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15/10/2

気にしすぎる性格のせいで過呼吸になり、人混みが怖くなった私がいくつかのことを意識的にやっていたことで楽観的な性格になれた話。

Image by Olia Gozha

私の家族は色々あった。

普通に生活していたら全く経験しなくて良いことばかりのことを小学生の時から経験してた。

そのおかげか、思春期に楽しかった思い出はすべてそれらの出来事で塗りつぶされ、楽しいことなんてひとつもなかった。

今でも思い出すのは辛かったことばっか。



小学生のころ。あることがきっかけで、気にしすぎる性格の私はますます周りの目を、相手の目の奥に感じる何かを察し、行動するを覚えるようになった。


とりあえず子どもらしく笑っておけば大人は喜ぶ。

今、ここでこんなことをやったらみんなはこんな反応をしてこう言うだろう。


そんなのことばかり考えてた。

周りの目を気にしすぎるせいで自分の意見を全く言わない子になってしまった。

とりあえず、大人の顔色を常に伺ってた。

そんな事ばかりやっててもまだ子ども。本当によく泣く子どもだった。

悲しくて泣くのも悔しくて泣くのも、ムカついて泣くのもよくあった。


ほんとに泣き虫だった。うざがられるくらい。

そんな性格のまま、中学、高校と進んでいった。

いじめもうけた。いじめられたきっかけもわかんないまま、無視が始まり、昨日まで仲良かったグループみんなが私を無視するようになった。

本当に辛かった。家も辛かったし、学校も辛くて居場所がどこにもなかった。

苦しかった。でも、そこでまた私は覚えた。

私は常にニコニコしてハキハキ話してフレンドリーに接していた。

でも、心は全く開いてない。

頑丈に鍵を何十にもして誰も受け入れなかった。

むしろ、失礼なことに鍵のついた心のなかで相手を蔑んだりもしてた。

そうしないと今まで生きていけなかったから。

そうしないと苦しくなって発狂したくなっちゃってたから。


そんな性格なまま、専門のとき母が大きな手術をした。

9時間に及ぶ大手術。オペ室に入る前、母はピースして入っていった。

そんな母が次を目にしたとき。

そこには沢山の管につながれてむくんでパンパンになって横たわってる母がいた。

私はそんな母を見てワンワン泣いた。

そんな時、ある人に言われた。

「お前は昔から泣きすぎだ。もう大人なんだし泣くのは一切やめなさい。」


だから泣くのをやめた。というか、やめなくてはいけなくなった。






私の通ってる専門から母の病院が近くて毎日学校が終わると母の所に行き、夜に自宅へ帰っていた。

母は手術の後遺症で目が悪くなり、足も不自由になった。

目が合わなくなって、今までの母の顔を忘れるくらい正直ショックだった。


どうしてかは忘れたけどある日母は担当医に何かの書類の署名を書いてくださいと言われていた。


一通り母が書き終わった後、「ごめんなさい、ちょっと見えにくくて。書けてますか?」


そこには署名の枠内に名前の一角目だけ。二画目からは名前かもわからない”文字”だった。

「…書けてますよ。大丈夫です。」

一瞬間があって担当医は返事をした。

私が小学生の頃、一緒に書道教室に通っていた母。そんな母の書く字が好きだった。

でも、今目の前にいる母は、

名前も書けなくなってしまった。



私は毎日何しに行っているんだろう。母の何にも役に立っていない。

自分の無力さが本当に情けなかった。





その日たまたま姉が実家の駅まで車で迎えに来てくれていた。

「お帰り。お疲れ様!」


笑顔で言ってくれた姉を見た瞬間緊張の糸がほぐれたように涙があふれた。


「何も疲れるようなことしてない!お母さんが文字も書けなくなっちゃってるのに。

私には何もできない!」


姉は困っていたと思う、でも優しく横にいてくれた。

「私の前ならいつでも泣いていいから。我慢するのはやめようね」

本当に姉には迷惑ばかりかけてしまった。


でも、それからは母の気持ちを前向きにできるように今まで以上ににこにこして話しかけていた。

一緒に屋上に行って歩く練習して。「今日は3歩歩けた!」

「今日は10歩も歩けるようになった!」

日に日に母は歩けるようになったけど、目は8年経った今でも治っていない。









無事母も退院して母も家にいられるようになった。

退院してから母のリクエスト食べに行った醤油ラーメンの味は一生忘れない。






それから私は社会人になった。

相変わらず家の中はいろいろあった。

家の雰囲気は本当に重かった。帰ってきて玄関を開けた途端、「これが空気が重いっていうのか」と言うくらい空気がどんよりしている日々だった。

そんな私はストレス発散は夜のドライブだった、姉と一緒に行って語り明かす日のあれば、一人で出かけて好きな音楽を流してドライブもしていた。


でも、あの日から家では約束通り泣かなくなった。泣けなくなった。

しかし、あるときふとした時に泣きたくなる衝動にかられた。

「泣いちゃダメ、泣いちゃダメ」そう思ってたらどんどん息が苦しくなって、息の仕方が分からなくって苦しくて苦しくて。

それが過呼吸だった。

ひどいときは我慢してないときも泣くと過呼吸になるようになった。

そしてちょうどこのころ、電車で前に立たれるのが苦しくなった。怖くなった。

満員電車が怖くなって途中から登下校は特急に乗っていた。

それでも特急を待つ駅のホームで並んでるのもつらかった。

街中の人混みが怖くて、肩がぶつかっただけで「私はこの世界の邪魔者なんだ。いない方がいいんだ」って考えるようになった。人が嫌いだった。


それくらい気持ちが追い込まれてた。

 相変わらず気持ちはマイナス思考。相手の顔色は常に伺う性格は変わってなかった。

「お前はもっと自分の言いたいことをいえ。言わないから泣くんだ」

そういわれた。

でも、私があの時。小学生の時。自分の言いたいことを言っていたら。

もっと家族の負担は増えただろう。言ったところで私の欲求は通らなかったと思う。

だから先に察して言うのをやめた。我慢を覚えた。気持ちを押し殺すのを覚えた。


私なりの家族へ気を使ってきた今までの10数年間を全否定された気がした。

だから。ムカついて言いたいことを言った。

 大声でわめくように言った。



今までの私の気持ちを返せ。

辛くて何一つ楽しくなかった思春期を返せ。

友達の誘いを断って、家族を優先してきた日々を返せ!

私の青春すべてを返せ!




もちろん。一人車の中で。

 今の家族にこんなこと言ったら、みんなで模索して築き上げてきた”家族”が台無しになる。

でも、車の中でだけど叫んだら本当にすっきりした。


でも、何かこの叫んだことをきっかけに気持ちが楽になった。

言いたいこと言っていいんだ。顔色気にしなくていいんだ。

自分に正直でいいんだ。

言いたいこと言ってやる。周りの雰囲気なんて関係ない、私はこれから私のために生きる。


そしてここからマイナスな自分の性格の改造計画が始まった。


まず、周りの目を気にするのをやめた。いわゆる八方美人。

前の私だったら周りの人すべてに気に入られたい、良く思われたいと思って自分の意見をあまり言わずに、とりあえず笑顔で意見を合わしていた。

「やっぱあなたは自分の意見というものがない」

そういわれても「すみません」って言ってごまかしてた。

だからそれをやめた。納得できないこと、気になることは進んで聞いた。

上司でも「私はこう思ったのでこうしました」と意見をはっきりというようにした。

「ああ言えばこう言うんだから」と言われた。その時は気になるけど「まぁ、どっちにしても言われるなら言いたいことを言って言われよう」そう思った。

最初の頃はすごく緊張したし、言った後の相手の目も態度も気になった。

「気にしない気にしない」その言葉を何度も心で言っていた。


家族の中でも感情を顔に出すようにした。

一度心の我慢の限界で、目を閉じて心を鎮めようと感情を押し殺していたら知らないうちに目の前にあるハサミを持っていたことがあって、このままだと自分がやばいって思ったのも性格を変えようと思ったことの一つだった。

だから、家族の中の空気なんて気にしない。空気が重くなろうが、気まずくなろうがむかついたときは顔色を出した。

やっぱりこの時も気になっちゃうけど「気にしない、気にしない」

家族だからか、いくらそんな感情を表に出しても翌日気にしてるのは一人もいなかった。その時、

「自分のこと表に出してもいいんだ」って心から思ったのを覚えてる。



そして

一番意識的にやっていたこと。

ある時、テレビで高田純次が「もとは結構気にする性格だったんだけど、適当なことを言っていたらいつの間にか本当に適当な人になっちゃった」と言っていた。

だから私もやってみた。あんなにポジティブにはなれないから、とりあえず悩むのをやめた。

今までだったら悩み始めると解決するときまで永遠に悩む、気にする。だから日に日に悩み事が増え、一人でパンクしてた。

だから、考えるのをやめた。悩み始めて、(これは考えててもきりがないな)って自分で感じ始めたとき、

「まぁ、いっか」

と口にする。つらいこと、失敗したことがあっても

「まぁ、いっか」

と口にする。わざと。本当は全然そんな風に思ってない「やばいやばい・・・」って思ってる。

でも、「まぁ、いっか」と口にしてるといつの間にか本当に答えの出ないことを考え悩んでる自分がばからしくなってくる。

本当はどうでもよくないこともたくさんある。この言葉はその場から逃げるために使っていたわけではなく、自分の心を整理するため。

「まぁ、いっか」と言うことでそのことを悩んでいる自分に一旦「おしまい」を告げる。

そして改めてどうすればいいか、解決策を見つけるなり、心を切り替えるなり。

もちろん「まぁ、いっか」と言っても収まらないときはある。そのときはじゃぁ、これからどうするか。を考えるために言っていた。

私の中の「まぁ、いっか」は心を整えるために使っていた。

本当にしょっちゅう使ってた。

そしたら1年くらいしたら考えごとをしてても「まぁ、いっか」「まぁ、いいけど」って無意識に心の中で言えるようになって考えやすくなった。


この3つを意識的にやっていくうちに自分でも変わったなって思うくらい変わった。

まず、自分の意見をはっきり言えるようになった。もちろんTPOはわきまえる。

でも、納得できないこと、聞きたいことは進んで周りの目を気にせず言えるようになった。

その分、私のこと嫌いなんだろなーって人も増えた。

でも、気にしない。これも無意識にできるようになって気持ちが楽になった。



そしてそうやって意識して続けていくうちに本当に気にしすぎる自分が心からいなくなった。

今では口癖が「まぁ、いいけど」になってしまったくらい。

心も前に比べればポジティブになったと思う。

そして何より前より人が好きになった。

これが自分の中で一番うれしかった。

感情を表に出すこと。つまり、泣くのもこらえるのはやめた。泣きたいときに泣く。




















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