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15/8/13

雑誌を作っていたころ(66)

Image by Olia Gozha

新谷のり子さんのインタビュー

 ぼくらの年代の人なら、「新谷のり子」という名前を聞けば、「あ、『フランシーヌの場合』の人ね」とすぐピンとくるはずだ。80万枚の大ヒットを記録した「フランシーヌの場合」は彼女のデビュー曲。1969年3月30日、ベトナム戦争に抗議してパリで焼身自殺をしたフランシーヌ・ルコントのことを歌った反戦歌である。温熱療法の会員誌で、ぼくはこの人をインタビューすることになった。

 新谷のり子さんは北海道函館市生まれ。小さいころから歌うことが大好きで、小学校5年生のときにNHKの児童合唱団に参加、中学生からは北海道放送「朝の童謡」の準レギュラーとして歌うようになる。母親は合唱団でクラシックをやっていた経験から、彼女を声楽家にしようとするが、本人は密かに美空ひばりに憧れていた。クラシックで独唱するのは決まってソプラノの人だが、彼女の声質はアルトだったからだ。

 高校時代、彼女は上京して歌の勉強を始める。昼間は歌のレッスン、夜は銀座のミュージックラウンジで歌うことが生活になった。夜の店で、当時売れっ子の作詞作曲家だった郷伍郎さん(代表曲は「フランシーヌの場合」のほか、ベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」など)と知り合う。郷さんは子どもっぽい顔でアルトの声を出す新谷さんのアンバランスさを気に入ってくれて、「いつか曲を書いてあげるよ」と言ってくれた。タイトルだけは先に決まっていて「のん子の場合」という曲だった。「のん子」とは、当時の新谷さんのニックネームだ。

 当時の若者にとって、反戦活動は当たり前の活動だった。新谷さんも友人たちに誘われてピースパレードに参加する。その感想を郷先生に報告するが、その日の夕方、新聞の夕刊に掲載されたのが、フランシーヌの焼身自殺のニュースだった。郷先生は新谷さんのピースパレードの感想とフランシーヌの自殺を結びつけ、あっという間に「フランシーヌの場合」を書き上げた。ただし、売れっ子CMソング作家でもある(「サクマのチャオ」は今でも歌われている)郷先生の仕事に影響が出るのを防ぐため、作詞名義は奥さんの「いまいずみあきら」名義となった。

 こうして、新谷さんはレコードデビューを果たし、彗星のように芸能界に登場する。だが、普通なら2曲目、3曲目のヒットを狙って有名歌手の座を目標にするのに、彼女はそうしなかった。

「有名になると、今までであったことのなかったさまざまな人たちとの出会いがあります。体にハンディキャップを負っている人や、在日外国人として苦労している人、いわれのない差別を受けている人たちです。そういう日の当たらないところで一生懸命に生きている人たちのことを、世間に伝えていきたい。私はいつしかそう思うようになって、コンサートを中心に活動するようになりました」

 新谷さんは仲間たちが探し出してくれるところに行き、そこで歌を歌うようになった。海外にも行った。韓国、北朝鮮、パレスチナ、インド。世界中を回って、逆境にある人たちの中に飛び込んで行った。東京の山谷、大阪の釜ヶ崎では歌手としてではなく、ボランティアのひとりとして仕事にあぶれた日雇い労働者のために働いた。

「本当に苦しんでいる人たちを前にすると、歌はあまり役に立ちません。『水がほしい』『食べ物がほしい』と言っている人は、とても歌を聞くような心境にはないからです。『私がお医者さんだったら良かったのに』と何度思ったことでしょう」

 その思いは、1995年の阪神大震災でピークに達する。新谷さんはいち早く現地入りして被災者支援の活動を始めたが、自分にできることが歌うことしかないというもどかしさの中で、チャリティコンサートを繰り返した。新谷さんが温熱療法の療術師資格を取ったのは、そうした経験から「少しでも苦しんでいる人たちを助けてあげたい」という思いが固まっていたからだ。

 新谷さんと温熱療法の出会いは、自身の体の不調からだった。畑仕事を頑張りすぎて左の手首が痛むようになったのだが、これが何をしても治らない。お医者さんからは「ドケルバン氏病」と診断され、手術しないと治らないと宣告されてしまった。だが、忙しい身ではゆっくり手術を受けている暇がない。仕方がないのでブロック注射や鍼治療で痛みを緩和するだけだった。

 そんなとき、仲間のひとりが温熱療法のことを教えてくれた。さっそく受けてみると、嘘のように痛みが引いた。「これさえあれば、どこででも苦しんでいる人を助けてあげられる」と思った新谷さんは、ただちに療術師の資格を取るべく勉強を始める。朝5時に起きて教室に通い、仕事で授業に出られないときには授業のビデオを借りて勉強した。その甲斐あって、1999年1月、新谷さんは療術師の資格を取ることに成功する。

 それからは、世界のどこに行くときでも温熱器具がお供になった。釜ヶ崎で、パレスチナで、たくさんの人たちから「とても楽になったよ。ありがとう」と言葉をかけられた。2002年に新谷さんは結婚したが、最初は懐疑的だったご亭主も、今では温熱療法の大ファンである。日の当たらないところで人と人の結びつきを取り戻すために歌い続ける新谷さんは、今日も世界のどこかでマイクの前に立っている。

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