「人間の免疫力って凄いんだよ〜だから、風邪気味かもとか言ってむやみやたらに薬に頼っちゃだめ。それよりストレス溜まると免疫力下がるらしいから、いつも明るく笑い飛ばしていようね!ネガティブ思考はいろんな面でもったいないぞ!」
結婚と同時に単身赴任を始めて早三年。
そんな状況ゆえに何かとストレスを抱えたりしがちになる。そんな私を励まし元気つけてくれる妻。しかし時には厳しい事もズバッと言い、ハッとさせてくれるそんな一面もある。
今回シェアさせて頂く話の登場人物は先ほど紹介した妻と私、そして私の両親の4人である。
早速本題に入るが、ごくごく一般的な家庭の一家の主人(父)が、咳が止まらず3年間放置。
我慢しきれなくなり病院に行ったら緊急入院。そして余命宣告3ヶ月を宣告。残りの余命をどう生きるかを、もがき、悟り、奮闘した結果の話だ。
両親の事ゆえに公表するのは照れくさいものだが、身内を通じ「愛する人のため」人はここまでストイックになれるのかと、学ぶべきことの多い1年であった。
1.発覚までの経緯
時はさかのぼる事2014年の9月19日。Apple大好きな人間にとっての年に一度のセレモニー。あのiPhoneの発売日。私の心も静かに湧いていた。
しかし母親からの一通のメールが。
母「とーちゃんがヤバいげな。帰っきっくれんけ?」
相変わらず方言丸出しな母親のメールだが、どこか不安を覚えて電話してみる。
優介「どげんしたと?屋根からでも落ちたんね?」
母「ガンかも知れんげな。水で片肺潰れちょるっち。」
金曜日だった為、会社を早退し急いで実家に向かう私。実家まで約2時間半。
なにやら昨晩、仕事中に胸の苦しさが耐えられなくなり祖父母の掛かりつけの診療所に行ったところ、すでに肺の3分の2が胸水で潰され、ドレンというパイプを入れて水を抜かなければ心不全を起こす可能性もあったとの事。即、市民病院へ転院だったらしい。
そうこうしているうちに私も地元に着く。
転院先の病院で検査も終わり、私と母が呼ばれ詳しい説明を受ける。その説明は衝撃的なものとなった。
2.ステージ4
主治医「申し上げにくいですが、肺に悪性の腫瘍が。」
それは聞くものの耳を疑った。しかし、元々体重が85キロほどあったがここ1年で10キロほど落ちていた父。
高齢になると血圧などのいろいろな心配もあるから痩せてよかったじゃない!と家族から賞賛を受けていた。
でもよくよく考えてみるとこれがマズかった。食が細ったようには見えなかった事を思い出す。
実はアレってガンの影響だった?と頭をよぎる。そして間髪入れずにさらに衝撃の言葉。
主治医「進行状態はステージ4ですね。このまま何もしなければ持って3ヶ月。長くとも半年でしょう。」
母「先生、2〜3日前まで元気にしちょったじゃないですか。なんの冗談ですか。」
母親が驚くのも無理ない。胸水が溜まって息苦しかったとはいえ、昨日まで仕事をしていた人間が、ステージ1〜3をすっ飛ばして、いきなり末期のガン(ステージ4転移あり)。
あっさり残り約90日と言われた瞬間。
まさしく寝耳に水。青天の霹靂。冒険ゲームを始めてすぐ、町を出たらいきなりラスボスが出た感じである。
ちなみに母が私に連絡すると同時に、母が私よりも信頼を置いていると思われる「私の妻」にも同じように連絡していたらしい。私の妻も福岡より車を飛ばしてやってきた。
救急病院の看護師として勤務している彼女は父親はもとより我々家族に不安を与えないように「大丈夫ですよ」と言った雰囲気でにこやかに接してきたのであった。
ざっくりと今までの経緯を説明。すると彼女はすぐさま状況を飲み込んだ。
しかしここでもまだ冷静に、治療に関するいくつかの選択肢を考えているようだった。
それに引き換え母はちょっとしたパニック。父親に事実を告げるべきかということでさえ相当悩んでいた。そこで私の妻はこう切り出したのだった。
優介の妻「お母さん。ちゃんと教えたほうが良いよ。既に寝たきりだったら百歩譲るけど、お父さんはまだ動ける身。身動き取れなくなって初めて知ったじゃ遅すぎるんだよ。やり残した事だってあるかもしれない。お母さん自身同じ事されたらどう思う?」
母「確かにそうやね。なんで言っかせっくれんかったと?っち思うかもしれん。」
※言っかせっくれんかったと?=教えてくてなかったの?
これをきっかけに、本人にも事実を話すこととなった。唯一今の段階で判っている余命を除いては。
3.ダダ星人
普段から威厳もあり、自ら元気と信じ片肺を胸水で潰しながらも仕事に没頭していた父親ゆえに、現実を話しても「一切動じない」そんな人だと誰もが信じていた。しかし現実はそう簡単なモノではなかった。
薄々感づいてたとは言うが、末期の肺腺ガン。しかもステージ4とは父のイレギュラーに対するキャパを遥かに凌駕してしまったようだ。
なにそれ?全く意味わかんない。という感じで動揺が隠せない感じだったが、ようやく自体を飲み込んだ父は何かに怯えたようになり、普段から無口な人間だったが完全に口を閉ざしてしまった。目はうつろになりベットの上での放心状態が数日間つづくこととなった。
父「おいわもうダメかもしれん。け死んとか。」
肺に溜まった水を機械で抜く日々。日に日に弱っていく父。そういった状況なので父が弱音を吐くのは致し方ない。そんな父の心の拠り所は、病院で寝泊まりしてくれる献身的な母だった。
だが、よくよく話を聞くと毎日寝泊まりさせているではないか。これはちょっと大変である。
しかし母も35年以上連れ添った旦那をほっとけなかったのか、
母「私が居っ時だけは嬉しそうだがよ〜なんとか励まさにゃいかんからね〜」
と言って過労を忠告しても一向に辞めようとはしない。とは言いながらも、昼間働いている母に数ヶ月もこんな激務を続けさせたら間違いなく過労で倒れる。
もしくは病院まで片道30分の道のりで事故を起こすのも時間の問題かと思った。
私「こんままじゃ、かーちゃんが倒れるが。」
母「優介よ。とーちゃんがぐらしがね。いきちょいさっさわ、なんでん聞いちゃらないかんわ。」
※母親がなにを言ってるか分からな方もいらっしゃると思いますので、字幕もおつけします。「優介よ。お父さんがかわいそう。せめて生きているうちは我が儘を叶えてあげたい。」
父「寂しがね。おいもいつけ死んかわからんたっど。せめてかーちゃんと一緒におろごちゃい。お前は単身赴任やろが、とじんねねっか?」
※再度字幕でございます。とじんねねっか?=寂しくないとね?となります。
つまりはこうだ。やっと今年いっぱいで還暦。それまでずっと働きづめだった。ようやく仕事をリタイヤし一緒に老後を歩もうとした矢先の余命宣言。あとどれくらい生きられるか分からないが、せめてもの間一緒にいたいと。
しごく真っ当かもしれないが、心配なのは母。父の我がままに振り回されているのにすら気付かなくなっている。
最初は頑張っていたが一週間も経つと明らかに疲れが目立ってきたようだった。こんな事なら、どこでもドアがあったらいいのにと悔やんだ。
冷静に考えて「どこでもドア」は売っていないものの、相手の見える「魔法の鏡」の代用品は携帯ショップに売ってるから素晴らしい。そうタブレットでのビデオ通話だ。
早速両親に提案。ものすごく食いついたものの、「よく考えたら治療費がかさむからもったいない」と二の足を踏んだのだ。この事をすぐさま私の妻に相談すると。
優介の妻「そんなの買ってあげたらいいじゃない!親孝行は親が生きているうちにするもんだよ。」
あっけなく快諾。思ったら即行動。決断の遅れを嫌う男気溢れる女性のなし得るワザ。
こうして回線付きタブレットをプレゼントすることになる。月5,500円で買える父親の笑顔と母親の身の安全だ。
4.病は気から?
日は改まり、私と妻が一緒に見舞いに行った時の事だ。
優介の妻「お母さん。お父さんってなんか治療始めた?」
母「いや〜まだ何も始めちょらんとよ。胸水がとまってからどげんするか決むったげな。」
そこに気付いた私の妻が、お父さん胸水も抜けてきたんだし、恐らく病院に担ぎ込まれた時よりも苦しいって事はあり得ないでしょ?あとまだ治療してないなら副作用も・・・
つまり、もうちょい元気で良いはず。っとごもっともな意見を出してきた。さらに
優介の妻「なんかねナチュラルキラー細胞ってあって楽しかったり笑ったりすると増える免疫細胞があるらしいよ。医療的にって専門的な話は置いておくとして、仮に笑って免疫向上って何か素敵じゃない?」
っと我が妻。そこに何かビビっときたものがあったらしく。
母「そりゃよかね!自分でガンと闘う。それなら私も一緒に戦えるがね。どげんせして笑かそかね。」
こんな時だからこそ「明るく前向き」をモットーにというだけでも共感してくれたのかも知れない。
ただ、そこから妻の軽くぶっ飛んだ提案と、底抜けに明るい母親の行動が奇跡への架け橋の一つになろうとは、この時は誰も知る由は無かった。
5.治療の選択
そんなこんなで入院して1ヶ月を過ぎた頃、胸膜に溜まっていた胸水もほとんど出なくなり、ホースを抜いて、さあ治療をしましょうか。という段階になった。
しかし、その時すでに体重は70キロを切っており、父親の背中までもが小さく見えた。
そして治療方針の面談。私の妻もオブザーブで入ってもらった。
主治医「治療方法ですが標準治療ですと抗がん剤となりますね。肺の心臓近くの動脈付近の原発と左の肺の下にある転移。それから胸水に無数に浮遊したガン細胞などを含め、今考えうる中で、他の治療では効果は見込めません。」
父「そいで抗ガン剤なら完治すっとですかね?」
主治医「うーん実際抗ガン剤やっても完治はおそらくないですね。種類が何種類もありますんで、どれが効くか検討し症状を観察しながらの延命治療となりますね。」
この話を皮切りに、非常に長い時間面談が行われた。父が質問し主治医が答えるといった方式だった。そこで、転移状況から見て完治する見込みはほぼない事。
保険内の標準的な治療では抗がん剤以外の選択肢はない事。
この状況だと5年間の生存率は20%以下である事。(実際は半年と言いかけたが、我が妻がにらみを効かせて止めにかかった。)
抗ガン剤が合わなかった場合癌が大きくなるリスクもあり、より強い物を投与する事になる事。
イレッサという抗ガン剤が著効を示す場合もあるが、「アジア人、女性、非喫煙者、腺がん」という非常に狭い条件下での成功例がほとんどなので、条件の当てはまらない人間が使った場合「諸刃の剣」になりかねない事。
抗がん剤以外の治療もあるが、正直医療的に保険適用に成る程効果が認められている物は少なく、それを選んだ場合自費になる事なども話され次々と疑問は消えていった。
そんなこんなで長きに渡ったの面談の最後、父は主治医に核心を突いてきた。
父「先生がおいと同じ状況だやったら抗がん剤はしやっとですか?」
主治医「難しい質問ですね。正直私も悩みます。いろいろな先生に相談するかもしれません。相談といえばセカンドオピニオンと言う制度もあります。」
最初は抗ガン剤に興味を持っていた父も、今の病状ではあまり効果が無さそうだと思うようになった。
辛い副作用が出る事もあるという、ぶっちゃけた説明により、一旦は抗ガン剤を即決せず数件セカンドオピニオンに行ったのち、方針を決めたいという事になった。
優介の妻「私もセカンドオピニオン先探すの協力しますよ!」
そしてセカンドオピニオン先の探索は・・・妻が引き受けてきた。そして我々夫妻はありとあらゆる治療方法の資料請求をしたり、現地に赴いて話を聞いたのであった。
山ほどある先進医療や民間療法。非常に興味深く試してもらいたいものばかり。
どれも良さそうに見える。
初めてこの「ガンビジネス」と向き合う事になった。しかしそこまでお金を出せるわけではない。
そこにうちの母がいい話を持ってきた。GOOD JOB マイマザーである。
母「優介〜 3年前JAの付き合いで先進医療はいっちょったみたいやが。こいで受けれるとこあるけ?」
優介「こいなら治療範囲も広まる!色々試しがなるかも」
ただ治る見込みはほぼ無いと言われた標準治療以外の治療が、医療保険特約のおかげで良心的価格でチャレンジ出来る事が、どれだけ素晴らしいか実感した瞬間だった。
優介の妻「ピンポイントで病巣叩く最先端の治療もあるよ!」
約款と照らし合わせ、先進医療の範囲内で治療できる病院をネットで調べると、九州は鳥栖に重粒子線。指宿に陽子線による治療を行う医療機関が見つかる。
※放射線より強く癌細胞に対しピンポイントで照射できる治療。
優介の妻「しかもこの治療法なら治療中に体調不良や吐き気、体毛が抜け落ちる副作用もなくて、点滴の必要もないから普段通りの生活しながら治療が出来る。治療しながら観光なんていうのも夢じゃないわ!」
そんな訳で先進医療という武器を手に入れた我々一家だった。電話越しではあったが、両親の喜びが伝わってきた。特に母のテンションの上がり方が凄かった。
母「とーちゃん。こいで治いかもしれんね。よかった〜嬉しが。旅行もすいがね!」
早速私は鳥栖、妻は指宿へと問い合わせを行い、両病院とも一旦病院で治療可能か判断するための資料を送り、セカンドオピニオンの診察までの段取りをする事となった。
6.セカンドオピニオン
まず佐賀研は鳥栖市の国際重粒子がんセンターへ
結論から言うと治療不可だった。転移し広がっているガンの親玉だけピンポイント照射を行っても、また別の転移先から広がるので治療の意味がないと。家族で食い下がってみたものの結論は同じだった。
父は肩を落とした。母は必死になって励ました。一緒に笑顔で過ごせる日々を語りながら。でも母も強くはない。父が見ていない所で息を殺して泣いていた。
日を改め鹿児島県は指宿市のメディポリス国際陽子線治療センターへ
同じ結論を下されるのではないか。そう不安に思いながら治療センターの門を重い気持ちで叩いた。
父親も、鳥栖での事もあり覚悟していた。仮にこの治療を受けたとして、何も変化が起きず自分が早々に死亡した場合、治療後の生存率という実績に足を引っ張る。だからここでも断られるのではと、、
父「先生 治療は出来っとでしょうか。」
先生「正直、親玉のガンだけ治療した所で効果は期待できないかもしれないですよ。でもそれに賭けたいなら良いと思います。治療は全面的に協力します。」
快く引き受けてくれて頂いた事に感激した。
「ありがとうございます。ありがとうございます。」と深々と頭をさげる父。今までにない希望に満ち溢れた顔だった。
※ご参考までに。今回母が掛けていたJA共済の月額は先進医療込みのおおよそ4,500円。先進医療は1,000万円まで補償。ただ保険外の費用もあるので実費で30万ほどかかると思って頂ければと思う。
ちなみに先進医療部分の掛け金は、通常の保険に特約で月額100〜200円程度の追加が相場である。また保険といっても種類によって値段が変わってくる。若いうちは安いが、年を重ね病気が増える年齢になるとぐんと値段が上がる。病気をすると加入できなくなったり、加入の条件が悪くなったりする。(保険屋さんではありません)
7.希望という名の架け橋
不可能だと言われていた治療を施術して頂ける。それがどれだけ心の支えになった事だろうか。
父から後々聞いた話であるが、さらに感銘を受けていたのは待合室だったようだ。
元々寡黙な父であるが、病気からの恐怖かほとんど口をきかなくなっていた。「俺は今後どうなるのだろう」という不安から明らかに強張っていた。そんな沈黙の待合室に天使が舞い降りていたのだった。
中村さん「初めまして中村と申します。今日はどうやってお越しになりましたか? >>>世間話」
自己紹介から始まり、和む何気ない会話。寄り添い悩みを聞き、元気づけてくださるソーシャルワーカーの中村さん。時には病院までの裏道を地図で書いてくれたり、指宿の名温泉なども教えてもらえる。
人生の末期とさえ思ってた本人は、足湯から砂蒸し風呂、鹿児島の美味しいご飯まで紹介され、治療に来て良かった。通院以外でもまた遊びに指宿に行きたい。
そう思わせてくれるひと時を作ってもらっていたとのこと。しかも治療まで快諾だった。
つまり「生きること」への希望の架け橋をまた一つ頂いたのである。
8.LEXUS
自宅から指宿までは片道2時間半。父はどうしても自宅から通いたいと言い張る。もちろん運転はこのところ全て家族任せで一切やっていない。
しかも実家の車はゆうに20万キロを越した18年ものの車。母親に運転させるのも非常に申し訳ない。せめて父が運転してくれればいいのだが。
そうだ!運転の楽しさを思い出させるような車があればいいんだ!そう思うようになった。
それに治ったら昔のように母と2人で温泉に行ったりドライブしたいとあれほど言っていた。叶えたい。そして妻に言ってみた。
私「父って車大好きだったやん。前欲しいって言ってた車が何台かあったんだけど、親孝行いい?」
さすがにコレはバカだと言われるだろう。我々の家を買うために貯めているお金だ。結婚式さえもせずにコツコツと貯め、今のアパートから抜け出すため必死になって頑張った金だ。
何の為の共働きで、何のためにあなたは単身赴任してるの? と間違いなく怒られる。そう思ったが相談せずにはいられなかった。そしたら妻は1日だけ考えさせてと一言。そして翌日結論を出してきた。
俺の妻「色々考えたけど協力するよ!車好きなら、死んでから良い霊柩車乗るより今を楽しんでもらわなきゃ。ただ条件があるよ。壊れない車。田舎だし、故障とかなんかあった時致命傷にならないように日本車ね。」
はたまた快諾である。考えている暇があったら行動あるのみといった感じでディーラー巡りまで付き合ってくれた。大変ありがたくもあり申し訳ない気持ちもあったが正直嬉しかった。
あいにく新車は買えなかったものの、父の欲しかった車リストの一つにあったLEXUSのスピード納車が決まった。おそるべく理解のある妻だ。全ては父のナチュラルキラー細胞を活性化させ
「生きること」への希望の架け橋をまた一つ突貫工事する為に。
はたまた妻と私の思惑通り、気分を乗せる作戦はばっちり功を奏したようだ。今まで俺に運転は無理だと言っていた父親が、率先してハンドルを握り母親を助手席に乗せている。
父は明らかに心が踊っていた。
通院も何かあってはいけないと、はじめは家族が同行したものの、後々は自ら通院。
1日30分の陽子線照射治療を受けては足湯につかり、身体を温めて免疫力を高める。そんな行動が日課となっていった。そして無事終了にこきつけたのである。
※ちなみにこの病院は基本保険適応外治療のため入院施設はなく、敷地内のホテルに連泊するか指宿市内で温泉旅館に連泊するか、通うというスタイルである。
9.人生最大の決断
指宿での治療も終わり自宅療養を行うこととなった。自宅療養といっても普段通り生活するだけである。
変わったことといえば唯一、大きな決断があった。人生のイベントの中で5本の指に入るであろう大きな決断であった。
生涯のほとんどを寝る暇も惜しみ捧げてきた自分の会社をたたみ、休養に専念する決断をしたと言うことである。
「愛する妻のため残された時間を過ごしたい」そんな想いを父は語っていた。
そんな想いと、母の「父を笑わせ続け幸せにする、元気にする」という想いの歯車が、最初は噛み合わずに空回りしていたところもあったが、ついに綺麗に噛み合い着実に前に進みだした。
後に聞いたが父は頻繁に私の妻に相談の電話を入れていたらしいのだ。看護師ゆえの的確なアドバイスと、すごく癒される励ましだったらしい。誠にGOOD JOB!である。
優介の妻「お父さんやるじゃない!」
そして還暦を迎えた1月24日。親族が集まりお祝いが開かれた。もちろん親族にも父の病気のことは話してあるので、もしかすると元気な姿で会える最後の誕生日会になるかもしれないとの想いで来られた方もいたかもしれない。
そこには多くの人が集まってくれた。
しかし父はここであるコミットをした。
父「俺やあと10年な生きっでな。かーちゃんがためにもけ死にゃならんがね。」
目標と希望を持ち、誰かのためにそして自分の為に生きることを強く願った瞬間だった。
10.初孫
間もなくして弟の子供が生まれ、おじいちゃんとなる夢も叶った。
初孫は非常に可愛いそうで、遠方にいる弟の息子を見る為にもっぱらタブレット。
しかしそれだけでは物足りず、実物に会いに行くため自らハンドルを握り300キロ離れた孫の元に遊びにいく父。
かくして更なる生きがいを手に入れたのだった。
11.ストイックな毎日
会社を興し管理運営してきた父は自分の体調管理についても非常にストイックだった。
徹底して本を読み、病院でも先生と食事や運動についてしっかり相談し自分のルーチンを決めていった。
ルーチンは以下の通りだ
1,朝起きたら足湯で身体全体を温める。
2,毎日ウォーキングマシーンに乗り1日も欠かさずウォーキング。
3,お酒は一切口にしない。
4,たんぱく質は極力植物性に切り替え摂取。
5,自給自足の野菜生活。米も勿論自家栽培。頂くときは玄米で。
意識して抗ガン作用のあるといわれる食品を摂る。これに関しては本を読みながら食べ合わせ。
6,早寝早起き。
7,ストレスは発散しよく笑う。※ちまたでは抗ガン作用が増えるのだとか。これに関してはポジティブ母親がかなりの貢献度を示している。
8,食事では補えない栄養価はサプリを使ってしっかり補給。
この生活を1年続けたのだった。
しかし、努力したのは父親だけではなかった。先進医療が効かなかった場合、抗ガン剤治療を受けずに悪化したら緩和治療(モルヒネ緩和)のみを希望していた父に、母親もタダでは転ぶまいと必死だった。
私の妻が言っていた、
優介の妻「自己免疫力を高めて癌をやっつけるって普通なら信じられないけど、実現できちゃったらとっても素敵。その為にも家族みんなで協力してお父さんをストレスから解放し、家族みんなの「笑顔」でナチュラルキラー細胞活性化させてガンと戦っちゃおう!ねっお母さん。ねっ優介。」
この前向きな提案をばっちり受け止め、底抜けに明るい立ち振る舞いで父親の笑顔、そして家族の笑顔を作る立役者となってくれていた。
12.消失?
3ヶ月に1回ほど市民病院で定期検診を行いメディポリス国際陽子線治療センターに検査結果を送ってもらっているのだが、その病院で主治医より思いもよらぬフィードバックがあった。
2015年11月の事だ。
主治医「この結果ではもしかすると完全にガンは消失したかもしれませんね。私は余命3ヶ月と思っていたのですが、類を見ない素晴らしい症例です。」
母「先生、余命は言っちゃダメなやつです(笑」
このような話になりはじめて父親は本当の余命を知ることとなった。
しかし生きる希望に満ち溢れた父は
父「あと10年は絶対生きっでね」
何を言われても動じなくなっていた。そして10年という目標を語るのが口癖となり今に至る。
もちろんその時も母親は最高の笑顔だった。
あとがき
結果としてここで、何をすればガンが治るという明確な提示はできなかったものの、必ずしも末期ガンが悲しい結末を迎えるわけでは無いという事。何事も諦めてはならない、希望を持って本気で取り組めば払拭出来ることもあるということを書き残したかった。
辛い事があったら隠さず本当の事を言えばいい。自分のやり方が間違ってるかどうかは意固地になって自己判断せず、専門家に聞いた上で判断し行動する。人生を楽しく生きれるようポジティブシンキングになる。
この1年で父は背中を使って奇跡を勝ち取る為の教訓を教えてくれた。
容態的にはまだまだ油断はならない状況なのかもしれないが、心も身体もここまで人は変われるのだと言う教訓も教えてもらった。
そう。まるで以前本で読んだデールカーネギーの名言のようだった。
”最悪の事態を受け入れてしまえば、もはや失うものはなくなる。裏を返して言えば、どう転んでも儲けものなのだ。”
私にもこれから先、計り知れない困難が待ち受けているかもしれない。
しかしその時は必ず父の事を思い出し”笑顔”を忘れず、妻とそして家族と手を取り合って立ち向かって行こうと思う。
そんな”笑顔”にまつわるガンの体験をシェアさせて頂きました。最後まで長文をお読み頂いた読者の皆様に感謝申し上げます。
以上、余命3ヶ月の末期ガンの「ガンは消えたけど家族の絆は消えなかった話」でした。
優介
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追記
お陰様で余命3ヶ月と診断され、もはや絶望的とも言われていた父の容態も徐々に良くなり2年目を迎えました。
この件があるまでは、家族をかえりみず仕事一筋になりがちだった私ですが、徐々に価値観も変わりつつあります。一番変わった事は「家族との絆や思い出を大切にしなければ」と思うようになった事です。
そして今では我々夫婦と私の両親で、共に思い出作りの旅に出るようになりました。
ただ初めから上手くいった訳ではありませんでした。仕事の調整をはじめ色々な障壁を乗り越え、思い出作りができる環境を整えていく事ができるようになっていきました。また、父や私どものその後の生活や実践していることなど、色々なお問い合わせも頂きましたので、お手紙という形でまとめております。よろしければご覧下さいませ。