母の自殺により、大好きな母に何もしてあげられなかった自分への嫌悪・後悔を経験し、少しでも多くの人がこれを読んで後悔のない幸せな人生を歩んでほしいと思います。
また、カナダ留学生活の終わり、そして今年に迫る就活を前に、自分自身の過去を振り返るとともに、田岡卓の全てを語った「自分履歴書」として赤裸々に綴っていきたいと思います。
<ストーリーについて>
・なにもやりたいことがなかった自分が、母の他界により、どういった過程でなぜ嫌っていた海外留学を決めたのか。
・カナダでどんな壁にぶつかり、どういう風に乗り越えたか。
山あり谷ありの人生を振り返り、就活にむけての自己分析も兼ねて、これをきっかけに自分を成長させられる素敵な仕事と仲間をみつけることができればいいなと思っております。

たおかすぐる
1993年に北海道の函館で次男として生まれて、中2の時に父親の転勤で札幌に引っ越し。大学四年の代を休学して留学したので、今年で大学四年生の23歳になる。
小さいころからサッカーをやっていて、明るさとポジティブだけが取り柄。
小学生のころは、毎日友達と遊んで、喧嘩して、先生に怒られて、学校から電話がかかってくる度に母親と一緒に謝りに行っていた。たまに母親を泣かせるようなこともしたけど、ヤンキーとか不良ではなく、いわゆるただのヤンチャ坊主。学生時代はたいして勉強もせず、高校受験失敗、センター試験失敗。
こんな勉強とは疎遠だった自分が、一生のうちにまさか留学するなんて考えもみなかった。
海外短期留学をした友達の話を聞きながら、「こいつ留学したいなんて変わってるなあ」
とさえ思っていた。
だけど、そんな考えは21歳の時180度ひっくり返った。
母がうつ病になる
俺が小4のころ、母親が父親との関係上のちょっとしたズレで、うつ病になった。
母親と父親は1年間くらい別居していて、その間は母親に面倒をみてもらっていた。
でも父親のことも大好きだったので、母親にお願いしてまた一緒に住むことになった。
ただ、家族が元通りになったからといって、一度なってしまったうつ病はそんな簡単に治るものではない。
うつ病の症状というのは、「なにをやる気にもなれず、常にだるい」「死んだ方がましだ」など、超ポジティブな考えの俺からしたら、まったく共感できないものだった。
うつ病になり始めのころは誰にも会いたくないと言って家から一歩も出ないことが長く続いた。正直言って、中学生くらいの思春期の俺にとっては、今まで友達に対して明るかった母親が、急に暗くなって愛想もなくなったので友達に会ってほしくないと少し思ってしまっていた。
親孝行は1ミリもしたことがなかった
親孝行をしなかった理由は2つ。1つは、「恥ずかしい」。思春期だったせいもあり、自分の気持ちを伝えるのが簡単そうで、かなりむずい。すげえ感謝してるのに、それにもかかわらずできない。
2つめ、「就職してからでいいや」。「今は学生だから就職してから親孝行すればいいや」
相当あほだね、子供過ぎる。まじでバカ。
俺が10歳くらいのころに母がうつ病になって、22歳になるまでの約10年間、何度か入院していた。要するに、状態が悪すぎて、自殺を試みていたってことです。
でもやはりどこかその自殺は本気のものではなく、薬を多めに飲むとかそういった類のもので、もちろん危険ではあるけど、「気持ちがわかってほしい」「同情してほしい」、そういったものが幼い自分ながらに感じることができて、そこまで自分の中で危機感というのを感じていなかった。
状態が悪いときでも、長くても数週間経ったら、回復していつも通り明るくなったりしていたからっていうのもあると思う。
ところが、2014年10月あたりから12月にかけて、今までにないくらい体調の悪い期間が長く続き、毎日夜な夜な泣いて、父親と口論する日が続いた。10年間もこういった状態が続いていたのもあり、変な意味で慣れてしまっていて、テスト前だった俺は、「勉強するから静かにして」とその間の初期のころは冷たくする始末。
ただ11月終わりころ、少しずつ異変に気付く、いつもとは程度が違うし本当につらそう、と。
その頃、初めてうつ病についてネットで調べた。それについてわかっていたつもりだった、10年間もその病気を患った母と一緒に過ごしてきているから。ただ、うつ病の人の考え、その人たちにやってはいけない行動、言動などがリスト化されている表みたいなやつをネット上で見て、ちょっとやべえってなった。今まで相当傷つけただろうな、と。
俺が今まで母親にやってきたこと、言ってきたことが、その表にほとんど当てはまっていた。兄貴はどうやら母親を慰めたりしていたようだが、俺はまったくしていなかった。
人生で初めて、母親のためになんかしてあげよう、そう思った。行きたい場所に連れてってあげたりとか、そんなことしかできないけど初めてしてあげようと思った。
人生初、母への親孝行の日
大学生の俺は、居酒屋でバイトをしていて、学校にもいかずバイトと遊びばっかり。
2014年12月7日。その日も、忘年会と称して大学の仲いい友達たちと朝まで遊んでいた。
明日学校もバイトも休みだから、母親が前から行きたいって言っていた「さっぽろ雪まつり」に連れて行こう。状態がその時すごく悪かった母親に、人生で初めて気を使ったときだった。今までそんなことしたことなかったから、たかが一緒に外出するだけだけど、友達と遊んでいるときからちょっと緊張していた。
どう話を切り出そう、どうやったらさりげなく誘えるだろう、って。
そんなこんな考えながら忘年会も終わり、朝6時ころ家に帰った、
家に、警察の人がいた。すげえ胸騒ぎがした
俺「なにしたの?」
親父「母さんが練炭自殺するって手紙を残して、早朝に一人でこっそり車でどっかいった」
俺「なんでそれ俺に連絡しなかった?」
親父「そこまで大事だと思わなかった」。
親父は、いつものことだろうからなんだかんだ大丈夫だろうと思って俺に連絡しなかったらしい。
ブチ切れました。俺に連絡しなかったことに対してもそうだし、そもそも自分で探す前に警察に連絡をしている点に。母親の性格を考えると、この自殺も本気ではないのは確か、自分の気持ちをわかってほしいだけ、死にたいなんて本当は思ってない。だからこそすぐ見つけられるような家の近所にいるのは間違いないって、普通なら確信できるだろって。
案の定、家を飛び出してすぐに見つけた。徒歩2分くらいのとこの細い道路に車が止まっていた、練炭のせいで窓は曇っていた。
何度呼びかけても応答がない。すぐに救急車を呼んで、119の指示で、自分の母親に心臓マッサージをした。
顔は真っ青になっていて、心臓を押すと、口から煙が出てきた。
必死に抑えようとしたけど手の震えが止まらなかった。
その時すでに結構な時間が経っていて、診断の結果は、命はとりとめたものの脳死。
余命1か月を宣告された、泣き崩れた。
俺が母親に唯一できたこと
脳死になった今、今までの感謝を伝えたくても伝えられない。せっかく小さい勇気を振り絞って、初めて母親にやってあげようとしたことが、ほんの数時間遅かった。もう一日だけ早く、何か母のためにしてあげていたら何か変わっていたかもしれない。
後悔しまくって、泣きまくった。「親孝行、したいときには親は無し」っていう言葉は何度も聞いたことがあった、まさかその言葉が自分にのしかかってくるとは思わなかった。
俺が母親にできたことは、母親が倒れた後に、病院で髪の毛と手足を洗ってあげたことだけ。
21年間大切に育ててくれた母親、ただの大雨警報ごときで外出中の俺に「大丈夫かい。」
ってメールをくれていたそんな大切に育ててくれた母親に、俺ができたことはそれだけだった。
物も何も食えず、ひたすら泣いた。毎日夢に母親が出てきた。今までの21年間貫いてきたポジティブな自分は、どっかに消え去った。
ばあちゃん(母さん側)は病院の端っこの廊下で泣いていた俺をいつも慰めてくれた、
「お前がお母さん見つけてくれてなかったら、最後にお母さんにお別れできなかった、ありがとう。」って
留学決意
それから毎日落ち込んでいた俺だったが、今まで一切泣かないで慰め続けてくれたばあちゃんが、葬式の時初めて号泣しているのを見た。
一番悲しかっただろうばあちゃんが、涙を我慢して孫の俺を慰め続けてくれたことを肌で感じた瞬間だった。
これ以上悲しませるのはマジでだめだって思った、そしてこのままの俺じゃだめだと本気で思った。綺麗ごとでもなんでもなしに心の底から、今まで俺の成長に携わってきてくれた人全員に幸せになって死んで行ってほしいって本気で思った。
クリスマスの日に母親が亡くなり、葬式やらなんやらが全部終わったのが1月7日だった、なぜだか、今でも日にちを覚えている。
親戚全員に恩返しするために、「こいつ生まれてきてよかったな」って親戚全員に思わせることを人生のゴールに設定した、そうするにはどうすればいいか考えた。
その時ざっくり考え付いたのが、大企業に就職すること。やりたいことが特になく、どこの企業、とかではなく、「大企業」。そうすればみんな喜んでくれると思った。
今思えば、浅はかだね。
ただ、その時は本気でそう考えていて、
高学歴でもなんでもない、受験を一度も成功したことのない、ただバイトして遊んでいた自分が今のままでそんな大きい会社に入れるとは思わず、他の人たちに差をつける何かを求めていた時に、TOEICの点数なのかなと考えた。グローバル社会が進行しているから、英語を身につければもしかしたら大企業に入れるんじゃないか、ってその時は考えた。
これも浅はかだけど。
就活が4月頃から始まる自分にとって、残りの3か月でTOEICのスコアを効率よく上げるにはどうするか考えた、留学だった。理由はどうあれ、今まで人生でやりたいことが一切なかった俺が初めて、自分の意思で留学したいと思えた、今まで生理的に拒否っていた海外留学をすんなり決めることができた、その時不在だった親父が家に帰ってくるのを待てず、相談なしでその場で留学エージェントに勝手に連絡をした。
こりゃまた辛い日々
当初は、父親に「3か月の短期留学をしたい」と話して、その方向で話を進めていたが、仲のいい友達(TOEIC860点保持)が1年間留学することを知って、負けず嫌いな俺は、
「あんなに英語できるあいつが1年留学するのに、なんもできない俺が3か月かよ。」って思い、結局カナダに一年間留学することになった。
日本出発前の空港にて。

正直、最初の3か月はまあ辛かった、当たり前だよね、英語もろくに勉強してこなかった奴が急にカナダに行ったから。今までなんだかんだバイトやらなんやらうまくやってきて褒められることも多くあり、軽く自信のあった俺は、なんとかなるだろうという思いだった。
そんなのは速攻ボコボコにされた。
語学学校に3か月通いそこから働こうと思っていた俺は、学校に入る際の最初のレベル分けのテストで、中くらいのレベルのクラスになった。授業が終わって、「結局なんのことに関する授業だったの?」っていうレベルだった。まったく理解できない、終いには、22歳のちょっと自信のあった自分が、16歳のメキシコ人に英語をバカにされるという始末。かなりの屈辱だった。たぶん一生忘れられないと思う。
ただ、そこで負けず嫌いに火が付いた、そこから学校に通う3か月間、一日も欠かさず毎日14時間勉強した、みんながパーティーをしている時、一人で黙々と図書館に行って勉強した、せっかくの海外で、日本でもできるようなそんなことをやるのはいいことかどうかわかんないけど、悔しすぎてそうしないと気が済まなかった。
バイトを始めて、速攻クビ宣告
学校も無事卒業し、勉強の成果もあってか、日常会話くらいならギリギリできるようになった。留学エージェントの方に相談し、英語が伸びやすい環境の仕事はなんだと尋ねると、コーヒー屋さんと言われたので、コーヒーなんてまったく飲まないけど、英語のためだけにコーヒー屋さんで働くことを決意。
履歴書を作って、直接店まで訪問して、雇ってくださいと直接交渉。
もちろんコーヒー屋さんで働くには当時の英語力では絶対に不十分なのは重々承知だったが、トライするのはタダだなと思って、思いっきり笑顔で面接をした。
そしたら、なぜか合格。なぜかは、その時はわからない。
ここからまた辛い日々が始まるぞーなんて考えていたら、その想像を優に超えてきた。
みんながなんて言っているのかまったく理解できなくて、お客さんにすら嫌な顔をされて、もう辛すぎ。
2日間働いたのち、スーパーバイザーに言われた。
「お前の英語力ではここで働けないと思う。違う仕事探したら?」事実上のクビ宣言。
カナダは使えない奴だったらどんどんクビにされるよ、って聞いていたけど、日本の居酒屋でバイトリーダーをやっていた自分がまさかな、なんて思っていた。
即座に、「もう一日ください」とお願いした。
そこなら確実に英語が伸びるって確信していたから。
「2日間の連休後、もう1日だけシフトあげるけど、それでダメだったらクビ。」と単刀直入に言われ、その2日でできることを考えた。
そこで、連休中は店に行って、給料いらないから練習がてら働かせてくれと同僚にお願いした。
「お前なに言ってんの?」といった目で見られたのは今でも覚えている。コーヒーに関しては無知で、さらに英語もできない。取柄はゼロに近かったのでできることはやってやろうという開き直りの気持ちと共に、俺を解雇したら後悔すんぞ、くらいの生意気な気持ちだった。まだ覚えなくていいよと言われていたメニューやらなんやらも全部覚えてやろうと思い、ネットで調べながら、「モカってなによ。」とか、「ラテって聞いたことあるぞ」とかそのレベルからのスタートだった。
2日連続、朝から晩まで働いた。
3日後、スーパーバイザーに、これでもだめだと判断するなら潔く辞めます、って言ったら、思わぬ反応。その人は韓国人なのだが、
「私もカナダに来た頃、やる気はあるのになにやってもクビにされてお前とまったく同じ状況だった。」
それが俺を雇ってくれた理由だったらしい。「英語力だけで評価したくなかった」って。
そのあとに言われた「Good job」がたまらなく嬉しかった。
そこではカナダ生活が終わる最後まで働いて、たくさんのことを経験させてもらった。
楽しいことよりしんどいことの方が多かったような気もするけど、
赤ちゃんみたいに「これ英語でなんていうの?」「この言い方合ってる?」ってしつこく聞いてはメモを取る俺に嫌な顔せずに、全員が、毎回丁寧に教えてくれた。
仕事を始めた当初、英語に関してはまったく自信がなく、正直たったの2日でできるようになるわけねえだろとか思いもしたが、それはただできない自分を正当化しようとしているだけ。
「できる・できない、を考える暇があるなら、まず黙ってやれ。
へぼい馬鹿な俺が求められてるのはやろうとするかしないか。」なんだなと学んだ。
みんなが最後に開いてくれたお別れパーティー。

周りの人には本当に助けてもらった。かなり感謝しています、ありがとうございます。
TOEIC初受験の結果。。。
カナダ生活も残り少々。この流れからすると「TOEIC高得点取るんだろうな。」甘い。
そう思ったなら俺の脳みそを買いかぶりすぎです。
カナダ留学の当初の目的はTOEICであったが、カナダで暮らしているうちに現地の人とコミュニケーションを取るにはスピーキングとリスニングが必要不可欠だと思い、TOEICで試されるリーディングはまったく勉強しなかった。今考えればただの甘えだった。忙しいからって理由を作って、やろうとしなかったっていうのが正しいかも。
カナダに住んでいればTOEICの点数は必然的に上がるだろう、そう楽観的に捉えていた。
2016年2月の終わりに帰国することに決まったので、いよいよ2015年12月12日、カナダ生活の総括として、人生初のTOEICを受けることにした。TOEIC860点を持っている友達が、
「カナダに住んでるし、800は楽勝で超えるべ。」
せめて800は取らないと日本には恥ずかしくて帰れないなと思っていたので、その言葉を信じて、試験が終わった後はただ結果を待っていた。2週間後の12月26日、結果を見て現実を突き付けられた。

「635点」
「は?」ってなった。
その時初めて気づいた、海外に住んでいるからって自主的に本を読まなければリーディングは上がるはずもないし、
リスニングに関しては、コーヒー屋さんで働いていて、ネイティブの人とよく話すから満点近いだろうって思っていたが、ジェスチャーとかに助けられて理解できていたんだろうな、って。
ダサすぎて、自分にドン引きした。
点数そのものがダサいとかではなくて、この俺がただ生活してるだけで800取れると思ってたその思考がダサいってこと。
自分を客観的に見れていなかった。その時、初めて自分の甘さに気付いた。
一年間近くカナダにいて635、、??
「俺今までなにしてたんだ??????」
なんなら、850くらい取れるんじゃないかとか思ってたから、635の数字を見たときは愕然とした。予想点数とのギャップが約200点。「このままではまずい。」
自分の中での想像していた点数を大きく下回っていたので、悔しさ、というか90%くらいの焦りから、一気に火が付いた。
次の1月30日のTOEICが日本に帰る前のラストチャンス。残りたったの約1か月。
ネットでTOEICについて調べまくった、どう勉強するのが効率がいいのか、だいたい1か月で平均どのくらい伸ばすことができるのか。
どこをどう探しても、「毎日8時間やって100点伸びました」とか、「毎日10時間で120点伸びました」とかしかなかった。頑張っても平均で100点しか伸びないらしい。しかも100点伸びるだけですごいとのこと。
ただ、100点伸びたところで735点。納得いかない。
そこで、海外に住んでいてこの選択をするのは本当に気が引けたが、プライドを捨て、TOEICの学校に行くことにした。ただ、そこでも平均100点~150点の伸びらしい。自力でやるよりはちょっと平均点が上がったからそこに賭けるしかなかった。
俺「900点取ります」
先生「え、ほんとに?かなり厳しいと思うなあ、目指してもいいと思うけど」
本気でイラッとした。心の底から「マジで黙れ、勝手に人の限界決めんなや。」と思った。
その言葉をエールだと受け取り、脳みそに焼き付けた。他の人は厳しいのかもしんないけど、
「俺は普通じゃない、俺なら絶対取れる。俺は無敵」
ナルシスト+バカ丸出しだけど、テストまでの1か月間、自分を1ミリも疑わずに信じ続けた。目標点まで265点。1か月で100点伸ばしてすごいと言われる人の二倍以上。。
1月3日から学校がスタートして、土日はコーヒー屋でバイトだったが、その他の6時間の睡眠時間以外は本当に英語漬けにした。登校時間はリスニング、ご飯食べながら単語帳、削れる時間はとことん削った。10時間で120点の伸びなら、それ以上やればもうちょっと伸びるだろう、と単純に考えたから。
ところが、学校で毎週金曜日に行われる模試で、みんなが毎週着々と点数を伸ばしていくのに対し、俺の点数は平行線だった。というか、上がるどころか2週目の模試に関しては下がりやがった。
テストまで残り2週間。諦めて、約170点アップの800点でいいかもな、結構な伸びじゃんそれ、ってか平行線の俺からしたらそれですら厳しいぞって感じ。
やる気では勉強はどうにもならないんだな、何回かそう思った。
ただ、そこでふと思ったのが、今までマジでテスト勉強したことないから、どうなるかわかんないな、って。
「できるかできないか考える暇あんなら黙ってやれや」って自分を鼓舞した。
そして、テスト本番前日の1月29日、最後の模試をやった。
それも点数が平行線だった。
本当にダメ男だな、って思いつつも、もう開きなおった。
こんだけやったから後悔はない、って言ったら大嘘だし、結果が付いてこないなら正直言って後悔だらけ。でも今更考えても無駄だし、考えるのやめよう。
結果
1月30日テスト本番。全て終えてなんかすっきり。手ごたえがあったかどうかは知らん、考えても点数変わんないしって、相変わらずの開き直り。
結果。。。
上が12月に受けた時のやつ、下が今回のやつ。

1か月で255点アップの「890点」。
目標の900は超えなかったけど、途中で800点に目標点を下げてたら間違いなく800もいってなかった。
890点に関しては、すごい・ダサい、色々な意見があると思う。
ただ、先生にすら軽く小ばかにされてた状況の中、諦めないで自分の目標を貫き通したことで、点数以上の何か大切なものを掴んだような気がする。
最後に
こんなに長い私なんかの文章にお付き合い頂きありがとうございました。
家族や周りの人に支えられ、決して誰もができるわけでもない海外留学を経験させてもらいました。
最後に私が一番伝えたかったこと、それは、
「明日、明日、と先延ばしにしないこと。明日が来ないことはマジで起こりうる」ということ。はいはい、と受け流すかもしれないが、それはまさに過去の俺。
その世の中に溢れかえっているありきたりの言葉を、真摯に受け止めることは当たり前の言葉なだけにものすごく難しく、脳みそのどっかにしまいこんで自分は関係ないと思い込んでしまう。
まだ親孝行をしていないと少しでも思う人は、後でじゃなくて今、感謝の気持ちをどんな形でもいいので伝えることを本当に強くおすすめします。そしてこれを読んで少しでもそういう人が増えたならば、それが今自分にできる、亡くなった母親へのせめてものの親孝行なのかなと思います。
今の私は、大袈裟でもなんでもなしに、明日死んでもいいように毎日を本気で楽しんでいます。
「明日なにがあるかわからない、今を楽しむ」
これが母に教えられた最後の財産なので。
そしてカナダ生活の1年間で学んだこと、
・「自分で自分の限界を作らないこと、そしたら大抵のことは俺ならできると自信をつけることができたこと。」
・「どんなに辛いと感じても、母親が感じていた辛さを超えることは絶対にないと思えるようになったこと。」
色んな壁にぶち当たってきては自分なりに乗り越えてきたカナダ生活でしたが、
かといって未だに自分の力でどう社会に貢献できるかまったくわからないし想像ができない、就活を控えている学生としては失格そのものかもしれないけど、当初の大企業に就職しなければならないんだ、っていう変な執着心は無くなった。
高学歴の人たちに比べると、たいした脳みそは持っていないが、がむしゃらさと反骨心なら誰にも負けないっていう自分の強みを評価してくれる人がいて、そういう人と働けたら光栄だな、と。
自分がやりたい仕事を、現時点では明確にすることはできていないが、尊敬できる人、この人と一緒にいたら楽しいと思える人と働けるならば、どんな仕事だろうが最高の人生を送れるのではないかと自分なりに分析しています。
というかそういう人と働くこと、それが今の自分が最もやりたいことなのかもしれない。