ジャッキー・チェン、英検1級、京大、阪大医、名大医。
1980年のことだったと思う。まだジャッキー・チェンさんがそれほど大物になっていない頃で、初来日だったかもしれない。彼は通訳をつれて当時の人気番組であった「TVジョッキー」に出演した。ちょっとした縁で、私は彼の引き立て役のような役回りで出演させてもらった。
田舎者の私は上京してTV局を訪れても、右も左も分からずキョロキョロしながら案内されたスタジオに向かった。すると、一人の男とすれ違った
「ハロー」
と言ったので、
「変な日本人だなぁ」
と思ったら、それがジャッキー・チェンさんだった。
ジャッキー・チェンと「TVジョッキー」で共演しました。↓
(7000回再生)https://youtu.be/sMdPLgzTjeQ
さて「TVジョッキー」ジャッキー最後の出演コーナーですが、私はこのシーンが今回のジャッキー「TVジョッキー」出演における最も貴重かつ興奮したシーンでした。まずはいきなり『燃えよドラゴン』のテーマ曲に乗ってブルース・リーことリーさんの物真似男性(恐らくは一般のファンの人でしょうけど、このちょっと中村頼永さん似のリーさん信者の詳細情報求む!)がスタジオに登場!
それにしても、この中々気合いの入ったリーさん信者の物真似アクションを傍らでジャッキー・チェン本人が見ている!これは相当凄いシチュエーションです!!
そしてリーさん物真似男性が自分のパフォーマンスをヌンチャクならぬホース・ヌンチャク(爆笑!)で締めてくれた後、またも土居さんの掛け声でいよいよジャッキーが演武を披露する時がやって来ます!(拍手)。 出典 ↓http://blog.goo.ne.jp/dragonfever1127/e/1d6bbb638b3b47a64308eabda348c6ee?st=0#comment-form
もう30年以上も前の話だ。1982年に、私はアメリカのユタ州ローガンで中学教師をしていた。11月に入ると町中がクリスマス一色になり、ネオンで飾られた。ある日、子煩悩の理科教師アランがアジア人むけの支部教会に私を一緒に連れて行ってやろうということになった。
彼にはベッキーという小学四年生の娘さんがいて、母親が先に教会に行っているとのことだった。アランは
「これはベッキーへのプレゼントなんだ」
と嬉しそうに話していた。裕福な家庭ではなかったのでささやかなプレゼントだったが、赤いリボンで飾ってあったのを覚えている。雪が降っていた。教会についてパーティ会場に入るとアジア人の家族が数組みえた。その服装から遠くからでもアメリカ人でないことが分かるのだ。
私は当時、ローガン中学校の難民クラスで英語を教えており金髪娘と知り合うのであろうと思っていたら体臭のきついベトナムやカンボジアの生徒たちになつかれてしまいガッカリしていたものだ。彼らは見るからに貧しい服装をしていた。アメリカ人の中学生たちは
「あいつら、臭い!」
と私にこぼしていた。
母親と一緒にいたベッキーはアランと私を見つけると笑顔で近寄ってきた。とても可愛い子だった。そして、すぐにプレゼントに気づいたようだった。ところが、アランは奥さんとベッキーの隣にいたアジア人の家族の方を見ていた。父親と母親と小さな女の子がいた。
そして、その小さな子に近づくと
「これ、さっきサンタさんにもらったよ。キミにだって」
と言って用意してあったプレゼントを渡してしまった。少女の父親は驚いて、困った顔をした。母親も黙って見ていた。私がベッキーが怒ってしまうと思い、ハラハラして横に立っていた。
小さな女の子は何事か分からないまま、赤いリボンの小さな箱を胸に抱きしめて
「サンキュー!」
と言った。
ベッキーは黙って目の前で起こっていることをながめていた。私はどうなることかと思ったが、そのまま何事もなかったようにパーティは終わった。
私は後日、アランの家に招かれたときにベッキーに
「どうして、あの時にアジア人のパーティで黙っていたの?」
と尋ねたら、
「だって、私のパパは世界一なんだもん」
と言った。私は驚いてしまった。
「こんなことが日本で起こるだろうか?」
ベッキーはあの夜に人を喜ばせることが、どういうことなのかを知ったのだろう。
クリスマスが近づき、日本の中学生やモンスターペアレントと日々格闘していると
「夢でも見ていたのか」
と時々思い出す。1982年の、あのクリスマスの夜にベッキーは父親から何物にも代えがたいプレゼントを受け取ったのではないだろうか。それを贈ったアランもえらいが、受け取ることができたベッキーもえらい。
そして、私自身にも何物にも代えがたいプレゼントだった。誰もきづかない小さな出来事だった。
あれから30年以上経過した。塾生の子がときどき
「先生は、なんでここまでやれるの?」
と尋ねてくることがある。たぶん、あの日のできごとが影響している。
私の亡き父はウザかった。高校入試の合格発表についてきたし、就職したら2時間以上かけて勤務していた塾まで挨拶にきた。
高校2年生の時までは、理系に進むつもりだった。ロボットを作りたかった。しかし、四日市高校は当時男子の割合が高くて男子クラスがあり、私はその男子クラスに放り込まれた。
今もその傾向があるが、当時も男子生徒は理系が多くて私はその中で理系に行くのが当然だと思って勉強していたが、数学の勉強を始めるとめまいがするような感じがし始めた。
それは、公式の成り立ちを納得していないのに無理やり使わされることに生理的な拒否感が生まれたらしい。模試の結果によると、文系なら難関国立大に合格できるけれど、理系だとそこまではムリという結果。泣く泣く「教育学部」に進むことになった。
生きていくには英語講師になるしか選択の余地はなかった。しかし、その英語でも真摯に向き合うと問題だらけだった。
最初に
「何かおかしいぞ」
と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしている時。同席していたネイティブの教師が、しばしば私の授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。
「ミスタータカギが今使った単語の意味はね、---」
と解説を始めた。それで、一番仲のよかった理科教師のアランに
「なんで私の授業を中断するのかな?」
と相談したら
「お前の英語は綺麗だけど、ビッグワードを使いすぎなんだ」
とアドバイスをくれた。それで、注意して職員室の会話などを聞いていると、確かに中学レベルの英語を使っている。自分が受験勉強で習った難解な単語など全く出てこない。
not more than と no more than の違いなど、使わないのだからどうでもよかった。私の塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」を使って単語をいっぱい覚えているが、多分ムダになる。
アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろうと思って、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。そして、知らない単語や表現を見つけてウンザリした。
もはや、高校生の時のように
「頑張って勉強しないと」
と自分を責める気になれなかった。私はネイティブの助けを借りて問題を解き始めたが
「これは何だ?なんで、日本人のお前がこんなものを」
と言う。それで、
「どういう意味?」
と尋ねると
「こりゃ、シェークスピアの時代の英語だよ」
と笑っていた。
しかし、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたので、私は日本の英語業界で認知されている資格を取らざるをえなかった。
事実、英検1級を取ったらどの予備校、塾、専門学校も返事が来るようになった。結局、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校などで14年間非常勤講師をすることになった。
その間に出会った英語講師の方たちの中に、英検1級を持っている人はいなかったし、旧帝卒の講師の方もいなかった。資格を持たないと雇ってもらえないという私の見方は誤っていた。
私はその頃には受験英語を捨てていた。どの資格試験の英作文も面接試験も、すべてアメリカで使っていた英語で通した。つまり、中学生レベルの英語を使って難解な内容を表現する英語だった。
ところが、今はまた受験英語を指導している。高校の入試問題も、大学の入試問題も30年前から何も変わっていないのだ。受験参考書の構文も、相変わらず take it for granted that や not until の世界なのだ。
日本にやってくるALTが増えて、
「日本の教科書はクソだ」
とか
「英語が話せない教師が英語を教えている!」
と言っても誰も耳を貸さない。そして、偏差値追放、小学校から英語を、と意味不明の政策を打ち出す。私のいる予備校、塾業界も暴走族講師やらマドンナ講師やらパフォーマンスばかり。
そして、それをマスコミが煽る。賢い生徒はあきれ返って「マスゴミ」と揶揄している。
しかし、一体いつまでこのような状況が続くのか。
でも、本当に英語教育界にまともな人はいないのだろうか?私が四日市高校や名古屋大学の教育学部で出会った学生の中にはまともな人もいた。それで、日本一レベルが高い東大や京大を受けてみることにした。
京大は英語の試験が和訳と英作文という珍しい大学だ。それで、まず「京大模試」とZ会の「京大即応」を受講してみた。京大模試は河合、駿台、代ゼミなどを10回。Z会は8年間やって、じっくり研究してみた。
ランキングに載り、Z会からは「六段認定証」というのももらったが、毎回の添削は納得がいかなかった。京大模試の採点も同様だ。それで、
「いったい、だれが採点してんだ?」
と思い調べてみた。しかし、企業秘密で分からない。ただ、自分が勤務していた予備校の講師レベルだろうとは推測できた。受験参考書どおりの訂正がなされていたからだ。
京大を受けた時は、最初の2回は「受験英語」で書いてみた。すると、6割正解くらいだった。私の英語がそんなレベルであるはずがない。それで、次の2回は「資格試験」の参考書に書いてあったような古い口語で書いてみた。それでも、7割くらいの正解率だった。それで、最後の3回はアメリカで使っていたような中学レベルの英語で書いてみた。すると、8割正解に跳ね上がったではないか。
やっぱり、京大の先生は一流だ(笑)。
私の指導させてもらっている優秀な生徒も同じ感想を持っているらしい。
「あの先生は、自分で京大を受けたら確実に落ちる」
と、京大医学部に合格した子が言っていた。それで、
「この子たちなら、私の言うことが分かる」
と、英語の添削を始めた。
すると、やっぱりというか次々と京大合格者が出始めた。それだけで
はない。京大医学部、阪大医学部、名大医学部、東京医科歯科大学、三重大医学部など、どこにも有効なのだ。
大学の先生は、やっぱり賢い(笑)。
でも、そんなことを言ったら蛇蝎のごとく嫌われた。日本は和を重んじるだけで、議論をさせないプレッシャーが半端ない。
みんな食っていかないといけないので、英語が話せなくても、生徒が志望校に落ちても、そんなこと関係ない。自分の生活が優先。そういうことらしい。でも、それで犠牲になる生徒たちはどうなるのだ。大人の責任を放棄していることにならないか?
北勢中学校にいる時は英語が一番嫌いだった。点数もよくなかった。数学は理科、社会、国語と同じで特に意識した科目ではなかった。総合点でトップクラスにいたので、それで満足だった。
試行錯誤を繰り返す私に父は
「大学院に行きたいならお金は出してやるぞ」
などと言った。
この本の中で紹介されました。
英検1級、 通訳ガイド、 国連英検A級
数学に対する執着は残っていた。
最初に
「ボクは数学が苦手なのだろうか?」
と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。
当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。
点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて
「もうボクの頭には入りきれない」
と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、
「こんなのありえない!」
とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、
「証明できないと、使う気になれない」
というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。
2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、
「お父さん、ボク変だ」
と叫んだ。二回に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て
「お前、何をしてんだ」
と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。
病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら
「アレ?高木くん、どうしたの?」
と言った。北勢中学校の体操部の先輩だった。
診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことだった。私は頭が狂うことを心配したが、医者が言うには
「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」
とのことだった。
そうした経験を通して
「自分は、どうも文系人間らしい」
と覚悟した。それで、名古屋大学「教育学部」で勉強している時に
「自分は先生かなぁ」
とボンヤリ思っていた。それで、卒業後は英語講師として勤務を始めた。数学に触れるのは、自分にとってタブーになっていた。それから、20年ほどひたすら英語の勉強をしていて数学は求められて中学レベルだけ指導をしていた。民間では、英語講師だけでは仕事が得られないのだ。
ところが、自分で塾を始めると
「明日は理科なのに、英語の授業ですか?」
と生徒から文句が出始めた。それで、英語、数学についで、理科、社会、国語の指導もせざるをえなくなった。
そのうち優秀な子が来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも手を出さざるを得なくなった。そして、ある日気がついた。
そういう優秀な子は
「高校に入っても指導をお願いできませんか?」
とリクエストが入り始めた。最初は、英語だけという約束だったのに中学生と同じで数学の質問も入り始めた。
それで、考えた。
「灘高の入試問題の数学が解ける私なら高校数学も大丈夫かな?」
と考えた。
「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるかな」
と思って、近所の本屋さんに行って高校数学の参考書・問題集の棚を見た。なつかしい「オリジナル」が目に入った。四日市高校の悪夢が蘇った。
それで、恐る恐る手にとって中身をのぞいて見た。ひっくり返ってから25年以上が過ぎていた。まだトラウマがあり、手が震えた(笑)。しかし、驚いたことに、25年前の記憶が残っておりどんどん解けた。
中学の数学を徹底的に教え込んでいるうちに基礎が固まったのか、中年になって精神が鍛えられたのか、よく分からない。とにかく、「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周。並行してZ会の「京大即応」を8年間やり続けた。
その間に腕試しに「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。
そのくらいやらないと、優秀な生徒の指導には役立たない。成績開示をしたら、京大数学で7割正解だった。「暁6」の特待生、「国際科」の上位の子を指導しても困らなくなった。
しかし、そういう点数の問題だけではない。自分の中で大きな変化が起きた。数学アレルギーが全く消えた。トラウマが消えた。怖くなくなった。今では
「まぁ、たいていの問題は質問されても困らないだろう」
とリラックスして授業に臨める。当塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルではなく、生徒の質問に答える形式なので常に本番なのだ。
今では、英語より数学の方がはるかに面白いと思える。だから、私は19歳の時点で「文系」「理系」に分類することに疑問を持っている。人間はそんなに簡単に分類できるものではない。
文系だった私が今では
「この世の現象は数式で表現されない限り、分かったと言えない」
と信じている。これは、完全に理系の発想だろう。
学校では習わなかった「数学3」も独学で勉強している。そうこうしているうちに30年も過ぎてしまった。まさに、
「少年老い易く学成り難し」だ。
ただ、分かったことがある。私は自分の指導させてもらっている理系女子のような才能はないのだけれど、人の何倍も苦労して数学を身につけたために
「生徒はどこでつまづきやすいのか」
がよく分かるようになった。これは、数学講師としてはスゴイ武器になるのだ。
ひっくり返って、病院送りになったり、受験会場で不審者扱いを受けて入場拒否をされたり、みっともないことが多かった。お世話になったホテルの人も最初は送迎バスは父兄は乗れないと勘違いしてみえた。
しかし、それもこれも必要なことだった。
「とても頭に入らない」が「わかる!」に変わる瞬間を知った。
こうして、今は英語と数学の両方が指導できる講師として重宝されている。
考えてみると、高校生の時に吐きそうな思いで数式を見ていた時から30年が経過した。高校生の方は私もそうであったように2年後、3年後しか見えていないはず。そりゃ、そうだ。私もまさか自分がアメリカで生活したり、数学Ⅲを勉強するハメになるなんて予想ができるはずがなかった。
父は亡くなる前に自分が大学入試に落ちた話をしていた。戦争で中国に行ったとも言っていた。大学に行って戦争に行くのを避けようとしたのだろうか。今となっては分からない。
私の進学に強い関心を示していたのは、自分の原体験があったのかもしれない。もっと優しく接していたらよかったが、もう遅い。
皆さんも、今の段階では想像も出来ない経験をするはず。私たちがネット社会の到来に驚いたように、時代も激変を繰り返すだろう。そんな高校生の方たちに言えることがあるとすると、ありきたりだけれど
「目の前のやるべきことに全力を尽くすこと」
くらいだろう。それは、自分自身にも言えることだが。
そして、ご両親を大切にしてあげてください。
京都大学の受験票と成績開示。クリックで拡大されます。 ↓
高木教育センター イン ニューヨークhttps://youtu.be/sCCEGYlgp20
もう10年以上経ったから書いても人物が特定できないだろう。長く受験指導をしていると忘れられない生徒がいるものだ。A子ちゃんも、その一人だ。
私の塾に来てくれたのは彼女が小学6年生の時のことだった。最初に面接した時に、一目見て
「この子は賢い子だ」
と分かった。学力を確認しようとプリントを渡したら、いつまで経っても提出しようとしない。完全に仕上げるまで粘る子だった。
彼女は小学校の時から
「私は医者になりたい」
と言っていた。私の塾はそういう子が多い。しかし、家庭は金持ちではないので何がなんでも国立大でないといけないと覚悟していた。私の小学校時代とはえらい違いだ。
中学校では猛勉強して常に学年でトップクラスだった。そして、
「自治医大だと無医村に行けば学費が浮くとか聞いた」
とお金がなくても医者になれる情報を集めだした。私もできるだけ協力して情報を収集した。
そう思わせてくれる塾生だった。
灘やラサールや東海の過去問を集めて練習する授業も彼女から始めた。そして、当然のように四日市高校の国際科に合格した。
その頃、メールやファイルが普及し出したので私はさっそく
「家庭学習中に出た質問はなんでも送れ」
と塾生に檄を飛ばした。私は中学生は5科目、高校生は英語と数学に対応できるのだ。ところが、そんなサービスも怠け者には何の意味もない。
しかし、A子ちゃんはほとんど毎日ファイルを送ってきた。その質問の内容も勉強していないと出来ない質問ばかりで感心することが多かった。私は、A子ちゃんからどれほどの力をもらったことだろう。実は、白状するが高校の数学を指導しようと決めたのは彼女の影響が大きい。まさか、塾生に背中を押されるとは。
英語に関しては、高校の時に英検の準1級に合格した。だから、英検1級の先生が必要になった。私は彼女の書いてくる英文の日記を読みながら添削をし始めた。これが、後にネットによる通信生の募集につながった。まことに、A子ちゃんが私に与えた影響は大きい。
1級レベルのアドバイスをすると、たいていの生徒の方は
「何を言っているのか分からない」
という反応だったけれど、A子ちゃんは私の意図することを即座に理解するため、授業も楽しかった。語彙や文法が正しければ良い英作文が書けるわけではない。
当たり前だが、マナーやエチケット、採点官に対する思いやりが欠ける英作文は高く評価されない。学力だけではなく、そういう人間的な深みがないと見込みがない。浅い理解では京大などの難関大は合格できるものではない。
実は、私に京大を7回も受けさせたのも直接的にはA子ちゃんの影響が大きい。
「この子は日本の宝だ。何としても志望校に合格させなければ」
と思った。出来ることは何でもやる。娘以外の人間で、私にそんな思いをさせたのはA子ちゃんが初めての生徒だった。
A子ちゃんは、あるクラブに所属して大会で入賞する成績をおさめていることは耳にしていた。ところが、高校2年のある時、自主的にそのクラブを引退した。理由は分からなかったけれど、成績が伸び悩んでいたのが理由だということは推測できた。
私は、彼女の覚悟というか気魄に驚いた。
「先生はバツイチでも、1回結婚できたからいいですよ」
と笑っていた。言葉の端々にクラブばかりか、彼氏も結婚も何もかも犠牲にしても医者になるんだという決意が満ちていた。彼女のクラスがある時は、楽しかったけれど緊張した。
「この仕事を始めてよかった」
私にそう思わせてくれた塾生の子は多いが、彼女はダントツの存在だった。
A子ちゃんは家庭環境にも、経済的にも恵まれていなかった。多くの生徒は、過酷な環境に置かれるとグレるか性格が歪む。しかし、彼女は厳しい環境を自分を育てる肥やしにできる稀な子だった。
「政策金融公庫と奨学金と私のバイトで何とかする」
そういうA子ちゃんだった。そして、ある時ボソっと
「お母さんが生命保険を解約するって・・・」
と小さな声でつぶやいた。しかし、その目には絶対に合格するという覚悟が見えた。
そんな貴重なお金を塾に提供してくれるのだから、リキを入れないわけにはいかない。損得勘定などなかった。何としても合格してもらわなければならなかった。彼女が多くの患者さんを救うことは間違いない。待っている人がいっぱいいる。
私は中学・高校時代を通じて、A子ちゃんと言えばジャージと思っていた。たまに制服で来てくれたけれど、女子度はゼロ。可愛い髪飾りを付けるでもなく、フリフリの洋服を着るでもない。もちろん、髪振り乱して勉強ということはなく、清潔にしていたけれどファッションに時間も金もかけるヒマはなかった。
女子に「質実剛健」という言葉はおかしいのだけれど、A子ちゃんにはピッタリの言葉。私は戦前の教育は知らないけれど、両親を見ていて想像はついた。歴史小説に出てくる一昔前の大和撫子。
これは偶然ではない。今、私の塾に各中学校のトップクラスの生徒が何人もいるけれど、理系女子はほとんど女子度ゼロ。平均的男子より理路整然と話す。そして、質実剛健。日本の未来は明るいと思わせてくれる。
A子ちゃんは、その後「国立大学医学部」に現役合格して「旧帝の大学院」で学び、現在は研究職に就いている。私はA子ちゃんを長く見ていて思うことがある。
A子ちゃんは気づいていなかったが、当塾では彼女の指導から生まれた教材群のお陰で、その後なんと「京大医学部」合格者が3人も続出した。私の塾の救世主でもあったのだ。
現在の日本では、道を外れたギャル、ヤンキー、暴走族あがりの生徒や講師をもてはやしお金がそちらに流れる構造が出来ている。しかし、本当はA子ちゃんのように目立たなくても人々の役に立っている、道を外れない子にお金が流れるべきではないか。
「英検1級に合格すると、世界はどう見えるのか?」
小さい頃に英語がペラペラの人を見たときに、不思議に思わなかったろうか。ワケのわからない記号の羅列を読めてしまう。ワケのわからない音声が、ちゃんと意味を持って聞こえているらしい。
「あの人の頭の中はどうなってんの?」
と思った。その不思議を解明したかったが、英検1級に合格した頃に理解できるようになった。
たとえば、2つの経験をお話ししたい。私がホームステイしていた時のこと。
「ダウンタウンに行くが、ついてくるか?」
とホームステイ先のママが聞いてきたときのこと。
私は
Whichever is fine. (どっちでもいいよ)と言った。すると、いつもニコニコしていたママが急に険しい顔になって
「イエスかノーかどちらかに決めなければならない!」
と言ったので、ビックリしたこと。
もう一つは、日本の帰還宣教師に
「本音と建前の建前って、英語でなんと言うのかな?」
と尋ねたら、lie (嘘)と言ったこと。
この二つは衝撃的だった。つまり、アメリカ人の立場から見ると日本人がよく言う
「どっちでもいいよ」
というのは、自分の意見がないダメ人間の証拠であり、本音と建前を使い分ける日本人はウソつきに見えるということだ。その他にも、
「山は座、タンスは棹、ウサギは羽と数えるんだ」
と言う言語学者の解説がバカバカしく聞こえるようになったこと。英語なら、one two three で済む。単位を付ける必要性など全くない。一言でいえば、日本文化を客観的に見られるようになったということだ。
「クラブと勉強の両立」
と日本の教師は叫ぶが、それは極めて日本的な文化に基づく。私のいたアメリカの中学校は、クラブが存在しないので午後二時半になると校内は消灯で真っ暗だった。バランスのとれた人格形成にクラブは不可欠などとは、何の根拠もない洗脳だ。
私は毎朝アメリカのABCニュースを聞いている。英語のDVDも字幕なしで楽しめる。英語の歌も同様だ。もはや、金髪のオネエチャンと友達になることに妄想を抱かない。リアルの等身大の外国人を知ったからだ。
上記の言語学者のように、英語を語る日本の英語教師や英語講師の言うことも耳に入らない。日本人だって、
「あそこに山が三座ある」
とか
「ここにタンスが二棹ある」
なんて、もはや言わない。私は教師とか教授とかいった肩書きだけで、自分の主張を正当化しようとする人間が嫌いで、信用しない。
英検1級に合格すると、こんな傲慢な視点が生まれる(笑)。
皆さんは、東大や京大に合格する人や、ガリレオの書き連ねるような数式を見たときに
「アイツの頭の中はどうなってんだ?」
と思ったことありませんか?私はある。それで、興味があるので10年かけて高校数学を勉強しなおして、50代で京大を受けて7割正解を確認した。
すると、・・・
小さい頃にクジを引くときに、先に引くか後に引くかでよくもめた。
「ズッルーイ!俺に先に引かせろ!」
しかし、中学校に行って確率を習うと
5本のうち2本当たりなら、先に引く人の当たる確率は2/5。後に引く人の確率は、中学校で習ったので説明は省きますが、同じことになるのは知ってみえますよね。だから、ジャイアンのようなガキ大将が
「俺に先に引かせろ!」
と言っても
「どうぞ」
と言える。同じ確率で平等なのだから、慌てる必要はない。数学を徹底的にやると、この世で起こる全ての現象には「原因ー結果」の関係があるという確信が生まれる。
たとえば、料理の鉄人と言われる人が秘伝と言われても
「何度の油に、何秒後に入れて、何秒後に出して、厚さを何ミリに切る」
と分析したら、秘伝などこの世にないことが分かる。名人芸などありえない。受験指導も同じことだ。たとえば、2000題もやれば、大抵の問題は解けるようになる。効率よくやるには、プロの手助けが必要だけれど。
私は、京大医学部や阪大医学部の受験生を「数Ⅲ」も含めて指導し始めてから世界観が少しずつ変わっていった。
たとえば、
「クラブ活動の自由化は良いことか」
という命題の真偽を考える場合、数学の訓練を受けてない方は
「オレは絶対に必要だと思う」
というだけ。言いっ放しで、「思う」の先がない。しかし、数学の訓練を積むと科学的に考える。私なら
「アメリカの中学ではクラブは存在していなかったが人格形成に問題はなかった」
「イジメの温床にクラブやクラスの濃密な関係が原因になっていないか」
など、データを集めて検証するわけだ。だから、理系女子たちの目には「思う」で終わってしまう人間の発言は未熟に感じる。「思う」を大声で叫ぶことで意見を通そうとすると
「キャンキャンと、騒がしいヤツ」
と露骨に軽蔑される。だから、四日市高校に進学した優秀な理系女子は中学時代をふりかえって
「中学のときに回りにいたのは、アホな男子ばかりだった」
と言うわけだ。キャッキャと喚くサルくらいに見えていたのだろう。そんなサル並みの男とつきあえるわけがない。理路整然とした論理性を好むというのは、逆に言うとカオスを嫌うわけだ。ワケの分からないことを感情的に叫ぶ人を生理的に受け付けない。
「ガリレオ」の湯川先生は、論理的でないので子供と話をするとジンマシンが出た。あの感覚だ。私にはよく分かる。
京大数学が7割解けるようになると、世界がこんな風に見え始めるわけだ。
三重県のこんな田舎の個人塾から毎年京大に合格者が出て、それも医学部の合格が続くと
「なんで?」
と問い合わせが増えてきた。ネットに事実を公表し始めたら、さらに問い合わせが増えた。
「何か特別な方法を取らないと、そんな合格者が出るわけがない」
というわけだ。
もちろん、現象には全て原因がある。私は自分の体験をもとに独自の指導法を構築したのだ。つまり、自分は学生時代に「強制」が嫌だった。宿題や課題のことだ。普通は、それを強制と思わないのだろうが私は嫌だった。
実際、強制されていた大学時代は英検2級どまりだったが卒業して好きに勉強し始めたら英検1級に合格し、京大二次で数学が7割正解になれた。人には自分のやり方があるのだ。
自分で塾をやり始めたら、それが確信に変わった。暁6年制の特待生や四日市高校のトップクラスの子が来てくれて
「学校の先生は質問しても逃げる」
とか
「授業が受験にまったく役立たない」
と不平を言っていたからだ。それで、その不満を解消してやるために中学生は東海高校、灘、ラ・サールの過去問をテキストにした。高校生は、京大の赤本やその類題の練習を始めた。生徒の求めに応じただけだ。
しかし、それなら他塾もマネが出来るかもしれない。しかし、そのうち気づいた。
「こういう優秀な子が本当に求めているのは授業じゃない
教科書を見れば分かることを説明する必要はない。彼ら、彼女らが求めているのは
「質問に答えてほしい」
ということだった。つまり、家庭学習中に出る質問に対する返事。
「名大卒のアメリカ暮らしをした英検1級講師なら大丈夫だろう」
「三重大医学部に合格した子を指導したらしいから大丈夫だろう」
最初は、そういう噂で信用してくれたらしい。しかし、それだけでは十分ではなかったのだ。私が
「大丈夫」
と言っても信用してもらえない。それで、自分で京大を受けて成績開示して英語8割、数学7割を実証してみせたのだ。
私の指導にはマニュアルがない。毎回、生徒の方が教室に入ってくると
「今日はどうしたいのでしょうか?」
と尋ねる。すると、
「今日は数学の宿題の解けなかった問題を教えてほしい」
とか
「数列と確率の融合問題ってありませんか?」
と言う。それで、その質問に答えたり、リクエストのあった問題を提供して類題を練習してもらう。
つまり、私にも
「今日の授業はどうなるのだろう」
と予想がつかない。だから、あらゆる場面を想定して準備をしておく。どんな問題が出ても対応できるように英語と数学の練習を繰り返し、類題のプリントをあらゆるジャンルで用意しておく。
文字で書くと、この3行で終わりだが実行するのは楽ではない。ほとんどの予備校や塾が不可能だから、優秀な子は河合塾や駿台をやめて当塾に移ってきたりする。
旧帝合格者数(四日市高校、定員360名)
H27 H26 H25 H24
1、北海道大学 5 10 2 7
2、東北大学 0 1 3 2
3、東京大学 9 2 3 3
4、名古屋大学 37 25 17 30
5、大阪大学 8 6 17 20
6、京都大学 12 8 16 10
7、九州大学 3 1 1 0
合計 74 53 59 72
最後に書いておきたいけれど、私は受験指導が仕事だから
「私はこんな風に英語や数学を身につけました」
と参考までに書いただけ。30歳で英検1級に合格した私よりずっと早く合格した塾生もいるし、数学は高校生なのに私を越える子もいるわけで、私のやったことがベストなどと思っていない。
「フーン、そんな人もいるんだ」
くらいの参考になれば幸いです。英語や数学ができればオッケーなんて世の中ではないし、そんなものが出来なくても立派な人がいるのは当然です。
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