ー序章ー
MAZDA RX-7 (FD3sⅥ型)との付き合いは はやいもので16年目を迎える
現在の走行距離は約50,000㎞
自分でいうのもなんだが ここまで無事故で 車両コンディションは上々
2年前 息子が免許を取り クローズドコースで
そして去年 公道で RX-7をドライブさせた
息子にはRX-7入手に至る過程はざっとは説明してある
しかし まじまじと話したことはないので
"いつか この記を息子が目にする機会があったら”
という想いもこめ
この RX-7(以下 FD )に乗ることになるまでの経緯について
ここに記憶をとどめるため文字に残すことにした
ー希望と現実ー
26年前 就職して初めて買った車はEunos Roadster(NA6CE)
乗れば乗るほど愉しいクルマ
オープンで乗る爽快さとRoadsterのどこかノスタルジックでキュートなルックスも相まって
ワインディングを走ることが愉しくて仕方なかった
ここで得られる愉しさは 速さ ではなかった
もっと愉しく 気持ちよく 走らせたくて
あれこれ情報を集めながら 財布と相談しながら 自分なりのモディファイを施した
工賃浮かすためにいろんなことも覚えた
自分で触ると車の構造も良くわかってくる
当時の仕事にはまったく役に立たない車の知識
仕事半分だったことも今となっては否めない が それが当時の自分だった
何処走っても愉しくて サーキットにいったり
ジムカーナをやったりもして 休日にしか乗らなくても
1年で軽く15000kmをこえた
23歳当時 筑波サーキットに出没していた頃
driver という雑誌の取材を受けたときの一コマ
Roadsterを買う前 当時 本当に欲しかったのはFDだった
まずは性能云々ではなく そのデザインに やられた のだが
量産国産車唯一のロータリーエンジンをパワートレインとする
マツダRXシリーズの系譜にも興味をそそられていた
そして あの項は 速さ がアイデンティティであり
ステータスになりえた
ここでいう 速さ には
クルマが有するスペック によるもの と
それを使うことのできるドライバーのスキル
の2つがある
前者はクルマに注ぐことのできる財力に相関するが
後者はそこに依存する幅は少なく
ドライビングに費やした時間が向上をもたらせてくれるものである
そして そのスキル獲得には天性も重要な要素であろう
ドライビングスキルを高めるセンス が乏しいと感じていた自分だったが
クルマを自由に操り 颯爽とワインディングを駆ける姿に憧れがあった
そこで妄想するFDを駆る自分
FDのカタログを眺めたり実車を見ては
「いつか!」
という 想いで 溜息がもれたのが思い出される
しかし 就職したばかりの経済力では その車体は高嶺の花
車両そのものの価格帯
高額な自動車保険料
4km/ℓといわれた燃費
これらの点は 経済力のない当時に 購入を躊躇わさせるには十分すぎた
そこで 現実的に考えた結果が
オープンボディに使いきれるであろうパワーの後輪駆動
マツダ(当時はEunos)のうたう
人車一体というキャッチコピーをかかげたRoadsterだった
Roadsterの乗り初めには クルマを愉しむことに没頭し
時間があれば ステアリングを握っている時間を過ごしていた
当時 Roadsterを手放すつもりは毛頭なかったが
なんとなく 「次に乗るなら」と考えたりすると
憧れるクルマは それまでの FDから
Caterham Super SEVENに変わっていたりした
Roadster生活2年目の終わり頃 結婚した
その後 子供ができて しだいに妻のお腹が目立ってきて
そんなある日 妻からの言葉に衝撃うける
妻「この車だと乗り降りたいへんだし この乗り心地じゃ流産するかもよ」
たしかに コーナリングの気持ちよさのために固めた足まわりに
バキバキに効くL.S.D 助手席にまで奢っていた体を包むフルバケットでは...
それまで我慢して乗っていたのだろう
自分「もう 自分の楽しみだけでは生きていけないんだ」
そして妻が妊娠7ヶ月になるころのある夜
Roadsterはうちから消えた
今でも遠ざかるあのエキゾーストノートの残響が思い出される
自分「いつか また 乗れるときがくる」
その夜は そう言い聞かせ 胎動を感じる妻のお腹をさすりながら眠りについた
臨月になったころ
妻「子供が生まれておちついたら Super SEVEN買えるように貯金しよう」
これから子育てに金がかかる時期だというのに
自分の戯言を覚えていたのだろう
そんな 妻の言葉に励まされ
しばらく ファミリーカーで落ち着くことに決めた あの頃だった
ーFDへの布石となった出来事のひとつー
子育て生活は 車の存在を 趣味から生活家電製品同様のものにしていった
そこにドライビングプレジャーといわれる類のものはないに等しい
それでも 便利 という基準が車の所有理由であり それでいいとも思っていた
二人目の子供を授かり その子が小学生になったころ
「マニュアルミッションのクルマを運転したい」
という想いがどこからともなくふつふつとしていた
この思いは日ごとたかまってゆく
数年前に転職し 先の思いは ストレスとも直結していた
そのストレスをいなすため
以前愉しんでいたドライブというストレスマネジメントを求めていたのだろう
しかし 現実がもつ諸々の制約やしがらみがそれを 簡単にはゆるさない
それでも 想いは募る
自分の中で見失っている自分らしさのピースを探すかのように
もう一度Roadsterを と 物色をはじめていた
だが そんな物色は 気づけばいろいろな想いが交錯し
・マニュアルミッション
・運転ソノモノを愉しめる車
・クーペかハッチバックのボディ
・維持費がリーズナブル
・ホンダ以外
・その車両にhistoryやなんらかのpremiumを感じられる
といった検索条件での物色に発展してしまう
特に 最後のところは愛着を持ってクルマと戯れるには結構大事で
中古車情報やネットオークションをチェックする日々を悶々と過ごしていた
当然 RXー7も物色の対象にはなっていたが
FC型は車両コンディションと維持コストが
FD型は車両価格とそのポテンシャルの完全もてあまし
といった懸念があり この時点での入手候補としては低いポジションにあった‘
現実 最終候補に絞られていたのは
NA6CEorNA8C Roadster
BG FAMILIA GT-R
N15 PULSAR VZ-R
SW20 MR-2
JT191S Gemini Irmscher R
といったところになっていた
そして運命的な出会いは 突然やってくる
ネットオークションでISUZUを見ていたところ
ジェミニの最終ホットモデルJT191Sの中でもかなり希少なクーペボディ
テンロク ターボ 4WDのIrmscher Rの出品を発見 しかも 値段も手ごろ
しかし
モディファイパーツはもとより
性能を維持するための純正部品の入手すら危ぶまれる代物
そんなことはわかっていても
ISUZU最後の自社生産乗用車 かつ 最後のスポーツモデル
そして その中でもさらに希少なクーペの4WDターボ
こんな生い立ちに そそられないはずがない
JT191がデビューした頃は 正直「いけてないなぁ....」と思っていた
スペックなどから4ドアモデルのIrmscher Rは興味があったが
同じパワートレインを使っているモデルでもクーペはパッとしなかった
4ドアがラリーなどモータースポーツの場で活躍しているのは目にしていたが
このクーペはそういう場面でも見かけないし ましてや当時でも
街中で走っている姿すらほとんどお目にかからなかった
実際 見たことのない方も多いのではないか?と疑われるようなしろもの
しかし それが 画面に出ている
一気に興味が高まった
手に入れれば 当然足回りはヘタっているだろう
エンジンは5万4千キロの走行距離からすればまだいけるはず
サスペンション関係はKYB製の新品が入手できることは確認した
そのほかのパーツも 当時 うちの近くにISUZUのディーラーがあったので
(といっても乗用車の販売はホンダのOEMジェミニのみでトラック販売が主)
確認したところ主要ショートパーツは確保できそう
ということで 妻に黙って それこそ勢いで 入札してしまった
3日後 誰も競争相手のいない入札は自分の落札で確定した
その夜 妻に落札の件を打ち明ける
妻「もう 落札しちゃったんでしょ...ダメっていえないじゃん どうせ いったところで意味ないし」
と笑い飛ばしてくれた妻
妻の理解も得られ? 出品者と引き取りの相談 車両は茨城県にある
自走可能な車両なので 自走引き取りも可能
「どうやって茨城まで行こうか?」と思案していたら
付き合ってもいい というありがたい友人あり しかも彼は整備士でもある
そんな彼にお願いし 無事引き取りも無事完了 車両の程度も想定より良好
しかし 案の定 サスペンションはその機能を発揮しているとはいえず
帰路の湾岸高速では 少々心もとなかった
そんな走行状態を確かめつつ 夜半に帰宅し
整備士の友人と整備プランについて談議
あれこれ構想の膨らむプランに
気づけば明け方になったのも今ではよい想い出だ
Geminiの整備 まずは足回りのリフレッシュからとりかかる
車高も3cmダウンさせた
これだけでも ずいぶん印象が変わる
その後は これも偶然に
逸品であるオリエントスピードのマフラーをネットオークションで入手
ホイルとタイヤも交換し 怪しいエンジン周りの部品も徐々に交換して
日常的に運用するに耐える状態まで持っていった
JT191S Gemini coupe Irmscher R
この車との出会いは クルマをドライブする愉しさを
加速的に取り戻すキーになった
同じ車種を見ることもなく
たくさんの人に 「これなんてクルマ?外車?」
とか聞かれるのもおもしろかった
何といっても 見てくれとは裏腹になかなかの俊足なドマイナーな車両
リッターあたり100馬力を超える出力のエンジンと
それを4WDで駆動する重量級ではないボディ
車両状態・年式的にはサーキットでの酷使は辛いが
ワインディングレベルなら かなり愉しい
夜な夜なドライブに明け暮れる日々
仕事のストレスでやられそうなメンタル なんとなくモヤッとしたときなど
仕事がはねてからの そうした気分のリセットにはとても大事な存在になった
クルマの中で朝を迎えることもあったし 疲れるほど走りこんだ日もあった
それだけ このクルマとの時間は濃密なもので
Geminiがもたらしてくれた 見失っていた自分らしさのピースの片鱗
これが RX-7を入手する布石となっていった
ーロータリーエンジンに馳せる想いー
ある日 職場でその事件は起こった
このことからFDへの道が動きはじめることになるとは
その時点では考える由もなく
80歳をこえた ある認知症の男性入居者との出会い
2003年 当時の仕事(今もその延長にいる)それは
特別養護老人ホームでの介護職員
さきの彼を トイレにお連れしているときの会話からそれは始まることになる
彼は大戦時 航空機の部品を作っていた と 入居前調査書に記してあった
入居から自分が始めてのコンタクトをするまでに数ヶ月あったが
その間 同僚から
同僚「あの人 戦時中に零戦の照準機を作っていたらしいよ」
同僚「機械に詳しいらしくて いろいろ説明されるんだけど 専門的なこといわれてもよくわかんないんだよね...」
などという情報を得ていた
特に女性職員には機械の話などしたところで
共感してもらえることもなかったのだろうし
男性職員でも 車や飛行機に興味のないものにはまったく興味のもてない話
そんな事前情報をもっての 彼とのファーストコンタクトはトイレの中
介助をしながらの会話だった
自分「零戦の部品作ってたんですって?」
彼「あぁ よく知ってるな 誰かに聞いたのか?」
こんな感じだったような記憶
認知症を患っている彼は こちらの質問と答えがずれることも多かったし
少し前に何をしていたか?を覚えていることもできなかった
しかし こと 昔の記憶である機械関係の話だけは 少々ちがっていた
航空機関係の部品を専門に作る会社だったのか?といった問いには
車のエンジン部品を加工する小さな会社を経営していたが
戦時中は航空機の部品を作るようお国の命にしたがっていた こと
車のエンジン部品とは?といったことを聞くと
エンジンそのものを自社で作りたいと思っていたこと
故本田宗一郎氏へのリスペクト?のこと
などを話してくれた
時代が錯誤しているような話もあったように記憶しているが
それはそれで聞いていて自分的には興味深い内容で
初めて聞く話に トイレでの語りに付き合っていたら
ちょっと時間が長くなりすぎ
先輩職員から「いつまでトイレ介助に時間かかってんだ!」と
どやされことは忘れられない
自分「また話し聞かせてくださいね」
彼「おう いつでもいいぞ あんたは話がわかるのか ここの連中は誰もわかりゃしないからな」
と 彼の笑顔でそのときの話は終わった
なんとも印象的な話
『こんな話を受け止めることができるのは ここの職員では自分だけなのだ』
という 彼にとっての自分の存在価値を感じられた瞬間だった
それから数日後 再び 彼と話す機会があった
案の定 先日トイレでした話は 覚えていない彼
その日も初対面的に話を始めた
自分「昔 エンジン作ってたんですか?」
彼「いや 作りたかったが それをする金がなかった」
自分「へぇ..何のエンジンを?」
彼「車のエンジンだよ ロータリーエンジンを知ってるか?」
自分「マツダのロータリーエンジンのこと?」
彼「マツダ?ロータリーは東洋工業だろ あそこが西ドイツから持ってきたんだ」
自分「あぁ 確かに当時のマツダは東洋工業って名前でしたね」
彼「東洋工業がヴァンケルエンジンをもってきた開発はじめてな... 俺に金があったら あのエンジンを作りたかった... 不完全なエンジンでなぁ あれをちゃんと完成させるのが夢だ」
おおよそ こんな話の流れだったはず
ところどころ過去と現在の混同もあるが そこは認知症ということで...
ここははっきり覚えているが “夢だ” と話した “夢だった”ではない
その夢は いまだ彼の中の中で現在進行形であるのかもしれないと感じた一節である
「この人 なんかすごいこと話してる こんな話 興味ない人に話したって ぜんぜんわからないわなぁ... てか そもそも ほんとか?この話... 認知症のせい? 作話?...」
と いささか聞いているこちらも混乱してくるような内容だが
ところどころに出てくる専門的用語がリアルなのだ
認知症を患う彼から ヴァンケルエンジンというワードが出てくる脅威
これがどんなにすごいことか!
やっぱり知らない人にはちんぷんかんぷんな話なのだろうし
何の感動を覚えることもなかったのだろう
が 自分にはそんな与太話ともつかない話を とても愉しく聞けた
興味のある分野の話であったことはもちろんだが 彼が あまりにも いきいきと
饒舌に昔を語る姿が魅力的で 話に華をそえていた
それからというもの 機会があるごとに彼とはメカニックな話をして
そんな時間の中で 彼がロータリーエンジンに強い思い入れがあることを感じていった
自分と話をすると 毎回同じようなところから話が始まるが
その話を聞いているうちに彼の話すロータリーエンジンにまつわる話は
現実のことに思えてきてた
彼と盛り上がっている話を 同僚や先輩たちにしてみたが やはり 残念なことに
全く興味を持てない?持とうとしない?人たちばかり
「そんな話聞いてる暇があるのか?」的な扱いだった
ある日 彼の息子家族が面会に来ているとき 彼とのやり取りの一部を話してみた
自分「お父さんはエンジニアだったんですよね? 零戦の部品作っていたとか入居前面接記録で見ましたが ほかにどんな物作っていたとか聞いたことありますか?」
彼の長男「車のエンジン関係の部品を作っていたような話は聞いたことがありますよ 私が小さいころの話ですから 詳しいことは覚えていませんけど」
自分「ロータリーエンジンの話は聞いたことありませんか? 今 そんな話で盛り上がるんですが」
彼の長男「ロータリーエンジン?聞いたことがありませんね....」
自分の子供にも語ったことのない話なのか?はたまた全くの作話なのか?
判断がつくような要素もなく しばらく 彼の話に付き合う日々が続いたが
その真偽を疑うことは何の意味もないことだと感じていた
もしかしたらほかの人の話や体験を 自身のことと錯覚しているのかもしれない
とも思ったが...
何回 エンジンの話をきいただろう 彼は私の顔を覚えてくれていた
そして
ある日 している会話の内容は大して違わないのだが
これまでと違う反応をみることがあった
自分「ロータリーエンジンはマツダが量産化に成功していまではRX-7というスポーツカーに搭載されて買うことができますよ」
彼「ほんとうか 東洋工業は開発できなかったのか? なんてことだ 俺がやりたかったことを... その会社はどこにあるんだ?」
自分「マツダは旧社名 東洋工業ですよ コスモスポーツという車覚えてませんか? そのあとRXというシリーズに搭載され今も作られています」
彼「そうか 開発は成功したんだな ちくしょう 俺がそれをしたかったんだ... あのとき 金さえあったら....」
といって いつになく感情をあらわにした彼の目には うっすらと涙が浮かんでいた
彼はマツダという会社も ロータリーエンジンが量産化されたことも
そのリアルな時代に生きている
しかし 今の彼は その時間がすっぽり抜け落ち
自分と話している今 若かりし日の思いと現在が混同しているのだろう
だいの大人が 自分の夢が潰えたことを悟り 涙する
その姿は 自分には 衝撃的な瞬間 だった
自分「今度 RX-7(FD)のカタログをもらってきますよ 自分も大好きな車です 昔買おうかと思ったけど 高くて....最新型のカタログもらってきますね 自分もみてみたいから」
こんな話を彼が聞いていたかどうか?
少しして なにか 放心している彼に 「またきますね」と声をかけ
その場を離れた
こんなきっかけで FDのカタログをもらいに行くことになろうとは...
後日 さっそく マツダディーラーに出かけた
シリーズも末期に近くなっていたFD 販売台数も見込めない
マニア向けといわれても仕方のない車種
営業マンに 「いつごろのご購入を考えられているんですか?」
などと聞かれ 適当にはぐらかして帰ってきた...
初めて見るFD3S Ⅵ型のカタログ
乗ることなんてないだろうな...と半ばあきらめていた高嶺の花
当時 といってもカタログをもらいにいったときよりいささか前
テレビで流れていたRX-7のCM(Ⅴ型が出たときのもの)
『大人だって遊びがなくちゃ』
ってなんともステキなキャッチコピーがあった
BGMはStand by Me これも自分的は極上のマッチングが印象的で
やはり RX-7 特にFDには特別な気持ちがあったことは確かだった
彼のためにもらったカタログだったはずが
この時 わずかに 自分の心に火種を落とすことになっていた はず...
カタログを持って家にかえり きっと羨望のまなざしで眺めていたのだろう
不思議そうにそんな自分を眺めていた妻が声をかけてきた
うちの妻「それ どうすんの?」
自分「いま仕事でかかわってる人がロータリーエンジン 好きなんだよ だからカタログもらってきてみた」
うちの妻「あらまぁ ずいぶん都合のいいかたがいらっしゃるのね」
今思えば 妻は見透かしていたのかもしれない
この半年後 うちにFDが来ることになることを...
翌日 職場にカタログを持って行き 彼に渡した
彼はしげしげとそのカタログを眺め
ページの中に載っていたエンジンの写真を指さして
彼「ずいぶん形がちがうな?これがロータリーエンジンなのか?この中に このローターが入っているのか? 2ローターのようだが?」
自分「そう 2ローターですよ 2ローターのシーケンシャルツインターボエンジン 出力は280馬力です」
彼「すごいな 触ってみたい」
彼の一言『触ってみたい』
これが琴線にふれた マツダディーラーに勤務している友人が思い浮かぶ
カタログをもらいにいったときは声をかけなかったが
「触ってみたい」 と言われたらこれは相談するしかない
友人に連絡を取り
自分「車体からおろしてあるいらないロータリーエンジンどっかにない?ブローしててもいいよ13Bじゃない古いエンジンでもいいんだけど」」
MAZDAの友人「何すんの?直すの?」
自分「ホームにいる男性なんだけど ロータリーエンジン触りたいんだって~~~斯く斯く云々」
MAZDAの友人「ほんとか(笑) 探してみるよ」
ということになった
その間 彼は 相変わらずカタログを眺める日々を送っていた
数日後
MAZDAの友人「○○営業所にFCから降ろした不動のが転がってるから ただでくれるってさ補機類ついてないって13B単体 だけど 重いぞ 輸送どうする?いらなくなっても変なとこに捨てんなよ」
自分「職場のリフト車かりてくよ」
仕事がはねたあと老人ホームの名前の入った車にのって
15キロくらい離れたところにある○○営業所から
FC型に搭載されていた13Bをいただいてきた
翌日
早速 彼に13Bをみせた
初めて見る?のではないかもしれないが 現在の彼にとっては初見という意識なはずの
MAZDA製 13B型ロータリーエンジン
補機類がないそれはシンプルにロータリーエンジンの形を成していた
それをみるなり
彼「ヴァンケルとはまったく違うな?レシプロとも違う これがロータリーエンジンなのか?」
“本物だ この人”
時間的観念はおかしくなってはいるが 知識がなければ出ない単語
少なくとも 自分が彼の話を信じてみるのは十分な内容だった
『彼の生活の中に このエンジンとの時間を作ろう』
そう 決めて 彼の担当者でもなかった自分だが
担当だった女性職員にあきれられながらも
彼のケアプランには エンジンいじり を加えることにした
同僚や上司からは “馬鹿なこと始めやがった”と思われていたのもわかっている
そんなことしてる暇があるなら仕事しろ とか
一人の人ばかりかまってるんじゃない とか
いろいろと罵詈雑言が聞こえていた
だが そんなことは関係ない
わかろうとしない人にこの話をしても何の意味もない
担当だった女性職員でさえ 「あなたが担当やれば?」的反応しかなかった
彼女は自分の担当している彼が
エンジンを触っているとき どんな表情をしているのかも知らずに.....
自分にしか引き出せない彼の愉しみ
だから 休み時間や 自分が仕事上がってからの時間を使って
彼とのエンジンいじりの時間を紡いだ
彼に工具を渡すと
ボルトのサイズに合うソケットを探し ラチェットを操り
堅くしまっているボルトは少し緩めておくと 彼は黙々と部品を外してゆく
何日かかったか?正確には記憶できていないが、1ヶ月以上の時を要しただろう
できるだけ手伝わず 彼のやりたいように触ってもらった
時にボルト1本を外すのに 1時間くらいかかることもあり
ローターハウジングを外し
中からローターが出てきたときの彼の驚きとも歓喜ともとれた表情は
今も鮮明に脳裏に焼きついている
そして そのローターは 彼の部屋に飾っておくことにした
(これも興味ないものにとっては邪魔で危険な金属塊でしかなかったが)
その後も彼とのロータリーエンジンにかかわる時間は充分なものではなかったが
ケアプランの一部として細々と続けていた
しかし そのかかわりの時間では
彼の認知症の進行を抑制できるほどの効果はなかった
しばらくして 彼は 体調を崩したことをきっかけに入院した
一時は危ぶみがきこえることもあったが復調したが
入院生活が1か月を超えたその手は
エンジンを触る力をもはや残していなかった
ラチェットを握っていた手はやせ細り
軽くしまっているボルトですら外すことができない
だが 記憶にはロータリーエンジンのことが残っている片鱗を垣間見ることはできた
彼「このエンジンは動くようになるのか?」
自分「このエンジンはダメですよ ブローした廃棄物ですから」
彼「そうか....このエンジンはどんな音がするんだろうな...」
自分「残念ですが...今日はもうやすみましょう」
声をふりしぼるよう自分に訊ねた彼を 部屋へお連れした
ロータリーエンジンに馳せる想い その鼓動を求める彼の若かりし日の記憶
彼の人生に残された時間は もうそう長くはないだろう
今の自分にできること?
自分にしかできないこと?
『実車持ってくるしかないな だれか身近な友人でローターリーエンジン搭載車を
所有してくれてたら簡単なのに...』
ーロータリーエンジン搭載のFDを駆る日ー
マツダに勤める友人に電話をいれた
自分「だれかロータリー積んでる車持ってる人 紹介してくれないかな」
MAZDAの友人「どうした? 前にエンジンもっていったじゃん」
自分「エンジン動いてるのが見たいらしいんだ」
MAZDAの友人「そうか、あたってみるよ セブンも夏で生産中止だろうしね」
自分「え、生産中止決まったの?」
MAZDAの友人「あぁ 近々 正式発表されるんじゃないか?」
そのとき 自分の中で なにかが動く
『FD買うか?』
新車で手に入る最後のチャンス
次期ロータリーエンジン搭載車であるRX-8の話は出ているものの 4ドアのノンターボ
なにより自分が憧れたRX-7の新型という位置づけではない
まして排ガス規制の関係から
ロータリー+ターボはFDが歴史上最後の生産車となる可能性すらある
自分のドライビングスキルでは
間違いなく もてあますであろうSpecを備えた
孤高のスポーツカー FD3S RX-7
ひるむ気持ちもあったが 気持ちを固めるのに時間はかからなかった
決断を促すには有り余る想いを これまで充分に昇めていたから
しかし 唯一の心残りは ここまで手をかけてきたGemini
そのマニア向けの車体は価値を見いだせない者にはただの中古車
まずは友人たちに受け継ぎ先を模索してみる
数日後 友人の一人が 継承してもいい
と返事をくれた
ここから 一気に話が動き出す
とりあえず マツダディーラーへ商談に
この時すでに 最終限定車スピリットRの発売が
半年後あたり予定されていることはわかっていたので
これを待って という選択もあった
だが 最終限定車ということもあり値引きは期待できず
車両価格も400万位になるとの話
価格の問題もあるが そもそもそんなに待てない
というか彼の時間がないかもしれない
一番納車がはやい という条件も考えると
カタログモデルであるTypeR Bathurstへ狙いを定めた
決算期だったこともあって初回の商談からなかなかの条件が提示される
次は妻への相談
自分「RX-7買おうと思うんだけど....」
妻「RX-7? 次はSuper SEVENじゃなかったの?本気?」
自分「う、うん 結構本気」
妻「セブン違いの7だけど いい条件ならいいんじゃない 次行くときハンコもって目いっぱいやってもらえば」
少々 意外な反応だった
それまでの彼との話をちょこちょこしていたこともあって
やはり こうなることを予見していたとしか思えない おそるべき 妻の洞察力
そして最終商談にのぞみ
納得の条件をいただいたので 判を押した
納車は約1か月後
『これなら 間に合うだろう 彼の時間に....』
そして FDを契約したことを彼に告げた
しかし 彼はそれがどういうことなのか?
理解できないようだった
その枕元には 13Bから外したローターが飾ってあるのだが...
あっという間に時は経つ
彼はその間 枕元のローターへ手を伸ばすことも減り
手元にあるボロけるほど眺めたRX-7のカタログも見ることはなくなっていた
自分との話も 盛り上がりを見せることはほとんどなくなり
2002年 3月 FDが納車された
納車の日 まず向かったのは職場
今日から FDを駆ることになるにあたり
自分の背中を押してくれた彼に それを見せるため
彼との出会いがなければ この車に乗ることはたぶんなかっただろう
自分の中でくすぶっていた想いを払拭してくれた彼
『これを見たらどんな反応してくれるんだろうか?』
『喜んでくれるのか?それとも 何の反応もないのか?』
期待と不安が入り混じるなか 施設のエントランスに乗り付け彼を待った
しばらくして 同僚が車いすに乗った彼をつれて現れた
何が起こっているか?彼は状況が理解できていない様子でいた
目の前にある車が あのカタログにあった車だという認識もないようだった...
自分「このクルマ ロータリーエンジン積んでますよエンジン 見てみますか?」
自分も初めてボンネットを開けてみた
そこには 真っ新の走行距離数十キロというエンジンが収まっている
彼「これは なんだ?ずいぶんごちゃごちゃしているなぁ」
補機類がロータリーエンジン本体を覆っているエンジンルームをみて
弱々しい声で彼がつぶやく
その声は 数か月前に メカニックのことを熱く語っていた力強さは失っている
自分「これが 現在量産されているロータリーエンジンですよ」
彼「そうなのか」
自分「今 エンジン かけてみますね」
新車のエンジンはセル一発で目を覚ます
彼「これは.... レシプロの音ではないな」
この一言は これまで彼と過ごしてきた時間が
悔いのないものであることを確信させるには充分
ローンを組んでまで FDを手に入れたことへの最大の祝福だと思えた
自分「乗ってみますか」
彼「あぁ」
最近は自分で体を動かすことすら減ってしまっていた彼が
FDの助手席へ彼を介助しようとすると 自分で動こうとする意識を
萎えてしまった筋肉に伝えようとしているのがわかった
その身体の一部には関節の硬縮や変形も認められる状態
タイトなFDのキャビンへは介助があっても乗り込むことは容易ではない
それでも 自分で体を動かして乗り込もうとする
手を貸しながらなんとか助手席にもぐりこむように着座したが
FDのタイトなキャビンは彼がくつろいで乗車することを許さない
四苦八苦しながらも やっと シートベルトを装着
施設の周囲を数キロドライブし
ロータリーエンジンの鼓動を体験してもらった
『それは彼にとってどういうことだったのだろうか?』
『なにか 彼に与えられたものはあったのか?』
ドライブは終始無言 話しかけても反応はない
乗車を終え 「どうでした?ロータリーは?」
と 問うても 明確な返答はなく....
そんな様子から 彼の本当の思いを計り知ることはできない
だが 乗車中の彼の様子 それは きっと愉しんでくれたものだ
と 信じることにした
その日からも 彼の状態は快方へ向かうことなく
徐々に 人生の終着へ向かっていることは 客観的に感じられていた
日に日に話をする内容も単語程度になってゆき
コミュニケーションは失われていった
それと同時に 二人でいじっていたエンジンも放置され
体調の優れない彼はまた入院した
それから数ヵ月後
彼は天へ召された
今でもFDは自分と共にある
彼のしてくれた話 結局は家族にその真偽について最終的な確認も取れず
彼とともに それは自分の前から消えた
真偽はどうでもいい
あの時 自分はそれを信じ その時間を共有した事実
そして 形として残ったFD
それは 自分でしかできなかった仕事への証
それは アイデンティティでもあり 今の仕事を続ける意味を
強烈に植えつけてくれたきっかけとなって今もともにある
こんなことがなければ 今の仕事
何度 心折れることがあったことだろう
介護の仕事は大変だ 身体的にも精神的にもきついことは往々にしてある
介護職員の離職率の高い理由はここにあるのは間違いない
そんな中でも 自分を支えてくれたのはこの出会いと経験
職業としての誇りを与えてくれる出会いが今をつくっている
介護の仕事に限ったことではないが
やりがいは 与えられれるものではなく みつけだすこと
それを まざまざと思い知らせれたエピソードとともに
FDがある暮らしは今月16年目を迎える
これまでこのマシンがもつ走行性能を引き出しきって走れたことなどない
走行性能の向上を至上とし進化してきたRX-7
今でも第一線級と呼んでも差し支えないであろうポテンシャルを持っており
その生い立ちからすれば
自分のようなドライビングスキルの低いオーナーに所有されてることを
申し訳なく思ったりもしている
だが 自分的に感じているそのデザインの秀逸さは
月日が経っても 色あせることはなく
むしろ 今のほうが艶かしくさえ思える
こういったことのすべてが FDへの愛着を連綿としたものにしている
前回の車検時 思うところがあって 一度 手放そうかと考えていた
FDを維持し続けること それは
はたから見れば ただの道楽 にしか見えないのだろう
自分「FDだそうかな....」
家族に漏らした一言を妻だけでなく 息子も娘も一蹴した
家族にも ここまで細かい話はしたことはないのだが
うちのFDには Specや損得などだけではとうてい語れない
自分にとっての存在価値がある
ということを 自分だけでなく 家族もわかっているということなのだ
こうして 理解に支えられている今 それにはあまえておくのも悪くない
いましばらく ダメな乗り手に付き合ってもらおう
いつまで乗り続けていられるのか?
それを今 深刻に考えることは 意味がない
気になる車があっても FDに乗れば その迷いは簡単に消える
FDをおりる日
それは 自分の身体的な限界か と漠然と思っている
最近 目がついていかない不安があり人生初のメガネを作った
この次のステップが そのときになるのかもしれない.....