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15/10/12

②『50歳のバツ2ママが、突撃アメリカで大富豪に直談判しビジネスチャンスを掴んでしまい・・そこからが本物試練の始まりだった件。』序章その2(シングルから再婚へ)

Image by Olia Gozha

(前回までのあらすじ)中1初回授業で英語の発音を酷評されて以降、勉強はもはや、自分の人生とは無縁と判断し決別(笑)。ファッションデザイナーを経て結婚した相手は、徐々に暴力がエスカレート。調停委員に「逃げなさい。命あってこその人生よ」と指示され、仕事を捨てて逃亡。





逃亡


すでに離婚は成立しているものの、親権と養育費を争う調停が不発に終わった。



保育園から長女が連れ去られ、連絡もつかず、

元夫の家の前で張り込みをしたこともある。


その日は、生後半年の次女が40度の熱を出しており、

自宅に一人で寝かせておいた。



「もしも次女が痙攣なんか起こしていたら、どうしよう?」



恐怖心と怒りが充満した。

その怒りとは、「結婚前になぜ見抜けなかったのか」という

自分への怒りだ。



働き始めたばかりの仕事先では、

専門教育を受けていない、ど素人の上司デザイナーがいた。

部長の女だった。

その素人上司の顔色を伺い、彼女の顔を潰さないよう、

プロとして、なおかつ、部下として、プロジェクトを進める必要がある。


夜は背中に次女をおぶり、ヘトヘトの2歳の長女を無理やり歩かせ

買い物に行き、夕食を作った。


ヘトヘトなのは、自分自身の、身も心も、同様だった。

ただ、あまりにも子どもたちが小さくて、幼くて、

泣き出したり弱音を吐く余裕すら、なかった。


新たに借りた部屋の前で「みなさん!ここに住む女はペテン師だ」と

大声で長女の名前を叫び、わめく元夫の狂気に、命の危険を感じた。


離婚に猛反対している田舎の実家に頭を下げ、

なんとか子どもの命を守るために、

今いる京都から、実家の近くに逃げることを許してもらった。


地元に戻ることを猛反対していた両親の提示する最低条件は、

「離婚したとは、絶対に言うな」だった。

夫は、海外に赴任した、という嘘を通すように。


実家には戻るな。

自力で生活すること。

それが条件だった。






なんとかなると同時に不安が


取引先の社長が心配して、

オーダースーツの販売を教えてくれた。


夜や休日にお客様のご自宅に伺い、採寸し、販売した。

一度目は、利益のほとんど出ない、安価なものを試していただく。

その際、必ず、奥様のご意見を尊重すること、奥様の不満を考慮する、

という点を留意した。



1年間の保証期間をもうけ、いつでも修理可能にしていたので、

納品の際には、奥様にも同席していただき、

細部に至るまで、ご一緒にチェックしていただいた。


すると、採寸時には不安げだった奥様の表情が変わる。


そして、

息子さんのリクルートスーツやら、ご両親の礼服、

ご主人の外出用ジャケット、替えのフラノパンツなどなど、

奥様が、次々とオーダーをくださった。


やがて、既存客と、そのご紹介の予約だけで、

毎月200万円の売りが立ち、利益は100万円を超えるようになった。


オーダーは、うまくやれば仕入れコストがゼロだ。

しかも、前払い。

キャッシュフローは断然いい。


こうやって、子どもを保育園に送ってから

午前中はスポーツジムに、毎日。

午後は業務フロー、採寸や納品で、

食べていくことが出来るようになった。


また、毎月の企画コンサルの仕事ももらえ、

定額の収入が入ってくるようになった。



生活が安定してくると、逆に、

猛烈な不安が襲ってきた。



「このまま一生、この仕事をやっていけるわけはない。いつか、限界がくるはず。自分には、いったい何が出来るんだろう???」

結局、この問いは、その後20年間自分に問い続けることとなる。



子どもたちの絵本を借りにいく図書館で、

心理学や哲学、仏教などの本を大量に借りてくるようになった。

生きる意味を見出したかった。


参考文献にある本を数珠繋ぎに、無我夢中で読み進めるうちに、


突如、


勉強しなおそう!


という欲求が沸き起こってきた。


実は卒業時に短大から、残りなさいとお声をかけていただいたが、

その時は専科(大学院みたいなもの)に進む許可が

親からはおりなかったので諦めたのだ。


あらためて母校の教授に相談すると、

「なんでもいいから、修士をとりなさい。

 そうすれば、講師として雇える」

との返事だったのだ。


なんでもいいのなら、どうせだから興味ある人間学周辺をやろうと思いたった。

学費の免除制度のある国立大学のうち、

編入制度のあった、神戸大学と、大阪大学に絞った。


いざ、試験勉強を始めてみると、


This is 

の、

複数形が、わからなかった。


自分の情けなさに、泣けてきた。


それでも受験を諦めなかったのは、

自分のどこからか声がしたからだ。

「やってみなきゃ、わからんし」


結局、半年間、

子どもが寝静まってから、朝4時までは勉強すると決め、

実行した。


これまで、どんな通信教育も続いたことがなかったのに、

中学1年生の英語参考書からやり直し、なんとかギリギリ、

高卒レベルまでの英語はやり通した。


人間、集中すると効率が良い。


現役学生に混じっての編入試験は、

阪大は完敗だったが(圧迫面接があるという情報すらなかった)、

神戸大は、1名枠に入ることができた。



オーダースーツの仕事は辞め、

企画コンサルの仕事だけを継続し、

六甲山麓の、6万円家賃の鶴甲団地に転居。


仕事のある日は、編入学生仲間で保育士資格を持つ

女子学生にベビーシッターに来てもらい、

学業と三足の草鞋を続けた。






打ち上げ花火


保育園のママ友たちと、近所の公園から神戸港の花火をみた。


近所の学生がふざけて上げた打ち上げ花火の音を、

あれは何かと尋ねた子どもたちに、

パパさんが答えた、

「あれは、流れ星の音だよ。流れ星に、お願い事をすると叶うんだよ」

と。


ある日、

お風呂から石鹸か何かを探して、部屋に戻った私に、

二人で声をそろえる娘たちの声が聞こえてきた。


「ながれ星さま、おねがいです。あたしたちに、お父さんをください。ママのいうことをよくきいて、いい子にします。ママのお手伝いをたくさんして、ママをたすけます。だから、お父さんをください。」


お風呂場に戻って、わんわん泣いた。


収入さえあれば、一人で育てていけると思っていた。

でも、ママ友の旦那さんが、子どもを肩車するのを、

ずっと、目で追いかけていた、長女。


一人で育てていけるというのは、

私の思い上がりだったのかもしれない。



そして、その直後に出会った、同じ境遇の社会人学生である

二人目の夫と、

出会いからわずか2ヶ月で、スピード入籍することになる。


子連れ35歳。女の人生なんて、もう終わったと思い込んでいた。

相手に対する、たったひとつの条件は、

「子どもを虐待しそうに思えない」ことだった。


他のことは、どんなことでも耐えられる、、、

そんな気がしていたのだ。



この、慎ましいお誕生日お祝いの直後に、

再婚を決めた。

4歳と6歳。

この幼い姉妹は、二人だけで買い物にも行っていたのだ。





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