
相手「もうログアウトします。近所の人が家に押し寄せて人でいっぱいです。いつでも健康に気をつけて。あなたのお母さん、お父さん、おばあちゃんも・・・」
こんばんは。
田舎で地域づくりをしている圡田(つちだ)です。
私は東京で3年間工業デザイナーとして働き、その後青年海外協力隊として、先の戦争で激戦地であったフィリピン共和国レイテ島の町役場で2年半働いてました。
レイテ島では魚の保護区や養殖場、漁民の組織化を行いましたが、英語は喋れず、海外留学の経験も無く、言葉も金もコネも無い状態で、プロジェクトを立ち上げました。
こんな人間でしたが、プロジェクトが全て上手く回り円滑に進むことができたのは、2年半お世話になったホストマザーのおかげです。
日本に帰国してもうすぐ3年。
お世話になった相手はfacebookでやり取りしてましたが、2013年の台風で亡くなりました。
今回そのお話と、英検5級の僕が青年海外協力隊へ行った理由を書きます。
長いお話ですが、何かの役に立てれば幸いです。
【英検5級で試験を受け、外国で働く】
・・・外国へ行く前に、昔の話を書きます。
私は大学生のとき少年漫画を沢山描いてました。
漫画を描いては週刊少年ジャンプの集英社に送り、駄目なら持ち込みに行く日々。
漫画家を目指していた理由は簡単です。
それはただ単に「漫画を読むのが好きだから」です(笑)
しかし「読むこと」と「描くこと」は全く違い、いくら描いても駄目な日々。
応募しても落選落選のそのまた落選・・・。
応募に疑問を持ち、とうとう集英社へ持ち込みに行きました。

圡田「僕のストーリー漫画のどこが悪いのですか?ワンピースみたいに描きたいのですが・・・」
編集者「ギャグ漫画を描いた方がいいんじゃないの? (駄目だこいつ才能ないな・・)」
週刊少年ジャンプ集英社1階はファミリーレストランのようなボックス席が沢山ありました。
そこで僕より若い子が、もの凄く上手い漫画を描いてました。
それを見て思いました。
「ヤバイこの世界・・・ 漫画家になるのは諦めよう・・・」
そして漫画家になることを諦め就職活動に専念。
工業高校、工業大学と工業系の知識があったため、事務メーカーにて工業デザイナーとして、
東京で働くことになりました。

社会人時代は働いて働いて働きました。
休日深夜サービス残業なんて当たり前です。
毎日デザインのことばかり考え、雑誌を見たり美術館に行ったりと、仕事以外でも
24時間デザインのことしか考えていませんでした。
青春時代でしたが、仕事に没頭するあまり恋愛もせず、とにかく無我夢中で
工業デザイナーとして名を上げようと必死でした。
今思えば「もう少し遊んでおけば良かったなぁ」と思いますが、
1つのことに夢中になる私であるため、遊ぶ事も一切しませんでした。
さらにデザインの勉強をするため、休日は書店で雑誌を購入し美術館へ行きました。

そのときは、東京都写真美術館に行き午前中は作品(写真)を見て回りました。
おそらくどんな美術館好きな方も、1〜2時間あれば美術館は見れてしまいます。
「午後から何をしようかな。」
1時間かけて美術館を見た後「これからどうしようかな?」と暢気に思っていたとき、
美術館付属の小さな映画館があることに気がつきました。
その映画館はB級映画やドキュメンタリー映画しか上映しない映画館でしたが、
フィリピンのゴミ問題を題材にした「バスーラ」という映画が上映されていました。

それだけなら私は秋葉原で趣味のパソコン部品をジャンクコーナーから漁りに行きますが、当時バスーラの監督である四ノ宮監督が映画館に来ていたことや、監督の映画3本立てであったため時間が潰せ、監督にも質問できる機会があったため映画を見ることにしました。
「暇つぶしにはちょうどいいか」
映画は時間潰しのために見ただけでしたが、純粋で当時若かった私は衝撃を受けました。
「フィリピンまじヤバイ・・・」
なぜならフィリピンという場所もイマイチ分からなかった私が、同じアジア人がゴミを漁り、ゴミを売ってゴミの中で暮している世界があることなど、デザイン馬鹿だった私は知るよしもなく、ただただ衝撃を受けただけでした。

その後、家に帰ってからデザインの勉強はせず「どうしたら問題が解決できるか?」だけを考える日が続きました。
そもそも国際協力や開発学、文化人類学など学んでいない私にとって未知の世界であり、フィリピンのスモーキーマウンテンのゴミ問題を解決するなんて夢のまた夢です。
しかも解決方法の「分からないところが分かりません」
「とにかくヤバイけどなんだろう・・・何をすればいいの??」
小学生に因数分解を教えるようなものです。
少ない頭で考えた結果、日本でフィリピンを支援するNPOに所属して日本側からフィリピンを支援するか、何も考えずフィリピンに行き、日系NGOに所属しフィリピンを支援するか…。
しかし英語も話せない私が何が出来るのだろうか、答えが出せない日々が続きました。
深夜までデザインの仕事をパソコンでしつつ、頭の中で「どうすればいいのか?」と考えていても少ない頭では分かりません。
「分からないことはグーグルに聞こう」

とりあえず分からないことがあれば、現代風にgoogleでググって回答を見つけることにしました。
googleで検索するとゴミ問題の背景が見えてきました。
実はフィリピンの首都マニラにあるスモーキーマウンテンは、フィリピンの田舎出身者である農民や漁民が多いということです。
フィリピンの田舎で収入を得ることが難しく、マニラへ出稼ぎに来て、初めは仕事があったが仕事がなくなると帰るすべがなく、ゴミ山でゴミを拾いスクラップを換金して生活するスタイルが定着しました。
つまり少ない脳みそで考えた結果「ゴミ山の問題を解決しても問題は解決しない」ということでした。
少なくとも
「マニラに出稼ぎに来る農民や漁民が無くならない限りこの悪循環はなくならない」ということです。
「地方の農民や漁民を豊かにすればマニラに出稼ぎに来る人は少なくなるか。それを出来る仕事は無いかな。」
会社でパソコンを操作しながら、そんな風に考える日々が続きました。
・・・そしてまたgoogleで検索してみると青年海外協力隊という怪しい隊を見つけました。
今となっては国際協力機構が行う海外ボランティア制度として有名ですが、デザイン畑だった私は生まれてから1度も青年海外協力隊の名前を知るよしもありませんでした。
青年海外協力隊の要請内容別でフィリピン共和国を調べてみると「漁民の収益向上」という仕事内容がありました。
それを見たとき私は「これが本当にやりたい仕事かも」そう思って仕事をしながら詳しく調べてみました。
どうやら青年海外協力隊は試験に合格しなければ隊員になれず、しかも職種が大きく分けられ豊富な経験が必要であり、語学も堪能でなければなりません。
びっくりすることに、開発学の知識も無ければ経験も無く留学もしたとはありません。
おまけに英語の能力は中学1年生の時に取得した英検5級しかない。

KEN : Is this a pen?
HANAKO : No, it's not. It is an apple.
こんなレベルしかない。
「さあどうしよう・・・。」
・・・仕方ないので、とりあえず受験してみることにしました。
落ちる前提で行動すれば怖いもの無しです。
漫画を昔描いていたので、1次試験の作文を書くことは得意です。
途上国の課題や解決策をザックリ書きました。
その結果1次試験合格。
「やべぇ・・・書類選考通ってしまった。」
どことなく悪い気もしましたが、どうせ語学試験と面接でボロが出て落とされるに違いありません。
しかも2次試験は平日の昼間にあり、会社を休まなくてはならずそれも心苦しい。
そのまま辞退しようと考えましたが「試験にはどんな人が来ているのだろう」「JICAとはどんな組織なのか」「一生に一回だから受けてみようか・・・」そんなふうに心が迷い会社を休みました。
圡田「すいません、朝から下痢と発熱のため会社に行っても仕事ができないため休ませてもらえますか?」
先輩「なんだ!?風邪か?しっかり休んで治してこいよ!仕事は何とかするから!」
圡田「申し訳ないです。ありがとうございます(ごめんなさい)」

試験当日、英語の語学試験でした。
しかし語学試験は私の予想を裏切ります。
「英語の問題文が英語で書かれている」
私の語学レベルは中学1年で止まっていたので「次の日本語の問題を読んで英語で回答しましょう。」そんな感じの問題が出ると思っていました。
問題が英語で書かれているので、問題の意味が分かりません・・・。
さらにリスニングテストは初めから最後まで英語で喋るので何ページをやっているのか分かりません。
なんと言うか、現代風に言うと「無理ゲー」です。
「やっぱりやりたいことをやることは難しい」
「情熱だけじゃあ無理だったか・・・」
そこであきらめた僕は鉛筆に番号を書き、鉛筆を転がしてマークシートに記載していきました。
他の受験生の迷惑にならないように、静かに鉛筆を転がす・・・。

「問題を読んでないからもう終わってしまった・・」
結果一番早くマークシートを埋めることができ、教室から早々と出て行きました。
そんな酷い試験を行ったため、なぜが清々しく、面接も緊張することなく自分の意見やフィリピンでの解決方法や問題点など詳しく語ることが出来ました。

今思えば相当堂々と面接官と話していたような気がします。
「面白い体験だったな」
そう思い試験会場を後にしました。
試験結果は諦め、次の日から気持ちを変え真面目に仕事をしました。韓国で行われた展示会に役員と同行するなど仕事に熱が入っていました。

でもやっぱり気になる合格発表。
いつも通り会社で仕事をしながら昼ご飯を食べていると、何となく試験結果が気になった。
宝くじの当選サイトを見る気分で青年海外協力隊のホームページから合格者一覧のPDFデータを開いてみました。
「やっぱり番号が無い」
まぁそんな簡単に適当に試験を受けた者が受かるはずがない。
しかし番号を見ると、とても合格者が少ないように思えました。
なぜなら番号の順番が飛び飛びであり、数人もしくは数十人に1人の割合でしか合格者番号が記載されていなかったからです。
「さすが倍率高いなぁ」そう思い画面を閉じようと、右上の×印のアイコンをクリックしました。
しかしその前に、番号は縦一覧でなく横から読むものと気がつきました。
そこで恐る恐る横をみると・・・
なんと自分の番号が掲載されていた。
「やばい・・・大変なことになってしまった」
画面を見たとき喜びより不安しか無かった。
先輩「どうしたー?」
圡田「あぁ・・・なんでもないです・・・(なんでもあるけど・・・)」
なぜなら英語も知識も経験も無く、フィリピンにコネも無い。
そんなデザインしか知らない若者が途上国に飛び込んで大丈夫だろうか?
と、いうよりどのようにして会社を辞めようかな・・・
まさか合格するとは思っておらず、会社には何の報告もしていなかったのだ。
「フィリピン人と結婚することとなりました」「宝くじが当たったのでフィリピンで暮します」
・・・適当に嘘を考えたが、どうにも信頼性がありません。
決まってしまった事はしょうがなく、後々引きずるほど会社に与えるダメージは大きくなります。
社会人が会社を辞めることは相当難しいのだ。
案の定上司から怒られ、引き止められるが最後は見放されてしまった。
部長や取締役は認めてくれたため、無事会社を辞めることができました。
【2010年3月31日、3年前入社した会社を退社してフィリピンに行くこととなった】

青年海外協力隊隊員は派遣前訓練があり、語学をみっちりと勉強しなければならない。
私の英語能力は英検5級。しかもハッタリと強運と合格したガチガチの偽物です。
持っているものはフィリピンの漁村を豊かにしたいという気持ちだけ。
しかも「どうやって」「どんな風に」「誰が」など何もかも未定であったため不安だけが残ります。
まぁ不安に思っても仕方なく、2010年7月から福島県二本松市で事前語学研修が始まりました。

私が受ける語学は英語。
語学はクラス分けされるのだが、もちろん語学レベル最低のボトムクラス。
そこで4人の生徒と1人の先生から授業を受けることとなりました。
隠しきれない語学のボロが出始め、朝8時から夜11時まで英語漬けの生活を送りました。
英語の課題、作文、テスト、休日も平日も英語。5時に授業が終わるが私のクラスはずっと英語。
そんな日々が続いたが、世の中そんなに甘くない。付け焼き刃で鍛えた英語だが、それで上手くなれば「スピードラーニング」も「英会話」もいらないだろう。
英語の先生「なんでアルファベットのbとdを書き間違えるんだ!?」
圡田「えぇ〜と・・・そうですね。すいません・・・」
英語の先生「いままでこんな生徒はみたことない」
圡田「そうですよね・・・ほんと、すいません・・・」
やっぱり中間テストは最悪な出来で、先生にマジ切れされて怒られる始末。
他の隊員を見ても、私だけホームだがアウェイ感が漂う。。。
最低の生徒と言われながらも必死で勉強し最終試験を向かえた。
これが漫画や映画の世界であれば、最後は努力が報われるのである。
しかしいくら頑張り努力したといえ、やはり2ヶ月で鍛えた英語はそれほど役に立たない。
「【テスト中】やばいわ・・・・全然わからない」
途上国の問題を解決したい。
その思いだけで必死に少ない英語の知識を振り絞りました。
それでも分からない問題は・・・・
そう、鉛筆転がしです。

今回は最後の最後まで見直しや、考え直しを行い最終試験を終えました。
しかし解らない問題が多数だったため、内心落ち込んでました。
「落ちたら英語の先生に迷惑かけるな・・・どうしよう」
その後・・・
何と結果は合格。しかも点数は良かった。
毎回思うが強運の持ち主なのか、運命なのか分からないが、私は偶然が重なり語学も知識も経験も無いままフィリピンに行くこととなった。
このとき私はフィリピン共和国という国に呼ばれた気がした。
話を戻そう。
2010年10月、日本を出国し私はフィリピン共和国へ向かった。

試験の強運もあったが、フィリピンでも強運が続きました。
フィリピンでは第二次世界大戦の激戦地であったレイテ島に派遣されることになり、勤務先は町の農業事務所となりました。
私はてっきり英語を使って仕事をしなければならないと思っていましたが、事務所に行ってみると使っている言葉は現地語。しかもタガログ語でなくマイナーなワライワライ語を使ってました。
もちろん勉強したことも無く、喋った事もない。そこで普通の人は凹むのであろうが私は逆に
「英語使わなくて良いなんてラッキー」と思ってしまった。
多くの住民は現地語を喋り事務所でも現地語のためワライワライ語は必須であった。
つまり現地語が出来なければ何もできません。
勉強するにも辞書も教科書も無く、仕方が無いため自分で辞書を作ることにしました。
首からネックストラップをかけ、小さなメモ帳に穴を開けストラップを通します。
メモ帳へはカタカナで覚えた単語を書いていく。
とにかく音で覚えた言葉をメモ帳へ書いていく。
やってることは、サラリーマン金太郎のナビリア編と対して変わりない。
とにかく言葉を覚えなければ、同僚とのコミニケーションも住民から意見を聞く事もできない。
そもそもレイテ島に派遣された要請内容は「漁民の収益向上をしてください」という内容だった。
何らかの理由でレイテ島タナウアン町の漁民の収入が減っているので、何か企画して収益を上げてきてね!という要請内容だった。
つまり
・カネ無し ・コネ無し ・コトバ無し
ここから仕事が始まった。しかも期限は2年で成果を上げなければならない。
「無理ゲーじゃない?」当初はそんな気持ちから始まりました。
さらにフィリピン共和国レイテ島の田舎なので、アパートやマンションといった建物が無い。
そのため無理して個人宅へホームステイさせてもらいました。
当分の仕事はワライワライ語という言葉を覚えることです。家に帰るとホストマザーからフラッシュカードを与えられ毎日ワライワライ語三昧であった。
町役場に行ってもワライワライ語。
買い物に行ってもワライワライ語。
自宅に帰ってもワライワライ語。
あどけない現地語でも地域住民と会話し、少しずつ単語を覚え、多くの人と話し、言葉のイントネーションを整えていった。
寝る時間以外すべてワライワライ語。
そのうち夢までワライワライ語になった。
そして半年後、生活やコミニケーションに不自由なくワライワライ語を使いこなせるようになった。
仕事でも現地語をスムーズに使うことができ、ワライワライ語でジョークや世間話をできるようになりました。
私が現地語で活動が出来たのは、ワライワライ語素人の私に飽きずに教えてくれたホストマザーのおかげです。
そしてやっと「漁民の収益向上」に取り組めることとなった。漁民の収益向上といっても、簡単に言うと「漁民が貧乏だから何か企画してお金儲けさせてあげてね。」というものである・・・。
「ずいぶんざっくりな要請内容だな・・・」
まず初めに「なぜ収益が低下しているのか?」調べることにした。その結果・・・
海に魚が居ない!
魚が居ないから漁業で収益が上がらない。
収益が上がらないから生活が貧しい・・ごもっともである。
そして次に行ったこととしては「なぜ海に魚が居ないのか?」これを調査しました。
その結果、違法漁業や魚の乱獲が起こり、魚の数が極端に減っていたのだ。
そのため居なくなった魚を海に戻すため魚の保護区作りをすることとなった。
さらに魚の保護区内には魚礁を沈め魚の家にする。
そんなことをアメリカ平和部隊(ピースコープ)の友人と行ったが、会話は全てワライワライ語。
「英語は英語圏で話す」それがピースコープのポリシーだった。
英語が出来ない僕にとってラッキーだったが、それ以上に漁民と円滑に魚の保護区設置や、なぜ違法漁業を行うことが駄目なのか現地語で説明することができ、プロジェクトは上手く回った。
魚の保護区を作り、次の年から漁民の収入が上がるといったらそうではない。
おそらく魚が保護区に戻り、卵を産み大きくなり・・・5年以上かかってしまう。
次の年から収益を確実に上げるためには何をすれば良いのか悩んだが、結局漁民のやりたいことを支援することにした。
僕は色々提案して収入を増やしたとしても、彼らがやりたいことでなければ長続きはしない。
しかも僕が帰国したらプロジェクトを辞めてしまうかもしれない。
そのためミィーティングにミィーティング(という名の飲み会)を重ね、彼らのやりたいことを支援するようにした。
「お金儲けるためになにやりたい?」
漁民「そうだなぁ〜魚の養殖がしたいなぁ〜」
「養殖ねぇ・・・」
酒の場でやりたい事を多くの漁民から聞き出したが、誰もが養殖をやりたがっていた。理由は簡単!近くの住民が魚の養殖で儲けていたからだ。
養殖について知識が無いが、分からない事があれば養殖を行っている住民に聞けばいいし、レイテ州の漁業局の公務員に聞けば専門的な意見も聞けるだろうと考えました。
「じゃあ養殖やろうか」
漁民「でもお金ないよ」
「マジで?1ペソも?」
漁民「今日食べるのに精一杯だから・・・」
「・・・だよね。」
と、いわけで1円(1ペソ)も払えない状況から養殖場作りがスタートした。
・・・さてお金どうしよう。
凄く貧しい彼ら(漁民)から集めるわけにはいかない。
JICAに相談しても半分までしか出さないという。
半分を出すお金が無いのだ。
しかし町役場にお金(予算)はある。
そう、役場は漁民にお金を使いたくないのだ。
「町役場がお金を漁民に使うメリットをキチンと示してあげれば何とかなるかも・・・」
基本的に役所は紙で動く、いくら私の現地語が堪能でも、役所の予算を使うことによって費用対効果がどのように示されるのかまとめなければならない。
役場での会話はワライワライ語だが、書類は全て英語だ。
「さてどうしよう、英語は英語圏の人が最も上手いし・・・・」
アメリカ平和部隊(バート)「テツ!何を困っているんだ?」
「いやぁ英語の書類が書けなくて・・・」
アメリカ平和部隊(バート)「なるほど日本人だもんな。仕方ないね。」
「良かったらチェックしてくれない?」
アメリカ平和部隊(バート)「いいよ!楽勝だよ。」
翌日1日かけて書いた書類をアメリカ平和部隊(バート)に見せた。
アメリカ平和部隊(バート)「・・・言いたいことは分かる(苦笑い)」
「すまないねぇ〜チェックをお願いします。」
アメリカ平和部隊(バート)「テツ悪い。全部書き直すわ。」
「・・・。」
「餅は餅屋」という言葉がある通り、英語の書類は英語を母国語とする人が書いた方が良い(笑)
バートは少し考えると15分ほどで英語の書類を書いてしまった。
アメリカ平和部隊(バート)「テツが書いたように、やさしい英語を使って全部書き直したわ。これで感動して皆動くかもね。」
「おぉ!ありがとう!(凄いなぁ・・・)」
書類の中身を簡単に説明すると、養殖場作製工事費の50%をJICA(国際協力機構)が出す。25%を町役場が出し、残りの25%を漁民が払う。漁民は賃金を労働費として払い、フィリピンの最低賃金で1ヶ月間魚の養殖場作りのために働く。町役場は実質25%しか払わないが、これからJICAと色々行いメリットがありますよ。・・・という内容のものだった。
この他にも今の漁民の暮らしぶりや、今回養殖場を作る事によってどのようなメリットが役場や漁民が受けることができるのか書かれており、素晴らしい書類が出来上がった。
英語の書類とエクセルで作ったデータをまとめて、JICAと町役場に提出。
書類に皆感動したのか数日後無事予算を獲得することができた。
しかし問題はここからだった。

※実際の写真
養殖場作製は本当にゼロからのスタートだった。
よく分からない水草や沼の回りに木が生えているため、それを取り除くところから始めた。

草が多すぎて陸か沼か分からない。
とにかく水面がキレイに現れるまで、漁民と共に沼の掃除を行った。
とにかく全部人力で行う!
しかもデング熱を持つ蚊と日本住血吸虫が居るという最悪な条件・・・。

重機なんて無いので、僕も含め漁民みんなで養殖場の枠となる竹を人力で沼に刺していきます。
くい打ち機の変わりに、体重の重さで杭(竹)を刺していく。
時々冗談も入れながら作業をし始めると、以外と楽しい。
泥まみれになりながらも、漁民やその家族と共に生活し養殖場を作り上げていった。
養殖場作製の目的は、もちろん漁業以外で収入を増やすためだ。
収入が増えれば都市部へ出稼ぎに行かなくても良くなり、貧しい人が都市部のスモーキーマウンテンでゴミを拾うことも少なくなるかもしれない。
そんなデザイナーだった昔を思い出し養殖場作りは進んでいった。

そして養殖場は2ヶ月で完成した。
工事計画は1ヶ月だったが、フィリピンでは遅れることが当たり前、2ヶ月も想定の範囲内だった。
ホームステイ先のホストマザーが漁民へ「なぜ養殖場が必要なのか?」を説明し、うまく漁民をまとめられたことが養殖場完成の近道に繋がった。
そして最後に稚魚を養殖場に入れ、餌を稚魚に与える。
これを4〜5ヶ月行えば、魚は大きくなり漁獲することが出来る。
魚はティラピアという魚を育てることとした。
これは病気になりにくく、フィリピンで2番目に人気のある魚だからだ。

ホームステイ先でもティラピアはよく食べる。
魚の素揚げだが、ホストマザーの得意料理の1つであった。
漁獲した魚を売って、もう一度エサと稚魚を買い、養殖を行うこととした。
しかしここでまた問題が発生した。
青年海外協力隊は2年間しか任国に居れないのだ。
「困ったなぁ・・・」
漁民「どうした?」
「もう日本に帰らなければならない・・・」
漁民「何とかならないのか?」
「・・・何とかするしかないか。」
何とかならないのだが、何とかすることとした。
理由はこうだ
「圡田が帰国することによって、進行中のプロジェクトが止まり、漁民や町役場が迷惑をする。そため帰国日程を半年間延ばしてもらえないだろうか?By町長」・・・という手紙をJICAの所長と外務省に送るのだ。
出来るかどうか分からないが、町長からJICA宛に私の帰国日を延ばす要望書を送ってもらった。
そしてJICAから外務省へ手続きと相談を行ってもらった。
その結果、日本国大使館でパスポートを新しく作り直し、ビザも半年間延長させるという方法でフィリピン滞在半年間延長が決まった。
・・・何とかなるときは何とかなる。
「何とかなったよー」
漁民「やったー」
そしてプロジェクトのまとめに入った。
僕が居なくても漁民のみで養殖場を運営、管理出来るように組織化しルールを決め漁業組織団体として責任を持たせるようにした。
1回目の養殖で得たお金で2回目の養殖を行う事もでき、町役場も自分の役場の手柄だと思い、視察等多数見に来るようになった。
これで行政、住民、漁民が関わり漁業と養殖で生活を支える仕組みを作り上げることができた。

帰国前、お金の無い漁民が僕のお別れパーティーをしてくれた。
お金が無いのに、どこから借金して食べ物を揃えたのか分からないが、その思いに僕は泣いた。
パーティーは昼から夜まで行われた。
夕方になると、近所の人や知らない人まで参加し盛大になっていた。
僕が彼らに与えた物は小さいことだが、この変化がフィリピンという国を大きく変えることが出来ればと思い、2013年4月日本に帰国した。
帰国後は日本から見守り、彼らが彼らのみで収益を上げられるようにしよう。
そう思い、facebookでメッセージだけやり取りするようになった。
世の中はとても便利になり、facebookでフィリピンの状況を文章や画像で確認することが出来る。
facebookはお喋り好きなフィリピン人に合うらしく、ホストファミリーの子供やホストマザーと毎週やり取りしていた。
誕生日の連絡やクリスマスのことや恋愛相談など、日本に居ながらコミニケーションを取ることができ、今後も上手くプロジェクトが進む気がしていた。
しかし、その予想は大きく外れることとなった。
2013年11月6日
この日フィリピン共和国レイテ島へ巨大台風が近づいていた。
この台風は約1週間前からフィリピンに直撃すると分かっていたが、台風慣れしたホストファミリーと日本に居る僕は「台風なんていつものことでしょ〜」と思っていた。
大きな台風が来ていたが何もアクションを取らなかった。
それが後になって大きな後悔となる。
2013年11月7日
ヤフーのトピックスでレイテ島へ直撃する台風が本当に巨大なものと知る。
しかしフィリピン滞在時も巨大台風を経験しているので、最悪家の屋根が飛んだり、木が道へ倒れてくるくらいだと思っていた。
何となく心配だったのでホストマザーにfacebook経由で連絡することをした。
「大型の台風が来てるけど大丈夫?」
ホストマザー「そうだね。とても大きい台風です。私の家に避難してきた人が沢山居ます。大きな台風じゃないことを祈ります。」
「なるほど。でも気をつけてね。」
ホストマザー「ありがとう。貴方もいつでも気をつけてね。仕事は順調?」
「そうだね、忙しくていつも時間に追われているよ。」
ホストマザー「もうログアウトします。近所の人が家に押し寄せて人でいっぱいです。いつでも健康に気をつけて。あなたのお母さん、お父さん、おばあちゃんも・・・」
「了解です。それじゃあね。 2013/11/7 21:38」
・・・facebookのログには今でも2013/11/7/ 21:38 のログが記録されている。
これがホストマザーと最後の会話になり、翌日上陸史上最大の台風がフィリピン共和国レイテ島に上陸した。(895hpa 最大瞬間風速105メートル)
台風は・・・僕が住んでいた街を直撃した。
それから音信不通の日々が続いた。
8日、9日、10日と色々な情報が入る。
レイテ島に住んで居た日本人として、NHKからの取材や地元新聞の取材、共同通信の取材も受けた。
11日になると、facebookやネットニュースで現地の悲惨な状況が報告される。
11月7日からずっと緊張しっぱなしだった。「ホストファミリーはどうしたのだろう?」「働いていた役場は大丈夫だろうか?」「どれくらいの被災規模だろう?」「養殖場はどうなったのだろう?」考えれば考えるほどきりがない。
「恐らくインターネットがダウンしているので連絡の手段が無いのだろう」ホストファミリーに何か起る分けがない。人は簡単に死なないし、東日本大震災で身内が無くなった経験も無い。心配するだけ時間の無駄だろう。
しかし仕事は手につかない。
「無事」ただそれだけの報告が欲しかった。
怪我をしても、家が無くなっても生きていれば何とかなる。
ずっと「無事だよ」の報告を待っていました。
そして次の日facebook経由で親戚から連絡が来ました。
ホストマザーの親戚「ホストマザーに何が起きたか知っている?」
「いや、分からない。メッセージを送ったが返信はまだだよ。レイテ島の現状は良く無いと思う。」
ホストマザーの親戚「ホストファザーは怪我をしたよ。だけどホストマザーは亡くなった。お婆ちゃんも一緒に・・・」
「・・・情報をありがとう。ホストマザーが亡くなったの?ホストマザーが死んだの?」
ホストマザーの親戚「・・・彼女は避難所へ行く途中に亡くなった。」
「・・・」
何かの間違いだと思いました。
返信内容を考えましたが、適切な現地語が思い出せない。
いや、そもそも亡くなった現実を認めたくないのだ。
どんなことが起きたのか真実を知りたい。
頭の中は支援や救助、日本人として出来ること、色々と考えます。
慌てても仕方ない。
そうだ。
・・・フィリピンに戻ろう。
そう思いました。
続く

