実感のない葬儀
数日後の4月1日、あいのお通夜が執り行われました。
あいが近畿へ行く前まで一緒にいた友人が受付を担当していました。
私はその時、受付に居た友人2人に恨みとも怒りともいえる感情を胸にしまいこんでいました。
「何故あんなことをした。」
「なんでそこにいるんだ。」
この感情は友人とはいえ、持ってはいけないものだと思っています。
彼女の死の真相はわかりませんが、その直後の出来事に2人が関わっている以上、私は友人たちが赦せなかったのです。
言ってしまえばこれはただの八つ当たりだったのかもしれません。
お通夜には高校の同級生が数名と通っていた高校の校長先生、担任の先生、隣のクラスの先生、部活の後輩が来ていました。
お経が唱えられる時でさえこれは夢だ、あいはまだ生きているのだと思い込まずにはいられませんでした。
というのも、彼女の遺体は式場にはありませんでした。
水死体で水にふやけたあいの遺体は、前日にあいのお父様が火葬場で荼毘に付したそうです。
遺影として飾られた卒業アルバムの写真は、笑顔のあいが映っていて、直視することが出来ませんでした。
形見分け
それから1ヶ月ほど後、高校の同級生数人とあいのお墓参りに行きました。
お花を買って、お線香とあいの好きだったのど飴をあげて、お墓の前でお互いの近況報告をしました。
最初はお互いの話をして、それからは昔話に花が咲きます。
部活での話、あいたちが好きだったアニメや漫画の話、そしてあい自身の話。
1時間ほど話した後、今度はあいの部屋へお邪魔しました。
そこで友人から、あいの遺書について詳しく教えてもらいました。
あいは人生に満足して死を選んだこと、この部屋にあるものは持って行っていいということ。
あいの遺書はパソコンのファイルの中に隠されていたそうで、見つけるだけでも大変だったそうです。
私はあいから、彼女が中学で入っていた吹奏楽部で吹いていた楽器のキーホルダーを貰いました。
勿論あいの部屋だから、変な話何を貰ってもあいに関わるものになります。
それでも私は、あいが居たことを少しでも忘れない為に彼女と関連の深いものを貰いました。
今でもそれはあいの写真の隣に飾ってあります。