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16/3/5

全くモテない19歳の女の子がいきなりオーストラリアに行ってそのまま永住し、イケメンと国際結婚して、ライフコーチになった話。第二回 オーストラリアに突然留学した理由

Image by Olia Gozha

とある日の事である。私のケータイに見知らぬナンバーからの着信。留守電メッセージもなし。気になって電話してみた。


「あ、ごめん、間違えてかけてもうたみたいやわ」


出たのは大学生の男性である。


普通ならここで終わるんだおうが、何故か彼と話し込んでしまった。そしてその日から彼と毎日電話するようになるのである。


Y君は私より2つ上のK大学に通う。E君以来ほとんど男性と話したことのない私はなぜか彼に惹かれてしまった。恋に恋していたのだろう。そして危ない。。。と思いつつもY君と会うことにした。


Y君はあんまり背は高くないし顔もそこそこであったが、なんせ女子高出身の私である。


「とりあえずモテたい!!!!」


オーラがメラメラだったと思う。そして恋に恋しすぎている一応おっさん兼 華の高校生である。おっさん女子高生はそんな彼にでもすぐに恋に落ちてしまった。毎日のようにメールし、電話して、週に一回のペースで会うようになる。もう私は彼にメロメロである。

Y君は


「今彼女がいるからお前とは付き合えんけど、もうすぐ別れようと思ってるねん。そしたらお前とちゃんと付き合いたい」



つまり、私はかれの「ヒモ」となってしまったのである。


モテないブス女にはそんなことに気付く余裕もなし、とにかく彼を信じ続けた。彼ははっきり言って全くかっこよくはなかったが、かなりお洒落で雑誌などに読者モデルとして取り上げられることがたびたびあった。そんな彼のために


「私もモデルになってやる」


そんな思いでひたすら頑張り続けた。


いつか彼は私の事を好きになる。そう信じて続けた。今考えたらただのあほであるが。。。



その結果、なんとモデルへのスカウトが来たのである!


元水泳選手の肩幅がっちりむっちりふともも、ニキビ跡たっぷり、天然パーマに浅黒い肌。



そんな私にモデルのスカウトが来たのである。


大好きな人のために綺麗になりたい。そんな思いが叶ってか、醜いアヒルの子にもモデルへのスカウトがやってきた。


それからというものの、朝ごはんは温野菜。おやつはりんご、または茹でたブロッコリーなど。夜はスープ。。。。それでも体重が減らなくてプロテインシェイクを飲み、夜は筋肉が付かないようにヨガに水中ウォークにとこれでもか、というほど頑張り続けたのである。


お蔭で体重は落ちてくれたのだが、、、同時に生理さえも来なくなってしまった。


とはいえ、私は有名ではないのでお仕事が来ない。お仕事が来てもびっくりするくらいのお給料が少なかったりする。


オーストラリアの大学院にどうしても行きたい私は朝からパン屋でパンを捏ね、学校に行き、帰ってきて家庭教師。家庭教師のない日はライフガードとして働く。それにたまに入るモデルのお仕事と休む間もなく勉強し働いた。



モデル、といってもグラビアのお話ばかり来るわけではない。モデルルームのショーガールの仕事、TVショッピングのマネキン嬢、TV の旅行レポーター、ファッションショーといろんなお仕事をさせていただいた。


特にとある有名なコレクションに出演させていただいたことが私のモデルキャリアのハイライトであろう。

(といってもネイル嬢ではあったが。。。。)


こんなにバイトしながらなんとか大学の単位を取ることが出来、無事一回生を終えることが出来た。私は大学で総合政策学というのを専攻していたのだが、私の大学では1年目はとりあえず3分の一は英語の勉強ばかりであった。せっかく高いお金を払ってやってきて、英語の勉強だけ、、、、しかも田舎すぎて飲みに行くところすらないので合コンなどもない。


そう、私は合コンに一度も行ったことがないのである。


それでも良かった。私は超多忙を極めていたし、Y君という存在があったので「彼氏」という名の存在がいなくてもそれなりに幸せであった。いつか彼女に昇格する日が来るだろう、、、そう信じていたから。水泳で鍛えられすぎた体格のいいブス女はヒモ女でも誰かに認められたかったのだろう。


そんなある日の事である。いつもようにY君がたまに読者モデルとしてでている雑誌を購入。


なんとそこにY君と別れたはずの彼女がばっちり載せられていたのである!


これを見た瞬間、Y君への気持ちがさーっと冷めていくのが感じられた。


やる!と決めたら即行動。


オーストラリアに短期留学すると決めたその日に観光ビザを取り、学校探しを始める。エージェントは使いたくなかったので全て自分で手配することにした。海外旅行になれている私にはビザも飛行機もアコモデーションもすぐに手配することが出来た。


語学学校からOKの返事が来次第、家族に報告、その2週間後にはオーストラリア、Perthの土を踏んでいた。


右も左もわからない見知らぬ土地。中学高校、そして大学でこれでもか!と勉強してきた英語なのに全く分からないのである。


語学学校が始まる。日本人が数人私のクラスにいた。せっかくオーストラリアに来てまで日本人はやっぱり日本人でつるむのが好きな様だ。


私はたまたま隣に座っていた中国人の女の子と仲良くなり、英語を使う機会が多かったのだが、英語漬けの生活に頭が痛くなったのを今でも覚えている。


私の大学院への夢は膨らむ一方で学校が休みの日は大学巡りをしてみることにした。こっちの大学では日本の受動態の授業とは違い、参加式の授業が行われている。


芝生ではみんなサンドイッチを食べラップトップを広げて勉強している。すごく穏やかな風景である。


もし英語を学びながら他の勉強ができたら?みんなとこんな風に芝生で英語で議論し合えたら?


そう思うとドキドキが止まらなかった。


そしてたしか私が通っていた大学は芝生だけに年間二億円だということを思い出した。


おい、私は高すぎる授業料を誰も使っていない芝生のメインテナンスのために払っているのか?


もうこれを考えるだけで私は一つの決断を下すことにしたのである。


「ママ、私こっちの大学に移るわ」


こうして私は即、スチューデントVISAに切り替え、大学に受け入れてもらえるまで語学学校を延長し、日本の大学に休学届けを出し、オーストラリアでの新しい生活を始めることにした。


当時は安いホステルに泊まっていたのだが、とはいえお金がかかりすぎるのでそこから初めてShare Houseというものに引っ越すことにする。


新しいShare Houseのオーナーさんは8歳年上のインドネシア人の男性であった。とてもお世辞にもカッコいいとは言い難かったが優しい人で、色々彼にお世話になったのである。


Share Houseに住み始め1か月目。


私が借りている部屋の前にバラの花が一輪落ちていたのである。


変だとは思ったがそれ以上何も考えずにいた。


そしてオーナーに


「あのさ、バラ気に入った?」


と数日後聞かれる。


あぁぁぁぁぁぁ 彼だったんだ。


「もしよかったら映画に行かない?」


と彼に誘われる。どうしようか迷ったが別に暇だったので映画に行くことにした。

男慣れしてない私にはどう対抗していいのかよくわからなかったのである。

そしてこれを機に毎日のように彼からラブレターを貰うようになる。


はっきり言って彼に全く興味がない。


適当に流していたのだが、ある日いつものように夕飯に誘われて友達としてOKすると、なんと


彼の家族の誕生日会に連れていかれ、彼の家族全員に「彼女」として紹介されるようになってしまったのである。ここまで来ると逃げようがない。


あまりの強引さに私も

「お試しで」


という条件で付き合うことにした。

 

はっきり言って、彼氏が20年いなかった自分も恥ずかしかったし、自分はブスで体格の良いニキビ肌の天パのモテない女だったのでこれでも付き合えってもらえるのは感謝すべきだと少し思っていた自分もいた。


一流ホテルで働く彼は私にいろんな料理、オーストラリアの事、英語などもいろいろ教えてくれ彼にはいろんな面でお世話になった。


そして私は何とかオーストラリアの大学に受け入れられる。


日本で大学一回を終了している、という事で大学二年生からスタートさせてもらえることになった。とはいえ、二年生で一年生での必須科目も同時に勉強しなければならない。


オーストラリアへきて6か月目、ままならぬ英語力と日本とは比べ物にならない勉強量。私は忙しさを増していた。彼の仕事もシェフという事で2時から10時まで働き、私は学校の勉強で忙しく、彼が帰ってくる頃には睡眠。彼が起きる前に学校へ。



彼とは恋人、というよりは「一緒に住んでいる人」以上の関係ではなかったと思う。


とはいえ、私にとって彼は初めての「彼氏」、彼にとっても私が初めての「彼女」。


お互いこんなもんだと思っていた。年上の彼は私にぞっこんだったんだろう。


喧嘩もなく、波もなくの生活である。

大学三回生になると学校にも慣れ、だいぶ余裕になってきたわけでアルバイトを始めることにした。


とはいえ、日本人のスチューデント Visaで英語も超日本語なまりである。


当たり前だと思うが、なかなか仕事は見つからなかった。でも私が日本で一生懸命貯金してきたお金も底が付きつつ、ありなんとかして仕事するしかなかった。

私には次のセメスターの授業料を払うだけのお金など手元に残っていなかったのである。私は金銭的にそこまで追い詰められていた。


そこで私は近所のレストランに訪ね歩きまくったのである。何軒回ったか分からないくらい断られた。当たり前である。私が自分のレストランを持っていれば多分おっさん女子なブロークン英語の日本人なんてごめんである。


が、私はもう後戻りができない。お金がないと生きていけない。仕事すること以外は選択肢になかった。


恥ずかしい気持ちはあったが、なにせお金がないのである。この緊急事態が私に仕事を探し続けさせた。


そんな甲斐あってかやっと一軒のカフェで雇ってもらえることになった。


条件として週40時間働けること。

はっきり言って勉強との両立は死ぬほど大変なことである。


が学校のレクチャーがあるときはその間だけ抜けてもいいという好条件を頂いた。

せっかくのチャンス、逃すことが出来ない。出来るだけオンラインレクチャーのある単位を選び、寝る時間も忍んで勉強し朝の6時から働きまくった。


今考えても私はどうやってこれを乗り越えたのか分からないのであるが、なんとか私は全ての単位を取り、大学の卒業することができた(オーストラリアの大学は専攻によっては3年である)


そして彼との関係はまだ続いていた。


週40時間働かせていてもらったおかげで私と彼は結構の額を貯金することが出来た。私はこれで家を買いたい、と思うようになっていた。その頃からだろうか、おっさん女子な私は経済新聞を読み、銀行のローンの事などを学ぶようになっていた。そして家の値段を調べ歩き、投資するにはどこがいいか、などもこの当時から真剣に考えていた。



もうちょっとで家が買えそうなくらいお金は貯まっていく。何もかも平和に見えた。そんなときである。

そんな時、事件は起こった。











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