ファンタジアンとしての生き方

共感覚を持つ作者が日常的に味わっている
感覚の面白さを物語にしました。
共感覚とは例えば文字や色などから音を感じたり
目で見たもの(車やピアノ、人など様々なもの)に味や色、
音などを感じたりする感覚のことです。
数字に色を感じるとか音に色を感じる人、
触れなくても触れることができる共感覚の人。
さまざまな感覚を持って生きている人がいます。
主人公の柚子は共感覚を持っているために
大変ユニークな生活をしていました。
ちょっと気難しくてちょっと可笑しい
柚子の不思議な暮らしぶりは...
声の色 数字の色

無印で買ったリネンの紺色のストールを
くるりと巻いて自転車を漕ぐ。
柚子が今日着ているのはグレーがかった紫の
薄手のコットンのセーターに
生成りの白い麻のスカート。
たっぷりとひだをとったスカートは足首まであって
これをはくと柚子は自分が小龍包になったような気がする。
スカートの下はグレーのタイツ。
ぺたんこの白い革靴はひもできちんと結んである。
さて、今はカイロプラクティックに行った帰り。
柚子は週に1回、そこで骨を矯正し
マッサージでほぐしてもらうことにしている。
今日はヘアトニック味の吉野くんが担当してくれた。
吉野くんの声は苦くて涼しい冷たさで、
色はヘアトニックのグリーン。
でも最近、吉野くんの色は変化した。
グリーンは淡い薄荷色になって苦みが薄らいでいる。
なんでなのかは柚子にもよくわからない。
武くんは(他の誰からも武くんと呼ばれている)
灰が混じっている黒っぽい青で味は甘み。
でも和三盆みたいなあっさりした甘さ。
あんこが似合いそう。。
彼は鍼やお灸だけでなく様々なことに興味があって
研究熱心な若者だ。
山吹くんはサーモンピンクで味はお酢。
彼をみるとつい蛸の酢の物を思ってしまう。。
今日は耳の遠いおばあちゃんに大きな声で一生懸命説明をしてた。
「片瀬さん!わかりましたか〜?
右手を上げてみてください。違う、右。み・ぎ・て!
はい、もう一度やってみましょうね〜」
おばあちゃんの声はさっぱり聞こえないが
彼が右と言うたびに
柚子の頭の中に数字の2が赤でちらつく。
左なら青で数字の1なのだけど。。。などと考える。
柚子の感覚では数字にも
固有の色があることになっている。
1は明るい青で左
2は赤で右、
3は黄色
4は青みがかった紫(柚子の母はすみれ色と呼んでいた)
5は濃い青、
6は白、
7は白っぽい緑
8は茶色、
9は黒
0は透明だった。
シャネルの5番という香水はきっと濃いブルーの
イメージなんだと勝手に思い込んでいる。
一般に青は自我を表す色でもあるし、
毅然としたシャネルのイメージにぴったりだったから。
柚子は肩こりがひどく、すぐに疲れてしまうので
ここでの調整はとても大事にしていた。
吉野君の治療は丁寧だった。
「目が疲れていますね。」と言って
頭の後ろをほぐしてくれる。
終わると肩こりもやわらぎ、
気分がとてもよくなっているのが嬉しい。
まだ午前中なのに待合室はいっぱいで、
柚子は土曜日にまた来ますと約束をしてすぐ外に出た。
毎日の暮らしでいつもいろいろな感覚が
覚醒していると疲れやすいのは事実だ。
柚子は自分の感覚をときどき自分で
遮断することにしていた。
ちょっと深呼吸して一瞬目を閉じる。
すると、頭の後ろの方でガラガラ〜っと
シャッターが降りてきて色や味や音などの
感覚からちょっとだけ自由になれる。
この方法はカウンセリングを受けたときにヒントを得て
柚子が自分で体得したものだった。
このやり方に慣れてくると、以前よりは少し
暮らしが快適になった気がする。
情報処理がすくなくなれば脳も休まるからだろう。。
花屋の前で自転車を止めると、柚子はすみれの花を
一鉢買った。しなやかな茎の先には
かわいらしいすみれの花がたくさん咲いている。
解説「共感覚には様々な種類があります。よく知られている共感覚は数字に色がついて見えること。」
右脳の色 左脳の旋律

サルトルで眠れない♪〜
頭の左側でずっと、彼女は歌ってる。
今日は一日中、仕事の最中も彼女の歌声が頭の中で流れてる。
右側はオレンジケーキの香りでまどろんでいる。
脳が右と左でそれぞれ独立して遊んでるみたい。。。
どこかでお茶にしなきゃ。柚子は思う。
会社を出たらまっさきに珈琲を飲もう。
それともパブでビール?
ウイスキーをショットで、でもいいな。
左側のサルトルは歌いながら考える。
柚子の頭の中で柚子はカフェで珈琲を飲み、
パブでウイスキーを飲み、
どちらの場所でも絵を描いていた。
左側のサルトルは線画でピアノを演奏し、
眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。
けれども彼の語る言葉は音楽になり、
楽譜となって旋律は軽やかにしなやかな線を描いていく。
まどろんでいる右の脳の描いている
オレンジケーキは建物のように巨大だ。
オレンジケーキのベースはたっぷりのクリームチーズ。
美しく淡い夕焼けの色をしている。
上のスポンジ部分はリキュールが効いていて、
輪切りのオレンジをキャラメリゼして
ちょっと焦がしたのがのっている。
タイムカードを押し、
扉を開けると柚子は思い切り深呼吸をした。
「頭の中を描きださなきゃ。」
彼女はまず近くのカフェに入り
オレンジケーキと珈琲を注文した。
その間もずっとサルトルがピアノを弾き続けていて、
テーブルの上や天井まで線の音楽が満ちあふれていた。
運ばれてきたケーキは
柚子の頭の中のものとは違ったけれど、
オレンジの香りがするスポンジを一口齧ると
サルトルは穏やかな旋律に変わっていく。
旋律の中にブルーの音階が増えていく。
明るいグレーとピンク、濃いブルーとうす紫。
「ああ。。」柚子はうっとりとため息をつく。
それから立ち上がり、店を出た。

駅でチケットを買い、いつものパブまで行く。
まだ4時をまわったところだからすいている。
店は開いたばかりだ。
オレンジの香りとブルーの音楽をそこなわないように、
柚子はアイリッシュウイスキーを注文する。
もちろんストレートで。
チェイサーをつけてもらうと、柚子は目を閉じた。
グラスの中の金色の液体にサルトルが溶けてゆく。
ゆっくりと。。
ゆるやかな曲線は甘美な旋律になり
歌声はいつのまにかピアノに変わっていた。
ウイスキーで痺れた柚子の唇からこぼれだすのは
ドヴュッシーの月の光だ。
柚子の頭の中に一枚の絵ができあがり、
やがてゆっくりと沈んでいった。

解説「共感覚には文字や数字に色を感じるだけではなく、音に色を感じたり、味覚を感じたりする人もいます。」
夢の味 夢の手触り
柚子の朝はいつもきまってきっかり7時に始まる。
今日はいつもより10分早く目が覚めた。
10分もあれば夢のひとつくらい見られそう。。
柚子はいつもそう思っていた。
今朝はこんな夢を見た。
古道具屋の主として彼女は働いている。
買い物に出かけようとして、
店の外へ出ると小さな袖机に足をひっかけてしまう。
柚子は机をわきによける。
道路はほこりっぽくて珈琲牛乳の味がする。
そのとき、机にひもで結びつけられた
紺色のハトを見つけてびっくりした。
ハトの胸のところにはダイヤが3つ
煌めいていてとても綺麗だ。
通りかかったカップルが珍しい紺色の
ハトにみとれているのに気づく。
柚子はハトが自分のものだと彼らに教えるために、
手のひらに乗せようとするが
ハトは弱っていてなかなか手につかまることができない。
柚子は思い出す。
「もう何日も餌をあげてないじゃない..」
と、いうところで目が覚めた。
しかし、目覚めても夢の中に浸っていたので
すぐには頭がまわらない。
それでも習慣から身体は勝手に動き始めてしまう。
彼女はキッチンへ直行し、お湯を湧かす。
身体は朝の支度を始めているが、頭の中はまだ夢の続きだ。
薬缶に水を入れながら、無意識に紺色のハトのことを考えている。
「ハトに水を飲ませてあげなきゃ。。」朦朧とした意識の中、
柚子はグラスに水をつぎ、自分で飲んだ。

水は銀色と濃い青で鉛のように重く感じる。
喉をつたう冷たい水の感触はまるで流れる金属のようだ。
一塊になった金属はあっという間に胃袋へ落ちてゆく。
柚子はこんどはしっかりと目を覚ます。
「冷たい。。」独りつぶやくと、
もう一度グラスに水をついで電子レンジで1分温めた。
温まった水はもう金属ではなくなる。
朝の目覚めはグラス一杯のお湯で。
というのが柚子が守っているやり方だった。
薬缶の水が沸騰し始めている。
これを注げばいいと思うのだが、柚子はそうしない。
あくまでレンジで1分。夏場は40秒だ。
そのやり方を変えようとは思わなかったし、
思いつきもしないのだ。
薬缶で沸かしたお湯は朝の一杯ではない。
あくまでもお茶やコーヒーのためのものなのだった。
紅茶の缶を開けてアールグレイティーをいれる。
香り立つ紅茶を水色のカフェオレのカップに注ぎ、
冷えた両手でそっと持つとたちまち凍えた
手が温まった。
それから彼女はベランダの窓を開けて空を嗅いだ。
くんくん。。。朝の匂いを確かめるのは楽しい。
今朝はかすかに焚き火の匂いがする。
それから落ち葉と、土の匂いと、ガラスの匂い。
柚子は紅茶を飲み干すと近所をもういちど見回した。
はす向かいのマンションの最上階のベランダに光が当たってる。
そのベランダは鉄製で蔦が絡んだような美しいデザインだった。
朝日が当たるとたくさんのビーズが光っているみたいに見える。
今朝の太陽の光の少しばかりオレンジ味の匂い。
太陽の光ががオレンジ味の日は
なんだかいいことがありそうで胸がどきどきする。
そうだ。柚子は思い出した。今日はひとりで過ごす日。
冷蔵庫を開けて、ワインのボトルを取り出す。
柚子は嬉しいときには朝であろうと
真夜中であろうとワインを飲むことに決めている。
とくとくと音をたてて陶器のグラスに薔薇色の液体が注がれる。
柚子は自然に笑みがこぼれてくるのを感じた。
誰もいないって なんて素敵なんだろう。。。
グラスを手に柚子はリビングの床の上でくるりと一回転した。
ピルエット。。
薄いグリーンとターコイズブルーの気持ちが沸いてきて、
胸の奥がずきっと痛む。
その痛みは光の色だ。
柚子は身をよじる。それくらい嬉しいのだ。
それから柚子は夢に出て来た美しい紺色のハトのことを思った。
あのハトは自分の胸の中に、確かにいるのだ。

キッチンの棚からテオブロマの
チョコレートを出してきて、一粒口にほおりこんだ。
とっておきの自分用のおやつだ。
柚子にとってチョコレートは特別な食べ物だった。
普段の生活でも車をみるとチョコレートの味が
口の中に広がるのだ。
特に紺色の車は大好きなオレンジピール入りのチョコを
感じるので美味しいと感じる。
でも今朝はそうじゃなかった。
今は青い色を感じたかった。
チョコレートが口の中で溶けていくとき、
気持ちが青で満たされる。
閉じたまぶたの裏にも青を感じる。
青は濃い青に変化し、やがて黒っぽい
墨色になって口の中で消えていく。

解説「柚子のように音や色と味覚が繋がって感じられる人もいます。夢も大変にリアルで夢の中でも感覚がはっきりしています。」
ハンガリー狂詩曲
共感覚バージョン
フジコヘミングのピアノが好きだ。
日本人はみんなそうだろうと思う。
だって、わかりやすいのだもの。
情感がたっぷり伝わってくる弾き方は
ピアノをよく知らない人もきっと好きになると思う。
もっと精緻な弾き方がいいと言う人もいると思うが、
フジコの音にあるような‘揺れる色’
を感じられる弾き手は少ない。

柚子はお風呂に入りながらハンガリー狂詩曲を口ずさむ。
「六角形だ。六角形だ。六角形だ。六角形だ。。♫」
フジコの弾くピアノは、歌っている。
この曲の一部分が柚子の耳にはそう聴こえているのだ。
誰も聞いていないとき、柚子はこうして
メロディとリズムに合わせて口ずさんでみる。
情景も動画で浮かんでくる。
前半はお墓と鉄格子だ。
まわりにすみれが咲いている。
足の悪い子犬が懸命に走っているところが浮かぶ。
この曲はその後半が面白い。
噴水の周りで六角形の輪を棒で回して
遊んでいる子供たちと子犬が出てくる。
途中で子犬が走ってくるけど、
うまくブレーキが効かずに滑ってころんだりする。
子供たちと子犬は楽しく遊びながら石畳の道を走っていく。
最後の方ではハリーポッターに出てきそうな
どっしりとした重厚で大きな螺旋階段を上がるのだけど
ここの場面は圧巻だ。
螺旋階段のまわりは本棚がそびえ立ち、
その上には空が広がっている。
子供たちが階段を上がるたびに階段の色が
深い色から明るい色までどんどん変わっていく。
そして視点だけが360度回転しながら上昇していき、
全体を大空から俯瞰するところで終わる。
とても楽しい。
フジコが弾くリストの「ため息」は
オーロラのように変化する色が美しい。
オーロラのドレスのすそがひらひらして
ブルーからグリーン、オレンジ、ピンク、紫...というように
変わっていくのを見ていると、
ほんとにため息がでるわ。。柚子は思う。
フジコが有名になってよく耳にするようになった
「カンパネラ」。
これは鐘の音というよりも星の輝きだ。
硬質の素材でできた宝石のような音。
これもブルーを基調とした音にさまざまな色が響き合う。
細かなガラスのドロップが煌めいてほんとに美しい。
口の中がいろいろなドロップの味でいっぱいになってしまうけど。
クライマックスは赤とブルーの激しい激突。情熱の鐘の音だ。
フジコが人生をどう生きてきたのかがわかるようなピアノだと思う。
お風呂の中で鼻歌を歌いながら柚子は考える。
とても楽しい感覚ではあるけれど
共感覚を持っていることで困ることもあるのだ。
今日は通りすがりの女の人に触れてしまった。
実際には触ってなんかいないのだけれど。。
普通のおばさんだった。
普通のおばさんはきれいな身体をしていた。
もちろん服は着ている。
彼女が着ていたコットンのシャツは
ざらっとした手触りで洗いたてだった。
履いているジーンズは薄く、
ぴったりと太ももに吸い付いている。
おばさんは和食器のお店先でお茶碗を選んでいるところだ。
まだやわらかく意外なほどになめらかな肌は
かすかに湿っぽく、胸の谷間はしっとりしていた。
お腹はたるんでいるけれどおしりはまるで娘のようだ。
頬にはかすかに赤みがさして冷たい。
化粧気のない唇はさらっとしているが少し潤いがなく
わずかに口臭がする。
やがて彼女が男性と愛しあっている様が見えてくる。
おばさんは情熱的だった。
おばさんの身体が押し開かれる感覚を柚子は感じていた。
時間にすると2、3秒だったと思う。
柚子は慌ててその女の人を目視するのをやめた。
うっかりしていた。
目視するだけで触っているのと同じ感覚があるというのは
当たり前のことなのだろうか?
柚子は疑問に思う。意識して見ているわけではないからだ。
それに誰でもってわけではない。
ときどきこのようなことがあるので、そのときばかりは
困ったな。。やだな。と思う。
けれども、こういう感覚も
人としては大切なんじゃないかと思うこともある。
動物的な感覚。
触っていいものとよくないもの。
自分の好きなものときらいなもの。
自分を守るための感覚のひとつではないかとも思う。。。
柚子はバスタブの中でそっと目を閉じた。
解説「共感覚の場合、例えば柚子のように音楽から感じられる場面や色というのは感情に左右されることなくいつでも同じだと言われています。」
解説「また、面白い感覚ばかりではなく煩わしいこともあります。嫌いな味が感じられたり(実際に自分の口の中で味を感じている)目で触ってしまったりしてそのリアルな感覚に驚くこともあります。」
共感覚クッキング
音と香りは黄昏の大気に漂う....
大好きなドビュッシーの前奏曲のひとつだ。
原題は、
"Les sons et les parfums tournent
dans l'air du soir"
ボードレールの詩からとられたものだそうだ。
ドビュッシーに詳しい人やボードレールの詩を
愛する人たちには申し訳ないけれど、
柚子はこのタイトルにぴったりなのは、
むしろ「沈める寺」の方だと考えている。
もちろん、もちろんこの曲もたそがれてはいるけどね...
沈める寺の方が好みの味なのだ。
それにしても。
黄昏の大気の香りとはなんと優雅な表現だろう。
そしてまたなんとぴったりな音色だろう。
黄昏の大気の香りは
柚子が最も好きな香りのひとつだった。
淡いモーヴ、灰色とばら色をちょっとプラスしたような
色と梅や桃の香り。
柚子の毎日はいつの季節も
このかすかな花たちの香りが夕暮れを彩っている。
だいたいドビュッシーという人の作る曲の色は
どれもこれも想い出の中の色なのだ。
たそがれるのにはぴったりの曲が揃っている。
香りもある。
そう、梅酒やワインのような色や香りや味....酸味。
柚子は思う。酸味ってピンクなのかもしれない。
私にとっては。
だからばら色の夕焼けをみると酸味を感じるのだろう。
柚子はそっと瞼を閉じて黄昏の世界に浸った。
これがモーツァルトなら全然違う。
アイネクライネナハトムジーク...呪文のように唱える。
モーツァルトの曲は
柚子にとっては野菜たっぷりのサラダだった。
もちろん野菜は千切りに決まってる。
サラダを和えてあるのはまろやかな
マヨネーズドレッシング。
モーツァルトの場合、これは絶対だった。
なのでモーツァルトを聴くと、
柚子はサラダを作りたくなる。
交響曲41番ジュピターの場合。
基本は変わらないが、第二楽章は
サラダならキャベツが入っている。
サラダではない場合はコンソメジュリエンヌ。
千切りの野菜が入ったコンソメだ。
夏ならば野菜を軽く茹で、コンソメとゼラチンで
野菜をサンドにして固めたものも美味しい。
見た目にも美しいし、冷んやりと口の中で
ほどけていくコンソメのジュレと
夏野菜の歯ごたえが素晴らしい。
でもどちらかと言えばこの料理は
第四楽章の方が向いている。
グリンピースが入るからだ。
いずれにしろサラダにするなら
野菜たちを丁寧に
同じ細さの千切りにするのがポイントだ。
できれば春雨も加えたい。
オーケストラが演奏している場合は
弦楽器の音は春雨とマヨネーズ
ドレッシングだからだ。
適度な分量を加え、全体のバランスを考える。
モーツァルトの場合はこのバランスが難しい。
彼の音楽を演奏するのと同じに。たぶん。
柚子はベランダからほのかに香る
夕日を眺めながら(味わいながら?)
さきほど聴いた
ドビュッシーの音そっくりの飲み物を飲んだ。

テレビドラマを見ながら柚子は思う。
どうしてもルヴァン・バゲットが食べたくなるもの。
これを見たら。。と。
彼女が気に入っていた海外ドラマだ。
「女警部ジュリー・レスコー」がそれ。
だいたい「レスコー」という名前だけでも充分
フランスパンなのに。
ジュリーはフランスでは
18年間続いた人気のシリーズの主人公だ。
彼女の声を聞くと、いてもたってもいられないくらい
バゲットがほしくなってしまう。
どうやら柚子の共感覚は声に味を感じているようだ。
文字や発音される音と味覚が結びついている。
この間はジョン・ダニングの本を読んでい
て無性にチョコレートがほしくなった。
それもホワイトチョコレートが。
何故だろう?と思って注意して読むと、
登場人物の名前が原因だった。
ダリル・グレイスン。
ダリルはホワイトチョコレートを
細かく削ったものだ。間違いなく。
グレイスンのほうはホワイトチョコに
桜の灰とオレンジのリキュールが少し入っている。
ラズベリーもちょっぴり。
だからダリル・グレイスンというチョコレートは
桜の灰とリキュールを入れて作った
ホワイトチョコレートの上に
細かく削ったホワイトチョコレートが
盛ってあるということになる。
仕上げにレモンとオレンジの皮を
ちょっとあしらって出来上がりだ。
柚子の共感覚に味覚は
大きな位置を占めていると言っていい。
TVを見ていて著名な俳優たちに
興味を覚えることはよくあることだろう。
演じている映画やドラマの内容そのものも
もちろんだけれど彼らのゴシップとか。。。
だが柚子の興味は全く違う観点からだった。
ある女優の香りが気になって気になって
仕方がないときがあった。
ドラマが好きで見ていたつもりだが
本当は彼女の香りが素敵で見ていたのだ。
TVだから香りはしないはずだけれど、
柚子はその女優の濃厚な香りが気になっていた。
素晴らしくよい匂いなのだ。
完璧なバランスとは言えないけれど
もしあるなら手に入れたいと思う。
どんな香りがするのかというと。。。
冬の木の枝と苔、チョコレート、
フロストシュガー、バニラ、
アンバー、ジャスミン、ホワイトローズ、
パチュリ、ムスク、ベルガモット、
シナモン、レモン。。を、
調合した香り。
ただし、シナモンと柑橘類の香りは控えめに。
するとぐっと都会的になる、はず。
この女優の場合はその配合が多すぎると思うから。
(バランスをとるのが難しい人なのかも。。)
残念ながら柚子は香水の専門家ではないので、
感じている香りが実際の香水として作れるもの
なのかどうかはわからない。
それでもこれらの香料を使って香水を作りたいと思う。
文章だけの香水屋なんていうのも悪くないかもしれない。
文字だけでできた香水。感じる香水。
読むたびに香る。。。いいなあ。
でもやっぱり香りは香りとして存在しないと
つけてるかどうかわかんないよね
柚子はキッチンの床を丁寧に磨きながら思った。

次の日、柚子はひとりでコンサートに出かけた。
音楽会の気分ではなかったけれど、
なにもしないでいるのもつまらなかった。
小麦粉の焦げる匂いと焦がしバター、
ちょっと蜂蜜の重さが気になる。
タマネギが焦げていて、その焦げた匂いが強い_。
それが彼の奏でるバイオリンだった。
バランスがよくない。
その日、柚子はあまり体調がよくなかったのかもしれない。
けれども彼の奏でるバイオリンはあまり美味しく感じなかった。
本来ならもっと美味しい組み合わせなはずなのになぁ。。
こういう日もある。
そう、あきらめてコンサートのホールを出たのだった。
別の日に行った、いとこの舞ちゃんの
ピアノの方が素敵。柚子は考える。
彼女の弾いたサティはぞくっとするほど素敵だった。
紫色の音楽。
なんというか、音符と音符、休符のあいだも
ピアノがささやきかけてきてよい意味での緊張感があり、
ジムノペティですら初めて聞いたような気持ちがした。
舞ちゃんのピアノはベルベットとアメジストの手触りだ。
柔らかな硬質。アメジストの輝き。
そうだ、こんど舞ちゃんに紫色のコロンをプレゼントしよう。。
柚子はそう決めると駅に向かうまっすぐの道を足早に歩き出した。
解説「料理のことを考えようとするのではなく、音楽から自然にレシピが出来上がってくるので便利です。でもその通りに作って美味しいかどうかは人によると思います。」

ファンタジアン
JRのお茶の水駅を降りて明治大学のある通り沿いに歩きながら
柚子は頭の中に鐘の音が鳴り響くのを聴いていた。
朝の光とまだ新しい空気の匂い。。。
なにか予感めいたものを感じ、柚子はわずかに身震いした。
素晴らしいことがあるときはいつもそうなのだ。
ビスケットの建物(保険会社らしい)を
横目で見ながら坂道を下って行く。
この街にくる時は決まってこちら側の道を歩いていく。
これは柚子にとって大事な決まり事だ。
交差点まで降りて古本屋の方へ横断歩道を渡る。
柚子が目指すギャラリーはそこからごく近かった。
年に1度、柚子はそこで個展を開いていた。
今年は「ファンタジアン」というタイトルで、
柚子は様々な作品を描いた。
いろいろな人物の外側と内側を描くというもので
中々評判もよかった。
特に、人々の興味を引いたのは柚子の描く人物の
外側と内側のギャップの描き方だった。
内側は柚子がみている人物を描いたので
大変ユニークな仕上がりになっている。
ある人の内側はイチジク。
ばら色のイチジクの果肉、種がたくさんつまってる。
またある人は心臓がチーズだった。
ひんやりとしたチーズの冷たさを感じるからで
それは現実ではなくても柚子にとっては
それがその人の特徴だったから。
最近では柚子のそうした感覚で描かれた絵を
イラストに使ってもらうことも増えてきて
ようやく柚子は自分の居場所を見つけたと考えていた。
今日は会期の半ばで、料理研究家の友人をゲストに招き
ティータイムのトークショーをやることになっている。
友人は彼女の絵からインスピレーションを得た
お菓子を作ってきてくれていた。
ストロベリー・ルバーブパイ。
参加してくれた人に一切れずつ振る舞う。
甘酸っぱい果物の香りと味が
その場にいた人たちの心を和ませている。
柚子は空っぽになったパイのお皿を
ぼんやりとみつめながら思う。
人生とはなんとささやかなものなのだろう。
このささやかな人生を
自分の中にあるファンタジックな共感覚と一緒に
生きていくのだ、と思った。
自分の持っているものを素直に使いながら。
たぶんそれは正しいことなのだろう。
柚子はにっこりとしてパイの最後の一口を飲み込んだ。
頭の中に苺畑を飛び回るうさぎたちが一瞬見えた。
解説「共感覚を絵や音楽などに生かす人もいます。それもひとつのやり方です。でも、共感覚のあるなしに関わらず日々丁寧に生きて、幸せを感じることができるのが一番なのではないかなと思います。」
解説「ちなみに共感覚は誰にでもある感覚です。程度が強いか弱いかだと私は捉えています。」
読んでくださってありがとうございます。
共感覚の面白さが少しでも伝わったらいいなと思っています。
ポチッとしてくださったらとても嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。