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16/1/4

子持たずの記(4)

Image by Olia Gozha

壊れたテレビはけっ飛ばせ

 結婚して九年が経っていた。

 東京へ向かう早朝の京葉道路で、一生をひっくり返すような大事件は起こった。渋滞の車の列がやっとスムーズに動き出そうとしたとき、追突事故を起こしてしまった。その頃はシートベルトの着用がまだ義務づけられていなかったので、助手席の私はフロントガラスにまともに顔をつっこみ、その反動で座席の下に潜り込むように崩れ落ちて、一瞬気を失った。頭も額もまぶたも鼻も頬も唇もあごも一面ガラスが刺さり、口の中も切って血がどくどくとノドに流れ込んで息が詰まりそうになる。

 後ろの座席にいた三歳の息子は、ころんと座席から転げ落ちただけで、大事にしていた仮面ライダーのハンカチで私の顔の血を拭いてくれようとしたそうだ。

 気がつくと夫が目の縁から血を流しながら前の車の人としゃべっている。窓の外からどこかのおばさんが「しっかりして! 今、救急車が来るから」と叫んでいた。

 救急車が来ると私は座席から引きずり出され、立って自力で救急車へ移った。さっきのおばさんが「はい、ハンドバッグ」と、渡してくれた。、

 当時「口裂け女」という言葉が流行っていたが、私も口の端から耳たぶの下までぱっくり開くような大きい傷だった。何時間かかる手術だったのか、病室のベッドで麻酔から覚めたのはもう夕方近くであった。治ってからドクターが傷の写真を見せてくれたが、怖くて正視できず、未だにどんな顔だったのか知らない。

 日本一といわれる警察病院の先生に来ていただいて、手術していただいたお陰で、学会で発表したというほどの成功例の一つとなった。

 肺にも小さい傷、肋骨三本の損傷などがあったものの、目が見えなくなったわけでも、足が折れて歩けなくなったわけでも、腕が動かなくなったわけでもない。

「顔だけで良かった。今更お嫁に行く訳じゃないし……」

 二週間後には、目と口だけ出したミイラのような、包帯のぐるぐる巻きの姿で退院できるまでになった。幸い夫の方は軽くてすみ、退院後は日常に生活に戻れた。 

 顔は、二回ほど修正手術が必要だった。半年ほど過ぎた頃、ドクターに言われた。

「ちゃんとお化粧すれば、写真くらいなら全然分からなくなりますよ。今度来るとき、化粧してきてください」

 次の診察日、私は持っている化粧品を総動員して自分では精一杯化けたつもりで、出掛けた。ところが診察が終わると、「化粧していらっしゃいと言いませんでしたか」とドクターは言った。私の化粧なんか化粧のうちに入らないということらしい。

 それから二、三ヶ月して体の不調を感じた。回復しているはずなのにどこか悪いのだろうか。たまらなく不安になり病院へ行った。ところが年老いた女医さんがこともなげにニッコリと「おめでたですね」と言ったのである。

 思わず「うっそ!」と叫んでしまった。諦めてもう何年経っていたことだろう。赤ちゃんのことはまれにしか考えることもなくなっていたのに……。

 そして結婚十年目の記念日は、千葉大の産婦人科病棟のベッドの上で赤ちゃんと迎えたのである。口の悪い担当医の先生はこう言った。

「壊れたテレビでも、ひっぱたいたりけっ飛ばしたりすると付くことがあるでしょう。交通事故が幸いしたのかもしれませんね。あなたは運のいい人だ。今日交通事故で入ってきた人がいるんだが、外傷は一つもないのに卵巣破裂でダメだったんですよ」

 こんなこともあるのだ。壊れたテレビだろうとちっとも構わない。私にとっては交通事故さえ天の恵みであった。

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Image by Jukka Aalho

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