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15/12/18

一代で財を成して事故死した小学校卒の祖父から学んだこと。~祖父からの遺産~

Image by Olia Gozha

「救急車ー」




私が15歳。高校一年の春。みどりの日。4月29日。

ラーメン屋の石垣を積み上げる指示を、石垣の上でしていた祖父は、2メートルもない

石垣の上から転落。頭を地面にあった石にぶつけ頭蓋陥没し、即死しました。


前日まで元気でした。

前々日は、私は祖父と喧嘩をして、「高校辞める」なんて叫んでました。

結局、やめる勇気もなくて、翌日に撤回して、祖父に謝って仲直りしてましたが。


 祖父には山だの、土地だの、財産があったようでしたが、急な死で相続のことも何も決まっておらず

祖母も相続をすべてするのは不可能で、半分以上国に手放しました。

 それでもかなりの額だったようです。


 祖父は小学校卒です。学歴があったわけではありません。

 それでも、私の知る祖父はとても勉強家で、努力家だったと思います。


私の地元の村では、村会議員にもなりました。田んぼの農作業の手伝いをしながら、お金をためて

山でみかけた「みかげ石」をみて、この石を磨いて売り物にならないか、と祖父は思ったそうです。





 両親を小さいころに病気で亡くして、二人の姉とともに、働きながら大人になった祖父は

いつも私に「まずいものは食うな」と言っていました。

 それは、生きているうちの食事の回数は決まっていて、一回一回でまずいものを食べると

美味しいものを食べる回数を失っていくからというものでした。

 


貧しい幼少期を過ごしたからこそ、自分の子供や孫には同じ思いをさせたくない。


 その想いは、私が15歳になって祖父が事故で一瞬で亡くなるその瞬間まで、自営業の社長で

働く、という形で知ることになります。


 休みの日には、ボランティアに近い活動をしていました。

 困っている人をみつけては、「俺がやればタダだべ」と言って、寺院の修復など、重機を使いこなして直してしまいます。


 私の実家の自宅も、大工さんと一緒に祖父が作ったそうです。



 みかげ石が売れ、事業を大きくし、村会議員をやり、地域にも貢献し、いよいよ老後を考える年齢になって、祖父はイノシシを三頭、うりぼうのままつれてかえってきました。









 もともと、熊やイノシシの鉄砲ぶちをしていたけれど、歳を重ねるごとにしなくなり、最後は生け捕りにしたうりぼうを飼うといって、山をひとつ買い取り、柵で囲って三頭を柵の中で放して飼いました。


 乾燥したトウモロコシや生ごみをエサとして夕方、あげにいく。

私や、私以外の妹や弟、いとこも時間があえば、祖父にくっついていってエサをあげました。


  メス2頭と、オス一頭。

 イノシシは、一回で六頭ぐらいの子どもを産みます。大きくなるのに数か月。

 増えていくのが早いな、と思ったけれど、気づくと42頭もイノシシがいました。


 メスが二頭、最初にいたので、増えるのも早かったようです。それでも私はペットのような、

動物園にでもいるかのような感覚で、エサをあたえていたので、祖父が

「よし、肉にして売っぺ」

といったときは、血の気が引きました。


「食べるつもりだったの?」

と問い詰めたのを覚えています。

「こんなにエサやっていけねえべ」

といわれて呆然と

したのも覚えています。



 おじいちゃんは老後、お店をやりたいと思っていて、精製肉として売り出しました。

「ぼたん肉」を。

 民間の地方のテレビ局の取材も受けました。



 ぼたん肉が売れると、その肉を使ったラーメン屋をはじめると言い出しました。

「ぼたん肉のラーメン食べたいか?」

と聞かれて、食べたいを子供らしく答えて、数日後にラーメン屋の着工作業がはじまり、父にお前が言うからやるとか言い出したんだぞ、と怒られます。


 「熱いものの後はアイスクリーム食べたいか」

と聞かれたので「食べたい」と言って、隣にアイスクリーム屋まで作り出しました。



 孫のためなら、まるで生きたドラえもんのごとく、実行します。


そして、完成を間近に控えて、転落死するので、お店は一日もできないのですが。


 振り返ると、祖父は事故にあう前の一週間、焦っていたようでした。

 完成を急いでいました。事故の朝も、寝ないで夜通し作業して数時間仮眠して、出かけました。


 なんども、祖母も私も今日一日休んでほしいと、お願いしたのに、現場へ行きました。胸騒ぎがしました。私も祖母も。倒れてしまうのではないか、ケガするのではないかと。


 結果は最悪なことになりました。



 私は、初孫というのもあり、また両親が若くしてできた子だったので、祖父母が育ててくれました。

 祖父母のことは大好きです。でも、両親が同じ家にいて、妹も弟もお母さんと一緒なのに、私だけ祖父母と一緒で、不思議でした。


 だから、祖父であり、育ての父でもありました。


事故死はあっという間に亡くなるので、遺族は心の準備ができてないまま別れます。

 喪失感は、凄かったです。


それでも、祖父の死に顔は、安らかに微笑んでいて、とてもきれいでした。

お坊さんが、「死に顔にその人の人生が現れる」と言っていたのが印象的でした。






 現在、祖父ののこしてくれたものの殆どが、東北大震災の原発の事故の影響の放射能をうけています。自営業の存続も危なくなって、従業員は退職金を払ってほとんど解雇しました。


 石材業の存続は、生前、祖父が長く続かない、後を継がなくてもいい、自分の好きなことをしていけと言っていたので、震災がなくても、遅かれ早かれ、会社は閉じたと思います。


 そのために、お店を残そうとしてくれてましたが、そのお店も放射能の数値が高くて、完全に復活できていません。


 祖父が、孫までお金に困らないように稼いでくれたものは、震災で消え去りました。

それでも、私には祖父から貰ったたくさんの「愛情」が残っていました。


 社長としてがんばっていた、祖父の「生き様」を思い出として覚えています。



 生きていると、自分も死んでしまいたくなるくらい、つらいことも時として経験します。


 私は勉強もできず、体も弱くて、気の強い子に押し切られたり、奪われて泣いてばかりいる子でした。

 それでも祖父は、「おまえは馬鹿だなあ。馬鹿だけど、じいちゃんは馬鹿な奴ほどかわいい。

おまえはじいちゃんに似ているな」


 勉強のできない私と、学歴のない自分を祖父は重ねているかのようでした。

祖父は、常に「学歴コンプレックス」と戦っていたのだと、大人になって思います。



花嫁姿も見せられなかったけれど、おじいちゃん、みていてくれてますか?

あなたの孫たちは、今はめったに会えなくなったけど、それぞれの自分たちの仕事、居場所をみつけてがんばっています。


 私はおじいちゃんの笑顔とよく似た笑顔をする、男の子を産みました。


 おじいちゃんが抱けなかったぶん、おばあちゃんがひ孫を抱っこしています。


 こどもっぽい両親ですが、私と喧嘩しながらも家族、やっています。


 震災で、実家は放射能が高くて毎日は住めません。

 

 おじいちゃんが、汗水たらして築き上げたもの、場所を、守り切れませんでした。


   ごめんなさい。




 私だけじゃなく、地元の人はふるさとを奪われても、めげずに頑張っています。







   ありがとうございました。


 私に、生きる力をくれて。


 励ましてくれて   抱きしめてくれて  頭をなでてくれて。


 目が合うと

「大丈夫だ、じいちゃんがついてる!」


 そう、言ってくれて。

 それでいて、何も恩返しができなくて、ごめんなさい。





私も、おじいちゃんにしてもらったこと、言葉を

 息子に伝えていきます。


いつか会える、孫にも。



 私は34歳になりました。


 あれから19年。

おじいちゃんを、思い出すことは減ってしまったけれど、思い出すと涙が出ます。



 あなたの孫としていられた15年間、とても幸せでした。

私も、いつかおばあちゃんになったら、孫にそう思ってもらえるおばあちゃんになろうと思います。








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