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15/11/4

あこがれの関西トップ大学の入学式にいったのがエイプリルフールだった話。

Image by Olia Gozha

◯これは僕の高校生活までのサッカー人生と、あこがれの第一志望の大学に行っただけの話。





サッカーという夢の終わり




「ピッピッピーー・・・」


それは僕が高校3年生の夏のある日、母校のグラウンドに響き渡った試合終了を告げる笛の音であり、僕の青春であるサッカー人生の終わりを告げる音であり、現実へと向き合うための始まりの音であった。


サッカーをする者であれば、誰もがプロサッカー選手になる事は夢見るであろう。

もちろんそれはサッカーだけではないだろう。

きっと部活などでスポーツをするものであれば、1流のスポーツ選手になることは誰もが1度でも夢みるのではないだろうか。

僕はその一人だった。



僕は幼稚園の頃からサッカーを続け、小・中・高とずっとサッカー部に所属してきた。

最初の頃というものは親にいやいや行かされていた。

みんなが友達と遊ぶ中、土曜日にサッカーに行くというのが嫌でしかたなかったのだ。

ただ行ったら行ったで、サッカーをすることは楽しかったし、暇があれば家の前でリフティングをしたり、学校の壁に向かってボールを蹴る壁当てをよくしていた。


いつからかサッカーは僕の生きがいであり、生活の1部となっていたのは小学校5、6年生のころだろうか。サッカーの試合なんてあんまり見ないけれど、兄が好きだった中田英寿や、中村俊輔に影響され、後にはメッシやクリスティアーノ・ロナウドの動画をipod nano に入れ毎日のように見ては真似をするようになった。


「好きな事をして、それが仕事でお金がもらえるなんてどんなに幸せなんだろうなー」

なんて事を思うようになった。単純にサッカー選手はかっこよかった。そしていつしか僕の夢はプロのサッカー選手になることだった。


僕の性格というものは、先生の言う事は絶対だと思っていたまじめキャラで、あまり人とコミュニケーションをとるのが得意ではなかったと思う。

そのまじめさからか、中学では地元のサッカー部のキャプテンもつとめたが、あまりチームをまとめられず、学校では軽いいじめにもあったこともあるけれども、自分にはサッカーがあると心に言い続け、がんばるような人間だった。


ただそこまで秀でてサッカーがうまい訳でもないし、中学のサッカー選抜にも選ばれず、おそらくすこしサッカーが上手な普通の少年だったと思う。

それでも頑張ればいつかすごいやつになれると信じつづけ、高校でもサッカー部に入った。


1年生の頃はある程度は部活内で注目され、Aチームの練習にも何度も参加するようになり、試合にも出させてもらい、ある程度プレーできて自信が持てた。

最初は絶対レギュラーになってやるぞと思っていたけれど、だんだん先輩のピリピリした雰囲気にのまれミスを連発するようになった。最初はそんなものだと思っていたし、先輩もやさしかったけれど、2年生になり公式戦が近づくにつれ、周りの雰囲気もよりピリピリしたものとなり、何度も先輩に怒られた。

絶対いつかうまくなれると思い続け、練習もがんばったが、試合で結果があまりでなかった。


そして何より僕は怒られるのが嫌いだった。


それでも頑張り続け、自分らの代になるとレギュラーで出場していたが、練習と思ったようなプレーができづ、ベンチ要員とレギュラーを何度も行き来した。


いつからか、お前は練習だけうまい(笑)、なんてゆわれることもあった。

自分自身もある程度センスがあると思っていたし、いつかはこれを乗り越えられると思っていたし、心のどこかで、プロになりたいなんて幻想も抱いていた。しかしそれだけ努力もできていなかったと思うし、正直甘かった。それでもあきらめず僕の生き甲斐であるサッカーを続けていたけれど、試合では結果が出ず、怒られる日々。


いつからか僕はサッカーが嫌いになっていた。


うまくなりたいけど、ミスして怒られたくない。



いやサッカー自体は、大好きだったし、朝も自主練に行き頑張っていた。


ただ試合でボールを受けるのが怖くなっていたのだ。

パスがきてミスをしないだろうか。。そんなことが試合中頭によぎることが多くなった。


そして3年生になり、夏の自分ら最後のインターハイを迎えるようになった。

やはりあきらめきれずがんばってきたけど、状況はかわってなかった。ただまだ期待されてたのか、Aチームでもレギュラーもしくは後半からベンチで交代はさせてもらっていた。


そして夏のインターハイ初戦。

試合は母校のグラウンドで行われる。

そしてここからは、試合に負ければ引退となる。


僕は正直試合にでたくなかった。


サッカーだけが生き甲斐だった僕が、もう試合に出る事を恐れていた。

しかし、まだあきらめたくないし引退もしたくない。

勝ってまだ仲間とサッカーはしたい。矛盾した気持ちだった。


そして試合当日。

レギュラー発表で、

11人の中に僕の名前はなかった。

正直ほっとした。今日もベンチスタートである。


そして試合が進み、前半は0−0。

後半から交代で呼ばれるかもしれないとハーフタイムはアップをして備える。

しかし、正直でたくなかった。

自分のミスでチームが負けるのが怖かった。


しかし交代はなく、そのまま後半がスタート。

そして開始数分後、自分のチームが点をきめ1−0になった。

よしよしと一緒にベンチの仲間と喜び、そのあと監督がメンバーを一人呼び交代する。


しかしその後1点を返され1−1となった。

ベンチはピリピリした雰囲気となる。

また監督がメンバーを呼ぶ。自分ではなかった。


いつ呼ばれるのかと正直不安でしかたない。

そして試合は進みラスト15分。

また1点を決められ1−2と逆転される。


「おいおい、まじか」

このまま行けば、試合終了である。監督が選手を呼び3人目の交代。

それも自分ではなかった。交代枠はあと一人。

自分はただ外から仲間が頑張るのを見るだけだった。


いつもならこの時間帯では自分は交代していたが、まだ呼ばれない。

「でるのか?もしかしてこのまま終了なのか?」

「ここでまた出場し、ミスをしないだろうか?」

そんなことを考えていた。


終了までラスト10分。

ついに監督が選手交代のため、最後の交代メンバーを呼ぶ。

やっぱりきたか。僕は不安ながらもこの試合を変えるため、気持ちを決めた。



しかし呼ばれたのは、

僕の後輩の名前だった。



「・・・え。」

そのときの気持ちというものは、試合に出る緊張から解放されたのか、自分が試合にでれず見守っているという状況に拍子抜けしたのか、よくわからない気持ちだった。


ただ僕に残されたことは、残りの11人のメンバーを応援する事だけだった。

この試合に負ければ、そこで高校サッカーの終わり。

引退の2文字が頭によぎる。


試合前はあれほど出たくなかった自分が、引退という現実にさしかかり、愚かにもいまさらこの試合に自分が出場しチームを勝たせたいという気持ちにまるっきり変わっていた。


しかし交代枠は0。


僕は馬鹿だったのだ。いまさらながらそれを気づいた。

ただ今できる事は応援する事だけ。

ラスト5分必死で仲間を信じ、声をだしてベンチから必死に応援した。


ただベンチは静まっていた。

交代したメンバーは疲れからかあきらめからか、互いに軽くしゃべりながらじっと試合を座って見つめている。


「もうあきらめるの??いや無理だろ??」

そう思いつつも、僕ができるのは選手を応援する事だけ。


ロスタイムに入り、相手チームのコーナーキック。

もう試合終了の笛が鳴ってもおかしくない。

それでも僕は信じ、交代して出場しているフォワードの仲間の選手に声をかける。


「あきらめるなよ!絶対このあとボールがくるから前でボールまっとけ!!」


そいつもうなずく。

そして相手がコーナキックを蹴り、ゴール前で選手達が競りあう。

はじかれたボールはそいつの元にとどきそうだったが、寸前で相手にとられる。


「ピッ、ピッ、、、ピーーー!・・・」

そこでその笛は鳴った。試合終了だ。


肩の力が抜けた。あぁ終わったんだなと。ただグラウンドを見つめていた。

緊張から解放され、むなしさが込みあげてくる。


選手達がお互い礼をし、いままで頑張ってきた選手がかえってくる。

僕は次の試合のチームがくるため、救急バックや水を飲むためのボトルを持ち、

なにも言わずにすぐベンチを空けようとした。


すぐ立ち去ろうとしたその時、僕が声をかけ励ましたあいつが、泣きながら声をかけてきた。

「ごめんなぁ、、お前の分も役に立てんかった、

ベンチからお前の声めっちゃ聞こえてた、ほんまごめん」


僕はそいつの顔をみれなかった。

それでもそいつは泣きながら謝ってくる。

「ほんまにごめん」


そして僕は泣いた。

「ええって、ほんまに、・・・ぅ、、うぁぁぁぁあああ」

その時人生で初めて僕は男泣きというものをした。


きっと自分より悔しい思いをしたチームメイトもいたと思うけど、その日一番の大声で泣いたと思う。

自分の性格的にあまり泣くというのが好きじゃないし、まさか自分が人前で声をあげて泣くとは思ってもいなかったのだ。


その時僕は思った。

「あぁ、おれってやっぱサッカー好きやったんやな・・・」


こうして10年以上のサッカー人生にこの日幕を下ろし、僕は将来について真剣に向き合わなければならないようになった。


長い前置きはここで一旦終わりであり、いよいよ受験というものに立ち向かうことになる。ここからが僕の本当の戦いの始まりであり、おそらく僕の人生のターニングポイントになっていると思う。




ただのバカでサッカーしかしてこなかった自分が、

本気で志望校に受かるためだけに勉強した話


こうして僕のサッカー人生は終わった。

そして世間は大学受験という季節になった


だが、僕は大学に行くという意味がわからなかった。

周りの友達というのは


「経済に興味があるから経済学部にしようと思う!」

「美容師になりたいから専門学校にいくんだ!」

「とりあえず国公立大学をめざす。」


そんなことをゆっていた。

正直、美容師とか看護師になりたいから専門学校に行くという人はめちゃくちゃすごいなと思った。

自分のやりたいことの為に勉強するというのがかっこよかった。

でも僕にはもはや、やりたい仕事なんてないし、自分のやりたいことなんてわからなかった。

今までサッカーだけやってきたのに、今からやりたい事を探せなんて無理な話だった。


それでもいろんなことを考えるも、考えれば考えるだけ勉強に手がつかず焦るだけだった。

そもそも、経済学部だとか商学部とか法学部とか、なにをするか調べてもよくわからないし、

それでも周りは大学にはとりあえず行っとけと言う。


レールにしかれた道を歩むのは嫌だけど、それ以外の道なんてなにもわからなかった。


そんなとき、高校2年生の最後の頃から通い始めていた塾の塾長に

「とりあえず、大学に入れ。入ったあとにいろんな事を経験して自分のやりたい事を見つけたらいい。」と言われた。


なるほど。完全に腑に落ちた訳ではないけれど僕は納得した。

これ以上考えてもなにもでてこないから、まず大学に受かる事を目標にして、自分のやりたいことを探すために今を頑張ろうと決めた。


そこでどこを第一志望にするか。

考えた結果、僕は関西ではトップの私立大学の一つであるR大学を第一志望に決めた。

(関西に住むひとならどこの大学か予想はつくと思います。。笑)


まず国公立大学は受験科目が多すぎて、いまから勉強するには遅すぎた。

私立大学は3科目でいいが、国公立大学は最低でも5科目から7科目もある。

なにより部活が終わって受験まであと約半年という期間だった。


さらに僕は高校では、理系クラスだったが、受験は文系にすることにした。

いわゆる文転だ。


なぜなら塾長に、理系では今の実力じゃ勉強が間に合わなく、文系なら受験者数も多く付け入る隙があり、受験できる回数も文系の方が多い。そして自分が英語が他の教科より得意で、理系よりは文系のほうが勝負するには有利という点だった。


ただ僕は古文が苦手だった。だから高校でも文系ではなく理系にしていたのだ。

しかもR大学は古文がめちゃくちゃ難しい。

ただ逆にR大学は難しすぎてだれも点数がとれないから差がつかないという事を聞いた。


以上をふまえて、僕は英語の配点が比較的高く、苦手な古文が難しすぎる、そして受験回数が多い難関大学の1つのR大学の文系学部を第一志望にした。


これは関西の難関校に受かるという事のためだけに決めた事だった。

行きたい学部とか、大学でこれを学びたいなんてことはない。

ただその目標に向かっていくなかで、やりたいことが見つかればいい。

そしてなにより、高校サッカーで失敗した自分だからこそ、決めた目標を達成し、部活のみんなを見返したい、そんなことも思っていた。

僕の大学では関西の私立難関大学に行くことはなかなかすごいことだったからだ。


それから僕は勉強をがんばった。

もともと頭が良くないので、はじめは全然成績もあがらない。

なんせ偏差値は40程度。合格するにはあと20も偏差値をあげなくてはならない。

それでもやるしかなかった。


いままでサッカーだけをやっていた自分にとってずっと座っていることは本当に窮屈だったけど、がんばった。


たまに後輩がグラウンドでサッカーをしているのを見る。

あの頃もっとがんばっていれば、最後の試合にも出れたのだろうか。。。

いや、もう後悔をするのはやめよう。

悔しい思いをしたからこそ、これをバネに受験を乗り越えようと心に誓った。


時期は11月ぐらいになったが、模試の結果はひどかった。

R大学の判定はE判定。

そこにはこう書いてあった。



志望校変更の余地あり。



さすがにショックだった。。

いや、結構頑張ってたしCぐらいあるだろw

なんて思ってたが、これは焦った。


しかし僕は考えた。

この模試はサンター試験の方式での試験であり、自分が行きたい大学の試験方式とは違う。

センターの問題と一般受験の問題はそもそも違うのだ。


親にはランクを下げた方がいいのではないかとも言われたが、

自分を信じあきらめず頑張り続けた。


サッカーで挫折した以上ここで負けたくなかった。


不安な事もあったけど、元が元だし、これからいくらでも伸びる。

僕はR大学に受かるためだけに、過去問を何度も解き、そこの大学に受かるためだけに対策した。

というよりも半年という期間ですべての勉強を終わらせることができなかった。

だから試験までに僕は、古文の活用形でさえ完全に覚えてなかった。


単純にバカだった事もあるが、文法問題があまりでず、出たとしても簡単な問題という事が過去問を繰り返すうちにわかったからだ。なので僕は他の勉強を重視した。


そして、願書を提出し、試験日程を決めた。


僕は滑り止めとして、

中堅大学といわれる大学の前期と後期。

あとはR大学を4回と試験日程が空いていたので他の難関大学の1つを受けた。


合計7回の受験だった。

もはや数打ちゃあたるだろ!の気持ちだった。


そんなに大学受験は甘くないだろうとは思っていたが、僕はこの大学に受かるためにやってきたのだから、自分に自信をもって試験日程を組んだ。


そして時は進みセンター試験が始まった。

僕は国公立志望ではなかったので、センター対策もほぼしてなかったのであまり受ける意味もなかったが、試験という雰囲気を感じておくのもいいと判断し、受験した。

しかし思った通り全然できなかった。

もはや英語のリスニングの試験は受けずに、途中で抜け出し家に帰った。

それだけまだ勉強しておくことが残っていたのだ。


またそこで試験の休み時間に顔を暗くしてる人や、泣いている人も見かけた。

おそらく予想以上にできなかったか、もしくはマークミスに途中できずき間に合わなかったか。


センター試験は1回勝負。

国公立志望の人はここで失敗すれば場合によっては第一志望の大学の2次試験を受ける事もできないのだ。僕はそんなものに挑戦する国公立組を本当に尊敬したし、センター試験ほど残酷なものはないと思った。

そんなことを感じながらも、僕はセンター試験を終えてからも一般入試ギリギリまで必死に勉強した。


そしてついに私立大学の一般入試の受験期間に入った。


始めは、中堅大学の前期日程の試験を受けた。

手応えとしてはまずまずだった。


そして本命のR大学の試験が2日続き、

1日休みが入り

また2日R大学の試験を受けた。


正直にいえば、始めの2日のできはよくなかった。

2日とも3教科中2教科はまだ手応えがあっても、1教科は難しく感じできた気がしなかった。


ただそれでも1日の休みで2日分のテストの復習をした。


どこかの説明会で、どこかの予備校のお偉いさんが

「R大学はその年によって、試験の出題傾向が似ているので復習をしっかりしよう!」

「データでは受験回数が多くなるほど、合格率があがっている!」

などといっていたからだ。


そもそも受験回数が多ければチャンスが増えるのだから、合格率が上がるのも当たり前である。

しかし僕はバカ正直にこの事を信じてしっかり復習をした。

もちろん試験でできなかったことは、自分がまだ見落としているところなのだから復習はすべきである。なかには自己採点して、落胆してしまうからしないという人もいたが、僕はおそれながらも自己採点をし、できていなかった所をしっかり補った。


やれることは最後まであきらめずやったと思う。



そして本命のR大学の試験4つを終え、もう1つの難関大学の試験を1つ受験し、

あとはもう1つの滑り止め大学の後期日程の受験を残すだけだった。


最後の試験を迎える前に、まず前期日程の滑り止め大学の試験結果1枚のはがきで返ってきた。





中をめくると合否が書いてあるのだが




不合格だった。



まじか。


これにはかなり焦った。1つランクの下の、しかも滑り止めで受けた大学なのに、まさに滑った。

もはや滑り止めで落ちたのだから、第一志望なんて普通に考えて危うい。もしかしてどこにも受からないのではないかと本気で思った。


親もなかなか心配していたが、

あきらめずにやっていたしどんな結果でも大丈夫だよ

といってくれた。


でも僕は最後まであきらめたくなかった。

それはサッカーで味わったあの苦い思い出を無駄にしたくなかった。

あの経験をバネにし受験で成功して、周りを見返したかった。


もう第一志望のR大学の試験は終わっているが、最後の滑り止め大学の後期日程の試験もあきらめずがんばり、そして一応すべての試験を終えた。


そして合格発表まで1週間待つことになった。


この期間は合格も決まっていないし、心から遊ぶ事もできなかったが、もうやることはやったのだと有意義に時間を過ごした。周りの友達で合格が決まったという声も耳にしたり、徐々に大学受験を終える者も増え始め、自分の第一志望であるR大学の合格発表も1日1日と近づいていった。




そしてついにその日がやってきた。

発表は郵送でも届くが、朝の10:00からインターネット上に発表される。


僕はいまかいまかとパソコンの前で待ち続けた。


そして10:00になった。



おそるおそる自分の学籍番号を打ち込み、合否を確認する。


結果は


R大学試験の受けた4つのうち、、、






・・・



・・・・




・・・・・




1つだけ見事に合格していた!!!!!!!!




第一志望の大学に行ったのが4月1日だった話


こうして僕は見事に自分が決めた第一志望の大学に合格した。


世間からみてこの大学に受かった事はすごいことではないだろう。

東大でも京大でもないし、慶応でも早稲田でもない。

試験だって4回も受けたし、もしかしたら運かもしれない。

(たぶんけっこう運です。。笑)


ただ運だとしても、それを引き寄せたのは自分だと思うし、それだけのことをやってきたつもりだ。

なにより自分が決めた目標のために、それを達成するために努力し、やり方はなんにせよ成し遂げたのだ。サッカー以外でこんなにも本気で取り組んだのは人生で初めてだった。


ただそれはもちろんサッカーで挫折したからこそ、受験で成功し周りを見返したいと思った訳で、

その分第一志望に合格できた事はほんとうにうれしかった。


自分の高校でもこの大学に入るのはなかなかすごい事だったので、友達もほめてくれた。


そして部活の後輩に自分のサッカーでの挫折経験とそこからの受験の成功談を語り、僕は高校を卒業した。


なかには受験に満足できず、浪人する友達も当然いた。


僕にはもう1年間の間ずっと机に向かって座り、勉強することなんて考えられなかった。

もはや1年頑張って、もう1度R大学を合格しろとゆわれても合格できる自信もなかったし、

本当に現役で合格できてよかったなと思い、存分に友達と春休みを楽しんだ。



そして


桜咲き、新たな人生の始まりとなる4月1日を迎えた。


R大学は4月1日が学校の初登校日で、クラス分けの最初の授業があり、

その翌日の4月2日が入学式であった。


僕は高校の友達で、同じR大学に合格した友達と大学に一緒に向かった。


R大学は京都の大学で、家から1時間ほど電車にのり、そこからバスで20分ぐらいの距離だった。

いままで高校までは自転車通学で15分歩ほどの距離であり、1時間以上の通学は初めてだった。


電車を降りバスに乗った。


友達「うわー、大学通学ってめっちゃながいなー。」

僕「ほんまそれなー!おれ毎日こんなんとかまじでむりだわw。なえるわーーー。」

友達「ほんまそれなーww」


そんなことをいいながら僕は内心


僕「・・・(まじか。京都めっちゃきれいやん!!、毎日この景色みながら登校とかまじでテンション上がるー!!www)」


発言とは裏腹にテンションめちゃくちゃ上がっていた。

合格したからこそいえる発言である。僕は完全に調子に乗っていた。


こうしてバスを降り、念願のR大学に到着した。

(ここに毎日通うようになるのか。。。)

いままで本当にがんばってよかったとその時思った。


友達とは学部が違ったので、途中で分かれる事になった。


僕「んじゃ、また終わったら一緒にかえろーぜ。」

友達「おっけー。あ、帰りに京都のお店でカバンとか見に行かへん??これからまた勉強はじまるし大学生っぽいカバン買いたいねん!」

僕「おー、いいねー!おれら大学生やしな、新しいの買わんとw、いこいこ!!」

友達「おーけー!、んじゃまた!!」


僕たちは笑顔で別れを告げそれぞれの学部に向かった。



しかし、その日僕は彼とあの後再び会う事はなかった。



そして僕は自分の学部に向かった。


僕の学部は「政策科学部」である。

政策科学の学部なのか、政策科の学部なのか、つっこみたくなるような学部だったが、

僕には大学に受かる事が目標だったのでどうでもよかったし、どっちの意味なのかも忘れた。

どちらにせよ受験を乗り越えたように、目の前のことを本気でやってやると決めていた。


そして自分の教室につき、担当のひとから座席表をもらった。

そこにはたくさんの名前があり、受験を乗り越えた人達の名前が書かれていた。


もちろん受験に失敗し、やむおえずこの大学に来た者もいるだろう。

ただ僕はみんながんばったのだろうなーと勝手に想像し、自分の名前を探した。


ぼくの名字は「水野」だ。

マ行なので、後ろから探せばなかなかはやめにみつかる。


・・・はずだった。


(・・・ん?)


・・・見つからない。


あ、みつけた!とおもったが、そこには「水谷」という人の名前だけで、

他に「水」がつく文字の名前はなかった。


なるほど。名簿順じゃないんだな!

そう思い先頭をみれば、「浅野」だとか「朝田」とかの名前が並んでいる。


なるほど。学部か教室を間違えたのか!

そう思い確認するもそこには確かにはっきりとどっちの意味かわからない「政策科学部」と書かれていた。


学部も教室も合っているのに、あの受験を乗り越えた自分の名前がそこにはなかった。


だがなぜか僕はそんなに動揺していなかった。

部活でも試合に行くのに電車で反対の方向にいって30分すぎた頃に気づいたりへまをすることも多くて、いつもそんなときにはとても後悔し1日中引きずるような性格なのだが、僕はなぜかその時は落ち着いていた。


おそらく合格したという事実は間違っていないし、なにかの間違いだと思っていたからだろうか。


というよりもむしろ僕はこの状況を愚かにも楽しんでいた。


というのも今日は4月1日で世間ではエイプリルフールである。

そこで僕はtwitterに

「やばい、大学着いたのに座席に名前ないww」

みたいなことをつぶやいてた。


そうこれは嘘ではない。事実である。

ただこの日みんなは僕のつぶやきをみて嘘だと思うだろうし、次に会ったときに実は本当だったとひと笑いしてやろうとおもったからだ。

もちろんまぎれもなく僕はこの大学に合格していたから結局大丈夫だろう、そう確信していたためだ。


そして近くの職員に自分の名前がないことを話した。

その人も自分の名前を探してくれたが、見つからず学部もしっかりと合っていたので、職員室にいくことになった。


職員室に向かうともう一人女の子がいた。

とても暗い顔をしていて、いまにも泣き出しそうだったので僕は声をかけた。


僕「だ、だいじょうぶ?」

女の子「・・・うん」

僕「もしかして名前みつからんかった??」

女の子「そう・・・」

僕「あー、そうなんかー実はおれもやねんw、まーなんとかなるって!」

女の子「・・・」


・・・励ましたつもりが、逆に嫌われたような気がした。


その後30分ぐらいまたされて、クラスごとの説明会が始まる時間がすぎていた。

(あー、入学そうそう遅れてしまったなー)

そう思っていると、職員の人が女の子に声をかけた。


職員「君、たぶん学部まちがってるね。さっきあそこにいたけど、こっちじゃないかな?」

女の子「あ、、そうです!ごめんなさい!ありがとうございます!!」


そういうと女の子は暗い顔からぱっと表情を変え、僕を見向きもせずにすぐさまここを去った。


職員「水野君は、、、もうちょっとまっててね。」


え、あれ、、これは思っていたのと違う。

僕も学部を間違えたとか、教室を間違えたとかそんなんじゃないの?

女の子とよかったねーなんて話をしながら連絡先を交換してまた運命の再会とかじゃないの?

さっきまで他人の事を心配してた自分が、だんだんここにきて心配になってきた。


それから10分以上待たされ、どんどん不安になってきた。

これもしかしてやばいやつか?

しかし周りには頼れる友達もまだいない。


そしてふとtwitterを見ると


僕のツイッター上が

かなり炎上していた・・・


(以下返信の数々)↓

→「そんな嘘だれでもわかるわ」

→「しょーもな」

→「水野君、こういう日にそういう嘘ついちゃだめだよ??」

→「お前そんな嘘ついたら悲しむ人もおるねんぞ!」

等々。


これは僕にかなりの追い打ちをかけた。


いや勢いでやってしまった自分が悪いのだが、これは事実であり、もしかしたら本当にヤバい状況かもしれなく、かなり僕は不安になった。


友達に助けを求めたいのに、さらに突き放されているような気分だった。


すると職員の人が声をかけてきて、少し場所を変えてほしいといわれ別の塔になにやら移動し始めた。

ただまだ僕にはなぜか妙な余裕が残っていて、歩きながらその人に話しかけた。


僕「あのーー、これってやばいやつですかね?w、ははは・・・」

職員の人「うーーん、そうだねーー、あーー水野君は一般受験??:

僕「あ、はい、そうです!」

職員の人「おーーそうなんだ。第一志望はこの大学だったの??」

僕「はい!4回受けたんですけど1つだけ見事にひっかかってなんとか合格しました!w」

職員の人「そうなんだーー。とりあえず合格おめでとう!」


その人は笑顔を見せてくれたが、僕に目をあわせてなかった。


そしてたどり着いたのが、キャリアセンターみたいな校長室のようなソファーがおいてあるような所で、ここでしばらく待つように言われた。


僕はここに着いて

(あ、これはさすがにやばいな・・)

といままでの余裕が完全になくなった。


するとスーツを着た2人の大人が入ってきた。

一人はいかにも偉そうで怖そうな60代スーツA。

もう一人は50代であまり仕事ができなさそーなサラリーマンのようなスーツBである。

そしていろいろ資料をだしながら説明された。


スーツA「えー、水野さんですね?」

僕「あ、はい。」

スーツB「・・・」


スーツA「本日は本校に来ていただき誠にありがとうございます」

スーツB「ぁ、ありがとうございます!」

僕「はぁ、はい」


まず僕は思った。まるで僕がこの大学の学生でないような言い方だなと。

そしてスーツB、こいつ仕事できないだろうなー、と。

だが話はすぐ結論づいた。


スーツA「えー、水野さん、結果的にいえばあなたは現時点では入学が認められていません。」

スーツB「・・・」

僕「・・・?」


まったく意味が分からなかった。

現時点??どゆこと??


スーツA「・・・というのもあなたは立命館に合格されています」

僕「あ、はい!」


(やっぱり合格してるんだなよかった〜)

そう思った。


スーツA「また、入学金と入学書類も、届いているのですが現時点でまだ授業料が振り込まれていません。よってまだあなたは現時点ではまだ入学が認められていません。」

スーツB「・・・うーむ」


そういわれて僕はとてもびっくりした。


僕「いやちょっとまってください!僕はちゃんと確認してすべて振り込んでいつはずです!」


そう言った。なぜなら僕も以前にどこの誰かがお金を振り込み忘れていて、気づいたときには期限が過ぎていたという事例を聞いた事があったため、親にちゃんと期限ごとにしっかりと前もって確認していたからだ。


ここでやっとスーツBがまともに口を開いた。


スーツB「ぃや、ですので、、、」

スーツA「ですがこちらには振込が確認されておりませんですので、現時点では入学が認められておりません!」


僕はまずスーツBのこの場にいる必要性のなさに少しいらっとしつつも、スーツAが何度も口にする理解不能な「現時点では」という言葉にかなりいらついていた。しかも僕は何度も親にお金に関しては確認していたのでまったく訳が分からなかった。


僕「いや、僕自身もそういう前例を聞いていたのでしっかり振り込んでいるはずです」

スーツA「しかし、こちらでは振込が確認されていません」


スーツAはかたくなにそう言い続けた。

スーツBはだまってうなずいているだけだった。


僕「・・・あー、そうなんですね。わかりました。。ではどの時点では入学は認められますか??」

スーツA「ですので現時点では入学は認められていません。」


僕「・・・は?」

スーツB「・・・」


僕「・・・あの現時点ではってどういう意味ですか?』

スーツA「何度も言うように現時点で入学は認められていません」


いやいや、急に言葉が「現時点では」から「現時点で」に変わったでしょ。

僕はこの時本気で怒りが爆発しそうになった。

しかし、なんとか冷静さを保ちつつ1番恐れていた事を聞いた。


僕「えーとじゃあ、、、もしかして入学はもう許されないってことですか?」

スーツA「はい、現時点で認められません」

スーツB「・・・」



僕「え、、、えーーとなにか救済処置みたいなのはないのですか・・・?」

スーツA「・・・残念ながら」


(まじかよ・・・)


一瞬時が止まった気がした。

そして僕はようやく理解した。

この二人のスーツの大人は残酷にも20歳にもならない少年に、入学が「現時点で」認められておらず、もう入学は「現時点からも」許されないのだと言う事を伝えにきたのだ。


だが僕は本当にお金に関しては、念入りに確認していたのでそこだけはなにかの間違いだと思ったので、その場ですぐ親に電話した。


僕「あ、もしもし?」

母「ん、あ、どうしたん?無事説明会終わった??」

僕「いや、あのー、落ち着いて聞いてほしいんだけど。」

母「なに?」

僕「お願いだから、ほんとに落ち着いて聞いてね。」

母「わかったから!なに??」

僕「あのー、今大学に行ったんだけど、入学金と書類は届いてるんだけど、授業料が届いてないって言われた。」

母「え!、いやちゃんと払ったよ!!何度も確認したじゃない!」

僕「だよね!?」


僕はやっぱり!とここで思った。


僕「でも、振り込まれてないらしいんだけど、なんでかな?」

母「いやー、ちゃんと振り込ん、、、あ!ちょっとまって!!」


といい急にドタバタしだした!


母「あああーー!ごめん!まだここにお金あったー!!」

僕「え???」


結局あとでわかったことだが、母は授業料を振り込み行った際、家の別件で振り込みがある用事がもう1つあったらしく、1つ振り込んだ際に満足して、授業料も振り込んだと勘違いしていたという事がわかった。


母「ごめんー!!、なんとかその大学の担当の人に言ってすぐ振り込むから待ってもらって!」

僕「いや、もうだめらしいんよ・・・」

母「は??だめってどういうこと??」

僕「期限すぎててもう現時点ではだめらしい・・・」

母「え??どういうこと??ちょっとかわってくれる!?」


僕「あのー、ちょっと変わってもらってもいいですか?」

スーツA「はい、もちろんです。」

スーツB「・・・」


そこからは地獄だった。母もようやく状況を理解したらしく、すぐに父に代わった。

そしてスーツの男達はまたあのかたくなな言葉で否定し続けた。

電話の声は僕にも聞こえてきて、それはもう聞いてられなかった。

親達がこのスーツの男達に懇願し、頼むからと叫ぶ声が聞こえ、しまいには泣き叫ぶ声も聞こえた。


それは当然だ。自分達の息子が頑張って難関大学とよばれる大学に合格したのに、自分たちのミスのせいでそれが水の泡になったのだから。


僕はその時泣きたいとか怒りといった気持ちよりも、むしろ両親に申し訳ない気持ちだった。

自分でしっかり授業料を払えばこんなことにならなかったし、自分が忘れたのならまだしも、一見関係のない自分の親がこんなにも苦しんでいるのだったから。


そうして両親もとりあえずは、電話を切りまた1度学校まであらためという事だった。

僕は何度も親に謝られた。


そしてその場を後にした。

そして僕はふと思った。

(え、おれなにしにここにきたん?)


もはや笑いがこみ上げくるほど、いまの状況はカオスだった。

あこがれの第一志望の大学に受かって、登校したら1日で帰るという結末。

しまいにはtwitterまでも軽く荒れてしまった。


いやこれ嘘ですよね?

エイプリルフールですよね今日??


なんど待っても、だれもドッキリでしたー!なんて出てこない。


(はぁ、、、)

このままここで立っていてもしょうがないので僕は友達と二人でいこうとしていた京都のカバン屋さんに1人でいった。


京都の景色はむなしくもとてもきれいだった。


しばらく歩いてカバン屋とか服屋とかを見て回った。

しかもなんということか。気づいた事があった。


お店を見回っても全くおもしろくない!!


(・・・はぁ。帰るか。)


そうして駅に向かう途中、サッカーショップの「KAMO」というお店が、目に入ったので立ち寄った。

そこにはサッカーの実況中継や、たくさんのスパイク、ユニフォームであふれていた。


それを見ていると自分のいままでが思い返されてきた。

幼稚園からサッカーを続け、高校では挫折し、みんなを見返すために第一志望に合格した。

合格したのはまぎれもない事実だった。しかし入学できなかった。


この時初めて涙が目にあふれてきた。

そして思った。


(あー、、サッカーしたい・・・)


何もかも忘れたかった。

家に帰っても両親に謝られるだけだとわかっていた。


そして僕はいままで通っていた高校へサッカーをしに戻った。



大学受験に成功したけど浪人した話


結局両親は大学に直接話を聞きに行き、なんとかお願いしたが結局無理だった。

高校にも相談しに行き、なんと裁判まで考えたが無理な話だった。


そしてなにより落ち込んでいたのは僕よりも両親だった。


そしてまたしも僕は将来について考えなおす必要があった。

また1年勉強するかと思うとそれはもうしんどかった。

もう一生勉強したくないと思って必死に勉強して、しかも第一志望に合格したのだ。

なのにいま僕は大学生ではない。


大学ってなんなんだろう。

そんなにしてまで行かなくてはいけないのだろうか。

やりたい目標があるわけでもないのに・・・

もしかしたら神様が将来についてもう一度しっかり考える時間を与えてくれているのかもしれない。

そう思って、また将来やりたいことについて考えたけどやっぱり答えなんて出てこない。


結局僕は浪人することとなった。

周りの浪人生は、自分の受験を成功させるために1流の塾である河合塾だとか、駿台だとかに入っていた。


僕もそんな環境で勉強したかったが、1年間で100万前後払う余裕はうちにはなく、以前お世話になっていた塾で年間10万円で自習室と授業を受けさせてもらったが、浪人生は僕を含めたった2人。

特別に浪人生向けの授業もなく毎日ほぼ自習だったが、それでも感謝だった。


(またここに戻ってきたか・・・)

もう一生ここにはくるまいと勉強してきたのにまた戻ってきてしまった。

受験には成功したが。。。もはや笑うしかない。


Twitterをみれば、みんな新歓だの、サークルだのリア充ツイートをしている。

→「本気で受験頑張ってよかった!!w」

→「大学の友達とタコパ!!友達できた!!楽しい!!」


(いや、おれも大学受験がんばったし!むしろ成功したし!)

自分もその場にいるはずなのにと思うと、とてもむなしかった。

ためいきしかでなかった。


数少ない友達も心配してくれて駆けつけてくれた。

また、仲のいい友達も浪人していた事が救いだった。


結局僕は私立大学のD大学というところを第一志望に決めた。

関西では関関同立といわれる枠組みがある。


そのなかでもD大学は飛び抜けて入るのが難しかった。

R大学も同じ関関同立であるが、D大学とは僕から見てレベルが違っていたし、ここに入れたらすごいよなーと現役のころも思っていた。


それでも僕としてはなんとしてもD大学に入りたい訳でもなかった。

なんせ大学に行く意義を見いだせない。大学に入ってやりたいことなんてない。


結局そこだった。


ただここで僕があきらめれば1番苦しむのは両親だった。

僕がもう一度やりとげれば両親も喜んでくれる。

ランク上のD大学に入れば浪人してハッピーエンドだ。


毎日朝の10時には塾に行き、夜の10時に帰る。

ほぼ自習だ。

とにかくしんどかった。


ストレスのせいか、原因不明のじんましんがでるようになった。

またニキビもなかなかひどくなった。


昼間は僕ともう一人の浪人生でひたすら無言の自習。

毎日10時間前後は塾にいたが、始めのころは全然集中できなかった。


友達も心配してご飯やカラオケに誘ってくれた。

最初はうれしかったが、だんだんそれさえもストレスになった。

友達は親切で誘ってくれているとはわかっていても、こっちは受験勉強。

断るもノリがわるいと思われるのがいやだった。


毎日ため息をしていて、軽い鬱も経験した。

1000回ため息をすれば誰でも鬱になるなんて聞いた事があったがそれは本当だった。


(あー、これが鬱か。。。)

なんて思っていたので、本当の鬱ではなかっただろうが、眠れない毎日が続いた。

眠れない夜ほどしんどいものはないと本当に実感した。


実際僕の状況なんて全然ひどい事なんてない。

自分よりしんどい状況のひとなんて世界、いや自分の周りでさえももっといるだろう。

でもやはりしんどいものはしんどかった。


それでも勉強するしかなかった。




両親は夏休みに休暇にいって僕にお土産を買ってきてくれた。

それは1枚の絵。

そこにはこう書かれていた。


「When Life Makes Waves,,, Enjoy the Ride!!」


「人生が波を作るなら、それを楽しめ!」と。


いやいや、そもそも波を作ったのは親なのだが。。。笑

と思いながらも、ぼくは再び頑張った。


再び合格し、この体験を笑い話にできるように。。

というよりも僕自身この事件を笑い話にしようといろんな人に話していたが、みんなこの話をしたときは引かれるか苦笑いされるだけだったのだ。。。僕は笑い話としては最高のネタだと思っていたのだが。


自分が話してる時にもしかしたら涙目になっていたのか負のオーラが出まくっていたのかはよくわからないが、もう一度ランクが1つ上の大学に合格し、いつかみんなに笑い話として話せるようにと頑張った。これは神様が与えてくれた試練だと信じて。


浪人してわかったことだが、R大学に受かったのはやはり運のおかげだった。

模試で成績がまだあまりのびず、第一志望のD大学は11月の時点でまたもやE判定だった。

その時点で去年受かったR大学はC判定だった。


だが僕は動じない。去年はここから合格した。

正直夏まで、僕は本気で勉強できてなかった。

塾にはほぼ毎日最低でも7時間はいたので勉強したつもりでいたが、精神的な部分もあったとは思うけど、集中できてなかった。


だがこの模試でよーーやく目が覚め、遅すぎるもやっと本気で勉強したと思う。

去年と同じように自分のやり方で足りないところを勉強した。

過去問も中古で10冊以上購入し、何度も解き直した。


今年も滑りどめ2つとD大学は4回受験することにした。

バカだと思うかもしれないが、僕の目標は第一志望に受かる事である。

やり方はどんなでも受かりさえすればいいのだ。



そして今年も一般入試が始まった。



しかし最初に2つの滑り止めの大学を受けたのだが、この2つがまったく解けた気がせず、かなり自分は追い込まれていた。


(やはり、去年の合格は運だったのか?滑り止めさえ受からず全て落ちたらどうなるのだろう。。それこそ誰も救えない悲劇の奴になってしまう。。。)


僕はメンタル的にかなり追い込まれていた。その日の夜の夢はとてつもない悪夢でもうだめなんじゃないかと思うくらい精神的にやばかった。


だが次の日の朝起きると友達が家の前にお菓子を置いてくれていた。

携帯を見るとがんばれよとのLINEのメッセージがあって僕はその時泣いた。

このとき改めて友達の大切さを学んだ。あのときの友達ありがとう。


そしてこんな僕にも応援してくれている人がいるんだと気持ちを引き締め、

残りの本命D大学の試験を4つ本気で頑張る事ができた。





そしてD大学の入試の結果は結果は


・・



・・・



・・・・・



4つのうちまたしてもたった1つだけ合格できていた。




4月1日 = エイプリルフール


4月1日それは嘘をついていい日。

エイプリルフールである。


エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはわかっていない。


だれがこんな習慣をつくったのだろうか?

たぶん僕は誰かがみんなを笑顔にしたくてこんな習慣をつくったのだと思う。


また、4月1日はエイプリルフールであり、世間一般では入学式である。

Rめいかn、、じゃなかった。R大学もそうだった。

しかし笑顔であふれるであろうその日、僕は笑顔じゃなかった。

だれが思うだろうか。入学式にいったらあなたは入学できませんよーなんて。笑

ぼくはあの日必死に神様に願った。嘘であれと。

今日の出来事が嘘であってほしいと。


だがそれは本当であった。


僕は今ではこれは神様が与えてくれた試練だったのだと思う。

浪人生だからこそ経験できない苦しさや、大変さも経験したし、人生について本当に考えた1年だったと思う。


そしてこんな経験をしたからこそ、この先もっとがんばらなくてはいけない理由ができた。


そして僕はこれから毎年4月1日を迎えるたびにこう思うだろう。


また1年生き延びたと。


Dしゃ、、じゃなかった。D大学の入学式は4月1日ではなく、4月8日だった。


そして僕は不安ながらも入学式に向かった。


そして名簿を受け取り、そこに自分の名前を確認してやっと安心してはじめて思えた。


大学生になれたと。



まとめ


ここまでだらだら書いてきてどれだけの人がみてくれたのかわからない。

へたなりに必死に書いたが、読んでくれた人がいるのであれば、

ここまで読んでくれて本当にありがとうございます。


このエピソードから学ぶことなんてないかもしれないけど

あるとするならば


・お金とかは自分のことは自分でやれ

・受験は模試の結果がなんであれ最後まであきらめないこと

・大学受験は合格するまでが受験じゃなくて、大学に入学するまでが大学受験である。


そんなところだと思います。笑


受験生が見てくれているならば、僕の経験をいかして大学受験最後まであきらめず頑張ってほしい。

東大や京大なんかじゃないけど、私立の難関大学ならビリでもバカでもヤンキーでも本気でやればいけると思います。


そして合格できたのであれば、お金は自分で振り込んでほしいと心から思います。

冗談とかじゃなくて本当に。笑



その後


これを書いている現在の僕は大学の2回生で、入学してから1年半がたった。

なぜこうして自分の人生を振り返ることにしたかといえば自分の考えや思いを文章にする力が必要だと感じた出来事があったからだ。いままでレールにしかれた道を歩み、物事について考えるということをしてこなかったというのも1つの理由であり、こうしていま行動している。


そして僕は将来の夢を探すために自分なりにいろんないろんなことをしてきた。

大学入学後、高校のときの先輩と文系大学の9割が営業職に就いているという現状を知り、営業の学生団体を創設し運営と営業活動を今年の夏までやっていた。


またこの夏は1ヶ月の留学に行ったり、またプログラミングの勉強もし始めたりした。

単純に今後英語とITのスキルは求められると思ったからだ。近畿大学での堀江氏の演説の影響もある。


だが将来やりたいことなんて見つかってない。

おそらくこれからも見つからないだろう。


ただ目の前の事を本気で取り組む事の大切さを学んだ。

学生という貴重な時間を利用し、いろんなことに触れて、取り組むべきだと思った。


ただあれだけ苦労して入った大学だが、僕はいま自分が払っている学費の分だけの価値を得られている気がしない。僕は奨学金を借りて学費を払っており、それも大学を卒業すれば自分で返さなくてはいけない。


学歴とはそんなに大事なのだろうか?

ほとんどの学生が単位を取るために勉強し、授業もまともにでないことだってある。


面白くない事でもちゃんと取り組み頑張る事というのが大事なのだろうか?


正直いま大学生活はおもしろくない。

友達も少ないし、なんのために勉強しているかがわからない。

(友達はいっぱい作ろうとしたが無理だった。これはもうしょうがない。。。)


やりたいことをやったらいいとか、好きな事をしたらいいとか言うけれど

それがなにかもわからない。結局やってみなければわからないのだと思う。


僕は典型的なレールにしかれた道を歩んできた人間だ。

そんなつまらないことで悩めるだけ、おそらく日本は恵まれているということなのだろう。


でもそれはあの経験があったからこそ今真剣に向き合えているのだと思う。


この先のことはまだわからない。

いっそのこと海外に飛び出してみるか。

それとも大学をやめてどこかのIT企業でインターンでもしてみるか。


先のことはわからないし、この物語はハッピーエンドではない。


人生は終わりなき旅なのだから。





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