で、

自分の意見なんて

言えなかった。



最終的には

子どももいないのに

芸能事務所のモデルウォーキング講師の仕事を

週に2回しかしない

ほぼ専業主婦だった。



そんなある日。



元旦那さんの様子があきらかにおかしいのを感じた。

問い詰めたら

好きな人ができたと。



元旦那と不倫相手はダブル不倫だった。



旦那さんは外では真面目で誠実で

絶対浮気なんかしないタイプの男性だったが



そんな旦那さんでも浮気をしたのだ。

そしていままで

天使のような旦那さんだったのに

浮気事件を機に

豹変して悪魔みたいになっていった。


あれほど人間が恐ろしい生き物だと感じたことはなかった。



旦那さんの不貞行為は週2回



私との子作り中にだった。

しかも

旦那さんから子作りしようと言われ

早く子供が欲しいから病院に行って

不妊治療しようと

不妊治療をはじめたばかりだったのにだ。


私が排卵の痛い注射を打っていて

卵の大きさを確認しに2日に一回は病院にいってる最中だった。



旦那さんは

「もうその不倫相手とは会わない、話さない」と約束をしたが約束は守られず


不倫相手と2人きりで会っていたことが

何回もあったのだ



しかも

不倫相手の女性から電話で



「あんたが悪いから元旦那は私と寝たのよ」と

散々罵倒された。




しかも


不倫相手の女性の両親が自宅に乗り込んできて



その母親に


いきなり抱きつかれて



「ごめんなさい、ごめんなさい!」

「うちの娘は美人だからごめんなさい!」と

抱きつかれたまま離してくれなかった。



なんで、

不倫相手の女性の母親に抱きつかれて

泣かれなきゃいけないのか??



会いたくもない相手の母親にだ



私はそれがきっかけで


メンタルがぶっ壊れた…。




昼ドラばりのドロドロだった。




それまでの結婚生活が本当に楽しかったから

元に戻りたかったから

必死で家事や掃除、旦那さんに気に入られようと努力したが




そんな私の態度に旦那さんはあぐらをかいた。



「離婚したい」

「1人になりたい別れてくれ」と



私はメンタルクリニックに通いながら修復しようと努力したが


旦那さんは離婚したいの一点張りだった。


つらくて苦しくて毎日死にたかった。


自殺しようとトイレの天井の換気口に縄をつけて


首を吊った。





目の前に旦那さんはいたが

助けようともしなかった。




だが天井が私の体重を支えきれず

天井が崩れてきて死ねなかった。


天井修理に八万かかった。




昔、高校生の時に付き合ってた彼氏に

使った1か月の電話代と同じ金額の修理代金がかかった。



旦那さんは荒れて、壁にも穴をあけたりした。


私のメンタルはどんどん悪くなっていった。




マンションの5階から飛び降りようとしたら

近所の人が通報し

警察に連れて行かれて


山梨からママが迎えにきてくれたりもした。




電車の中で過呼吸になり

救急車に何回も乗った。






旦那さんは迎えにくると



「いい加減にしてくれ!離婚してくれ」としか言わなかった。




私は最終的には旦那さんの顔を見るだけで

パニックや過呼吸に襲われるようになった。




一緒にいるとパニクるので



それを

お姉ちゃんと友達が助けてくれた。



1人でいるとすぐ自殺を考えるので

お姉ちゃんの家か、友達の家に住み

1日中そばにいてくれた。



そこでやっと

自分の事を考える事ができた。



私の結婚生活はやりたいこと好きな事ができない

ガマンの生活だったと気付いたのだ。


私は楽しく生きたいのに…


結婚生活は楽しかったと思っていたが

楽しい楽しいと言い聞かせていた

ガマンの生活だったのだと気付いたのだ。


そりゃそうだ


急に結婚が決まり

結婚したかったわけでもなく

世間体のことだけを考えて結婚したのだ。

好きな服装、好きな髪型もできなかったのだ。


そしてこの結果。


楽しく生きたい、、、

自分の人生を楽しく生きたい!と強く思った。



浮気されて

離婚という挫折。


あぁ、

また挫折。


そして


心が壊れた自分。



1番底辺に落ちたのだ。


楽しく生きるために

這い上がるしかなかった。



30歳の冬、正式に離婚をした。



楽しく生きるための

人生がはじまった。



が!

お金がなかった。



ずっとお姉ちゃんの家に住むわけにもいかない。

だって彼氏と同棲していたから。

私とお姉ちゃんがベッドで寝るために

彼氏さんは、こたつで寝ていたから。

ここにはずっといられなかった。


友達の家も同じだ。

旦那さん、子どもたちがいたのだ。


ずっとタダ飯食べているわけにはいかない。



住む家もお金もなかった。



今までの経験を生かして



昼は

バスガイドの派遣をした。


夜は

カラオケバーで朝の5時まで働いた。


2、3時間くらい寝てまたバスガイドの仕事にいった。



住むところは

カラオケバーの寮だった。



【Chisaがバスガイドで働いていた時の写真⬆︎】離婚直後



寮に住みこみで

3か月働いてようやくアパートに引っ越す頭金がそろい

自分の家を手に入れた。



東京の端の54000円のアパート


ママが買ってくれた布団と

知り合いがくれたラジオしかなかった。



その小さなアパートから

私の「楽しく生きる人生」がはじまった。



その楽しい人生をスタートするにあたり

私のお友達が仕事を紹介してくれた。



今の仕事につながる。

加圧トレーニングのトレーナーの仕事だった。




【Chisaがトレーナーの頃⬆︎】パーソナルトレーニングを学びはじめた写真


今までのバレエ、ダンス、モデルレッスンはグループレッスンしかしたことがなかったので

大人数でしかレッスンができないことに

いつも不完全燃焼を感じていたが



パーソナルトレーニングは

初めてのマンツーマンレッスン




1人の方に時間をかけて

トレーニングすると

本当に満足してくれて

結果が出て

しかも感謝して頂いた。



私は初めて自分が「完全燃焼できるトレーニング」ができる環境を与えてもらった!




最高!!


パーソナルトレーニング最高だぜ〜!!





しかし



そこの店長の考え方がどうにも合わなかった。




お金!

お金!

金!金!金!金!だった。




お客様が帰ったとたん

あのお客はデブだの、キモいだの

男性のお客様の場合は「もっと色仕掛けでやれ」だの


経営者としてはお金を持ってる成功者だったが

人間としてはサイテー野郎だった。



「まるちゃんは客に感情入りすぎ

もっとクールにやれ」と




私はお客様と接していて

お話をした中で

お客様の予算に合わせて

チケット購入を勧めていたが



「まるちゃんの事を気に入ってたのに

なんで1番高いチケットを売らないんだ」と



全く人の事を考えてないお金の事しか考えない上司だった。




辞めた。





どんなに素晴らしいマンツーマントレーニングというシステムでも


人の気持ちをバカにしたり

けなしたりするのが許せなかった。





経営者としては

お金を稼ぐために必死なのも今ならわかるが…。



ただ、

私はバカにされてきて

挫折しまくり

メンタルがぶっ壊れたサルだから


人の気持ちを踏みにじることは、やっぱり許せなかった。



私は今まで

姉や友達に挫折から助けてもらった。





だから私のレッスンやトレーニングを受けてくれる

お客様や生徒さんには、

ちゃんと真っさらな気持ちで向き合いたかったのだ。





私は自殺するまで追い込まれた時に、

周りの人から助けてもらった。

そこで私も助けてくれた人たちみたいになりたいと思った。

憧れた。



私は自分で自分のスタイルで

ダイエットや健康について悩むお客様のために

少しでも力になりたい!





今まで私がやってきたこと


・ヨガのインストラクター

・クラシックバレエの講師

・ダンスインストラクター

・モデルウォーキング講師

・パーソナルトレーナー


レッスンを受けた一般のお客様は、形は違えど

ほぼ90%、ダイエットが目的だった。




みんな切実に悩んでいた。




その人たちから話を聞いてみると、

みんないろんな経験をしていた。



・電車の中で席を譲られた。

譲られた理由はお腹が出ていて妊婦さんと間違えられた。



・毎日1時間半走っても逆に太っていった。



・ダイエットしてリバウンドを繰り返し、

元の体重以上になり体がつらい。




・下半身が太くて高校生から短いスカートや、パンツを十何年間履いていない。







ダイエットというのは

簡単なようで難しい。


間違えたダイエットをすると必ずリバウンド。


そしてダイエットのイメージは


・つらい運動!

・食べるのガマン!

・続けられない!苦しい!

・結果が出なくて悔しい!

・苦しいダイエットを辞めたい!

・リバウンドして挫折

・心が折れて暴飲暴食し挫折!



ダイエットしてる人の話を聞くと、


ダイエットしてる人の感情は

今まで私が経験してきた人生の

感情そのもののようだった。



・先生や周りの人達にバカにされてきた!悔しい!

・レッスンでみんなについてけなくてつらい!辞めたい!

・結婚生活でガマン!

・劇団四季でキャスティング争いの中で負けて続けられない挫折!

・浮気され挫折!

・メンタルがぶっ壊れ苦しい!死にたい!どん底!




ダイエットしている人の

・頑張っても頑張っても成果がでない!悔しい!

・食べられない!つらい!

・好きなものをガマン!

・ハードな運動が苦しい!つらい!

・モチベーションが続かない!

・リバウンドして挫折!



私はダイエットをする人の苦しい・つらい感情と

今までの人生経験のネガティブキーワードが同じだった事に気がついた。



この気持ちならわかると思った。




なぜ、リバウンドしてしまうのか?

なぜ、食欲が襲うのか?

なぜ、流行のダイエットで痩せないのか?

なぜ、モチベーションが下がるのか?



みんな毎週レッスンをしているのに

みんな痩せなかった。

痩せたとしてもリバウンドしていた。



私はものすごく疑問に思った。

そして、

運動していても痩せない理由を必死に考え、データをとり勉強した。


劇団四季を辞めてから、

レッスンを教えてきて

ずっとずっと不思議に思っていたことを。



体の事がもっともっと知りたくて

東洋医学のセラピストの勉強もした。

東洋医学を勉強していく中で

自分自身も

今まで体の不調だった生理痛や生理不順、冷えやストレスが解消されていった。


・オイルエステのセラピスト

・タイ古式マッサージのセラピスト

・足ツボのセラピスト



【Chisaが東洋医学を学びはじめた頃⬆︎】赤いTシャツがChisa



【Chisaが足ツボを勉強した頃⬆︎】足ツボのスクールの同期との写真



こちらでも、お客様はダイエットしたい人達が

太っていることによって出てくる体の不調や、セルライトをなくしたくて通っていた。



そしてついに気づいた。

わかった。


『原因や解決法を1つだと思い込んでいたのが間違いなんだ!』


『みんな、姿形が違うように、ダイエットにも個々に合ったやり方があるはずだ!』


『個々の体の取り扱い説明書を手に入れればいいんだ!』


と。




医学的にDNA遺伝子を調べれば確実に

自分の情報を手に入れられる!

自分の体の設計図を手に入れられるのだ。



それが手に入れば、

世の中の流行のダイエットに左右されずに済む。


そして。


私が今までの人生で味わった挫折やバカにされて悔しかった気持ち。

つらい!悔しい!苦しい!ガマン!の人生を



この気持ちを乗り越えてきたからこそ

ダイエットしている方の気持ちに寄り添えるのではないか?と。



私は

今までトレーニングで6千5百人を教えてきた。

セラピストとして携わった人数を含めると

1万人の体に関わってきた。



それに加えて


DNA遺伝子という医学的に体の情報を調べること。


これらを全て組み合わせた。




私にしかできない!


『ハッピーダイエットにする!』


という強い思いで。



そしてついに



Chisaが教える

『DNA遺伝子ダイエット』というダイエット方法が生まれた。



私が自殺まで追い込まれた時に周りに助けてもらったように

少しでも誰かの力になりたい!




人の為に自分ができる事!

1人でも私の所に相談に来る人がいるならば、

全力で対応する。

サルは全力しかできなからだ



「楽しい!つらくない!ガマンしないハッピーダイエット!」


これを教える!


私は、ついに新しい夢を手に入れた。



私の楽しい生き方が確立された。




だって本気でぶつかっていかないと

本気でつらい、苦しいダイエットしている人に寄り添えないし


全力でやらない(生きないと)と自分が楽しくないからだ



これが私が楽しく生きる道!




できない人の気持ちを経験してきたからこそ

人にわかりやすく教えるということも身につけられたと思う。



私は、自殺願望があった時期があるので

生きているだけで

今、幸せだとすごく思う。



でも、どうせ生きるなら

全力で楽しく生きてやる!と自分で決めた。



全力でやらないと

楽しくない人生になってしまう。

今までと同じになりたくない!

同じならば、後悔するのがわかるからだ。



中学生以来好きな教科しか勉強してこなかった私が、


人生で初めて昼夜を問わず勉強に明け暮れた。


パーソナルトレーナーとしての知識

リラクゼーション・ボディケアの知識

ダイエットにおける正しい食事の知識

DNA検査を利用して最大限に結果をだす知識


お客様も増えてきた。




そして、ついに





私は健康的なダイエットを伝える

「トータルボディメイクSparklingBody」

を開業した。




そして、今まで経験してきた全ての知識経験を生かして


YouTubeではChisa Maruyamaのチャンネル


『楽しく!あなたが主役になれるエンターテイメントレッスン』を発信しはじめた。




サルの色々な人生の挫折を形は違うかもしないけど

同じ事で悩んでいる人がいたら私をみて少しでも励みになったり

サルの必死に生きている姿を色々な人に動画で見てもらって

少しでも笑ってもらったり

楽しい事をお互いにシェアしたり

少しでも役に立てればいいと思ってるし


あなたはハッピーだよ!最高だよ!って伝え続けたい!



エンターテイメントレッスンを見てくれたあなたが

1人でも誰かに楽しさを伝えられるようにYouTubeでは情報発信を心がけています。





2017年現在、開業5年目



相変わらず四苦八苦している毎日だが



夢を追い続ける!

私は生涯をかけて、

自分の楽しく生きる道を追い求めていく。

そのことで周りがハッピーになってくれたらさらに私もハッピーだ。



サルは今年で36歳になる。



紆余曲折ある中で

少しだけ知恵をつけた

毎日全力な「元」脳なしサルの丸山知紗。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。




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