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15/11/1

「イナベの塾講ストーリー」

Image by Olia Gozha

「イナベの塾講ストーリー」

  私が小中学生時代を過ごしたのは昭和40年代の高度経済成長期の真っ只中にある三重県の片田舎だった。私の父親は小さな靴屋を営んでいて、けっこう繁盛していた。だから、私は小さい頃は靴の紐を通したり、値段のスタンプ押しをしたり、大売出しの時は帳簿を付けたりして手伝いをしていた。

 どこに行っても

「大事なアトトリだね」

 と言われていた。父は私が自分の後を継いでくれると期待していたと思う。

 子供の頃から、ライバルの店が繁盛すると自分が潰れる。そういう競争関係は生活実感でよく分かった。だから、中学校に行った時に「愛」だ「絆」だと教師が唱えて、机を強制的に5個ずつくっつけて「班」を作らせ教えあい、助け合いを強行したのに違和感があった。

 受験の只中にある現役中学生の実感としては

「ライバルに負けたら自分が落ちる」

 であった。ライバルに教えあい助け合いなどと綺麗ごとの偽善にしか聞こえなかった。中学3年生の夏休みには学年主任に電話をして

「このテキストやりたくないので、自分で選んだテキストで勉強します」

と言って宿題は提出しなかった。だから、北勢中学校を卒業して四日市高校に行けて嬉しかった。清々したのだ。

 

 

  四日市高校は180度反対の教育方針。順位付け、偏差値輪切り、合格実績づくりが全てのような学校だった。クラス分けも、当時は「国立理系」「国立文系」「私立理系」「私立文系」の4つだったが、これは事実上学力順位で決まるようなものだった。

 この頃、ある女子に履歴書に張るような写真を郵送してつき返された。自分は女子とうまくやっていけない予感がした。それは、後年現実になった。

 名古屋大学に進んだときは

「旧帝の教授くらいなら尊敬できる人たちだろう」

 と大いに期待した。それなのに、教育学部で学校の授業を面白くする工夫を講義している先生の授業はおそろしくつまらず学生たちは寝ていた。学歴など下らないと言っている教授がコンパで酔っ払うと

「オレ様は東大卒だ」

 と叫び、大学院生の中には教授の娘と結婚して出世しようとする人もいた。理論には実験的な裏づけなどなく、教授という肩書きだけが理論の裏づけだった。

 ただ、学問の世界を飛び出しても負け犬の遠吠えで生きていけない。途方に暮れた。これが、私が英語の資格を取り、数学も勉強した理由の原動力の一つになった。

 私は父の期待に応えられないのが心苦しかったが、客商売はできないと思っていた。

 考えてみたら、学校を全く信用せずいつも自分で勝手に勉強してきたので大学を卒業しても当たり前のように自分で計画し、テキストを探し、場所を探して勉強し続けられた。

 この頃、三角関係で修羅場となり女性と関わることはもう御免だと思っていた。

 

 

 1982年の1年間のユタ州ローガン中学校での指導経験で多くのことを学んだ。日本では

「クラスの一致団結だ!」

 と言っていたが、ローガン中学校はクラスなど存在していなかった。大学のように

「次はフランス語だから」

 とフランス語の教師の待っている教室に移動していくだけだった。

 日本では

「クラブと勉強の両立だ!」

と言っていたが、ローガン中学校ではクラブは存在していなかった。午後の2時半になると消灯。学校にいるのは掃除係の男の人だけだった。教師も帰宅した。

 では、日本人の教師が主張するようにクラスやクラブがないと偏った人格が形成されるのだろうか。もし、そうならばアメリカの中学生は全員偏った人格になってしまうが、現実はそうではない。

 学校の先生の言うことは、ことごとく嘘だった。だから、私は塾講師・予備校講師を始める時に

「私はウソはつかない」

 と決めた。

 

 

ところが、多くの人は本当のことが嫌いなのだ。私の出会う塾生とその保護者は大別して2グループいるように思う。よく世間で言われる保守派と革新派。あるいは、右翼と左翼。

私は妄想派と現実派と言いたい。前者は受験で生徒たちが競争で必死に戦っているのに「人間は助け合いと絆だよ」と言う。根拠もないのに「大丈夫」とウソを言う。後者は「合格しないと何も始まらないだろう」と言う。私は塾講師だから、基本的に後者のスタンスだ。

 三重県では文科省が舵を切ったのに「ゆとり教育」の雰囲気のままだ。テストの校内順位は隠蔽されたままだし、偏差値や業者テスト追放が行き過ぎて今年(2015年)県内で最大規模だった業者テスト「三進連」が廃業になった。関係者は失業して、もしかしたらその家族は進学を諦めたり悲惨なことになっているかもしれない。教師の方たちはこれで「勝利」と満足なのだろう。

 塾生の子たちは、校内順位は分からない。業者テストも存在しない。このまま自分の受験校を決めなくてはならない。データが何もないまま本番に臨まなければならない。この状況に対して先生方の言い分は(生徒情報では)

「人生は受験がすべてではないんだよ」 

 という建前論だけだそうだ。もちろん、学力の高い優秀な生徒たちは現実を見つめているので、とっくに教師離れを起こしている。私の塾で過去問の正解率や私の意見を求めてくる。父は塾の支持者がいることで安心していた。

  アメリカの中学校が理想だとは思わない。しかし、日本の学校も相当にヒドイ。私のこういうウソを言わない姿勢は女性ウケが悪い。バツイチになってしまった。これは自業自得だが、子供たちには申し訳ないことをした。

「ごめんね」

 

 英語は英検1級、数学は京大二次7割、卒業生は京大医学部、阪大医学部、名大医学部、三重大医学部などに合格。そういう仕事をしながら、子供たちとできるだけ一緒にいてやろうと頑張ってみた。それでもダメなら自分でできることはもうなかった。

 念のために書いておきますが、威張りたいのではない。英検1級の受験会場では明らかに大学生らしい子もいた。20歳くらい。私は当時30歳だった。また、英文タイプの受験のため四日市の商工会館に行ったらセントヨゼフ女子高の生徒ばかりだった。実際、私が入って行ったら

「すみません。ちょっと照明が暗いのですけど」

 と言われたので、

「すみません。私も受験生です」

 と言ったら、その女子学生は

「エッ!?」

 と驚いていた。似たようなことは、センター試験の会場でも京都大学の受験場でも起こった。

「いい歳をして何をやってんだか」

そういう自覚をさせられることばかり。誇れる経験ではない。

 それもこれも、日本の学校がガチガチの硬い制度だからだ。日本の学校は嫌いだ。

 私の亡き父はウザかった。高校入試の合格発表についてきたし、就職したら2時間以上かけて勤務していた塾まで挨拶にきた。

  高校2年生の時までは、理系に進むつもりだった。ロボットを作りたかった。しかし、四日市高校は当時男子の割合が高くて男子クラスがあり、私はその男子クラスに放り込まれた。

今もその傾向があるが、当時も男子生徒は理系が多くて私はその中で理系に行くのが当然だと思って勉強していたが、数学の勉強を始めるとめまいがするような感じがし始めた。

 それは、公式の成り立ちを納得していないのに無理やり使わされることに生理的な拒否感が生まれたらしい。模試の結果によると、文系なら難関国立大に合格できるけれど、理系だとそこまではムリという結果。泣く泣く「教育学部」に進むことになった。

生きていくには英語講師になるしか選択の余地はなかった。しかし、その英語でも真摯に向き合うと問題だらけだった。

  最初に

「何かおかしいぞ」

 と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしている時。同席していたネイティブの教師が、しばしば私の授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。

「ミスタータカギが今使った単語の意味はね、---」

 と解説を始めた。それで、一番仲のよかった理科教師のアランに

「なんで私の授業を中断するのかな?」

 と相談したら

「お前の英語は綺麗だけど、ビッグワードを使いすぎなんだ」

 とアドバイスをくれた。それで、注意して職員室の会話などを聞いていると、確かに中学レベルの英語を使っている。自分が受験勉強で習った難解な単語など全く出てこない。

 not more than と no more than の違いなど、使わないのだからどうでもよかった。私の塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」を使って単語をいっぱい覚えているが、多分ムダになる。

  アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろうと思って、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。そして、知らない単語や表現を見つけてウンザリした。

  もはや、高校生の時のように

「頑張って勉強しないと」

 と自分を責める気になれなかった。私はネイティブの助けを借りて問題を解き始めたが

「これは何だ?なんで、日本人のお前がこんなものを」

 と言う。それで、

「どういう意味?」

 と尋ねると

「こりゃ、シェークスピアの時代の英語だよ」

 と笑っていた。

  しかし、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたので、私は日本の英語業界で認知されている資格を取らざるをえなかった。

  事実、英検1級を取ったらどの予備校、塾、専門学校も返事が来るようになった。結局、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校などで14年間非常勤講師をすることになった。

  その間に出会った英語講師の方たちの中に、英検1級を持っている人はいなかったし、旧帝卒の講師の方もいなかった。資格を持たないと雇ってもらえないという私の見方は誤っていた。

  私はその頃には受験英語を捨てていた。どの資格試験の英作文も面接試験も、すべてアメリカで使っていた英語で通した。つまり、中学生レベルの英語を使って難解な内容を表現する英語だった。

  ところが、今はまた受験英語を指導している。高校の入試問題も、大学の入試問題も30年前から何も変わっていないのだ。受験参考書の構文も、相変わらず take it for granted that や not until の世界なのだ。

  日本にやってくるALTが増えて、

「日本の教科書はクソだ」

 とか

「英語が話せない教師が英語を教えている!」

 と言っても誰も耳を貸さない。そして、偏差値追放、小学校から英語を、と意味不明の政策を打ち出す。私のいる予備校、塾業界も暴走族講師やらマドンナ講師やらパフォーマンスばかり。

 そして、それをマスコミが煽る。賢い生徒はあきれ返って「マスゴミ」と揶揄している。

 しかし、一体いつまでこのようなバカな状況が続くのか。

  でも、本当に英語教育界にまともな人はいないのだろうか?私が四日市高校や名古屋大学の教育学部で出会った学生の中にはまともな人もいた。それで、日本一レベルが高い東大や京大を受けてみることにした。

  京大は英語の試験が和訳と英作文という珍しい大学だ。それで、まず「京大模試」とZ会の「京大即応」を受講してみた。京大模試は河合、駿台、代ゼミなどを10回。Z会は8年間やって、じっくり研究してみた。

  ランキングに載り、Z会からは「六段認定証」というのももらったが、毎回の添削は納得がいかなかった。京大模試の採点も同様だ。それで、

「いったい、だれが採点してんだ?」

 と思い調べてみた。しかし、企業秘密で分からない。ただ、自分が勤務していた予備校の講師レベルだろうとは推測できた。受験参考書どおりの訂正がなされていたからだ。

 

 

 

 

 

 

  京大を受けた時は、最初の2回は「受験英語」で書いてみた。すると、6割正解くらいだった。私の英語がそんなレベルであるはずがない。それで、次の2回は「資格試験」の参考書に書いてあったような古い口語で書いてみた。それでも、7割くらいの正解率だった。それで、最後の3回はアメリカで使っていたような中学レベルの英語で書いてみた。すると、8割正解に跳ね上がったではないか。

   やっぱり、京大の先生は一流だ(笑)。

   私の指導させてもらっている優秀な生徒も同じ感想を持っているらしい。

「あの先生は、自分で京大を受けたら確実に落ちる」

  と、京大医学部に合格した子が言っていた。それで、

「この子たちなら、私の言うことが分かる」

  と、英語の添削を始めた。

 すると、やっぱりというか次々と京大合格者が出始めた。それだけで

はない。京大医学部、阪大医学部、名大医学部、東京医科歯科大学、三重大医学部など、どこにも有効なのだ。

  大学の先生は、やっぱり賢い(笑)。

 でも、そんなことを言ったら蛇蝎のごとく嫌われた。日本は和を重んじるだけで、議論をさせないプレッシャーが半端ない。

  みんな食っていかないといけないので、英語が話せなくても、生徒が志望校に落ちても、そんなこと関係ない。自分の生活が優先。そういうことらしい。でも、それで犠牲になる生徒たちはどうなるのだ。大人の責任を放棄していることにならないか?

北勢中学校にいる時は英語が一番嫌いだった。点数もよくなかった。数学は理科、社会、国語と同じで特に意識した科目ではなかった。総合点でトップクラスにいたので、それで満足だった。

  試行錯誤を繰り返す私に父は

「大学院に行きたいならお金は出してやるぞ」

 などと言った。

  数学に対する執着は残っていた。

最初に

「ボクは数学が苦手なのだろうか?」

  と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。

  当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。

  点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて

「もうボクの頭には入りきれない」

  と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、

「こんなのありえない!」

  とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、

「証明できないと、使う気になれない」

  というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。

  2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、

「お父さん、ボク変だ」

  と叫んだ。二回に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て

「お前、何をしてんだ」

  と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。

  病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら

「アレ?高木くん、どうしたの?」

  と言った。北勢中学校の体操部の先輩だった。

  診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことだった。私は頭が狂うことを心配したが、医者が言うには

「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」

  とのことだった。

  そうした経験を通して

「自分は、どうも文系人間らしい」

  と覚悟した。それで、名古屋大学「教育学部」で勉強している時に

「自分は先生かなぁ」

  とボンヤリ思っていた。それで、卒業後は英語講師として勤務を始めた。数学に触れるのは、自分にとってタブーになっていた。それから、20年ほどひたすら英語の勉強をしていて数学は求められて中学レベルだけ指導をしていた。民間では、英語講師だけでは仕事が得られないのだ。

  ところが、自分で塾を始めると

「明日は理科なのに、英語の授業ですか?」

  と生徒から文句が出始めた。それで、英語、数学についで、理科、社会、国語の指導もせざるをえなくなった。

  そのうち優秀な子が来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも手を出さざるを得なくなった。そして、ある日気がついた。

  そういう優秀な子は

「高校に入っても指導をお願いできませんか?」

  とリクエストが入り始めた。最初は、英語だけという約束だったのに中学生と同じで数学の質問も入り始めた。

 それで、考えた。

「灘高の入試問題の数学が解ける私なら高校数学も大丈夫かな?」

 と考えた。

「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるかな」

 と思って、近所の本屋さんに行って高校数学の参考書・問題集の棚を見た。なつかしい「オリジナル」が目に入った。四日市高校の悪夢が蘇った。

  それで、恐る恐る手にとって中身をのぞいて見た。ひっくり返ってから25年以上が過ぎていた。まだトラウマがあり、手が震えた(笑)。しかし、驚いたことに、25年前の記憶が残っておりどんどん解けた。

  中学の数学を徹底的に教え込んでいるうちに基礎が固まったのか、中年になって精神が鍛えられたのか、よく分からない。とにかく、「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周。並行してZ会の「京大即応」を8年間やり続けた。

その間に腕試しに「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。

  そのくらいやらないと、優秀な生徒の指導には役立たない。成績開示をしたら、京大数学で7割正解だった。「暁6」の特待生、「国際科」の上位の子を指導しても困らなくなった。

  しかし、そういう点数の問題だけではない。自分の中で大きな変化が起きた。数学アレルギーが全く消えた。トラウマが消えた。怖くなくなった。今では

「まぁ、たいていの問題は質問されても困らないだろう」

 とリラックスして授業に臨める。当塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルではなく、生徒の質問に答える形式なので常に本番なのだ。

  今では、英語より数学の方がはるかに面白いと思える。だから、私は19歳の時点で「文系」「理系」に分類することに疑問を持っている。人間はそんなに簡単に分類できるものではない。

  文系だった私が今では

「この世の現象は数式で表現されない限り、分かったと言えない」

  と信じている。これは、完全に理系の発想だろう。

  学校では習わなかった「数学3」も独学で勉強している。そうこうしているうちに30年も過ぎてしまった。まさに、

「少年老い易く学成り難し」だ。

ただ、分かったことがある。私は自分の指導させてもらっている理系女子のような才能はないのだけれど、人の何倍も苦労して数学を身につけたために「生徒はどこでつまづきやすいのか」がよく分かるようになった。これは、数学講師としてはスゴイ武器になるのだ。

   ひっくり返って、病院送りになったり、受験会場で不審者扱いを受けて入場拒否をされたり、みっともないことが多かった。お世話になったホテルの人も最初は送迎バスは父兄は乗れないと勘違いしてみえた。

しかし、それもこれも必要なことだった。

  「とても頭に入らない」が「わかる!」に変わる瞬間を知った。

      こうして、今は英語と数学の両方が指導できる講師として重宝されている。

  考えてみると、高校生の時に吐きそうな思いで数式を見ていた時から30年が経過した。高校生の方は私もそうであったように2年後、3年後しか見えていないはず。そりゃ、そうだ。私もまさか自分がアメリカで生活したり、数学Ⅲを勉強するハメになるなんて予想ができるはずがなかった。

  父は亡くなる前に自分が大学入試に落ちた話をしていた。戦争で中国に行ったとも言っていた。大学に行って戦争に行くのを避けようとしたのだろうか。今となっては分からない。

 私の進学に強い関心を示していたのは、自分の原体験があったのかもしれない。もっと優しく接していたらよかったが、もう遅い。

   そして、自分の塾を始めることになったが印象に残る生徒が何人もいる。

もう10年以上経ったから書いても人物が特定できないだろう。長く受験指導をしていると忘れられない生徒がいるものだ。A子ちゃんも、その一人だ。

 私の塾に来てくれたのは彼女が小学6年生の時のことだった。最初に面接した時に、一目見て

「この子は賢い子だ」

 と分かった。学力を確認しようとプリントを渡したら、いつまで経っても提出しようとしない。完全に仕上げるまで粘る子だった。

 彼女は小学校の時から

「私は医者になりたい」

 と言っていた。私の塾はそういう子が多い。しかし、家庭は金持ちではないので何がなんでも国立大でないといけないと覚悟していた。私の小学校時代とはえらい違いだ。

 中学校では猛勉強して常に学年でトップクラスだった。そして、

「自治医大だと無医村に行けば学費が浮くとか聞いた」

 とお金がなくても医者になれる情報を集めだした。私もできるだけ協力して情報を収集した。

 そう思わせてくれる塾生だった。

 灘やラサールや東海の過去問を集めて練習する授業も彼女から始めた。そして、当然のように四日市高校の国際科に合格した。

 

 その頃、メールやファイルが普及し出したので私はさっそく

「家庭学習中に出た質問はなんでも送れ」

 と塾生に檄を飛ばした。私は中学生は5科目、高校生は英語と数学に対応できるのだ。ところが、そんなサービスも怠け者には何の意味もない。

 

 しかし、A子ちゃんはほとんど毎日ファイルを送ってきた。その質問の内容も勉強していないと出来ない質問ばかりで感心することが多かった。私は、A子ちゃんからどれほどの力をもらったことだろう。実は、白状するが高校の数学を指導しようと決めたのは彼女の影響が大きい。まさか、塾生に背中を押されるとは。

 

 英語に関しては、高校の時に英検の準1級に合格した。だから、英検1級の先生が必要になった。私は彼女の書いてくる英文の日記を読みながら添削をし始めた。これが、後にネットによる通信生の募集につながった。まことに、A子ちゃんが私に与えた影響は大きい。

 

 1級レベルのアドバイスをすると、たいていの生徒の方は

「何を言っているのか分からない」

 という反応だったけれど、A子ちゃんは私の意図することを即座に理解するため、授業も楽しかった。語彙や文法が正しければ良い英作文が書けるわけではない。

 当たり前だが、マナーやエチケット、採点官に対する思いやりが欠ける英作文は高く評価されない。学力だけではなく、そういう人間的な深みがないと見込みがない。浅い理解では京大などの難関大は合格できるものではない。

 

 実は、私に京大を7回も受けさせたのも直接的にはA子ちゃんの影響が大きい。

「この子は日本の宝だ。何としても志望校に合格させなければ」

 と思った。出来ることは何でもやる。娘以外の人間で、私にそんな思いをさせたのはA子ちゃんが初めての生徒だった。

 

 A子ちゃんは、あるクラブに所属して大会で入賞する成績をおさめていることは耳にしていた。ところが、高校2年のある時、自主的にそのクラブを引退した。理由は分からなかったけれど、成績が伸び悩んでいたのが理由だということは推測できた。

 私は、彼女の覚悟というか気魄に驚いた。

「先生はバツイチでも、1回結婚できたからいいですよ」

 と笑っていた。言葉の端々にクラブばかりか、彼氏も結婚も何もかも犠牲にしても医者になるんだという決意が満ちていた。彼女のクラスがある時は、楽しかったけれど緊張した。

「この仕事を始めてよかった」

 私にそう思わせてくれた塾生の子は多いが、彼女はダントツの存在だった。

 

 A子ちゃんは家庭環境にも、経済的にも恵まれていなかった。多くの生徒は、過酷な環境に置かれるとグレるか性格が歪む。しかし、彼女は厳しい環境を自分を育てる肥やしにできる稀な子だった。

「政策金融公庫と奨学金と私のバイトで何とかする」

 そういうA子ちゃんだった。そして、ある時ボソっと

「お母さんが生命保険を解約するって・・・」

 と小さな声でつぶやいた。しかし、その目には絶対に合格するという覚悟が見えた。

 

 そんな貴重なお金を塾に提供してくれるのだから、リキを入れないわけにはいかない。損得勘定などなかった。何としても合格してもらわなければならなかった。彼女が多くの患者さんを救うことは間違いない。待っている人がいっぱいいる。

 

   私は中学・高校時代を通じて、A子ちゃんと言えばジャージと思っていた。たまに制服で来てくれたけれど、女子度はゼロ。可愛い髪飾りを付けるでもなく、フリフリの洋服を着るでもない。もちろん、髪振り乱して勉強ということはなく、清潔にしていたけれどファッションに時間も金もかけるヒマはなかった。

  女子に「質実剛健」という言葉はおかしいのだけれど、A子ちゃんにはピッタリの言葉。私は戦前の教育は知らないけれど、両親を見ていて想像はついた。歴史小説に出てくる一昔前の大和撫子。

 

 これは偶然ではない。今、私の塾に各中学校のトップクラスの生徒が何人もいるけれど、理系女子はほとんど女子度ゼロ。平均的男子より理路整然と話す。そして、質実剛健。日本の未来は明るいと思わせてくれる。

  A子ちゃんは、その後「国立大学医学部」に現役合格して「旧帝の大学院」で学び、現在は研究職に就いている。私はA子ちゃんを長く見ていて思うことがある。 A子ちゃんは気づいていなかったが、当塾では彼女の指導から生まれた教材群のお陰で、その後なんと「京大医学部」合格者が3人も続出した。私の塾の救世主でもあったのだ。

 現在の日本では、道を外れたギャル、ヤンキー、暴走族あがりの生徒や講師をもてはやしお金がそちらに流れる構造が出来ている。しかし、本当はA子ちゃんのように目立たなくても人々の役に立っている、道を外れない子にお金が流れるべきではないか。

 

 私は名古屋大学を卒業した後、河合塾学園、名古屋外国語専門学校など7つの予備校、塾、専門学校で14年間非常勤講師をしていた。自分の塾の経営のプラスになると考えたからだ。

  しかし、いろいろ問題点があって辞めた。私はそのうちの1つの塾で生徒アンケートがあった時に40人の講師の中で2番目の人気講師だった。その理由の一つは、中学レベルなら5科目、高校レベルなら英語と数学の両方が指導できたことだ。

 生徒目線に立つと、これは便利だ。明日は試験だという時に

「明日は数学のテストなのに、先生は英語しかダメなの?」

 となる。そんなことをしたら、

「明日は試験なので、塾を休みます」

 となってしまうわけだ。それで、私は自分の担当以外の指導もすることがあった。すると、ある日塾長から呼び出され、担当科目以外の指導を禁止された、私一人が複数科目を指導すると、他の講師にも同じことを要求する生徒がでる。それで、他の先生を困らせてしまったわけだ。みんな横並び。和を乱すのはならんというわけだ。

  ネットが普及して、インターネットを利用した塾や予備校も増えてきた。皆さんは大手のネット予備校や塾では

「生徒との直接のメルアド交換やメールのやり取りは禁止」

 という通達が講師との契約書に書かれていることをご存知だろうか。塾側は、

「生徒と講師が直接仲良くなったら、生徒をつれて独立されてしまう」

 というリスクがあり、講師の方にとっては

「労働時間外に生徒から質問がきては困る」

 という労働協約上の問題が発生するからだ。

「生徒と親しくしてはならん」

  これが大手の原則なのだ。

 

 私の塾は個人塾だから、5科目指導もすれば(高校生は英語と数学)、メールや写メでの質問は無制限かつ365日24時間対応だ。こんなことは、大規模塾や予備校では不可能なのだ。

   私は大手が嫌いだ。14年間働いてよく分かった。経営の論理ばかりが先立ち、生徒目線の需要に応えていない。左翼も嫌いだ。労働条件(主にお金)ばかり主張して、

「講師はみんな同じ労働条件。労働時間外の搾取は許さない」

 などと言う。一見正しい主張に聞こえるが、要するに能力がある講師の存在を許さない。みんなと同じ条件以上で働くな。生徒の質問に答えられなくなってしまうではないか。

  中身で勝負できないとなると、金にモノを言わせてタレントを使ったCMや、駅前に大きなビルを建てて生徒や保護者にアピールしようとする。そして、法外な授業料を要求する。このビジネスモデルは葬り去らなければならない。暴走族講師や、ヤンキー講師など要らない。講師は芸能人ではないのだ。

   自分の塾が小さい頃は

「大規模塾の講師という肩書きで信用を得よう」

  という打算があった。父の靴屋は、私が大学生の頃に近所にイオンが進出してそちらの中にある靴屋に押され気味だった。大手を利用しないと生き残れないという現実は知っていた。

  それだけではないだろうが、私の塾は順調で

「ボクは父を追い越したかも」

  と傲慢に考えていた頃があった。しかし、青春時代を戦争でつぶされてしまった父。私のようにバツイチになって子供たちに可愛そうな思いをさせずに頑張った父にはかなわないと思う。生きているうちに、そういう思いを伝えておきたかった。

   大規模校の内部に入って指導してみたら、最低だと思った。しかし、個人塾が良いかというと私は「イエス」と言えない。塾を始めてから、塾の入り口は壊されるし、個別訪問をしながら私の塾は閉鎖されると触れ回るし、いたずら電話はかかるし、明らかに近所の塾のいやがらせ。

  ある生徒が入塾して翌月やめたので謎だったが、

「先生、あの子はA塾の息子だよ。スパイだよ」

  と言う話もあった。いくら生活のためとはいえ、やってはいけないことだろう。

   私は大規模塾とも個人塾の塾長とも関わりあいたくないので、業界団体には加わらない。今はネット社会なので、業界団体に入らなくても情報はいくらも手に入る。横並びは生徒の方には良くない。

  大人の事情を考えずに、生徒目線に立てば講師と生徒の間を一切遮断んする大規模校のやり方はムリがある。だからといって、ある個人塾のように寒いから授業中にウドンを食べているのも親しさのはき違いだろう。

  私は、誰とも違うやり方を始めた時に倒産を覚悟した。誰とも違うということは、誰にも理解されないリスクがあるからだ。しかし、やってみたら地元の高学力の生徒だけでなく北海道から鹿児島まで(通信生)支持者が集まってもらえた。

 「高木教育センター」の最近の合格者数

13年度

京都大学「経済学部」1名、名古屋大学「医学部」1名。京都大学「医学部」1名。

14年度

京都大学「医学部」1名、大阪大学「医学部」1名、京都大学「工学部」1名、三重大学「工学部」1名。

15年度

京都大「経済学部」1名、京都大学「総合人間学部」1名、東京医科歯科大学1名、大阪大学「外国語学部」1名、東工大1名、名市大「薬学部」1名.

  ここは「いなべ市」です。すぐそこに鈴鹿山脈があって、最近地元のスーパーがつぶれた過疎地。子供たちが成人して家を離れ、バツイチなので食事もままならない生活になってしまった。

 父のように家族に見守られて逝くことは望めそうにない。でも、悲観はしていない。むしろ、一人の生活を楽しんでいる今日この頃。

 私の塾から京大、阪大、名大に合格した「デキる」女子は美女が多い。バイオリンの名手もいたし、生徒会長もいた。スペックが高いのだ。そして、共通に口にするのは

「先生はバツイチと言うけど、私は一度も結婚できそうにない」

 ということ。テレビを見ると、バカっぽい女子に男性がデレデレしている。私が、

「じゃ、こんな風に口をとがらせて『イヤーん!』とか叫べば。男はバカだから」

 と言うと、

「そんなこと、死んでも口にできません!」

 と言う。デキる男子に聞くと

「自分より学歴や収入が上の女子はチョット」

 と言う。プライドの問題らしい。完全にバカな男は格差婚も逆タマも歓迎らしいけれど、それは女子からお断りらしい。

  結局、学力順位が上がりすぎて廊下に名前が張り出され

「先生、もうアカン。これでは男子が寄ってこない!」

 と悲鳴をあげて諦めの境地に至る。

 「もういい。私は人工授精で賢い人の精子をもらう」

  と言う子もいる。ジョークだろうか。本気だろうか。

「先生、変な病気を持っていると嫌だからつきあう前に予防線を張れないかな」

  と言う医学部志望の女子もいた。こういう子は、キスもセックスも全て医学的な見地から考えるから男子もアプローチがしにくいだろう。

  私は四日市高校の生徒だった頃、上位20番くらいに入る女子(東大、京大合格レベル)は気持ち悪かった。何を考えているのか分からない不気味さがあって、話しかけるならアホっぽい子の方が楽だった。

  今の私は彼女たちは、スタイルもいいし、顔も美人だし、英語も数学もよく出来るし、何より人生経験を積んだオジサンの私と対等な目線で話ができる成熟ぶりで、高級品に見える。私は驚くとともに

「高校生くらいじゃ、この素晴らしさは分からんだろうなぁ」

 とため息が出る。

  

 

   A子ちゃんの話は以前書かせてもらった。美人で、性格が良くて、頑張り屋さんで、思いやりがあって、頭がいい。本当にステキな女子なのに、男性はアプローチをかけない。かけても少数らしい。

  こんな記事があった。

仕事ができる女性がモテない理由

  恋愛で仕事ができる女性は基本的にマメで、物事を効率的に進めがちです。また仕事で慣れているので全員に気配りをしてしまいがちで、単なる気配り上手で終わってしまうことが多いです。女性の場合は仕事と恋愛で脳を切り替える必要があります。ただ逆に仕事が出来ない女性はモテるという現実も結構心当たりがある人は多いのではないでしょうか。

 

 

  こういう女子に、

「どういう男子とつきあいたいの?」

  と尋ねると、必ず出るのが

「自分より賢い人!」

  です。バカな男を受けつけないところがある。英文を読んでいる時に、知らない単語が出てきて男子が

「その単語習ってません」

  と言うと、心底

「バカじゃない?」

  と思うそうだ。知らないことにではない。知らないなら覚えればいいのに、何が習ってないだ。

 あるいは、

「今日は宿題がないから、遊べる!」

 というのも、ダメ。

「おまえは宿題がないと勉強できないのか!」

 と思うそうだ。

「自分で何も決められないヤツは、私の目の前から去れ!」

 ということらしい。ダメ人間に用はない。

 でもね、学力が全てではないと言っても京大や阪大、名大に合格する自分より賢いって、ハードル高い。ほとんどいない。全男性の1%?

  その中から、自分を好きになってくれる確率。賢い子たちだから、極限値ゼロだと理解している。

  今の私には、こういう女子の素晴らしさが分かるので自分の部下とか共同研究者だったらいいと思う。私では力量不足と笑われそうだが。

  デキる理系女子たちは、私がバツイチで女性嫌いだと知っているし、素行の悪い生徒を毛嫌いしていることも知っている。つまり、自分と同類だと感じているらしい。安心して本音を語ることが多い。

  確かに、私は酒・たばこ・ギャンブル・女遊びには興味がないというか時間のムダだと日頃から言っている。そんなことより、微積分や英語の添削が楽しいなんて変かもしれない。

   賢い女子は私の塾に来て、難関校に合格して下さい。あなたの価値が分かる男子が必ずいますから。

  福山雅治はハイスペック女子と結婚すべきだった。そうすれば、世の中の流れが変わっただろうに。私ごときが何を書いても影響力がゼロだから。

 通信生が北海道から九州にまで広がってきた。ノートパソコンがあれば、寅さんにように旅がらすになってテキやではなく添削屋で食っていけそうだ。引退したら、旅に出たい。

 

(台詞)
私生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天でうぶ湯を使い姓は車 名は寅次郎。人呼んで フーテンの寅と発します
俺がいたんじゃ お嫁にゃ行けぬ。わかっちゃいるんだ 妹よ。いつかおまえの よろこぶような
偉い兄貴になりたくて、奮斗努力の甲斐も無く今日も 涙の、今日も 涙の 日が落ちる。日が落ちる。
ドブに落ちても 根のある奴はいつかは蓮の 花と咲く。意地は張っても 心の中じゃ泣いているんだ 兄さんは。目方で男が 売れるならこんな苦労もこんな苦労もかけまいに。かけまいに。
男とゆうもの つらいもの顔で笑って顔で笑って 腹で泣く。腹で泣く
(台詞)
とかく 西に行きましても東に行きましても土地 土地のお兄貴さん お姐さんにごゃっかいかけがちなる若造です以後 見苦しき面体お見知り おかれまして恐惶万端ひきたってよろしくおたのみ申します

 ブログ → http://ameblo.jp/takagishigemi/

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