高木教育センターのありふれた日々(5)
第四十一章「塾の教室から」
第四十ニ章「タイムカプセル」
第四十三章「なんで数学者なのに、神様を信じる人がいるのか」
第四十四章「ボクは学校が嫌いだ!」
第四十五章「隠れ家」
第四十六章「サイレント・クレーマー」
第四十七章「脱スマホ宣言」
第四十八章「yahoo 知恵袋の英作文」
第四十九章「少林寺拳法がすき」
第五十章 「グッバイ、お父さん」
第四十一章
「塾の教室から」
私は全ての人が勉強ができるようになると思っていない。塾を訪れる方には正直に言えない。言うと怒る人が多いから。しかし、冷静に考えて欲しい。小学校の頃に、足のはやい運動会のヒーローがいたはず。逆に、鈍足の子がいたはず。それは努力の結果ではないですよね。
生まれつきの向き、不向きがある。人間だもの。当たり前のこと。それが、私の塾にみえられる頃には努力の積み重ねが10年以上行われた後。勉強とは教師から指示されたことだ。強制される嫌なものだ。我慢がすべて。そう思い込んでいる子が多い。
親もそう信じていて、教師の指示どおりに動くようにプレッシャーをかける。そして、塾にも
「どんどん宿題を出してください」
とプレッシャーをかけてくる。塾の多くはその要望に応じる。商売だから。しかし、それだけでなく、塾講師にも勉強とは強制だと信じている人が多い。結局、
「やればできる!」
と無責任な言葉を吐く。鈍足で、小学生用の練習しかしていない子にオリンピックに出られるようなことを言う。悪意ではないですよ。善意で。でも、オリンピックならオリンピック用の練習をしなければならない。小学生用の練習ではオリンピックには出られない。
たとえば、高校では英単語が6000語は必要だ。公立中学校では1000語しかやらないから、高校で残りの5000語を覚えなくてはならない。だから、中学校の5倍はやらないといけない。合格する子はやっている。それで、私は
「5倍の量を覚え続けてください」
と言う。それが出来ないなら、クラブも生徒会も全ての時間とエネルギーを勉強に向けるしかないと言います。これは統計の示すデータだから正直に言う。もちろん、例外はある。こっち側から、あっち側に行く道は一つではない。
ただ、ハッキリしていることは誰かの言いなりになるだけではトップに上り詰めることは出来ないこと。きみの性格も置かれた環境も他の誰とも違う。どのレベルの問題集を使い、分からない時は誰に尋ね、どこで勉強するのか。どの大学のどの学部に行くのか。
決めるのはキミだ。もし、学校の宿題やカリキュラムが自分の計画と違ったら自分の計画を優先すべき。
ところが、そこまで真剣に受験勉強に向き合っている人は少ない。だから、先生の指示に従う必要がないなどと口にすると蛇蝎のように嫌われる。ここはそういう地域性のある田舎なのだ。「和」がすべてに優先して、人と違ったことをすることが許されない雰囲気なのだ。
数学でも、高校レベルならある程度分かったと思えるまでには2000題ほど解く必要がある。毎日2題か3題解くのは当たり前の練習量だ。その時間を確保できないのなら(電車通学などでどうしようもない子も多い)勉強以外の時間を削る必要がある。最も問題なのがクラブ活動だ。強制されていると、教師に逆らうのが難しいからだ。
でも、現実の入試を考えて欲しい。強制クラブのない私立高校だってある。そもそも学校に行っていない浪人生も受けにくる。私のようなオジサン、オバサンも受けにくるのが入試だ。
「クラブで勉強時間がとれない」
なんて、単なる言い訳にしかすぎない。
落ち着いて考えてみると、三角関数や微積分を必要とする子の方が少ない。だから、自分が勉強に向かなくても問題はない。足が遅くても、音痴でも生きていける。心配する必要はない。なのに、無理して勉強させようとするから息苦しくなるのだ。
塾講師の立場から見ると、生徒本人の強い動機付けがないと勉強がはかどらない。複雑な数学の数式を受け入れてもらうための最低限の必要条件だ。教師のロボットのような生徒では無理な話だ。
蛇蝎のように嫌われている。そう自覚している。本当のことを口にすると、嫌われる。英検1級や京大を7回受けて成績開示した。全て本当のことだ。すると、
「そんなに威張りたいのか!」
と怒声が飛んでくることがある。私は塾講師なのだ。すべては教室の授業で評価が決まる。実際、東大を出ても生徒から支持されない講師は多い。私は、信用してもらう傍証として開示しているだけ。本当の勝負は毎回の授業だ。そして、その評価を決めるのは英検の採点官や京大の採点官ではない。生徒の方だ。
「おまえごときが!」
と罵声が飛んできても平気なのは、優秀な成績の生徒たちが支持してくれるからだ。
「その程度の数学力で」
と揶揄されても、現実に京大医学部志望の生徒や名大医学部志望の生徒が塾に来てくれた(両名とも通塾生。両名とも合格)。そういう生徒が、私の数学の指導に満足してくれたという現実がある。私はそれだけで満足なのだ。どこかの誰かの評価など、どうでもいいのだ。
学園ドラマを見ていると
「今日は塾があるのでごめんね」
と掃除当番を代わってもらったり、クラブを早退する場面がよく出てくる。掃除やクラブ活動より勉強優先という意識を学園全体が共有しているわけだ。ところが、この地区は
「今日はクラブで帰りが遅いので、塾を休みます」
と言うのが当たり前。つまり、勉強よりクラブが優先されるという意識が共有されている。全国の常識がここでは非常識。ここの常識は全国では非常識という状態だ。そうでなければ、隣町の陵成中学校や光陵中学校の四日市高校合格者が毎年15名から20名なのに、地元の東員第二中学校や北勢中学校は去年も今年も1名などという異常事態にはならない。
第四十ニ章
「タイムカプセル」
1970年に大阪で開かれた大阪万博で、タイムカプセルというものを初めて知った。当時、14歳だった私は40年後、50年後のことなど想像もできなかった。中学生の自分が結婚して、ハゲたオッサンになっている図など遥かかなたのことであった。
その頃には鉄腕アトムが空を飛び、人類の植民地として月や火星に基地でもあるのかもしれないと夢想した。テレビ電話も夢物語だった。あれから45年。自分はハゲたオッサンになったが、鉄腕アトムはいない。月や火星に植民地もない。かろうじてテレビ電話が実現しただけだ。
しかし、個人的には子供がいて、英語がペラペラになり、高校レベルの数式が自由に操れるようになっている。これは驚きだ。一方、世界では紛争は相変わらず続き難民がヨーロッパに押し寄せている。アジアでも、中国が侵略を繰り返している。
こうして見ると、私が生まれた1956年から45年遡ると中国で清朝が倒れ日本では大逆事件が起きている。まだ、中華人民共和国どころか中華民国ができたばかりだ。さらに45年遡ると明治維新の頃、つまり江戸時代になる。
そう考えると、武士の時代もそんな昔のことではないことを実感する。私たちが大騒ぎをしているAランク・東大・京大、Bランク・旧帝や早慶というランク付けなんかすぐに歴史の闇の中に消えていく。どこぞのだれちゃんが頭がいいとか悪いとか。そんなことは歴史に残らない泡ブクのようなもの。
さて、塾や学校の学習環境はどうなったか。明治維新の頃も、明治の終わりの頃も、視聴覚教材などあるわけもなく、ネットもなく、外国人も周囲にほとんどいなかった。それでは、格段の学習環境の改善により日本人のほとんどが英語を使えるようになったのだろうか。現実を見れば結果は明らか。
これは、英語だけに限らない。数学も理科も社会も、学習環境は格段に改善された。では、誰でも三角関数や対数関数の微分ができるのか。現実はそうなっていない。だから、今は話題になっているが「受験サプリ」も「Try it」も学力向上に何の役にも立たないことが近いうちに判明するのは間違いない。
ハッキリ言えば、映像授業などクソだ。高額で暴利をむさぼっているDVD授業は論外だ。巨大ビルなど学力向上に何の関係もない。タレントがCMに出ても指導の確かさと比例しない。いや、むしろ反比例している可能性が高い。山口県の松下村塾を見た方は、ただの小屋のように感じたはず。
真の教育とは、先生と生徒だけでいいのだ。黒板やノートで十分。
設備も栄養状態も良くないアフリカの選手がオリンピックで勝つことが多い。黒人の運動能力だけなら、アメリカの黒人選手が一番有利だろう。しかし、運動能力でさえ環境で語れない。知的な能力は、環境ではなくて本人の才能とやる気がすべてだ。
そのやる気を鼓舞する一番良い方法は、競争だ。だから、文科省が否定しても現場では偏差値も順位も出す。逆に、出さないここでは悲惨な進学実績となってしまう。指導者が偏った思想に洗脳されていると、生徒が犠牲になる良い例だ。
四日市合格者数
H27 H26
1、陵成中学校(桑名市) 16 23
2、光陵中学校(桑名市) 24 9
3、藤原中学校(いなべ市) 6 6
4、東員第一中(員弁郡) 3 4
員弁中学校(いなべ市) 1 4
高木教育センター 2 3
6、 大安中学校 (いなべ市) 4 2
7、東員第二中 (員弁郡) 1 1
北勢中学校(いなべ市) 1 1
このデータを見せられても
「自分の息子(娘)をぜひ東員第二中学校(北勢中学校)に入れたい」
と言われるご父兄はみえるだろうか。
「私はぜひ北勢中学校(東員第二中学校)に通いたい」
と言う生徒がいるだろうか。塾や予備校なら、とうに倒産している。
第四十三章
「なんで数学者なのに、神様を信じる人がいるのか」
ボールを打つと
「すごい!あれならホームランだ!」
と思う子もいる。その打球を目で追いながら
「あれは放物線だ」
と思う子もいる。あるいは、カテナリーと似ていると思うかもしれない。
カテナリー曲線(カテナリーきょくせん、英: catenary)または懸垂曲線(けんすいきょくせん)または懸垂線(けんすいせん)とは、ロープや電線などの両端を持って垂らしたときにできる曲線である。カテナリーの名はホイヘンスによるもので、"catena" (カテーナ、ラテン語で「鎖、絆」の意) に由来する。カテナリー曲線をあらわす式を最初に得たのはヨハン・ベルヌーイ、ライプニッツらで、1691年のことである。
カテナリーが三角関数で表現できると知っている子もいるだろう。つまり、同じモノを見ても学力の度合いによって違ってみえるわけだ。中学レベルの放物線を習えば人工衛星の仕組みも分かる。
私は字幕スーパーがなくても英語の映画が楽しめるし、英語の歌は歌詞を見なくても大抵は理解できる。高校生の頃まではチンプンカンプンだったが、今では英語が自由に読める。同じ音声を聞いても違って聞こえる。知識があれば記号も意味を持つ。
私は、この素晴らしさを生徒の子たちに少しでもいいから伝えたい。そういう思いが無ければ、英検1級など受けなかった。京大を7回も受けなかった。こんなブログを書いていない。
頑張っていたら、神様は私に才能豊かな生徒の子たちを預けてくれた。意図してやったわけではない。この世は全てが見通せるほどシンプルではない。どの参考書、どの問題集が良いのか。そういう些細なことではなく、数学や英語が自分の目を大きく開けてくれる喜びがなければ環境を整えても意味がない。
夜空を見上げたら、
「あぁ、自分は過去の世界を見ているのだなぁ」
とか、
「あそこで核融合が起こっているのか。ところで、核融合ってなんだ?」
勉強の種など、どこにでもある。しかし、無知だと
「見ているのに、見えていない」
ことになる。私は数学の問題にヒントを出しながら、よく思うのだ。
「あぁ、この子にはヒントには聞こえていない」
自分の手足が動いていることさえ、私には不思議なのだ。優秀な理系の生徒とは、この不思議な思いが共有できる。勉強嫌いの子は
「何を食べると成績が上がりますか?」
と言った質問しか出てこない。そんなことではなくて、
「三角関数の媒介変数表示が、なんでこんなに綺麗な曲線を表すんだ?」
という疑問が大切。そこから数学の問題を解く強い動機づけが引き起こされる。そして、追求すればするほど
「いったい、この世はどうなってんの?」
と疑問が膨らむ。
「この世は、なんでこんなに精密で美しい数式で表現できる構造なんだ?」
と、何となく創造主の存在が感じられてくる。
第四十四章
「ボクは学校が嫌いだ!」
私が小中学生時代を過ごしたのは昭和40年代の高度経済成長期の真っ只中にある三重県の片田舎だった。私の父親は小さな靴屋を営んでいて、けっこう繁盛していた。だから、私は小さい頃は靴の紐を通したり、値段のスタンプ押しをしたり、大売出しの時は帳簿を付けたりして手伝いをしていた。
どこに行っても
「大事なアトトリだね」
と言われていた。父は私が自分の後を継いでくれると期待していたと思う。
子供の頃から、ライバルの店が繁盛すると自分が潰れる。そういう競争関係は生活実感でよく分かった。だから、中学校に行った時に「愛」だ「絆」だと教師が唱えて、机を強制的に5個づつくっつけて「班」を作らせ教えあい、助け合いを強行したのに違和感があった。
受験の只中にある現役中学生の実感としては
「ライバルに負けたら自分が落ちる」
であった。ライバルに教えあい助け合いなどと綺麗ごとの偽善にしか聞こえなかった。中学3年生の夏休みには学年主任に電話をして
「このテキストやりたくないので、自分で選んだテキストで勉強します」
と言って宿題は提出しなかった。だから、北勢中学校を卒業して四日市高校に行けて嬉しかった。清々したのだ。
四日市高校は180度反対の教育方針。順位付け、偏差値輪切り、合格実績づくりが全てのような学校だった。クラス分けも、当時は「国立理系」「国立文系」「私立理系」「私立文系」の4つだったが、これは事実上学力順位で決まるようなものだった。
この頃、ある女子に履歴書に張るような写真を郵送してつき返された。自分は女子とうまくやっていけない予感がした。それは、後年現実になった。
名古屋大学に進んだときは
「旧帝の教授くらいなら尊敬できる人たちだろう」
と大いに期待した。それなのに、教育学部で学校の授業を面白くする工夫を講義している先生の授業はおそろしくつまらず学生たちは寝ていた。学歴など下らないと言っている教授がコンパで酔っ払うと
「オレ様は東大卒だ」
と叫び、大学院生の中には教授の娘と結婚して出世しようとする人もいた。理論には実験的な裏づけなどなく、教授という肩書きだけが理論の裏づけだった。
ただ、学問の世界を飛び出しても負け犬の遠吠えで生きていけない。途方に暮れた。これが、私が英語の資格を取り、数学も勉強した理由の原動力の一つになった。
私は父の期待に応えられないのが心苦しかったが、客商売はできないと思っていた。
考えてみたら、学校を全く信用せずいつも自分で勝手に勉強してきたので大学を卒業しても当たり前のように自分で計画し、テキストを探し、場所を探して勉強し続けられた。
この頃、三角関係で修羅場となり女性と関わることはもう御免だと思っていた。
1982年の1年間のユタ州ローガン中学校での指導経験で多くのことを学んだ。日本では
「クラスの一致団結だ!」
と言っていたが、ローガン中学校はクラスなど存在していなかった。大学のように
「次はフランス語だから」
とフランス語の教師の待っている教室に移動していくだけだった。
日本では
「クラブと勉強の両立だ!」
と言っていたが、ローガン中学校ではクラブは存在していなかった。午後の2時半になると消灯。学校にいるのは掃除係の男の人だけだった。教師も帰宅した。
では、日本人の教師が主張するようにクラスやクラブがないと偏った人格が形成されるのだろうか。もし、そうならばアメリカの中学生は全員偏った人格になってしまうが、現実はそうではない。
学校の先生の言うことは、ことごとく嘘だった。だから、私は塾講師・予備校講師を始める時に
「私はウソはつかない」
と決めた。
ところが、多くの人は本当のことが嫌いなのだ。私の出会う塾生とその保護者は大別して2グループいるように思う。よく世間で言われる保守派と革新派。あるいは、右翼と左翼。
私は妄想派と現実派と言いたい。前者は受験で生徒たちが競争で必死に戦っているのに「人間は助け合いと絆だよ」と言う。根拠もないのに「大丈夫」とウソを言う。後者は「合格しないと何も始まらないだろう」と言う。私は塾講師だから、基本的に後者のスタンスだ。
三重県では文科省が舵を切ったのに「ゆとり教育」の雰囲気のままだ。テストの校内順位は隠蔽されたままだし、偏差値や業者テスト追放が行き過ぎて今年(2015年)県内で最大規模だった業者テスト「三進連」が廃業になった。関係者は失業して、もしかしたらその家族は進学を諦めたり悲惨なことになっているかもしれない。教師の方たちはこれで「勝利」と満足なのだろう。
塾生の子たちは、校内順位は分からない。業者テストも存在しない。このまま自分の受験校を決めなくてはならない。データが何もないまま本番に臨まなければならない。この状況に対して先生方の言い分は(生徒情報では)
「人生は受験がすべてではないんだよ」
という建前論だけだそうだ。もちろん、学力の高い優秀な生徒たちは現実を見つめているので、とっくに教師離れを起こしている。私の塾で過去問の正解率や私の意見を求めてくる。父は塾の支持者がいることで安心していた。
アメリカの中学校が理想だとは思わない。しかし、日本の学校も相当にヒドイ。私のこういうウソを言わない姿勢は女性ウケが悪い。バツイチになってしまった。これは自業自得だが、子供たちには申し訳ないことをした。
「ごめんね」
英語は英検1級、数学は京大二次7割、卒業生は京大医学部、阪大医学部、名大医学部、三重大医学部などに合格。そういう仕事をしながら、子供たちとできるだけ一緒にいてやろうと頑張ってみた。それでもダメなら自分でできることはもうなかった。
念のために書いておきますが、威張りたいのではない。英検1級の受験会場では明らかに大学生らしい子もいた。20歳くらい。私は当時30歳だった。また、英文タイプの受験のため四日市の商工会館に行ったらセントヨゼフ女子高の生徒ばかりだった。実際、私が入って行ったら
「すみません。ちょっと照明が暗いのですけど」
と言われたので、
「すみません。私も受験生です」
と言ったら、その女子学生は
「エッ!?」
と驚いていた。似たようなことは、センター試験の会場でも京都大学の受験場でも起こった。
「いい歳をして何をやってんだか」
そういう自覚をさせられることばかり。誇れる経験ではない。
それもこれも、日本の学校がガチガチの硬い制度だからだ。日本の学校は嫌いだ。
第四十五章
「隠れ家」
私は才能に欠けている。だから、人の3倍はやらないと塾講師などできないと思ってきた。今は京都大学の英作文の添削を毎日大量にやらせてもらっている。北海道から九州まで通信生がいてくれる。
京大受験生ほどになると、三単現のSや複数のSといった初歩的なミスはあまり見られない。問題は「ランナーが走っている」のような微妙なミスになってくる。違和感というヤツだ。
だから、1回目のときはざっと読んで違和感のある場所に線を引いておく。すぐに違和感の理由が分かるものはよいが、なぜか説明ができないものは放置しておく。すると、2回目を読む頃に理由が分かる。人間の脳は考えていると無意識のうちに解答を探すらしい。
そして、3回目でアドバイスを添えてメールにして送信しておく。この過程で一番重要なのは清書をしている時間だと思う人がいる。見た目、仕事してますから。しかし、私にとって一番大切な時間は1回目と2回目の間の買い物や運動や事務処理をしている時間。あるいは、寝転がってゴロゴロしている時間。
これは、遊んでいるようにしか見えない時間だけれど一番ひらめきが起こりやすい時間でもある。モヤモヤしていたものが一気に晴れ渡るような感覚だ。これは、数学でも同じことだ。教材の開発や、ブログ、広報、なんでも同じことでアイディアが最重要。そのブラブラを邪魔する人がいる。
それは、アホ無しで訪問してくる人、電話営業、近所の悪ガキの無断侵入などなど。ひらめきそうな時に、突然電話とか家の周囲に無断侵入して騒ぎ始める悪ガキは営業妨害で訴えたいくらいだ。
しかし、私は無駄な時間とエネルギーを費やすのは嫌なので複数の「隠れ家」を持っている。誰にも邪魔をされない場所だ。そこでなら、誰にも邪魔をされずに思索に入れる。
頭の中で考えていることは他人には理解されない。実は、そこが一番大切なのだけれど理解者は極少数。業者はもちろん、家族でも理解されない。1分1秒を大切にしてギリギリに自分を追い詰めて、そこから生まれるものがある。
しかし、99%の人はそういう生活態度を「変」「厳しすぎ」「オタク」と受け取り理解しない。そこから生まれる発明品や理論の利益は享受して楽しむくせに、生み出す人は罵る。
受験勉強をしていると、その雛形は中学生や高校生にも見られる。本当に優秀な子は教師を越えている。四日市高校を落ちた教師が、四日市高校受験生を指導し、英検2級の先生が、英検準1級の生徒を指導している。そういう分かりやすい例もあるが、それだけではない。
本当に優秀な生徒は1分1秒を惜しんで勉強している。クラブや寝る時間さえ削ってギリギリの状態で勉強している子も多い。そんな生徒に
「クラブは強制だ」
と言い、
「班を組んで分からない子に教えてやりなさい。助け合いは大切だ」
と言う。これは、頑張っている子を教師の補助教師として使っているにすぎない。手抜きだ。寝る時間を削って、サボっている子の勉強を助けてやれ。ライバルの手助けをしろ。「敵に塩を送れ」と強要しているわけだ。
頑張っている子ほど学校の教師への不信感は強い。だから、私の塾が彼らの「隠れ家」になる。ここなら、本音が言える。
「自分では絶対にできない量の宿題なんか出して」
「自分が受けたら落ちるくせに」
私は学校が嫌いだけれど、教師が悪意でやっているとは思わない。ただ、左翼の先生方は頑張る子もサボる子もみんな同じ扱いを受けることを「平等」だと誤解されている人が多い。しかし、生徒はそれが愚かな妄想だと見抜いているのだ。
だって、社会がそうなっていないのだもの。学校以外の世界に無知な教師の方たちより、よっぽど大人なんです。自分たちがこれから出ていく社会はジャングルであることを覚悟している。妄想を抱いたままでは生き残れないことくらい認識している。賢い子は特に。
よく誤解されるけれど、教えるのが嫌だというのではない。彼ら、彼女らは「強制」が嫌いなんです。強制されたら
「おまえがオレを教えるのは当たり前!」
という状態になる。人のあり方としておかしいという抗議なんです。ヤクザや暴走族の予備軍みたいな子には近寄りたくない。頑張っても分からない子には助けてやりたい。そういうことです。助けてやれば感謝もされる。
しかし、日教組の教師の言うように強制させると道徳も礼儀も廃れてしまう。それは、頑張って働いている人の最低賃金より生活保護の方が高い金額を受け取れる大人社会の鏡なのだ。左翼が行き過ぎると、こういうことになる。
働き者のアリさんより、享楽的なキリギリスさんが良い生活をするのは間違っているという抗議なのだ。私には全うな反応のように思える。まぁ、学校がダメな分だけ塾が繁盛するわけだから業界は喜んでいるけどね。
第四十六章
「サイレント・クレーマー」
最近、韓国のKポップは売れないし、韓国ドラマも視聴率がゼロに近く、韓国を旅行する日本人が激減して慌てているらしい。なぜ慌てるかというと、もちろん売り上げが激減して倒産するからだ。夜逃げ、一家離散、首吊りなど悲惨なことになる。
では、なぜこの事態を予期できなかったのか。それは、韓国や中国では気に入らないことがあると大声で喚き暴動でも起きるのに日本人は喚きも暴動も起きない。ヘイトスピーチや嫌韓本はよく売れているけれど一部の人たちだけのこと。大きな流れだと思ってなかったらしい。
そこで、最近は
「日本人はサイレント・クレーマーだ」
と呼ばれているらしい。大騒ぎや暴動は起きないけれど、黙って去っていくということ。これは民度の高さを示していると思う。不味いレストランにいちいち文句を言っても仕方ない。黙って二度と行かないだけ。確かに日本人はそういう人が多い。
塾や予備校も同じだ。モンスターペアレントが話題になっていたが、私は
「そういう人はどの時代どの国にもいて、どうしようもない」
と考えている。問題はそういう人ではない。黙って観察している人たちだ。以前、ある女子が塾に入ってきたら翌月同じクラスの女子が全員いなくなったことがあった。新しい女子が問題児だったらしい。たまに
「あの子は超問題児だからやめさせて下さい!」
と言われることもあるけれど、大抵は黙って去っていくことの方が多い。だから、経営者としては声の大きなモンスターは相手にしないで、声の小さな(あるいはサイレントな声の)生徒が大切。なぜなら、賢い子ほど静かだから。
頭の悪い人は、いらずらメールを送ったり、塾の掲示板に嫌がらせを書いたり、いたずら電話をかけたり、いろいろやる。そういう人は相手にする価値がないけれど、サイレント・クレーマーは放置すると死活問題になる。
ものを言わない人たちの心の中を推察するために私が使う方法は「数字」だけ。塾生数が増えたら生徒が満足している。減ったら不満足。もちろん、景気や子供の数が減っていることも影響するけれど基本は「数」だけ。
私が嫌がらせを受けてもスルーできるのは、塾を開設してから30年間常に支持者がいるから。そういう子たちは
「支持します」「この塾が好きです」
とは絶対に言わない。聞いたことがない。しかし、私には声なき声が聞こえる。アメブロのジャンル(受験生、高校生)で1位となり、読者が増え、Youtube の再生回数が2万回、3万回となり、通信生が北海道から九州までいる。この数字を見ると、いくら嫌がらせが来ても
「ファン、支持層は広がりつつある」
と判断できる。実際、京大医学部、阪大医学部、名大医学部と合格者も増えている。
韓国の人たちも、冷静に数字を見るべき。歌もドラマも観光客も売り上げが落ちているのなら、何かがマズイと反省すべき。反省もせずに、日本が悪いと日本叩きばかりしていると自分の首を絞めることになる。
第四十七章
「脱スマホ宣言」
中学生の「“脱”スマホ宣言」浸透遠く 「誰も守らないと思う」「条件が厳しい」 福岡県
「誰も守らないと思う」「条件が厳しい」。飯塚市立の中学校全10校の生徒会がまとめた携帯電話やスマートフォンの使用ルールの宣言について、市内の幸袋中が生徒100人に聞き取り調査したところ、約6割が宣言に否定的な考えを示した。宣言を実行している生徒は3割程度にとどまり、内容を覚えていない人も目立った。
イギリスで産業革命が起きたとき、ラッダイト運動が起こった。
産業革命にともなう機械使用の普及により、失業のおそれを感じた手工業者・労働者が起こした。産業革命に対する反動とも、後年の労働運動の先駆者ともされる。機械所有の資本家には憎悪の対象であったが、詩人には創作の霊感を与えた。
社会の動きについていけない人は、新しい機械や制度には必ず反対する。学校は何も変えたくない人たちの集団だから、スマホであろうが何であろうが禁止すれば済むと考える。
しかし、歴史が示すとおり全て禁止派はかならず敗北する。進歩の流れを止めることは誰にも出来はしない。もちろん、混乱は覚悟の上だ。スマホが現れたら、エロ系、出会い系など中学生や高校生に見せたくないサイトもあるだろう。
それは、アニメが現れた時も同じだ。禁止できるわけがない。何が現れてもエロの人はエロだし、尻の軽い女子は昔からいた。アニメや携帯のせいではない。
塾や予備校でも、DVD授業とか動画授業とか試行錯誤の連続だ。しかし、考えてみて欲しい。スマホで授業を見れば成績が上がるのか?実物の先生から授業を受けて分からないものを、動画で授業を見てどうかなるものでもあるまい。
第四十八章
「yahoo 知恵袋の英作文」
私は京都大学の英作文の添削を行っている。それで、赤本や青本の模範解答を見ていると
「こんなこと言わないよなぁ」
と思う解答がある。京大医学部を受験する、高校生としては最高レベルの子の解答のほうが優れていると思うことがある。私は名古屋の7つの大規模予備校、塾、専門学校で多くの英語講師に出会ったから
「きっとあの人たちが作った解答だろうなぁ。いや、東京の講師かも」
と想像してみる。私自身は、英検1級や通訳ガイドの国家試験に合格している名古屋大学「教育学部」卒業の講師だ。これでは信用してもらえなかったので50代で京大を7回受けて成績開示し、英語8割超、数学7割を開示して信用してもらった。
そんな目で 「Yahoo 知恵袋」に時々みられる
「これを英作してください」
や
「これを添削してください」
の解答を見て仰天することがある。私の指導している生徒の解答よりヒドイことが多いからだ。
「いったい誰が解答を書いているのだろう?」
と疑問に思う。まぁ、匿名だし浪人生か現役の高校生レベルにしか見えない解答もあるので適当に書いているのだろう。それを見ている質問者も、正しい英語が分からないのだから満足している様子。無料のサービスなのだから、それでいいのだろう。
第四十九章
「少林寺拳法がすき」
二段をとってから30年以上練習を続けている。
最も激しい戦いは命のやり取りだろう。無い方がいい。しかし、アジアの国がほとんど欧米列強の植民地になる中、明治維新が比較的うまくいって独立を保ち得たのは武士の存在ではないだろうか。命がけの覚悟があった。
私は第二次世界大戦の敗戦後に奇跡の経済成長を行ったのは、復員してきた軍人たちだと思っている。命がけの戦いの中で生まれた猛烈な戦闘力が貢献したのではないかと考えている。
そこまで激しくなくても、蹴っても殴っても構わない少林寺拳法の試合も厳しい。防具をつけてもパンチでKOされた子もいた。相手の身長が自分より高いとか、体重が重いとか不平を言っていたら痛い目にあう。 とりあえず、勝つための方法を考える必要がある。
受験も同じことだ。
「あいつの家は金持ちで塾にも行けるし、豪華ホテルで合宿勉強もできる」
などと嘆いても何も始まらない。とりあえず、勝つための方法を考えるしかない。エール出版の「合格体験記」や、和田秀樹さんの「新・受験技法」などを参考にして、私のように比較的安価で添削を引き受ける人を利用することだ。
命がけの時に、
「彼女とのデートが大切」「生徒会活動が重要」「クラブ活動が命より優先」
と言う人がいるだろうか。殆どの人は、やるべきことが分かっている。合格した子たちが、どんな覚悟で何をしたか情報を得るのは難しくない。問題は、
「分かっているのに、やらない」
あるいは、
「やれない」
ことに問題があるだけ。簡単に言うと、意思が弱い。怠け者。そんな子に「合格」の栄光はやってこない。
第五十章
「グッバイ、お父さん」
父が亡くなって13年が過ぎた。私が小さい頃、父は暴君だった。気に入らないことがあると怒鳴るので震えていたものだ。いつ頃、父が小心者だと気づいたのだろう。姉の旦那があるトラブルを起こしてチンピラが家に来たことがあったらしい。その時、父は腰砕け状態になったらしく母と姉が文句を言っていた頃だろうか。
私が名古屋にいた頃のことだから詳しいことは分からない。しかし、自分が土地を買おうとなったときに
「近所にヤクザが住んでいる」
という情報を調べてきて塾の新築に反対した。私は若くて怖いもの知らずだったから、
「何をビビっているんだ!」
と父と口論になった。父は親バカだった。そんな傲慢な私が銀行から融資を受けるために連帯保証人になり、自分の土地と家を担保に入れたばかりか親戚に連帯保証人になるように頭を下げてまわった。
私は四日市高校に合格し、名古屋大学に合格し、頭が良かった。格闘技が好きでたいていの相手にビビったりしない。塾が大きくなったときに
「オヤジは越えたぜ!」
と思った。
父が死んでから、父が自分の姉からお金を借りて返済に苦労していたことを知った。どうも、私が大学に行った時の夏休みにアメリカに行かせてもらった時の頃のことらしかった。私はそんなこと何も知らずにユタでの生活を満喫していた。結局、あの経験がなかったら英語の勉強に本気になれなかった気がする。
あの頃の父の年齢に近づいている。私はたまたまバブルの波に乗って銀行の融資を完済したが、経営経験のない子供たちが借金の担保に自宅を提供して欲しいと言ったらどうするのだろうか。私は賢いので子供の成功の確率を考え、リアルにこの家を追い出される姿を想像して躊躇するかもしれない。
父は私が小さい頃、広島で潜水艦を作っていたころ浮上できずに死にそうになったとか武勇伝のようなことを話していたが、小心者だったから中国の戦場では逃げ回っていたのではないだろうか。
そんな父が、私と大喧嘩をしながら自分の家も土地も投げ出してくれた。賢くて怖いもの知らずの私は、父のような行動ができそうにない。当時の父と同じ年齢、同じような立場になって思うのだが、私は賢いのだろうか。
英検1級に合格したり、京大の二次試験で英語8割、数学7割の得点率をとって成績開示したら
「威張るな!」
と罵声を浴びせられたりした。しかし、英語や数学ができて賢いと言えるのだろうか。受験指導をしている業界では、成績が最重要だということは分かる。私は今後も偏差値や成績順位を重視して仕事をしていく。
私はそういうデータを隠蔽したり否定する学校の教師が嫌いだ。隠蔽しようとするのは、それだけ重要なデータだと考えているからだろう。私にはそう思えない。100m走の記録程度のものにしかすぎないと考えている。
確かに社会に出ると足が速いことより学歴が重視される。敏感になりやすいデータではある。しかし、隠せば隠すほど
「成績順位は公表してはいけないほど人生で最重要なデータだ!」
と力説している効果が生まれる。そんな指導は間違いだ。
父は勉強ができたそうだ。大正生まれで桑名高校に進学したのだから、親が期待するような優秀な生徒だったらしい。教育熱心であることは間違いなかった。私が高校や大学に合格したら、近所で威張りまくったらしい。それも亡くなってから聞いた話だ。
どこの家にでもありがちな家族間のトラブルだから、別に珍しくもない。しかし、ありふれたことだけにすぐに歴史の闇に消えていく。せめて、ブログに書いたりして記録に残しておきたいと思う。
できたら、私が良い仕事をして有名になって本でも書けるようになれたらと思う。そうすれば、父の記憶がもう少し強い形で残せる。頑張りたい。初孫が生まれた。今度は、自分が子供たち、孫たちの記憶に残る立場になった。
A子ちゃんの母親は生命保険を解約して授業料の工面をしたようだった。私はそういう行為を推奨しない。裏目に出ると破産するし、老後に行き詰る可能性もある。私のように細かい解散をする「賢い」人も世の中には必要だ。
しかし、破産した人はみんな馬鹿者だろうか。
教会では
「イエス様と仕事とどちらが大切ですか?」
と罵られ、もと奥さんからは
「家庭と生徒とどちらを優先するの?」
と批判され、バツイチになってしまった。センター試験を50代で10回も受けている私をスタンドプレイだと批判する人もいた。
ある夜、3歳の娘の顔を見ながら思った。
「この子たちの父親として破産するわけにはいかない」
破産したら、父と母も家を追い出される。私はバカにはなれないのだ。私は善い人でもなければ、賢い人でもない。ただ、息子として、父としてやるべきことをやってきた自負はある。
「悔しいならスタンドプレイをやってみろ」
と思う。私の塾からは毎年「四日市高校」に合格者が出るが、地元の北勢中学校、東員第二中学校では100名以上の生徒の中から去年も今年も1名しか合格者がいない。その四日市高校でも京都大学に合格できる生徒は毎年10名から15名ほど。
私の塾では今年(2015年)通塾生と通信生を合わせると、京都大学に10名ほど受験予定だ。
「打倒!四日市高校」
がスローガンだ。
「悔しいなら、スタンドプレイと言うなら、ここまでやってみろ!」
だ。後悔はしていない。だけど、これが父の望んでいた息子の生き方、娘の望んでいる生き方なのかは分からない。
ある時、父は塾の近代的な教室のコードをガムテープで貼り付けまくった。私は怒って
「なんだ!これは」
と母に言いつけた。すると、母はオロオロして
「もう少し、お父ちゃんに優しくしてやってほしい」
と言った。父は中卒の、小心者の、センスの悪い、親バカだった。生きているうちは関係は良くなかった。私は高学歴の賢い子だと言われてきた。しかし、もう遅いが父にはとうていかなわないと思っている。
生きているうちに言っておけばよかった。
「お父さん、ありがとう」