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15/11/13

あなたらしいWEBデザイン ~それぞれの大切な想いや夢を形作る WEBデザイナー ~

Image by Olia Gozha

あなたらしいWEBデザイン

~それぞれの大切な想いや夢を形作る WEBデザイナー ~




ごく普通の家庭で育ちました。


当時は自動販売機もコンビニもない 自然がたくさんの佐賀県唐津市の山。


祖父が営んでいたミカン畑。


父と母、祖父と祖母、僕と弟と妹。





両親は共働きで 小さい頃はよく


祖父に山の斜面の並んだミカン畑へ連れて行ってもらいました。


天気の良い日は 畑のなかで走り回ったり 遊んだり


実ったミカンをそのまま 食べたりしながら遊んでいました。





その場にあるもの 田舎道を通り過ぎる車なんてすぐに覚えてしまって、畑から家までの1キロの帰り道も3歳くらいのときには自分で分かっていました。


祖父が作業中。目をはなした隙に一人で家まで帰ってしまい、祖父や家族は僕が迷子になったのかと大騒ぎになってた(笑)


そんな自由気ままな子供だったかもしれません。






父は毎日、福岡市内の会社で経理のサラリーマンとして働いていました。



この山の家から最寄り駅まで車で。 駅からは電車で2時間近くかけて。



朝も早くて、帰りも遅かったから夕飯を父と一緒に食べられるのは、週末くらいだったかな。母は保育園の保母さんで、両親二人は小さい頃から働いていました。




僕は気ままに遊んでいたから、両親、祖父母からは「いつも遊んでばかり」と思われていたかもですね。とくに祖母が一番の「教育ママ」みたいでした(笑)




家族のなかでは、決まり事や約束について規則正しく厳しいところもあった。


朝は早く起きるもの。真面目に働く。


それが普通の価値観として強く感じていました。



僕は夢中になると、時間を忘れて何かを作っていた子供。

たしかに、遊んでばかりに見えたかもしれないかな。



保育園へ行くようになり


はじめて触った「油粘土」


テレビで見たトランスフォーマーのロボットを夢中で作ってた。


ただ形を作っているだけじゃなくって、変形可能にしたり、合体させるような仕組みにしたり、ロボットから飛行機モードとかって、とにかく姿が変わる世界が好きでした。






小学校にあがっても この自然に囲まれた小さな世界。


1クラスしかない。そんなのんびりと親密な環境。



当時、学校で「ミニ四駆」が流行っていて、もちろん僕も ハマりました。

同じ年頃の男の子なら懐かしく覚えているかもしれませんね。



スピードを上げるためにタイヤを替えたり、不要な部分を削って軽量化したり。色やシールでカッコよくデザインもしました。そしてコースを持っている友達のところへ行っては競争して遊んでいたり。ミニ四駆をしまうケースも、家にあったドリンクケースを改造して作ってました。





父はアウトドアもインドアも、なんでも楽しむ人。


宿題が終わっていないと とっても厳しかったけど、やり終えたあとに時々、プラモデルを買ってもらいました。



僕の目を惹いたのは「ガンダム」のプラモデル。


父は車の模型やプラモデルを作っていました。



作りかたを習ったし、父の作る姿を見ながら覚えました。


外した部品に残った突起を丁寧にヤスリで削ったり、とにかく父の作り方は精密で、車のプラモデルは内装までこだわっていた。機械や細かい造形への愛情なのか興味なのか、父は買ってきた目覚まし時計を分解して再度組み立てたりもしていました。さすがに僕はここまで細かくは出来ないと思っていました。



僕は買ってもらったガンダムのプラモデルの種類がいくつか揃ったので、頭部の角を取り替えてみたり、別の部品と交換したり、自分だけのオリジナルのものをいろいろ組み合わせて作っていました。






僕は常にインドア派だけど


父はアウトドアな遊びも楽しんでいました。



川や海で釣りをするにとどまらずパラグライダーにチャレンジしたり、仕事は真面目な経理でも外では思いっきり楽しむ感じです。家で作った大きな飛行機やラジコンで外で楽しんでいたし、自作のアマチュア無線も持っていた。



ハマると極める父。


僕からしたらその極め方がついていけないレベルですね。

仕事にしていたら すごかったんじゃないかと思います。




ただ父は厳しかったです。


生活にしても とくに勉強についても厳しかったから、僕はなんとなくいつも 父に認めてもらえないと感じていました。


中学校へ入学した直後くらいに父の通勤時間を考慮して県内の都市部へ越すことになりました。両親から引っ越しのことは知らされていなくて、僕が転校することは学校の担任の先生からはじめて聞かされました。



ビックリしますよね。



「ええっ!なんで???」な気持ちです。




笑い話ではなく 家族から説明がなかったことがショックだったけど、


比較的厳しい家庭環境だったので、それに従うしかない・・・






小学校から一緒の仲良しの友達とも離れてしまいました。




転校先の中学校では


みんな同じ小学校から上がってきたので 転校したばかりの僕には慣れるのに苦労しました。


佐賀県の地方には方言もいくつか種類があって、なんとなく自分の方言を隠したくて博多弁になろうとした。


振り返れば中学校の3年間、うまく学校の雰囲気にも溶け込めなかったし、自分と周りの友達との関係に希薄さが拭えないまま過ごしていました。学年が上がるにつれて、授業もサボっていたし、学校に行っても楽しくなかったです。



高校へ進学しても、そんな自分はあんまり変わらなくて


1年生の夏休みごろからは、もうすでに学校に行ったり行かなかったり。

出席日数もギリギリで、中間・期末テストだけ要領よくこなして、不良でもなく真面目な方だけど、ふわふわした登校拒否になっていました。




そのころ、家ではゲームに夢中だった。


自分でゲーム機を買って、そのとき人気だったRPGにのめり込んでいました。


ゲームのグラフィックデザインに感動したし、ゲーム音楽も好きでした。




そんな僕に両親も悩んだと思いますけど、当時の僕はあまり自分を理解してもらえているような気がしなくて反発もあったと思います。





中学から高校をそんな感じで過ごしたので


進学については大学受験をあきらめて コンピューターグラフィックスの専門学校へ進学。


ここでは興味のある分野に集中して学ぶことができました。


授業では色の組み合わせの知識や概論・パターン。


色彩検定を受けたり、色彩に関する心理についても勉強した。





課題に出されるものを「Photoshop」や「Illustrator」を使ってデザインをしたり、3Dソフトを使ってコンピューター上の人型を歩かせたり、動画を制作したりしました。


グラフィックデザインの世界が楽しかったし、音楽もパソコンで独自で作詞作曲をして遊んでいたのが懐かしいです。




学んでいくうちに、これでプロになりたいと思うようになりました。でも就職を叶えるためには、それ相応のコンピューターの設備が必要でした。周りで同じようにグラフィックデザインのプロを目指す生徒は、自宅でも必要な設備を持っていました。



僕にとっては ただ卒業しただけでは就職は難しく、当時の僕には高い壁に感じてその現実に挫折してしまいました。20歳くらいのとき、半ば投げやりな気持ちになって3年間のうち2年で専門学校を中退。




それから約10年、フリーターみたいな生活が始まりました。


中退後4年ほど、本屋さんでアルバイトをして帰ったらゲームをする。



気持ちの中では「何かをしたい」


でも何でもいいじゃ仕事に就く気になれなかったです。




何かは学んでおこうと通信制の大学に入って、経済や心理の勉強をしました。将来のことも考えたり、祖母のケアがしたくてホームヘルパーの資格も取りましたが、アルバイト生活は変わらず、モヤモヤしたまま時間が流れていきました。



本屋さんから、NHKの委託外交員の仕事。合間にバイクの免許を取ったりもして過ごしながら、いくつかのアルバイトを経験して、オフィスビルやテナント商業施設の清掃会社の正社員になりました。





このころ、本屋さんにいるころに出会った彼女と 子供を授かった時期に結婚。


仕事はやろうと思えば こんな僕でもなんとかなった。





そういう時期に自己啓発の本や個人ビジネスのセミナーなどに出かけ、社会人の視点から新しい価値観や世界に触れるようになりました。




それと同時に結婚してからは将来のことを考えるようになり、収入を上げていくためのきっかけになればとWEBデザインの技術や知識の勉強を始めました。





専門学校で勉強したこととはまた少し異なって、


ホームページやブログなどで使う「HTML」や「CSS」の基本や応用を学びました。



※ HyperText Markup Language(ハイパーテキスト マークアップ ランゲージ)、略記・略称。HTML(エイチティーエムエル)とは、ウェブ上の文書を記述するためのマークアップ言語


※CSS(Cascading Style Sheets、カスケーディング・スタイル・シート)とは、ウェブページのスタイルを指定するための言語です。 ワープロソフトなどで作成される文書も含めて、文書のスタイルを指定する技術全般をスタイルシートといいます。HTMLやXHTMLなどで作成されるウェブページにスタイルを適用する場合には、スタイルシート言語の1つであるCSSが一般的に利用されています。




30歳になって、家庭の収入のためにもっと稼ごうと考え、法人用のチラシを制作する印刷会社に勤めました。そこで約4年間、法人クライアントさまの広告チラシを作る中で僕のデザインの知識や技術が活かされる環境に身を置くことができました。




見え方・文字のサイズといった細かい部分・インパクトのある魅せ方。

それを意識しながら「見やすい」「伝わる」そんな個人クライアントさま、起業さまのサービスの良さが伝わるものを手がけました。

気がついたら約5000枚のデザインをこなしていました。




この仕事をしながら、自己啓発や個人ビジネスのセミナーで出会った友人の中に、



「ブログ」で自分のお仕事や気持ちを発信し、個人で仕事をしている人たちと出会いました。



その人たちは、日々ブログに情報を発信し、そこに集まった読者さんやホームページからのお申し込みで自身のビジネスを展開している。




興味深く聞いたり接したりしていくうちに。



「僕のブログのヘッダーを作ってくれる?」



「私のブログをきれいにカスタマイズしてほしいな」



そんな要望が生まれました。









最初は手探りだったけど、いろいろやっていくうちに僕も自分のブログを立ち上げて、副業のような形で「ブログのデザイン」が始まりました。




僕にとっても楽しかったし、20代初めから10年以上かけて何かを探していた。



そういうものに人とのご縁から巡り合った。



小さなころ、プラモデルを手に好きなようにイメージしたものを描いたり、組み立てたり。


自分で好きなように好きなものを想像してデザインすることが、


誰かの役に立つことが嬉しかったです。






僕やお客さまが利用している「Amebaブログ」では、ある程度自由に誰でもカスタマイズできます。多少、調べれば興味がある人なら 自分でデザインすることも出来るけど、実際は色彩の感覚やチラシ制作で培ったような「伝える」視点については、なかなか分かりづらいものです。




僕が客観的に見て、もう少し整えられたら。

そう感じることもありますね。





ブログや個人のホームページが昔よりずっと身近なものになり、誰でも自分のWEBページをデザインできる状況になってきましたが、ただ綺麗にするのか、それともその上で「その人らしさを伝えるのか」そういった価値観も問われるようになってきたと思います。





僕の友人やお客様も、みなさん。


自分のブログを大切にしていらっしゃいます。





それぞれの気持ちや想いを込めて、記事を書いているのがよく分かります。

ブログのカスタマイズもご自身で一生懸命作ったのだから、思い入れや愛着があって当然ですね。





僕がブログを読む人、見る人の目線に立ってデザインしていくことは大切。



そして、その人の夢や想いも大切にしたい。



その人らしいブログやホームページなどを 大切に描くためには、決まり事にばかりに縛られた感覚ではなくて、僕とお客様の直感が土台でありたいと思ってきました。それぞれの想いや感情に触れながら、ありのままをデザインしていきたいです。





ブログやホームページなどは有名な人や起業のツールだけにとどまらず、すでに僕ら一個人が使いこなし、お仕事につなげていく時代が始まっています。



そこには、大切な夢を持っている人もたくさんいます。

叶えたい未来があって、日々、ブログで情報発信をしていらっしゃいますね。




そのWEB空間から、


あなたらしい想いや姿が 画面の向こうにいる方へ届くような


そんなデザインを手がけて、夢の実現をサポートしています。


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