【第2章_大槌刺し子、販売開始。
お客さまのもとへ羽ばたくカモメたち。】
[ 2011年6月。避難所で、刺し子さん募集。 ~初めての刺し子会~ ]
制作アイテム・デザインが固まったところで、資材の調達へ。
立ち上げメンバー5人が軍資金として2万円ずつを負担し、
メンバーの中で一番手芸に詳しかった小杉が、
手芸品店での再三のリサーチを経て、布や糸、針などを購入しました。
そして6月3日。
直前まで、小杉・五十嵐がコースター・ふきんの仕様書や
刺し子さんスカウト用の書類を作成し、
いざ、大槌へ。
この日やっと初対面となった久保と小杉が東京駅で待ち合わせ、
大槌にいる吉野を訪ねました。
<2011年6月。初めての刺し子説明会に使用した、刺し子さん募集のチラシと、作り方資料>
大槌訪問の目的は大きく以下の3つ。
(1) 刺し子さんの募集
(2) ふきん・コースターの作り方の説明
(3) webサイトに掲載する写真の撮影と、インタビューの実施
しかし、避難所である中央公民館から仮設住宅に移ることも視野に入っていたこの時期、
刺し子さん募集のスタートは決して順調ではありませんでした。
突然東京からやってきて「“刺し子”をはじめてみませんか?」と誘うメンバーに、
消極的な反応が続きます。
「不器用だからムリ!」という女の子、
「目が悪いから、もう針仕事はできないのよ」というおばあちゃん、
「仮設に入るから、忙しくて時間がとれないわ」というお母さん。
そんな中、突破口となったのが“マギーさん”の登場でした。
誰ひとり知る人のいない避難所に飛び込んだ吉野のことを気にかけ、
なにかにつけて、姉のように、母のように力になってくれていたマギーさんは、
吉野と同じ中央公民館避難所のロビーにある“ダンボールハウス”に寝泊まりし、
津波で亡くした肉親を探している女性でした。
みんなのリーダーになり率先してまとめる…というタイプではなく、
控えめな性格ながら、みんなに信頼され、避難所の中心人物だったマギーさん。
そんな彼女が、地元のみなさんと吉野とのパイプ役を買って出てくれたのです。
マギーさんが避難所の女性たちに次々と声をかけてくれたおかげで、
体験会・説明会を開くことができました。
Photo by Shu Tokonami
<立ち上げ時、多大なる後押しをしてくれたマギーさん。
その後、2012年10月に東京で開催したイベント「刺し子感謝祭」にも、
実は来てくれたのでした。一事が万事、控えめなマギーさんは
一番後ろで遠慮がちに眺めていらして、イベントの慌ただしさの中、
ちゃんとお礼を伝えられなかったのが今でも東京チームの心残りです。>
さらしは2枚合わせで刺し子をするか、それとも1枚だけにするか。
チャコペンの下書きはどうしたら見やすいか。
試作しながら、一緒に作り方を固めていきます。
刺し子さんたちに要望や意見を書いてもらう「連絡ノート」も作ることに。
和気あいあいとやっていると、いろんな人が入れ替わり立ち替わり見に来てくれます。
「私はもう細かいことはできないのだけど、こうしたら?」と
アドバイスをくれるおばあちゃんがいたり、
「ああやって針仕事をするのはいいもんだ」と声をかけてくださるおじさんがいたり。
他のボランティア団体の方から、早速「ほしい!」と言っていただけたのも、
大きな自信となりました。
この日を経て、マギーさんが刺し子さんたちの窓口役をしてくれることに。
人望の厚いマギーさんのおかげで、「マギーさんがやっているなら…」と
まわりの人たちもどんどん関わり始めてくれました。
心優しく頼もしいパートナーを得て、この日は数人だった刺し子さんは、
後に15人に増えたのでした。
Photo by Shu Tokonami
<2011年6月3日、刺し子説明会。マギーさんがサポートしてくれている様子が。>
この日の説明会のことを、5年経った今、久保はこんなふうに振り返ります。
「型紙や材料、道具を揃えて避難所に向かったものの、
すでに1ヶ月以上そこに避難しているみなさんにとっては、
“よくわからない部外者”だったと思う。
それでも、その当時は傾聴とか健康相談、炊き出しなどのボランティアが
日本中から集まってきていて、そういうボランティアと、
それを必要とする現地の人をマッチングしようと世話を焼いてくれる
現地の人がいたんだよね。
そうやって積極的に関わってくれるマギーさんみたいな存在がいなかったら、
説明会も空振りに終わって帰っていた可能性は大きかった。
(後述の)Shu Tokonamiさんのようなプロカメラマンに出会えたおかげで
ウェブサイトを作る時にとても重要だった“写真”に恵まれたり。
こういう人手を最初から計算して進めるのが通常の『仕事』なのだとすると、
あの時やっていたことはその対極だった。
予算もマンパワーもノウハウも、なんにもなかったけれど、
ただ僕らが、やりたい、役に立ちたい、必要に違いない、そう思って進めた。
そうすると、自然とまわりが足りない部分を助けてくれたり、協力してくれた。
最初から『仕事』のノリで完璧を期するつもりで取り組んでたら、
一歩も進まなかっただろうね」
そしてこの頃、立ち上げに必要だった裁縫道具の一部は、
Amazonの「ほしいものリスト」を活用して援助をお願いしていました。
避難所に直接届いた道具に
「みなさんの事を忘れていません。共に復興しましょう」
「遠くてこんなことしかできませんが、みなさんの希望になりますように」
というようなメッセージがたくさん添えられていたことも
ここに記しておきたいと思います。
[ 手仕事の力 〜刺し子をする時間が与えてくれるもの~]
当初、刺し子ふきん・コースターは、
「1枚縫うごとに必ず買い取る」というルールでスタートしました。
仕上がった商品のクオリティや、実際にそれが売れるかどうか…
正直なところ不安要素は大きかったし、意見も分かれました。
それでも、議論の末に至ったのは、
作り手に対して誠意を持ってやっていきたいね、ということ。
まずは「一生懸命刺し子をしたら、必ず収入になるのだ」
ということを打ち出そうということになり、
思い切ってこのルールを決めたのでした。
この頃、ひとつひとつゼロから決めなければならないことがとても多く、
思い出せないほどたくさんの話し合いを重ねました。
大企業勤務ならではの五十嵐・小杉によるネガティブチェックも
プロジェクトを誠実に運営するために欠かせないものでした。
それでも、たった5人による運営という身の丈に合わせなければならない局面も。
「それを言っていたら始まらないよね」という言葉が何度も出ました。
多くの部分において、「えいや!」でやろうということがありました。
不安な点を挙げればキリがない状況の中、
ある場面では、すべてを買い取ると決めた時や、価格の決定のように、みんなで腹をくくる。
一方では、頭を冷やし、「やらない」という選択をする。
たとえばウェブサイトひとつとっても、充実させようと思えばキリがありませんでしたが、
スピードを再優先して、線を引いたり…
そういうことのバランスが、メンバー間でうまく取れていたのではないでしょうか。
もちろん、穏やかならざるムードになったことも数知れず。
5人という人数と2:3の男女バランス、それぞれに積み重ねてきた社会経験、
そして「自分のためでなく被災地のため」という共通の思いが根底にあることで
最悪の事態(空中分解)に至らなかったのは幸運でした。
今振り返っても、ギリギリのところで保たれたバランスに感心しますが、
その大きな要因は、自分たちで考えてみると
「全員が、お互いの仕事ぶりに敬意を払っていたこと」
に尽きるのではないかと思っています。
一方、大槌では、刺し子の制作が進んでいました。
「針仕事はあまり得意じゃなかったんだけど…」と言いながらも、
針と糸を手にすると、自然に背筋がスッと伸びる女性たち。
その所作は、一朝一夕のものではないことがすぐにわかりました。
始めたばかりの頃、刺し子さんたちが口を揃えて
言っていたことがあります。
「刺し子をしている時間は、嫌なことを思い出さずに、無心でいられるの」
なにもしないでいると、嫌なこと、悲しいことばかりを考えて気持ちがふさいでしまう。
でも、ひと針ひと針に集中している時間は、何も考えずに目の前のことに没頭できる。
Photo by Shu Tokonami
その時間は、目の前に一面に瓦礫が広がる大槌の町で、
また、それらが片付けられ見渡す限り何もなくなってしまった光景の中で、
どれほど必要なものだろう。
もしかすると、このプロジェクトには、目先の収入を得る手段という以上に、
大きな意味があるのかもしれない。
これは、なおさら“続けられるもの”にしなければ…。
その意識が強くなったことを覚えています。
そのようにして、大槌町の中でプロジェクトのことが徐々に口コミで広がり、
参加する女性たちも増えていきました。
わからないところや難しいところは教え合い、話し合い、やり直しながら、
続々と仕上がっていく、ふきん、コースター。
[ サイトオープン。忘れられない刺し子さんの言葉。 ]
大槌で女性たちが刺し子に精を出す一方で、
IT分野の技術的協力者である西井さんによる刺し子プロジェクトのウェブサイト制作も、
着々と進行していました。
そして、プロカメラマンのShu Tokonamiさんが撮影し、
使用を快諾してくださった刺し子さんたちの素敵な写真も、
ウェブサイトやポスターをはじめさまざまな場で
プロジェクトを知ってもらうための大きな力となりました。
そして、震災からちょうど3ヵ月の2011年6月11日。
「大槌復興刺し子プロジェクト」はサイトオープンをもって
とうとうオフィシャルに活動をスタートしたのでした。
本音を言えば、不安でいっぱいの立ち上げでした。
たくさんの議論を重ね、できるだけ万全を期して進めてきたつもりでも、
実際にみなさんに受け入れていただけるのか、商品を買っていただけるのか…。
前に進むしかないんだ!とメンバーで励まし合いながらも尽きない不安。
それはなによりも、がんばって、張り切って刺し子をしてくれる
大槌のおばあちゃん、お母ちゃんたちをガッカリさせたくない、その一心でした。
ちょうどこの頃、忘れられない一本の電話がありました。
大槌で刺し子さんの募集や説明、材料配布に奔走する吉野からでした。
ご自宅を流されて、財産もすべてなくしてしまった、あるおばあちゃん。
毎日のように避難所に顔を出してくれる小学生のお孫さんにも、
してあげられることが何もなかったのだそうです。
「それがね、刺し子でもらったお金で、孫にジュースを買ってあげられたのよ!
今まで、汗をびっしょりかいて帰ってきても、何もしてあげられなくて、それが悲しくてね。
本当にありがとう!」
おばあちゃん、本当に喜んでいました…と、そんな報告の電話でした。
胸が詰まり、涙が出ました。
始めてよかったのだと、心から実感した出来事でした。
それぞれの電話口で泣きながら、「良かったね…」と
やっとそれだけ言ったことを、今でも忘れません。
<大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ④ へ続きます>