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16/3/26

加藤三郎の生い立ちから現在までのストーリー

Image by Olia Gozha

自己紹介

編集

長い自己紹介になります。

私の場合、この程度の長さで書かないと、自己紹介にならない気持ちがあり、あえてこうしました。よろしくお願いします。しかも未完成です。

1、私の生い立ち

私は現在生活している、岐阜県加茂郡七宗町神渕というところに

昭和23年7月25日に生まれました。

父は天理教の教会長や、後にはPTA の会長、町会議員になるなど

その地域では良く名の知られた、 いわゆる良い家柄の長男として生まれ育ってき

た人でした。

しかし、私がかなり幼いころから父と母の折り合いが悪く、 家庭は暗いものでした。

短気な父は、自分の舌に会わないような食事が出されると

そのお盆をひっくり返して怒るような人でした。

母は子供には優しい人でした。 その母をつらい目に合わせる父に対する憎しみの

ようなものを

私は育てていきました。

その父が天理教の教会長であったり、

PTAの会長であったり、町会議員であったりすることから

私は大人の社会がとんでもなくおかしなことになっているという感 じを抱きました。

中学生になるころはですが。

一方で私は幼いころから買い与えられた、 天理教の教祖中山みきという人が

病や心の病気などで苦しんでいる人を、体をさすったり、 話をしたりして

回復させたりしていたこと、財産を売り払って貧困な生活を始め

貧に落ちきらなければそういう人の気持ちはわからないとか言いつ つ

貧しい生活をしながらその信仰生活を持続して行き

政府などの弾圧にも屈することなく教えを貫いたことなどに

とても心を動かされて育ちました。

そういう中山みきの生き方への共感が

私の人生観の土台をなしたと思います。

2、反戦運動への参加から過激な武装闘争の実践まで

こうした私は、思秋期特有の性の目覚めに苦悩する一方

高校生のころから反戦運動に参加しました。

当時はアメリカがベトナムに軍隊を送り、

ベトナムの民族解放戦線の人たちなどとの戦争をしていました。

私はアメリカのそういう介入が許せない気持ちになりました。

そして高校を卒業すると同時に、 近所の朝鮮人の土木の請負師に下で働くように

なりました。

そういう生活の中で、彼ら在日朝鮮人が、 全く無権利状態に置かれていることを

知り、

日本と朝鮮の歴史的な関係を知っていく中で

日本のそういう政策に対して強い批判を抱くようになりました。

当時の若者の中でもそういう意識が高まり

日本と朝鮮の歴史の再検討の機運が高まっていきました。

そういう中で私は思想を過激化させ、 日本の朝鮮や中国に対する侵略史の問題を

またその根拠となっていた天皇制の思想を、 根本的に批判しなければ

日本社会がまともな社会にはなり得ないと考えるようになりました 。

そしてさまざまに迷う中で、そういう日本の侵略史、 天皇制を批判する武装闘争

に立ち上がりました。

ただし、徒党は組まず、すべて私一人の手で行いました。

絶望的な戦いであることを自覚していたので、 他の人をまき込みたくなかった

ということも理由でした。

そして1976年から1978年に掛けて、京都、大阪、 東京で8件ほどの放

火、爆弾闘争を行いました。

78年はじめに当時住んでいた上板橋のアパートで誤爆事件を起こ し

そこから逃亡生活、爆弾闘争後の生活が始まりました。

3、私の思想と闘争の誤りに自覚と、自分を見つめる作業の深化、 その1

こうして私は1978年はじめから東部う生活に入りました。 すでに76年にも

指名手配される身になっていたのですが。

その78年からの逃亡生活の初期に、 私は自分の思想と戦いの誤りを自覚しました。

そのきっかけはこうでした。

その逃亡生活を、私はOさんという女性とともにしていました。

私は彼女をなるだけ私の戦いに巻き込まないようにしていましたが 、

かの女も以前から私の親しい友人とみなされていて、 普通の社会生活が送れなく

なっていて

私の近くで生活はしていたのです。

その彼女は1年ほど前から、心身の調子が悪くなり

食欲もなくなり、顔色も黄色くなり、生理もとまり、 歩くことにも疲れるように

なっていました。

その彼女と私は逃亡生活をともにしなければならなかったことから

この逃亡生活を持続するためにも彼女に健康になってもらわなけれ ばならないと考え

たまたま長くかくまってくれた人の部屋で、 毎日のように彼女と話し合う生活を

を始めました。

彼女の人間関係の持ち方などにかねてから疑問を抱いていた私は

彼女の幼少期からの人格形成のどこかに問題があるのではないかと 思ったりして

いたからです。

1冊の心理療法の本を読み合わせながら、 いろいろ話し合う毎日が始まり、1ヶ

月もたつと

食欲が戻ってきたり、生理が始まったり、 黄色かった手のひらがピンクがさして

きたりしました。

私はその彼女の急激な変化に、とても心を動かされました。

そして私は自分がこれまで知らなかった世界がここにはあると感じ

そういう心理療法の本を続けて何冊も読んでいき始めました。

そして1978年の秋ごろには、 もう自分のそれまでの思想と戦いは根本的に間

違っていたと自覚するようになりました。

当時の考え方としては、心理療法の本を読むことから

この世の中の矛盾や腐敗といったことは、 人々がいわば精神的に病んでいること

から起こっていることであり、

それを道徳的に裁き批判し、暴力を使ってみても何の効果もなく

そういう行動自体がこの社会のやんでいる行動から影響を受けた感 じ方、考えか

らであり

むしろ、 そういう集合的な病的な状態からどうしたら人々が回復していける か

を、真剣に考える必要がある

そんな風に考えるようになったのです。

こう考えるようになった私は、逃亡生活の中でですが、 自分たちでいろいろな心

理療法を試してみたり

そう言う療法をやっているグループに参加したりしました。

その中で、 21さいころの激しい失恋の悲しみが私の体から噴出して泣き叫ん だり

また治療室で一人で、 幼少期の家庭の暗さから来る悲しみを噴出させたりしました。

プライマル療法という療法でした。

治療室に一人座り、おっかー、おっとー、 喧嘩やめてくれーなどと叫び始めると

あとは体からそのときの悲しみは後から後から噴出してきてとまり ませんでした。

1時間ぐらいそぷして泣き叫びました。

こうして私は、当時は心理療法的な考え方から、 自分の誤りを自覚し考えていく

ようになりました。

4、私の思想と闘争の誤りに自覚と、自分を見つめる作業の深化、 その2

そういう中で1983年私は警視庁に逮捕されました。

そして1983年末ころから東京拘置所に収監され、 裁判を受けました。

裁判は最高裁まで争い、 1989年8月ころに懲役18年の刑が確定しました。

被害者の人々は十数人いましたが、 重症の人はなかったことなどから

無期刑は避けられ他のだと思います。

ところでその裁判の間、 私は東京拘置所にいて多くに人にその罪を犯したありよ

うを見つめなおすことに必要性を訴えている

飯田博久さんという人に出会いました。

彼は、3人の人を殺して、1審で死刑判決を受けたものの

2審で無期刑に減刑された人でした。

そしてその裁判を受ける過程で、 支援してくれていた心理療法士らから

自分が人を殺したことをどう捕らえ青しているか聞かれ続け、

殺さなければボスから殺されたから仕方なかった、 と始めは答えていたものの

自分史を綿密に文章化して捉えなおしていくうちに

自分が自分の意思で主体的な選択として殺したのだ

命がけでその指示に逆らうという選択だってあったのだといったこ とを自覚するに

いたったそうです。

そういう飯田さんと親しく文通するさまになり、 私のそれを勧められましたが

なかなかそうしませんでした。

しかしそのころ私は、 獄外の支援者が発行していたパンフレットなどの場を借りて

かって同じような思想の元に爆弾闘争を実践し、 そのころもそれを正しかったと

主張している人たちとの間で

激しい論争を繰り返していました。

私にとってはあのような行動と思想は根本的な誤りであり

それを自覚した私は、 彼らもそう自覚してくれるよう働きかけるのが使命だとか

思っていたりしたのです。

しかし私は彼らが私を批判する文章を見たり

彼らから直接そういう手紙が着たりすると、 ぶるぶると体が震えるような怒りを

感じました。

そういう自分をおかしいと思いつつも

まだ自分をもっと深く見つめようとはしませんでした。

そして1987年ころ私の控訴審で、当時籍を入れていた女性に

私の減刑のために証言してもらうことにしました。

しかし本当は私は彼女を愛しておらず

ともかく1年でも早く出所したかったので、 彼女にそう頼んだのです。

しかし、その裁判の席で、彼女は裁判官から、 減刑のための結婚ではないかと問

い詰められたりしました。

私はその証言の裁判が終わってから、裁判官に対して、 いや理想の結婚だという

意見書を書こうとして

何か自分がとんでもない醜い人間になっているのを感じました。

そしてもう、 こんなに醜い状態から変わりたいと切実に望みました。

そしてそのことを契機に、 私は自分史を文章化して捉えなおす作業に入っていき

ました。

飯田さんにその文章を手紙で送り、 アドバイスを受けながらその作業を4ヶ月ほ

ど続けました。

私はその作業の中で、 いかに自分が物事を自分に都合よく考えているかを

自分は責任を取らず、人には責任を押し付けたりしている

たとえようがないほどの醜い自分に直面しました。

胸の中からその醜さがもくもくと黒い煙のようになって立ち上るよ うな

そのような自覚でした。

しかし、そのような自覚が生まれてから、 もうごまかすのはやめよう

ありのままに自分でいいではないか。

そう思えるようになり、すごく楽になりました。

そして自分の底なしの醜さを感じ自覚したことから

人がどんな醜く見えることをしていたとしても

それにはそれなりの理由があり

それゆえに人を裁くことはできない

自分も同じような醜さを生きた人間なのだから

といった自覚も生まれてきました。

そういう自覚がとても自分を楽にしてくれたのです。

5、刑務所での私の生活

こうして自分史の捕らえなおしを経て、かなり楽になった私は

1989年8月熊本刑務所に収容されました。

私はその刑務所の中でも、 あまり自分をごまかさず生きてこられました。

いまの刑務所の受刑者処遇のあり方の中には

受刑者の精神的な屈辱感を深めたり、 人間不信を深めたりするようなあり方も

かなりありました。

そういうことについても

私が自分の気持ちはごまかさず

しかし刑務所当局の立場や

刑務官個人の立場など考慮しつつ、

こういうあり方は受刑者が出所した際、 再犯へ追いやる方向になる働きかけにな

るから

改善してほしいといった要望を、 文章の形で提出する行動を取り続けました。

これは刑務所に対する反抗ではなく

私が犯した罪を償うひとつの実践です。

少しでもこの社会から、 私が犯したような犯罪がなくなってほしいという

そういう思いに根ざした願い出です、 そんな風にいつも書きました。

一方で所内しには自分を見つめてきた過程や

刑務所に中で自分の無自覚さに気づいた体験など

毎月のように投稿してきて、よくのせてもらいました。

また刑務所に来ておられる、 教戒師の先生にも積極的に面接を願い出て

心からの話し合いあの場を持ってきました。

とても深く影響を受けた先生もいました。

こうして私なりに、充実した刑務所生活を送ってきました。

6、出所後の生活

こうして私は12002年12月末に熊本刑務所を出所しました。

そして岐阜県の無人の実家に帰り、 その荒れ果てた家を整理清掃する日々からはじめ

ある程度片付き、またこの山仕事もはじめました。

そして、精神病院に入っていた兄や、 大阪で結婚生活を営んでいた妹との関係も

少しづつできてきて、回復してきて私が出所して2年目ころには

妹が大阪の生活に行き詰まりを感じてか、実家に帰ってきました。

兄も5年目ほどから、実家に帰ってきました。

6年目くらいには父母が世話していた新実という少し知的障害のあ る人も転がり

込んできました。

さらには7年目くらいには大阪で失業した妹の夫も転がり込んでき ました。

いろぴろな事情もあり、 何とか彼らを受け入れつつ生活してきたのですが、

あまり仕事で稼げる人がいなかったため、 私の負担が大きくなり大変でした。

何とか、 山仕事をハードにこなすことでその生活を維持して来ましたが、

好きな本も読めず、文章も書けず、 ほとんど仕事と家族のために必要な行動で

月日がたっていく感じでした。

しかも、実家は古い家で、あちこち壊れかけていていました。 そこに台所を作り

風呂も作ったりしましたし、壊れかけている屋根を修理したり

雨戸の代わりにサッシを入れたりと、 やむことのない改修を続けなければ

家が住居として維持できないほどでした。

2年ほど前に、 もう私はこの家と家族にかかわっていては何もできないと感じ

住居だけでも他に移そうと思い、 友達が以前焼肉屋をやっていた店を借りました。

そうしてそこで暮らし始めてしばらくすると、 妹が拒食症気味になり

体重が35キロぐらいまで落ち、 心療内科の先生から命の危機だというところま

でなり

入院させたものの少しも回復しませんでした。

それもあって、実家に妹のくつろげる部屋を作り

退院させてそこで過ごさせていると次第に回復してゆきました。

しかし、妹に回復と時を同じくして、 今度は兄がうつ状態から回復したもののそ

う状態になり

金遣いが荒くなって、そのことで妹の夫と喧嘩になり

妹の夫はいるところがなくなったので、 私にいる店でともに暮らすことになりま

した。

兄はそう状態になると、病院では手に負えないということで、 近くに5つぐらい

の精神病院から

治療拒否、入院拒否されており、 どこも入院させてくれるところもありません。

行政や警察などにも頼んで、 昨年今年と二回強制入院させようとしましたが

病院が受けいてくれず、失敗しました。

そういうことの準備や実行ができるのは私だけであり

その間私はしごとができなくなるということもあります。 

こういう生活の中で昨年、私は投資による資産形成を試みて、 大きな失敗をし

700万以上の借金、負債を作りました。

1、私の生い立ち

私は現在生活している、岐阜県加茂郡七宗町神渕というところに

昭和23年7月25日に生まれました。

父は天理教の教会長や、後にはPTA の会長、町会議員になるなど

その地域では良く名の知られた、 いわゆる良い家柄の長男として生まれ育ってき

た人でした。

しかし、私がかなり幼いころから父と母の折り合いが悪く、 家庭は暗いものでした。

短気な父は、自分の舌に会わないような食事が出されると

そのお盆をひっくり返して怒るような人でした。

母は子供には優しい人でした。 その母をつらい目に合わせる父に対する憎しみの

ようなものを

私は育てていきました。

その父が天理教の教会長であったり、

PTAの会長であったり、町会議員であったりすることから

私は大人の社会がとんでもなくおかしなことになっているという感 じを抱きました。

中学生になるころはですが。

一方で私は幼いころから買い与えられた、 天理教の教祖中山みきという人が

病や心の病気などで苦しんでいる人を、体をさすったり、 話をしたりして

回復させたりしていたこと、財産を売り払って貧困な生活を始め

貧に落ちきらなければそういう人の気持ちはわからないとか言いつ つ

貧しい生活をしながらその信仰生活を持続して行き

政府などの弾圧にも屈することなく教えを貫いたことなどに

とても心を動かされて育ちました。

そういう中山みきの生き方への共感が

私の人生観の土台をなしたと思います。

2、反戦運動への参加から過激な武装闘争の実践まで

こうした私は、思秋期特有の性の目覚めに苦悩する一方

高校生のころから反戦運動に参加しました。

当時はアメリカがベトナムに軍隊を送り、

ベトナムの民族解放戦線の人たちなどとの戦争をしていました。

私はアメリカのそういう介入が許せない気持ちになりました。

そして高校を卒業すると同時に、 近所の朝鮮人の土木の請負師に下で働くように

なりました。

そういう生活の中で、彼ら在日朝鮮人が、 全く無権利状態に置かれていることを

知り、

日本と朝鮮の歴史的な関係を知っていく中で

日本のそういう政策に対して強い批判を抱くようになりました。

当時の若者の中でもそういう意識が高まり

日本と朝鮮の歴史の再検討の機運が高まっていきました。

そういう中で私は思想を過激化させ、 日本の朝鮮や中国に対する侵略史の問題を

またその根拠となっていた天皇制の思想を、 根本的に批判しなければ

日本社会がまともな社会にはなり得ないと考えるようになりました 。

そしてさまざまに迷う中で、そういう日本の侵略史、 天皇制を批判する武装闘争

に立ち上がりました。

ただし、徒党は組まず、すべて私一人の手で行いました。

絶望的な戦いであることを自覚していたので、 他の人をまき込みたくなかった

ということも理由でした。

そして1976年から1978年に掛けて、京都、大阪、 東京で8件ほどの放

火、爆弾闘争を行いました。

78年はじめに当時住んでいた上板橋のアパートで誤爆事件を起こ し

そこから逃亡生活、爆弾闘争後の生活が始まりました。

3、私の思想と闘争の誤りに自覚と、自分を見つめる作業の深化、 その1

こうして私は1978年はじめから東部う生活に入りました。 すでに76年にも

指名手配される身になっていたのですが。

その78年からの逃亡生活の初期に、 私は自分の思想と戦いの誤りを自覚しました。

そのきっかけはこうでした。

その逃亡生活を、私はOさんという女性とともにしていました。

私は彼女をなるだけ私の戦いに巻き込まないようにしていましたが 、

かの女も以前から私の親しい友人とみなされていて、 普通の社会生活が送れなく

なっていて

私の近くで生活はしていたのです。

その彼女は1年ほど前から、心身の調子が悪くなり

食欲もなくなり、顔色も黄色くなり、生理もとまり、 歩くことにも疲れるように

なっていました。

その彼女と私は逃亡生活をともにしなければならなかったことから

この逃亡生活を持続するためにも彼女に健康になってもらわなけれ ばならないと考え

たまたま長くかくまってくれた人の部屋で、 毎日のように彼女と話し合う生活を

を始めました。

彼女の人間関係の持ち方などにかねてから疑問を抱いていた私は

彼女の幼少期からの人格形成のどこかに問題があるのではないかと 思ったりして

いたからです。

1冊の心理療法の本を読み合わせながら、 いろいろ話し合う毎日が始まり、1ヶ

月もたつと

食欲が戻ってきたり、生理が始まったり、 黄色かった手のひらがピンクがさして

きたりしました。

私はその彼女の急激な変化に、とても心を動かされました。

そして私は自分がこれまで知らなかった世界がここにはあると感じ

そういう心理療法の本を続けて何冊も読んでいき始めました。

そして1978年の秋ごろには、 もう自分のそれまでの思想と戦いは根本的に間

違っていたと自覚するようになりました。

当時の考え方としては、心理療法の本を読むことから

この世の中の矛盾や腐敗といったことは、 人々がいわば精神的に病んでいること

から起こっていることであり、

それを道徳的に裁き批判し、暴力を使ってみても何の効果もなく

そういう行動自体がこの社会のやんでいる行動から影響を受けた感 じ方、考えか

らであり

むしろ、 そういう集合的な病的な状態からどうしたら人々が回復していける か

を、真剣に考える必要がある

そんな風に考えるようになったのです。

こう考えるようになった私は、逃亡生活の中でですが、 自分たちでいろいろな心

理療法を試してみたり

そう言う療法をやっているグループに参加したりしました。

その中で、 21さいころの激しい失恋の悲しみが私の体から噴出して泣き叫ん だり

また治療室で一人で、 幼少期の家庭の暗さから来る悲しみを噴出させたりしました。

プライマル療法という療法でした。

治療室に一人座り、おっかー、おっとー、 喧嘩やめてくれーなどと叫び始めると

あとは体からそのときの悲しみは後から後から噴出してきてとまり ませんでした。

1時間ぐらいそぷして泣き叫びました。

こうして私は、当時は心理療法的な考え方から、 自分の誤りを自覚し考えていく

ようになりました。

4、私の思想と闘争の誤りに自覚と、自分を見つめる作業の深化、 その2

そういう中で1983年私は警視庁に逮捕されました。

そして1983年末ころから東京拘置所に収監され、 裁判を受けました。

裁判は最高裁まで争い、 1989年8月ころに懲役18年の刑が確定しました。

被害者の人々は十数人いましたが、 重症の人はなかったことなどから

無期刑は避けられ他のだと思います。

ところでその裁判の間、 私は東京拘置所にいて多くに人にその罪を犯したありよ

うを見つめなおすことに必要性を訴えている

飯田博久さんという人に出会いました。

彼は、3人の人を殺して、1審で死刑判決を受けたものの

2審で無期刑に減刑された人でした。

そしてその裁判を受ける過程で、 支援してくれていた心理療法士らから

自分が人を殺したことをどう捕らえ青しているか聞かれ続け、

殺さなければボスから殺されたから仕方なかった、 と始めは答えていたものの

自分史を綿密に文章化して捉えなおしていくうちに

自分が自分の意思で主体的な選択として殺したのだ

命がけでその指示に逆らうという選択だってあったのだといったこ とを自覚するに

いたったそうです。

そういう飯田さんと親しく文通するさまになり、 私のそれを勧められましたが

なかなかそうしませんでした。

しかしそのころ私は、 獄外の支援者が発行していたパンフレットなどの場を借りて

かって同じような思想の元に爆弾闘争を実践し、 そのころもそれを正しかったと

主張している人たちとの間で

激しい論争を繰り返していました。

私にとってはあのような行動と思想は根本的な誤りであり

それを自覚した私は、 彼らもそう自覚してくれるよう働きかけるのが使命だとか

思っていたりしたのです。

しかし私は彼らが私を批判する文章を見たり

彼らから直接そういう手紙が着たりすると、 ぶるぶると体が震えるような怒りを

感じました。

そういう自分をおかしいと思いつつも

まだ自分をもっと深く見つめようとはしませんでした。

そして1987年ころ私の控訴審で、当時籍を入れていた女性に

私の減刑のために証言してもらうことにしました。

しかし本当は私は彼女を愛しておらず

ともかく1年でも早く出所したかったので、 彼女にそう頼んだのです。

しかし、その裁判の席で、彼女は裁判官から、 減刑のための結婚ではないかと問

い詰められたりしました。

私はその証言の裁判が終わってから、裁判官に対して、 いや理想の結婚だという

意見書を書こうとして

何か自分がとんでもない醜い人間になっているのを感じました。

そしてもう、 こんなに醜い状態から変わりたいと切実に望みました。

そしてそのことを契機に、 私は自分史を文章化して捉えなおす作業に入っていき

ました。

飯田さんにその文章を手紙で送り、 アドバイスを受けながらその作業を4ヶ月ほ

ど続けました。

私はその作業の中で、 いかに自分が物事を自分に都合よく考えているかを

自分は責任を取らず、人には責任を押し付けたりしている

たとえようがないほどの醜い自分に直面しました。

胸の中からその醜さがもくもくと黒い煙のようになって立ち上るよ うな

そのような自覚でした。

しかし、そのような自覚が生まれてから、 もうごまかすのはやめよう

ありのままに自分でいいではないか。

そう思えるようになり、すごく楽になりました。

そして自分の底なしの醜さを感じ自覚したことから

人がどんな醜く見えることをしていたとしても

それにはそれなりの理由があり

それゆえに人を裁くことはできない

自分も同じような醜さを生きた人間なのだから

といった自覚も生まれてきました。

そういう自覚がとても自分を楽にしてくれたのです。

5、刑務所での私の生活

こうして自分史の捕らえなおしを経て、かなり楽になった私は

1989年8月熊本刑務所に収容されました。

私はその刑務所の中でも、 あまり自分をごまかさず生きてこられました。

いまの刑務所の受刑者処遇のあり方の中には

受刑者の精神的な屈辱感を深めたり、 人間不信を深めたりするようなあり方も

かなりありました。

そういうことについても

私が自分の気持ちはごまかさず

しかし刑務所当局の立場や

刑務官個人の立場など考慮しつつ、

こういうあり方は受刑者が出所した際、 再犯へ追いやる方向になる働きかけにな

るから

改善してほしいといった要望を、 文章の形で提出する行動を取り続けました。

これは刑務所に対する反抗ではなく

私が犯した罪を償うひとつの実践です。

少しでもこの社会から、 私が犯したような犯罪がなくなってほしいという

そういう思いに根ざした願い出です、 そんな風にいつも書きました。

一方で所内しには自分を見つめてきた過程や

刑務所に中で自分の無自覚さに気づいた体験など

毎月のように投稿してきて、よくのせてもらいました。

また刑務所に来ておられる、 教戒師の先生にも積極的に面接を願い出て

心からの話し合いあの場を持ってきました。

とても深く影響を受けた先生もいました。

こうして私なりに、充実した刑務所生活を送ってきました。

6、出所後の生活

こうして私は12002年12月末に熊本刑務所を出所しました。

そして岐阜県の無人の実家に帰り、 その荒れ果てた家を整理清掃する日々からはじめ

ある程度片付き、またこの山仕事もはじめました。

そして、精神病院に入っていた兄や、 大阪で結婚生活を営んでいた妹との関係も

少しづつできてきて、回復してきて私が出所して2年目ころには

妹が大阪の生活に行き詰まりを感じてか、実家に帰ってきました。

兄も5年目ほどから、実家に帰ってきました。

6年目くらいには父母が世話していた新実という少し知的障害のあ る人も転がり

込んできました。

さらには7年目くらいには大阪で失業した妹の夫も転がり込んでき ました。

いろぴろな事情もあり、 何とか彼らを受け入れつつ生活してきたのですが、

あまり仕事で稼げる人がいなかったため、 私の負担が大きくなり大変でした。

何とか、 山仕事をハードにこなすことでその生活を維持して来ましたが、

好きな本も読めず、文章も書けず、 ほとんど仕事と家族のために必要な行動で

月日がたっていく感じでした。

しかも、実家は古い家で、あちこち壊れかけていていました。 そこに台所を作り

風呂も作ったりしましたし、壊れかけている屋根を修理したり

雨戸の代わりにサッシを入れたりと、 やむことのない改修を続けなければ

家が住居として維持できないほどでした。

2年ほど前に、 もう私はこの家と家族にかかわっていては何もできないと感じ

住居だけでも他に移そうと思い、 友達が以前焼肉屋をやっていた店を借りました。

そうしてそこで暮らし始めてしばらくすると、 妹が拒食症気味になり

体重が35キロぐらいまで落ち、 心療内科の先生から命の危機だというところま

でなり

入院させたものの少しも回復しませんでした。

それもあって、実家に妹のくつろげる部屋を作り

退院させてそこで過ごさせていると次第に回復してゆきました。

しかし、妹に回復と時を同じくして、 今度は兄がうつ状態から回復したもののそ

う状態になり

金遣いが荒くなって、そのことで妹の夫と喧嘩になり

妹の夫はいるところがなくなったので、 私にいる店でともに暮らすことになりま

した。

兄はそう状態になると、病院では手に負えないということで、 近くに5つぐらい

の精神病院から

治療拒否、入院拒否されており、 どこも入院させてくれるところもありません。

行政や警察などにも頼んで、 昨年今年と二回強制入院させようとしましたが

病院が受けいてくれず、失敗しました。

そういうことの準備や実行ができるのは私だけであり

その間私はしごとができなくなるということもあります。 

こういう生活の中で昨年、私は投資による資産形成を試みて、 大きな失敗をし

700万以上の借金、負債を作りました。

未完成です。

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