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13/4/7

「就職しない」と決めるまで

Image by Olia Gozha

はじめに

「聞きたい」と付けてくれた人が多かったので書いてみます。これを付けてくれた人はこれから社会に出るような若い人達なのだろうか。そういう人の参考になれば幸いです。

それまでの歩み

それまでの僕は比較的順調な人生を歩んでいたと思います。別に裕福ではない両親の元に生まれましたが、両親や姉との関係はとても良好でしたし、少し夜遊びが過ぎて日曜にも寝てばかりの父親以外には特に不満はありませんでした。

小学生に上がってからは母の両親とも一緒に住む事になったので、祖父母と一緒に所謂三世代家族という形で暮らしてきました。祖父は僕の初期の人格形成にかなり影響を与えたと思います。どちらかと言うと、固い、古風な考え方をする少年時代だったはず。その後、多くの人の出会いでドンドン柔らかい方向へ倒れていくのですが、自分の深いところを掘り起こしてゆくと、この気質は今も残っていると思っています。

幼稚園

「博士になりたい」と言っていた様子で、文集にもそう書いていました。あの頃の僕は博士が何かは良く理解してはいなかったと思いますけれども。

高校〜大学

進路相談というのが当然あるのですが、当時の僕にはあまりピンときませんでした。何か素晴らしいものを作る人にはなりたいとは思っていたのですが、それが芸術なのか、機械なのか、ハッキリしていなかったです。既にプログラミングには出会っていましたが、プログラマーは頭にありませんでした。無理矢理考えてなにか機械(とは言っても自然エネルギーで動くようなもの)を実用化するところに行きたいと結論しました。

「両親に楽させてやりたい」

とは言った記憶があります。逆にその程度の目標でした。

大学

機械工学専攻だったのですが、製図の授業がとても大変だった事を覚えています。ドラフターやT字定規で線を引いて、理論にあわせて計算して、書いては書き直し。

要領は良い方なので単位はとっとと取ってしまって、3年生には週3日学校に行けばいい生活をしていました。時間だけはタップリあったのですね。大学でモノを作る同好会に入っていたのですが、2年で辞めていて、プログラミングに時間を費やしていたのはこの頃です。

ある日、最寄り駅から学校へ行く道すがら考えていました。確か製図の提出があって、寝不足で仕上げたものを担いで歩いていた時です。

「もしもこのまま就職したら、毎日設計して製図書くのかなー。なんかやだなー。」

「多分就職するだけならなんとかなるんだろーなー(元々楽天的なのと、学校の繋がりがあるらしいと聞いていたりしたので)。」

「その後ってその会社の仕事をハイハイってやるんだろうーなー。それなりなんだろうなー。」

昔から僕は変わり者だったとは思いますが、やるべきと決まっている事に関しては結構素直に従ってきたので、その後もきっとできてしまうだろうという想像が立ってしまったのでした。

「今まで結構順調に来たように思うけど、このままこのレールでいくのかなー。なんかつまらないなー。」

「じゃぁ、違う分野の会社とか入るのかなー。」

「会社って(入った事無いけど)、基本的には上司の言う事に従うんだろうし、自分のやりたい事やりたかったら、上司を口説いて、上司の上司を口説いて…ってやる世界なんだろうな。やりたいことはすぐにやりたいのに。」

「会社って人から搾取する存在だよな。なんかやだな。」

※今はそう思っていないけど、当時の僕はそう思っていました。

「?!そもそも俺って会社に入りたいんだっけ?なんで会社に入るんだったっけ?」

「生きていく為だったら、会社に入らなくても生きてゆく方法探してからでも良いんじゃない?なんかよくわからないけど。」

ここまではっきりした結論に至までは4年になるまでの時間がかかるのですが、こんな事を考えていました。

どうしてすぐに学校を辞めたりしなかったのか、多分相当怖かったのでしょうね。自分が想像できる(し、他人も通ってゆく)レールの上から飛び降りる初めての経験で、恐らく飛び降りたら戻っては来れないのだろうという後戻りできない感覚だけは感じ取っていたので。

大学院

ちょっとイロイロあって大学院に入る事になるのですが、そこではもう吹っ切れていたので「卒業しても就職しません」と、最初から先生には伝えていました。

大学院の間にやる事は二つ。一つ目はキッチリ勉強はする事。二つ目は卒業した後の為の準備をすること。

一つ目は就職活動しないということがある事もあって、そこそこできていたと思います。二つ目は結局こんな感じになりました。

院の同期からは「起業すんのか!社長!」とか言われたけど、肩書きはいらないし、実力も無いと思っていたから全然違う形で歩んできて、最終的に今その肩書きを持ちました

10年以上経って今

僕は自分のやった事には納得しているし、多分会社員になった自分よりも充実した人生を歩んでいると思っているのですが、卒業後、両親の置かれる立場にはちょっと気に病む事がありました。

所謂ニートの息子がいる親だと思われたんだろうと思っています。当時ニートという言葉は一般的では無かったと思うのですが、まー親不孝な息子だと思われたのだろうと。実際そういうことを言われたこともありましたし。

うちの両親は放任主義を貫いているので、僕が決断したのであればどんな方向でも受け入れてくれました。腹の中でどう思っていたのかは知りませんが。当時反対されなくて本当に良かったと思っています。

最近ちょっと会話する機会があって

「今なら少しぐらい息子自慢してもいいよ?w」

と言ってみたら

「お前はずっと自慢の息子だよ」

と言ってもらえてなんかすげー嬉しかった。

高校の時に言っていた「両親に楽させてやりたい」が実現できるかどうかは次の10年くらいにかかっているかなと思っていますが、忙しさに負けず、もう少し家に帰ってやろうとも思っています。

おしまいに

自分の人生は一回しか無いので、中にはこういう生き方もあるらしいと参考にして下さい。あと、同じような事をした人の中に違う結末の人が沢山いるだろうと思って下さい。うまくいっている事ほど表に出やすいのです。

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