父「どっちについていきたい?」
突然の質問に5歳の僕は答えられませんでした。
僕の記憶の中ではどこかの家の一室にママとパパとお姉ちゃんと僕がいて、詳しい経緯はわからないけど、悲しいことが起きているということは感じていました。
字幕の付いてない洋画を見てもどんなシーンかわかりますよね?あんな感覚です。
僕は質問への答えが今後の人生を決める答えになるのだとなんとなく直感していました。
ですが、ママかパパのどちらかを選ぶなんてできません。
5歳の僕「ふたりともいっしょにいてほしい。」
それが5歳の僕の答えです。
でもそれはできません。
なんで?理由もわかりません。
どうすればいいのかわかりません。
なみだがでてきます。
2つ上のお姉ちゃんも泣いています。
…そして僕は決断します。
5歳の僕「パパといっしょにいる。」
理由はわかりません。姉曰く、僕がそう言ったから私もそうしたとのこと。
僕もよく覚えてません。思い出せるのは悲しい感覚だけです。
5歳の時に両親が離婚して父親に引き取られた僕と姉は、父と祖母と4人で暮らしていました。
父と祖母が営む喫茶店と自宅が一体になっていましたが、喫茶店が開店しているときは入りにくかったので、2階の部屋でゲームばかりしていました。
母がいない生活が普通になって、家事は祖母がしてくれていたので祖母が母親のような感覚でした。それでいいと思っていました。
小学3年生の時に喫茶店を閉めることになり、喫茶店のある家からそれほど遠くない所に引っ越しました。
通う小学校が変わりましたがそれも中学に上がると、田舎で学区が広いため前の小学校の友達と一緒になれました。
授業参観や友達の家に遊びに行った時に友達のお母さんを見て少し羨ましい気持ちになるときもありましたが、母が恋しくなることはありませんでした。
というより、どれだけ願っても母が帰ってくることは無いとわかっていたので、母を求めることはやめていました。
そして、高校生になった僕。
小学4年生の時から野球を始めていた僕は高校でも野球部に入りました。
部活の中でも野球部というのは特に学生の親の手助けや応援が求められる傾向にあります。
それは僕の入った高校でも同じで、親御さんの会が作られて試合のときは役割分担をして裏方の仕事をしてくれていたそうです。
そのおかげで練習や試合に集中できたので、当時お世話になった親御さん達にはとても感謝しています。
僕の父は僕たち家族を養うために働いてくれていたので、試合や練習を見に来たりすることはありませんでしたが、練習終わりに雨が降っている時などに、車で迎えに来てくれていました。
高校生にもなると僕自身、離婚を経験して12年程経って気持ちも割り切れていたので、
17歳の僕「女の子と話す経験少ないし苦手やわぁ。お母さんいいひんからなぁ。」
友達「いや、笑いにくいわ!」
なんて会話も日常茶飯事で、気にしてもいませんでした。
親御さんも僕が離婚を経験していることは知っていたので「田中くんのお母さんは来ないの?」とか的外れな質問をされることはありませんでした。
手伝いに来てくれる親御さんはやはりお母さんが多くて、友達のお母さんの集まりというイメージがありました。
そんな中でも特に面倒見の良かったのが後輩Tのお母さん(T母)で、僕と後輩Tが同じポジションだったこともあり、お兄ちゃんのような感覚で接してくれました。
遠慮を知らない高校生の僕はT母に敬語も使わず馴れ馴れしく喋っていましたが、T母は気にする様子もなく優しく対応してくれていました。
社会人になった今もT母には、たまに挨拶しに行ってます。
そんなT母の存在もあり、母親がいないことを意識することが少し増えましたが、真面目がウリの田中翼は問題も起こさず卒業しました。
高校卒業後、柔道整復師を目指して専門学校に入学した僕は、3年間勉強をして国家試験に合格して柔道整復師として整骨院で働くことになりました。
そして整骨院で働き出して3年目の夏。
23歳になって、結婚する同級生や後輩が増えてきていました。
友達と話すことが好きだった僕は、同窓会などでも近況を聞いたり学生時代何を考えていたのかを聞いたりしていました。
ですが男ならまだしも女性となると、結婚後は一緒に話せる機会が減ってしまうと考えた僕は同級生の女の子ともっと話そうと思い、連絡を取るようになりました。
そして一番に白羽の矢が立ったのが同級生のM美でした。
実はM美とは不思議な縁があり、3歳の時から親子同士で仲良くしていてよく家にも遊びに来ていました。小学校に上がり離れ離れになったのですが、2年生の時にM美が引っ越してきて小学校でも一緒になりました。しかし一緒になったのも束の間、3年生の時に僕が引っ越してしまい、遊ぶこともできなくなりました。
中学校でまた一緒になるのですが、しっかり話すことはなく廊下ですれ違う時に意識する程度でした。
高校でも一緒になったのですが、しっかり話すことはなく卒業して、それからはFacebookでやり取りするぐらいでした。
でも、だからこそ今のうちにしっかり話しておきたいと思ったのでM美にFacebookで連絡をとって一緒にご飯を食べに行くことになりました。
仕事が終わって、駅で待ち合わせて久しぶりに会ったM美は社会人になって昔の面影を残しながらも綺麗になっていてドキッとしましたが、話してみると明るくて話しやすい昔のままのM美でした。
店に入って料理を食べながら、昔のことや最近のことを話しているとM美のお母さんの話になり、実は数年前M美のお母さんが倒れて入院することがあったということを知りました。
全然知らされていなかったので驚きましたが、今は退院して元気になっているそうなのでホッとしました。
その話の中でM美は言いにくそうでしたが、M美のお母さんが入院している時に僕の母がお見舞いに来てくれたとも話してくれました。
離婚する前からM美のお母さんと僕の母が仲良しだったのは知っていましたが今どうしているのかは全く知らなかったので驚きました。
驚いてばかりですが、連絡を取らないと近況もわからないものです。
そこから僕の母の話になり、僕は姉の話を思い出しました。
それは姉が高校生の時突然、母と名乗る女性が自分に会いに来たという話でした。どうやら母はM美のお母さんのお見舞いに行ったとき姉がいる学校を知って、会いに行ったようです。
高校生の姉は動揺してどうすることもできなかったと言っていましたが、その後連絡を取り合って実は母と何度か会っていたそうです。
M美もそれは知っていたようで、その時の経緯も話してくれました。
知らないことだらけだったM美との食事はあっという間に時間が過ぎ、M美を家まで送って帰りました。
遠いと思っていた母の存在が自分と近いのだと感じた日でした。
そして運命の日は近づいてきます。
ある日姉からLINEが入りました。
姉「10月25日演奏会あるけど来る?」
僕「予定ないし行くわー。」
姉が所属するオーケストラの演奏会に出るとのことなので、
特にその日予定もなかった僕は見に行くことにしました。
しかし一人で見に行くのも少し寂しい気もしたので姉のことも知っているM美を誘ってみましたが、当日は仕事で行けないとのこと。
仕事終わりに近くでご飯ぐらいなら大丈夫だと思うとのことだったので、演奏会終わりにM美と待ち合わせることにして当日を待ちました。
しばらくしてまた姉から連絡がありました。
姉「演奏会お母さんも来るで」
え?
と思いましたが、
ポーカーフェイスがウリの田中翼は
僕「じゃあ一緒に見るわ。」
と返信しました。
内心はドキドキしまくりです。
18年間会っていなかった母との再会。いつかできればいいなと思っていたことが、いざ叶うとなるとこうもドキドキしてしまうものなのか。
そして演奏会当日。
電車を降りて会場に向かい、少し早く着いたので僕は中に入って待っていました。
18年ぶりの再会。ですが僕は決めていました。
僕「できるだけ自然に振る舞おう。実家のお母さんに久しぶりに会う感じでいこう。」
少し待っていると数日前姉に聞いた、母のLINEから「入り口の外にいます」と連絡が入ります。
入り口の外へ僕は向かい、母を探します。
顔も背の高さも5歳までの記憶しかないので見つけられるか心配でした。
が、
間違いなくこの人だ。
とわかりました。
僕「久しぶり。」
と声をかけました。
母は
母「久しぶり。大きくなったなぁ。」
と返し、嬉しそうに笑ってくれました。
その時、僕は永い間感じていなかった言葉にできない嬉しさを感じました。
開場して席に着き、僕と母はいろんなことを話しました。
離婚の話、その後の話、最近の話、昔の話、仕事の話、家族の話。
無愛想な僕は母の話を聞いて相槌を打ったり少し質問するぐらいしかできませんでしたが、母と話せることが楽しかったです。
そして演奏が始まります。

曲目は
バルトーク/ピアノ協奏曲第3番
音楽はあまり詳しくないのでどんな曲なのかも分からず聴いていましたが、演奏は力強さもあり繊細さもありいくつもの音が揃って凄い世界観がありました。
分からないながらも演奏に引き込まれ曲も終盤に差し掛かった時、
ツーっと、ほっぺたに涙が流れたのです。
自分では意識していないつもりでも、母と再会できた喜びや、母がいなかった学生時代の寂しさは言葉で言い表せるようなものではなく、僕の心の底に溜まっていた言葉にできない感情が溢れてしまったのだと思います。
ですが、泣いている姿を見せたくはない僕は母にばれないように涙を拭き、何事もなかったように演奏を聴いていました。
演奏が終わり、休憩をはさみ、全ての曲目が終わりました。
外に出てくる姉と話し、打ち上げに向かう姉に見送られ、僕と母はM美との待ち合わせ場所近くの喫茶店に入って少し話していました。
約束していたM美から仕事が終わったと連絡があったので、どこで会うのか確認するために電話して、母に電話を渡しました。
M美には母と会うとは伝えていなかったのでM美はとてもビックリしていました。
M美が合流したところで、「じゃあまたね。」と言って母は家に帰っていきました。
僕も手を振って「また。」と母を見送りました。
母が帰った後、M美とご飯を食べながら今日のことを話していました。
M美も僕と母のことを気にかけてくれていたようで、「よかった」と言ってくれました。
M美と別れて家に帰る電車に乗っている時、心に開いた穴が埋まる感覚と共に、これまでのことを思い出していました。
そして気付いたことがあります。
5歳で両親の離婚を経験して心に傷を負い、音信不通だった母と18年ぶりに再会した僕が思う
親子に必要なことはたった一つなんです。
子供を良い環境に置くことでも、
親に楽をさせてあげることでも、
優しい言葉をかけてあげることでもありません。
「そばにいること」
それだけなんです。
最近は便利です。携帯やスマホがあればどこでも繋がれますし、連絡も取れます。
でも実際に会って、同じ空間を共有することには到底かないません。
話さなくても、目を見ていなくても、そばにいるだけでいいんです。
きっと何十年も一緒にいるとそんなことが当たり前になってしまって、感謝することもなく、忌み嫌ってしまうのだと思います。
でも、もし今あなたに、離れて暮らす親がいるのなら、会いに行ってください。
一緒に暮らす子供がいるのなら、余計なことは言わず、そばにいてください。
心が繋がっていれば言葉はいりません。
自分の親を、自分の子供を心の底から嫌いになれるわけがないんです。
僕は「両親の離婚」という事象を
「近くにいた父の有り難さ、離れていた母の大切さを学ばせてくれた」
事象だと捉えています。
それがあったからこそ、今の自分の弱さがあって、強さがあるんだと思うからです。
起こった事象を変えることは至難の業ですが、起こった事象を自由に捉えることは簡単です。
人は皆、自由だと僕は思っています。
自分に由るんです。起こった事象は自分に由って捉え方を変えられるんです。
だから僕は両親に感謝しています。
お父さん、お母さん、ありがとう。
このストーリーをどう捉えるかも、あなたの自由です。
最後まで読んでくださってありがとうございました。