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16/2/3

あの頃、ビアハウス:Auf Wiederseh´n(2)

Image by Olia Gozha

何が大変といって、アパートの明け渡しほど、ややこしいことはなかった.

アメリカでの暮らしに必要な最小限の身の回り品をだけを残して、後は全て処分しなければならなかった。

家具類はからステレオ、クーラー、冷蔵庫、電話、衣類、書籍等々(自慢ではないが、テレビは持たなかった、)売れる物はすべて、友人知人、その他のつてで二束三文で換金したり引き取ってもらったりした。

その中でもどうしても処分しきれないものに、当時飼っていた「ポチ」というトラネコちゃん、そして、お気に入りの白いギターとLPたちがあった。

キャッツ・スティーブン、ジャニス・イアン、スティーリー・ダン、中山ラビ、エディット・ピアフ、MJQ、 サイモン&ガーファンクル、ジョン・デンバー、ジョルジュ・ムスタキ・・・どれもわたしの青春時代の心の支えになった音楽である。とても捨てられはしなかった。

 ポチといえば、毎朝の出勤に、追い返しても追い返しても駅までついてきて、わたしを見送ってその後は、日中開けっ放しの台所の窓から入り込み、ひっそりわたしの帰宅を待っているネコだったのである。
これをどうして捨てられよか。

 ポチも白いギターもLPも、近くに住んでいた「ミチべぇ」こと、会社の後輩だあり親友のご両親宅で、アメリカからいつ帰るともわからないわたしではあったが、預かってもらえることになったのだ。

 白いサムソナイトの旅行かばん20キロの荷物がわたしの全財産である。 その中にたった一枚、聴けるわけでもないのにわたしは大好きな「ジョルジュ・ムスタキ」のLPを忍び込ませた。

 1978年1月19日、母、義弟、親友のミチべぇに加えて、ビアハウスの常連でありキャセイの我が友でもありDavidに見送られ、当時の東京国際空港「羽田」から飛び立ったのです。

さらばオフィス、さらばアサヒ、そして、さらば我が仲間たち、我が、苦しくも楽しかりし大阪の青春。1978年1月の出立でした。

 と言うわけで、アサヒビアハウス梅田のバイト歌姫はアメリカへひとッ飛びと相成り、アサヒのステージ同様、今回を持ちまして取り合えずいったん幕をおろさしていただきます。

 アサヒでの歌姫は、これで終わらず再び、アメリカからの帰国、そして、ポルトガルからの一時帰国時にカムバックするのでありますが、それは、またいずれかの折にでも。

このシリーズは、次回のえぴろぐで一件落着です。

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