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15/7/9

30歳何の取り柄もない主婦が改めて自分の人生を振り返った結果、たった1つ好きな事に気がつくまでの話

Image by Olia Gozha

「そういえば、私って何が出来るんだっけ?」

心の声の主「残念ながら、何も出来なくない?」

「!!!」

■30歳

世では「アラサー」なんて言葉で片付けられる。しかし、30歳と聞くと数字のマジックなのか個人的には60歳還暦までの一区切りという印象を受けてしまう。


「良い機会だ、改めて自分自身と向き合ってみようじゃないか!」


そう思ったのが ”七夕” だった。

「あらヤダ!ロマンチックね奥さん!」


なんて心の中で1人突っ込みを入れながら、書き場所を求めた結果ここへ辿り着いた。

色んな方のSTORYを読んで「こんなに上手くは書けないな。」

苦笑いしつつも、書きたくてウズウズしているのが自分でも分かる。

自分自身を振り返る作業というのは、どうしても長くなりがちである。

興味を持って読んでくれる方がいれば幸い、そんな感覚で書いていこうと思う。


■痛みの記憶

私は、真冬のよく晴れた朝に生まれたと母は言っていた。

生まれ故郷は、冬でも暖かくリゾート地として年間を通し賑わっている。

父、母、兄、そして私。典型的な4人家族として暮らしていた。

ただ一つ違っていたのは、力が支配する環境だったこと。


家庭内は常に不協和音が響き、猛獣と化した父に母が殴られて吹っ飛び、庇った兄は蹴られ、私はただ泣くことしが出来なかった。母がいつの日か殺されるのではないか、幼心に胸を痛めた。父の顔色を窺うようになると、段々会話するのが恐ろしくなっていった。

底辺の家庭環境だと笑われるだろうか?


「絶対服従」それが我が家だった。


思い出したくもない過去があったり、人生で生きるのが一番辛かったのも10代だ。

私は中学1年当時イジメにあっており、イジメっ子達に石を投げられ、罵詈雑言を浴びせられ、泣きながら帰った記憶がある。

そんな時も庇ってくれた中学時代の友人達とは、今でも連絡を取り合っている。

本当に、友人達には感謝してもしきれない。


「どんな事があっても、あなたの味方だよ」


どれほどこの言葉に救われただろうか。

イジメ発覚後、母は過保護な上に心配性になった。

いつの間にかイジメのターゲットは別の子に移り、3年に上がる頃には解放されていた。

ただ体はその状況を覚えているのか、不安や恐怖が襲うとお腹が痛くなるのは相変わらず続いた。

この症状にいたっては、30歳になった今でも続いているのでなかなか面倒だと思う。

イジメた子達は、今は立派に母親業をしているので名前は出さない。

ただ思うのは彼女らの子が、かつて彼女達がした事を繰り返さないようにしてほしい。ただそれだけだ。

■人間関係に悩む


高校に進学してからも、相変わらず人間関係に悩む事になろうとは思いもしなかった。

比較的明るく派手なグループに属していた私だが、門限が厳しかった事あり、次第にグループから外れ誘われる事もなくなった。

中学時代の同級生はかろうじて仲良くしてくれたが、どことなくよそよそしかった。

顔色を窺うのに慣れていた私は、微妙な空気の変化を察知するのが得意だった。

これが致命的な性格だとこの頃は知るよしもない。

ほぼ女子高だったのと、思春期特有の変なプライドも相まって関係を再構築するのは困難を極めた。

いつの間にか疲れて、上辺だけの付き合いにとどめるようになっていった。




「居場所がない」

自分よがりではなく、どこにも居場所がなかった。

他の子達がキラキラしていて眩しかった。

私にはいくら手を伸ばしても届かない、そんな感覚に襲われた。

居てもいなくても同じだし、居なくなっても誰も気にしない。

次第に学校からは足が遠のき、途中まで登校してすぐ家に戻るようになった。

専業主婦だった母は、何も言わずただ「おかえり」といつも通り迎えてくれた。



■担任の言葉


留年が嫌だった私は、毎回テストで点数を上げて単位を落とさないようにするタイプだった。

3年の担任は現国の先生だったか、違ったか今では覚えていない。

年配の女性だったが、小柄で可愛らしかった。

その担任が、答案用紙を返す時に一度だけ褒めた事があった。



「先生驚いたよ!あなたこんなに素敵な文章が書けるの?小説家とか物を書く人目指してみたら?」



当時の私はほめられた事に気恥かしさを覚え、慌てて席に戻った。

席に戻った後、答案を見つめながら私は担任の言葉を反芻していた。

だがすぐ現実に引き戻される事になる。


■進路変更


高校在学中から”美容師”を夢見て、両親にも美容学校に行きたいと伝えていた。

美容学科が新設された専門学校に早々に願書を出しに行き、後は入学金諸々を払えばおしまいのはずだった。


入学金の納入期限が迫っている。

母からは何も言ってこない。

バイトをしていたので、貯金はあったはずだ。

しびれを切らして私から母に問う。


「ごめんね、お金がないの。本当にごめんね・・」


母は泣きながら小さく呟いた。

目の前が真っ暗になった。

どれほど泣いたか分からない。

ただ、父が無職になって生活に困った為、貯金は使ってしまった。

それだけは理解できた。

あとの話は覚えていない。



その頃から、父を憎み話さなくなっていった。

父も苦しかったであろう。本当は高校へ行くのも難しい家計状況だったと、後で母から聞いた。

温室育ちの小娘にはこの世の終わりのように思え、思い描いていた人生が、一瞬にして崩れ去る現実を受け入れられないまま、残りの学校生活を過ごした。


すべてが灰色。

まさにこの言葉がぴったりだった。

この頃の日記には、父への憎しみの言葉しか書かれていない。

何の準備もなく就職活動したところで受かるわけもなく、卒業後の進路は未定のまま、私は3月1日を迎えた。


■就職そして家庭崩壊


「人生つまずいた」感いっぱいの私は、就職してもすぐに仕事を辞めて転職を繰り返した。

アパレル・受付嬢・・何をやってもすぐに飽きてしまう。

「何か違う」

悲劇のヒロインじみた私は、次第に心がすさんでいくのが分かった。

比例して美容師になる夢も消えて行った。


「あの時学校に行けてたら、こんな思いしなくて済むのに・・」


そう思っては、父を憎み、そんな自分に嫌悪する。

甘ったれて感傷に浸っていたかったのだろうか、いつまでも同じ思考のままぐるぐる回り続けて、気付ば20歳を迎えていた。

20歳を過ぎても定職につかずに、アルバイトを転々とした。

完全に思考は停止。

その日暮らし最高!今日が楽しければ何だっていい、そんな気持ちで夜が明けるまで遊び歩いた。


そんな矢先だった。


祖母がちょっとした怪我から認知症になり、母との介護生活が始まった。

介護疲れで母はどんどんやつれていった。

父との関係も急激に悪化、言い争いが絶えなくなった。


父に対して憎しみしかなかった私は、母に加勢するようになった。

子供というのは不思議なもので、大事な母親を守りたい一心で父に挑んだ。

湧き上がる恐怖をこらえ、父を論理的に説き伏せる。興奮した父は聞く耳を持たない。

逆鱗に触れた時、体が宙に舞った。「もう終わりだ」痛みと共に家族が壊れていく。



しばらくして父は家に帰らない日が増え、連絡がつかなくなり失踪した。

何十年も続いた不協和音はある日突然鳴り止み、その静けさが更に恐怖を掻きたてた。

嵐の前の静けさ。

その後残された私達は、より一層悪夢のような日々を過ごす事になる。


家族会議の結果、私が一家の世帯主になった。

その頃私は24歳になっていた。


「私が大黒柱!しっかりしなきゃ!」


一生懸命働いても、女性の給料なんてたかが知れている。

ましてや高卒だ。学もなければ、人脈もない。

悔しくて夜になると、枕に顔を押しつけて泣いた。

この頃は長年付き合っていた彼氏と別れ、まさに踏んだり蹴ったり状態。

結婚は当分無理と考え、腹をくくって仕事に没頭した。



■予期せぬ悪夢


時は流れて、この後出会って半年で今の主人と結婚する事になる。

転勤が多かった主人についていく為、結婚半年ほどで故郷を離れる事になった。

過保護だった母は、空港でいつまでも泣いていたのが印象に残っている。

この別れから3カ月後、また故郷に戻るなんて誰が予想しただろうか。



新天地に到着してすぐ、妊娠が発覚した。



母は電話口で泣いて喜んだ。

初めての土地、つわりが酷く不安な毎日を過ごしていた私は、よく母に電話をした。

たわいのない会話ばかりだったが、いつからか母は電話に出ない日が増えた。

問い詰めても「疲れて寝てた」そう答える母。

何故だか引っかかる。だが確かめる術がない。

昔からカンが鋭かった私は、母が何かを隠しているのはすぐに分かった。



丸1日電話に出ない事があった。

兄に連絡すると、「母は体調を崩して入院している。年だから大事をとって精密検査してもらってるから」と伝えられた。



夏の終わりが近づいた頃、母から珍しく電話がかかってきた。

ちょっと早めに里帰りしないかとの提案だった。

主人の出張ついでに故郷に帰る予定があり、滞在中に答えを出す事にした。

電話口の母は嬉しそうに「早く会いたいな!」と何度も何度も言っていた。

久しぶりに元気そうな母の声を聞けて、私も安心してその日は眠りについた。



故郷に着くと、やはり家に母は居なかった。

その頃兄は病院に勤務していて、母は兄の病院にいた。

久しぶりに会った母は、以前よりだいぶ痩せこけてフラついた様子だった。

「歳なんだから、無理しちゃだめだよ!母さん!」いつもより厳しめに母を叱った。

娘に叱られても、母は嬉しそうに「ごめんね」と笑っていた。

なんだ、普通じゃん。良かった。その時はそれ位しか思わなかった。

滞在も明日で終わりという時に、兄に誘われ母の見舞いに行った。



病室では母が待っていて、今日は病室じゃなくここに行くからと別の部屋を案内された。


嫌な予感がする。


数分もしないうちに、兄が医師と共に入ってきた。

挨拶をかわし、子供は安定期に入ったのか、順調に育っているかなど世間話をすませ、急に神妙な面持

ちで私に告げた。


「お母さんの病気の説明をします」


は?何言ってんの、この人?と思った。

だって母はただの過労でしょ、説明も何もと思っていた。

医師は母の病状を詳しく教えてくれたけど、全然耳に入って来なかった。


理解していない私に医師は更に丁寧に教えてくれた。


母は


・スキルス性の胃がん

・ステージ4


つまり末期だった。


なんでだろう、なんで母なんだろう・・あんなに苦労してきたのに、こんな仕打ちある?教えて神様。

涙が止まらなかった。

母は検診なんて、何十年も受けた事がなかった。

理由は「何か見つかって迷惑かけるの嫌だから」

体調不良が続き、とりあえず兄の病院へ来たらガンが見つかった為、即入院。

それは私が故郷を離れてすぐの事だった。

抗がん剤治療を始めたが、身もだえる程の痛みに私と連絡が取れなかったと詫びた。

しかし、私の懐妊の報告を受け、せめて安定期に入るまでは隠し通そうと兄と二人で決めたそうだ。

やっと幸せな人生を歩める、親孝行が出来る、そう思っていたのに、またしても絶望の淵に落とされる事になった。



■幸せと引き換えに


主人に母の病状を説明し、そのまま故郷に滞在することになった。

母は外泊許可が下りると自宅に戻ってきたが、そんな生活も長くは続かなかった。


妊婦健診の帰りに、母の見舞いによく行った。それほど病院の距離は近かった。


私が通った産院は、私が生まれたところ。

母が一生懸命、私をこの世に送り出してくれたところ。


せめて、このお腹の子を抱いてほしい。それまで神様、母を連れていかないで!

昼夜を問わず祈るようになった。


ある穏やかな春の日、母は急に目が見えなくなった。

これまでの入院生活を書き記したノートの文字が、ぷつっと途切れていたのが印象に残っている。

ベッドに横たわり、ぼーっとしている母の姿に涙をこらえきれなくなった。

母は手さぐりで声のするほうへ手を伸ばし、「泣かないで」と泣きじゃくる私の頬を撫でた。

死が母のすぐ側まで迫っていた。


その頃私は臨月を迎えていた。

あと1日、あと少しだけ。ねえ赤ちゃん、早く出てきてよ!

そう語りかけるも、お腹の子はいっこうに出てくる気配はない。


目が見えなくなってすぐ、母は私や兄、大切な人達に見守られながら息を引き取った。

60歳だった。


お腹の子は、結局 母に抱かれることは永遠になくなった。


葬儀を済ませた、約1カ月後。

3日3晩苦しみぬいた末に、新しい命がこの世に生を受けた。

よく晴れた、穏やかな朝だった。

誰よりも伝えたかった母の姿は、もうどこにもない。

喜びと悲しみが入り混じった感覚も、育児に没頭するうちに消えて行った。




産後、主人の実家がある関東へ引っ越しを決めた。

故郷は母との思い出が多すぎて、一刻も早く離れたかった。

ただ育児日記には、いつも母に語りかける内容ばかり書いていた。


母さん、今日はこういう事があったよ。

母さん、母さん・・・どうしていないの?


頭では分かっているけど、書かずにいられなかった。



■答えを探す日々



飽きっぽい私でも唯一続いていたのが、日記だった。

書くことで自分を見つめ返す材料にもなっていた。

スマホには日記アプリを入れて、思った事を自由に打ち込んだ。

いつしか、書くことで自分を伝えたいと考えるようになっていた。

自分の言葉で、人の心を揺さぶる文章が書けたら・・

あの日の担任の言葉が頭をよぎった。



「小説家とか物を書く人目指してみたら?」


現代は自分を表現しようと思えば、いくらでも表現できる。

学歴だって関係ない。

私にも出来るかもしれない・・



冒頭でも書いたが、探し続けて辿り着いた場所がココ STORYS.jp だった。



「書きたい」その一心で、文字を、思いを打ち込む。

やっと見つけた、私が本当に好きなこと。



他の方のような成功談ではないけれど、私の人生捨てたもんじゃないって改めて感じる。

今までの経験でさえ今日という日に繋がっているのなら、それさえ愛おしく思えてくる。


生前、母が書き記した最後のページにこんな言葉が書かれていた。



「神様に感謝してね。」



ありがとう、神様。

だいぶ遠回りしたけど、30歳になってやっと見つけることができたよ。



「これからも書き続けていけますように・・」



そう願いつつ、隣で眠る我が子に私はキスをした。




長いのに読んでくださった方々にも心から感謝します。

本当にありがとうございました。



































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