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15/7/22

【第2話】〜生きようと決めて1年間闘い続けたら、過去がすべて今に繋がっていた話〜

Image by Olia Gozha

うつ病から躁うつ病に…


前回のお話はコチラ↓↓↓

【第1話】〜生きようと決めて1年間闘い続けたら、過去がすべて今に繋がっていた話〜



2014年1月下旬。


うつ病がまた悪化した。


旅から帰って来て、僕の生活はガラリと変わった。


休職していた会社を辞め、心理学を勉強し始め、バイトも始めた。


一日中家にいた生活とは打って変わって、また忙しない生活になった。


「一刻も早く社会復帰しなければ…」


と思っていた。


僕は必死だった。


旅を終え、うつ病が劇的に回復したこのタイミングを絶対に逃すまいと必死だった。


しかし、やっとの思いで掴みかけた道筋は、

幻のようにあっという間に消えてなくなり、

僕はまた暗闇に堕ちた。


新たなスタートだと期待を膨らませていた2014年は、

地獄のスタートを切った。


大きな期待を裏切ることほど、絶望することはない…。


僕はもう大丈夫だと思っていた。


大切な人のありがたさに気が付き、

もう独りじゃないと思えた。


仕事も出来るし、社会にも適応出来ると思っていた。


しかし、いざ社会に戻ってみると、

そこではやっぱり独りで、誰が助けてくれる場所ではなかった。


誰かがずっとそばで見守ってくれる訳ではないし、

「こっちに進めばいいよ!」

なんて良い方に導いてくれる人もいない。


常に自分で考え、自ら行動をしなければならない場所だった。


そして、「社会」という決められたルールに従うことが出来なければ、

問答無用に居場所を取り上げられてしまうような、

僕にとってはとてもとても恐ろしい場所だった。


社会に出るリハビリとして始めたアルバイトで、そんなことを思い知った。


「自分で考え、自ら行動する」


この時の僕には、これが非常に難しかった。


恐くて仕方がなかった。


他人のルールが、自分のルールと同じとは限らない。


自分の答えが、他人の答えとは限らない。


他人のルールで動いている社会では、どんなに自分で考え、自ら行動をしても、

他人に「違う」と言われれば、それは間違いになり、失敗になる。


正解、不正解の決定権が他人にある時点で、自分の導き出した答えに自信が持てなかった。


そして、他人の判断した不正解が続くことにより、

ますます自分の答えに自信が持てなくなり、

自分は他人よりも劣っているという認識になっていく。


僕は、

自分に、

自分の答えに、

自分の選択に、

自信が持てなかった。


僕は周りの人よりも劣っている人間…


出来損ない。


ダメな人間。


だと思った。


お前は出来ない。


お前は間違っている。


お前はダメな人間だ。


と自分を責め続けた。


こんな時に溢れてくる感情は、不満や怒りといった反抗的なものではなく、

いつも決まって、「ごめんなさい…」という救いようのない感情だった。


僕は謝り続けた。


間違えてごめんなさい…


出来なくてごめんなさい…


一緒にいてごめんなさい…


存在してごめんなさい…


直接口にほとんどすることはなかったが、

いつも心の中で知らない誰かに謝り続けた。


ある日、僕はバイトに行けなくなった。


ミスをして怒られることよりも、

ミスをすること自体が恐くて仕方がなかった。


正解、不正解を判断する誰かと同じ空間に居ることが耐えられなかった。


しかし、せっかく川ちゃんに紹介してもらったのに、

その好意を裏切るようなことは絶対にしたくなかった。


バイトは、心理学の学校が終わる4月までは続けると約束していたからなおさら。


でも、そんなことを言っていられる状態ではなかった。


いや、違うかもしれない。


このままいてもミスばかりで、迷惑を掛け続ける。


今思えば、「僕は居ない方がいいんだ。」と勝手に辞めることを正当化していたのだと思う。


僕は、川ちゃんに思いを打ち明けた。


「もう働けないっぽい…。」


「せっかく働かせてくれたのに、本当ごめん…。」


「ごめん…。」


これしか言えなかった。


「ごめん…。」


しか感情は出て来なかった。


そして川ちゃんは、こう言った。


「そっか、無理か。」


「残念だな。」


「バイトは全然大丈夫だから気にすんな!」


「またひーくんと働けて楽しかったよ!」


そう言ってくれた。


それでも僕は、


「ごめん…。」


しか言えなかった。


最後に川ちゃんはこう言った。


「俺は、ひーくんが元気なら何でもいい!!」


ハッとした。


僕は大きな勘違いをしていた。


川ちゃんは、バイト先の社員じゃない!


僕と川ちゃんは、社員とバイトの関係じゃない!


そんなことの前に、僕を理解してくれる大切な友達なんだ!


僕は、こんな当たり前なことを忘れてしまっていたようだった。


「ありがとう…」


この時、確か僕は泣いた。


関内の喫茶店で。


「俺が泣かしてるみたいだから泣くなよ!」


って言われたけど、僕は泣いた。


今度は


「ごめん…」


と一緒に、


「ありがとう」


の気持ちで。




僕は本当に友達に恵まれていると思う。


うつ病になって疎遠になった人は数え切れない程いるけど、

それでも一緒にいてくれた友達は、


「ひーくんはうつ病じゃないよ!」


「全然大丈夫だよ!」


と言ってくれた。


僕は内心、


「いや僕はうつ病だよ…」


と思っていたが、


そう言われると、僕はうつ病じゃない気もする。


仕事は出来ないけど、家族がいて、友達がいて…

いつも一緒にいる人たちは、昔も今も変わらない。


みんな社会人になって会う機会もめっきり減ってしまったけど、

会えば学生時代の頃のように、くだらないことを話し出す。


昔から何も変わっていなかった。



川ちゃんの助けも借り、僕はバイトを辞めた。


続けられたのは、たった2ヶ月間だった。


初めての社会復帰の挑戦は、失敗に終わった。


バイトを辞めたのを機に、実家から少し離れたところに住む一番上の姉の家で母と姉、犬と一緒に暮らすことになった。


僕は犬アレルギーだし、一緒に暮らしたくなかった。


しかし、もう一人暮らしが出来ない状態だった。


失業保険も出ていたが、3ヶ月間しか貰えない。


働くことが出来なければ、他に収入源が無い。


誰かと一緒にいなければ、何をしでかすか分からない状態だったし、

何より、出て行った彼女との様々な思い出を目の当たりにしながらの生活が、

とても辛かったのだと思う。


やはり、彼女との別れは僕にとって、計り知れないほど大きな傷を残した出来事だった。


女々しい男だな。


と思うかもしれないが、一生を共にしようと思っていた相手との別れは、

誰でも女々しくなる程辛いもんだと思う。


しかも、お互いの反りが合わなくて別れたのではなく、

僕は彼女を100%信頼していたし、

一番そばにいて欲しい時に、愛想を尽かされてしまったのだから。


しかし、落胆していただけではない。


僕はいつだって、


「絶対に見返してやる!」


と思っていた。


そのために僕は社会復帰をしようと必死だったが、

やはり物事には順番というものがあるらしい。


僕は最初のステップとして、バイトを選んだが、

僕が踏むべき最初のステップは、バイトをすることではなく、

もっともっと手前のところだったことに気が付いた。


まずは、うつ病をしっかりと治すこと!


変な意地やプライドは捨て、やるべきことを一つずつ愚直にこなしていくことだった。


僕は、絶対にうつ病を治したかった。


母親に、


「治るなら、入院させてくれ!」


と言った。


それくらい切羽詰った状態だったし、入院して治療に専念して治るなら、それが最善の策だと思った。


しかし、僕には入院費を払うお金は無い。


入院するには、親にお金を出して貰うしか方法は無かった。


入院費は、半端ない。


姉ちゃんが実際に入院していたから、よく分かる。


精神病院には行ったことがないから実情はどうなっているのか分からないが、

恐らくそういったところは、個室なんだと思う。


個室は本当に高いんだ。


1日1万円くらい平気で飛んでいく。


1週間で7万円、1ヶ月だったら、30万円。


長引けば、どんどん入院費はかさむ。


そんな金額を両親に払わせることは、出来なかった。


母親は、「いい」とも、「だめ」とも言わなかった。


親としては、複雑な心情だったんだろう。




そして僕は姉の家で暮らすことにした。


というか、僕は暮らさせてもらうという感じだった。


天才病…


この時、病院でこんなことを言われた。



「「双極性障害です。」「いわゆる躁うつ病です。」」

「「躁うつ病って何ですか?」」

「「うつ病と似たような名前だけど、全く違う病気で、躁うつ病は脳の病気。」「脳の神経細胞が傷付けられてしまい、それが元に戻ることはないです。」「これからは、病気を治すというより、病気と上手く付き合っていくという治療になります。」」


僕の担当医は、物腰は柔らかかったが、ハッキリと物事を言う人だった。


以前から、


「自殺をしかねないから、何かあったらすぐに来てください。」


と本人に直接言うほど、ハッキリと言う人だった。


母親は、それを聞いて、


「あんなこと言うもんじゃない!」


と怒っていたけど、僕にとってはうやむやに丸め込まれるよりは断然良いと思っていた。



しかし、今回は違った。


「治らない?」


「一生薬を飲まなきゃならない?」


「一生病気と付き合っていく?」



どういう事だ?


意味が分からなかった。


いや、意味は分かった。


受け入れる事が出来なかった。


正しくは、完全に受け入れる事が出来なかった。


しかしこの時、僕は自分でも本当に「何かおかしい…」と思っていた。


僕は毎日夢を見た。

ここ数年間、夢を見ずに熟睡出来た記憶はなかった。

睡眠薬を飲んでも、必ず夢を見た。

この時は特別酷く、現実に起きていることのように鮮明な夢で、

現実との区別がつかなくなる程だった。

起きている間も記憶は曖昧で、簡単な計算をする事も出来ず、

何かを持つにしても力が入らず、指先までちゃんと意識をしていないと落としてしまいそうだった。

そんな状態だから、自ずと動きは遅くなった。

角を曲がるにしても、頭でイメージしているように上手く曲がる事が出来ず、

よく角に体をぶつけた。


自分の身体ではないような感覚だった。


上手い表現が思いつかないが、いつもふわふわしている感じ。

本当に地に足がついていないって感じだった。


「心」がというより、「頭」がおかしいと自分でも感じていた。

元々おっちょこちょいな性格なんだけれども。笑


だから、「脳の病気」と医者に言われ、妙に納得する部分があった。


この日から、躁うつ病の薬を処方された。


僕は早速、躁うつ病について調べてみた。


wikipedia先生によると、

躁うつ病とは、異常な気分の高揚が続く「躁」の状態と、

気分の落ち込む「うつ」の状態を繰り返す病気らしい。


診断は難しく、うつ病よりも自殺率が高いとされている。


症状を見てみると、これまでの僕の行動に当てはまる部分が多かった。


旅に始まり、心理学、HP作り、アルバイト、保険関係の手続き…

何かを始めようと思った時の集中力と行動力はハンパじゃなかった。

「ひらめき」のようなアイディアが次々と溢れ出し、

「僕には何でも出来る!」という自信でいっぱいだった。


そして、少し経った後の突然の自殺願望…


症状を見てみると、躁うつ病であるということの否定は出来なかった。


しかし、僕はその事実を知って絶望した訳ではなかった。


ゴッホやヘミングウェイ、ベートーベン、カート・コバーン、

夏目漱石も躁うつ病だったと言われているらしい。


歴史上、「天才」と評され、現代社会にも多大なる影響を与えている人物と同じ病気だということにどこか陶酔していた。


バカみたいに聞こえるかもしれないが、


「僕はやっぱり天才だったんだ!」


と思った。笑



「やっぱり」と思うには訳がある。


※ここからしばらく学生時代の話になります。


小学校2年生の時に、自分の生い立ち記録を作るという授業があった。


その頃、テレビで「スラムダンク」が放映されており、僕は桜木花道が大好きだった。

その影響もあってか、この記録には、「天才」という言葉が多く使われている。


そう、僕は幼い頃から自分の事を「天才」だと思っていたのだ。


傍から見ると、かなりイタい人間だが、

この認識がいつも僕を逆境から救ってくれていたのは事実だ。


「天才の僕に出来ない事はない!」


本気でそう思っていたから、色んな事にチャレンジした。

好きな事は出来るまで諦めなかったし、精一杯頑張れたのは、

いつも自分の事を

「天才ですから!」

と本気で思っていたからだと思う。


と、同時にこの認識が僕を苦しめたのも事実だ。


中学、高校、大学と年を重ねるに連れて、自分を取り巻く社会は拡がっていく。


競争相手は、どんどん増え、強さを増していく。


体格の差、運動能力、音感、環境の違い…


これらによって、どう頑張っても勝てない状況に直面する。


「自分は1番ではない。」


「優れた人間ではない。」


「僕は、天才ではない。」


という認識にならざる負えない状況に直面する。


いわゆる「挫折」を経験する。


そして、「諦める」ということを覚え始める。


勝てない戦に挑み続けるより、あらかじめ負けを認めてしまった方が楽だから。


「どうせ自分は出来ない人間だ」


と最初から認めてしまった方が、どんな結果になっても傷つかずに済むから。


僕は、諦めるという選択をし始める。


「○○だから仕方ない」


と言い訳をし始める。


いつの頃からか、僕は諦めるのが普通になっていた。


勉強や運動、1番になれないと思ったことは最初から諦めた。


「何でも出来る必要はない!」


「こんなのは僕には必要はない!」


と開き直った。


その代わり、負けたくない事は絶対に誰にも負けたくなかった。


というか、絶対的に信じていることがあった。


それは、「自分の思想」だった。


自分のポリシーというか、正義というか、哲学というか。


自分の考えだけには自信を持っていた。



僕は幼い頃から、打たれ弱い性格だった。


怒られるのが大嫌いで、怒られないように正しいと言われる振る舞いをして来た。


だが、世の中には理不尽なことが多々ある。

理不尽なルール、理不尽な習慣、理不尽な人…


小5くらいから、

「なんでこんな決まりなんだろう…?」

「なんで嫌なことをやらなきゃいけないんだろう…?」

「なんで間違ったことをしなきゃならないんだろう…?」

「なんでこういう言い方をするんだろう…?」

「なんでこういう態度を取るんだろう…?」

と、いつも疑問に思っていた。


僕はこれらが理解出来なかったし、大嫌いだった。


「そういう決まりだから」


「規則だから」


「伝統だから」


「俺たちもこうしてきたから」


「社会ってこういうもんだから」


ということで理由も聞かず、有無を言わさずに判断され、

問題を片付けられることが大嫌いだった。


いつも納得出来る理由が欲しかった。



だから、僕はいつも「こういう人には絶対にならない。」と思っていた。


間違っていることは、「間違ってる!」と言うし、

相手に納得してもらうように説明をする。

何より、自分がされて嫌な事は、人には絶対にしない。


しかし、大衆、規則や伝統、社会のルール、世界を変えるのは、非常に難しい。


数えきれない程の多くの人たちの協力が必要で、自分一人では到底出来ない。


でも、だからと言って何もしなければ、世界は全く変わらない。


そして僕は考えた。


「やられたら、やり返す」

「同じ事を繰り返す」

という人が多いなら、

これと同じ原理で、

「相手に良い事をしたら、相手も誰かに良い事をするんじゃないか?」

と閃いた。


相手に良い事をされて、嫌な事で返すような人はなかなかいない。

良い事で返すかは分からないけど、可能性は0じゃない。


だから僕は、「まずは自分から始めよう!」と思った。


負の連鎖が自分に降り掛かって来た時に、そのまま誰かに繋げてしまうのではなく、

自分のところでストップさせ、その連鎖を断ち切る。

そして、より良いと思うことを発信し、その後の人たちに連鎖させていく。


たった一人でもそういう人間がいれば、

その人の周りの人、その周りの人の周りの人っていう風に、

どんどん増えていって、最終的に世界中の人に連鎖し、

結果、世界を変えられると思った。


これが僕の思想。


もちろん、今もそう思っている。



僕は、世界を変えたい。


僕には伝えたい事がある。


そう思って中学の時にバンドを始めた。


元々目立つのは好きだし、いつも人と違う事がしたかった。


それが僕が思うカッコいいことだったし。


高校生になり、僕はステージに立った。


音楽にのせて、自分の感情を伝えた。


曲よりも、僕は曲の合間のトーク、MCに力を入れていた。


ただの部活のコピーバンドなのに、ライブ中のMCを紙に書き出して、

曲とMCが繋がるように、曲順を決めたり、やる曲を決めたり。

練習でもMCを入れて、ライブ前にプチライブしたり。


自分の伝えたい事を発言するのはもちろんのこと、

「それをどうやったら人により伝わるか?」

「どんな言葉を使えば心に響くか?」

ということを考えた。

本番を何度も何度もイメージし、ライブに挑んでいた。


ステージでは、多くの人が僕の話を聴いてくれた。

僕のMCは毎回好評だった。

僕は、「やっぱり天才なんだ!」と思った。笑

それで誰かの心が動いたのかどうかは分からないけど、

「こんな人もいるんだな」ってくらいは思ってくれたと思う。


それから、体育祭で応援団長にもなった。


ライブでは、ライブに来てくれた人にしたメッセージは伝えられない。

僕は、高校の意味不明なルールや、挨拶をしても無視をするような先生達が大嫌いだった。

だから、学校全体にメッセージを伝えようと思った。

学校行事だったら、伝えられる人はもっと増えるでしょ?


というか、僕はこんなんだったから、先生達からあまり良く思われていなくて、

「僕を見くびんじゃねぇ!」

「お前らなんかより生徒の心を動かしてやるよ!」

「勉強より大切なことをお前らに教えてやるよ!」

と思っていた。

「ただ周りと違うからって、除け者扱いにするのは間違っている」

ってことを先生達に伝えたかった。


学校の先生っていうのは、教育者だ。

教育者っていうのは、ただ勉強を教えることだけじゃないと僕は思っている。

今後社会に出て行くために、「社会の仕組み」「物事の考え方」を教える人だと思う。

そんな人たちが、「挨拶を返さない」「仲間はずれにする」「無関心」ってのは絶対に間違っているし、そんな人たちからは何も教わる事はないと思う。

ある意味、リアルな今の社会を身を持って教えてくれているのだが…。


何はともあれ、僕は黄組応援団長になった。

応援団は、団長、チアリーダーが最初に決まり、

この2人が、副団長、副チアリーダーを決め、それから幹部と呼ばれる数人の有志を集める。

そして、2、3年生から男女合わせて60人の応援団を募集するという流れになっている。


幹部は、男女8人と言われていたのだが、僕はこれが分からなかった。

体育祭は、団長やチアリーダー、幹部を始め、応援団だけのものじゃない。

みんなの体育祭だし、僕は、みんなに出来るだけ参加して楽しんでもらいたかった。

仕事は大勢いた方がはかどるし、せっかく「やりたい!」と言ってくれる人を、

8人の枠に納めるために断るってのは、なんか違うんじゃないかな?と思った。

だから僕は、

「やりたいなら誰でもやればいい!」

ってことで、志願してくれた全員を迎え入れた。

「やってみたいけど、迷ってる」って人はゴリ押しして入れた。笑

結果、12人の幹部が集まった。


残念ながら、それ以外の団員は、予算やもろもろの関係で60人より増やす事は出来なかった。

60人を決めるために、大声審査というオーディションみたいなのを校舎の裏でやるのだが、

3年は最後の体育祭なので全員合格。(だったと思う。)

2年生には、落ちても来年チャンスがあるので、また頑張ってほしいと伝えた。


応援団をやらない人や、まだ出来ない1年生達には、組別集会でこんなことを伝えた。


この体育祭は、応援団だけじゃなく、全員の体育祭です。

応援団だけが楽しい体育祭なんてハッキリ言って意味がないと思う。

応援団に入れなかった人も、1年生も、ここにいるみんなが黄組。

みんなが楽しめなければ、応援団の意味もない。

応援団じゃないからつまんないんじゃなくて、一人一人が楽しんで欲しいと思ってる。

僕も2年の体育祭までは、学校つまんねぇなーって思ってたんだけど、その2年の体育祭がめちゃめちゃ楽しくて、学校が楽しくなったんだ。

面倒くせぇなーつまんねぇなーって思ってるかもしれない。

でも、一生懸命やれば絶対楽しくなるから!

つまんねぇって思ってる人がいたら、学校は楽しくはならない。

でも、みんなが楽しめば、絶対に学校は楽しくなると思うんだよね!

この体育祭を成功させるには、ここにいるみんなの力が必要なんだ。

だから、精一杯楽しんで欲しいと思う。


こんなようなことを黄組全員の前で伝えた。

我ながら良いスピーチをしたと思う。笑

ここでもまた、「やっぱり天才なんだ!」と思った。

多分誰も覚えてないだろうけど…。


おかげで、本当にみんなが協力してくれた。

決め事はすぐに決まったし、初日から全体練習がちゃんと出来たのは黄組だけだった。


「ちゃんと思いを込めて伝えれば、相手にも必ず伝わるんだ!」と思った出来事だった。


結局黄組は優勝出来なかったけど、

「体育祭楽しかったなー!」

「ひーくんのおかげで学校楽しくなったんだよ!」

って今でも言ってくれる人がいるから、大成功だったんだと思う。


担当の先生にも、

「正直ここまでやれるとは思ってなかった。」

「見直したよ!」

と言われた。

「当たり前だ!」とも思ったが、

みんなの協力無しでは出来なかったことなので、本当にみんなに感謝した。


体育祭終了後の後夜祭で、参加した全員の生徒の前で僕はまたステージに立った。

体育祭楽しかったね!

本当にありがとう!

僕はこれから何を目標にしていいのか分からない。

本当それくらい一生懸命やったし、みんなもやってくれたと思う。

学校はつまんないかもしれない。挨拶をしても無視をする先生だっているし。

クソだなって僕も思ってた。

でもさ、一生懸命やってみようよ!

体育祭楽しかったでしょ?

一生懸命やって楽しかったでしょ?

楽しい学校生活にしたいなら、意味ねぇ、つまんねぇ、面倒くせぇって諦めるんじゃなくて、

一生懸命やってみて欲しいと思う。

絶対楽しくなるから!

みんな本当にありがとう!


僕も泣いたが、号泣者が続出した。

先生を捻くりつつも、また我ながら良いスピーチをしたと思う。笑

またしても、「僕は天才なんだ!」と思った。


それでもクソみたいな先生達は変わらなかったけどね。


皆さんお気づきのように、僕はめちゃくちゃ熱い男。

熱苦しい男なのである。


しかしその後、進路で悩み、大学へは進学するが、

決まったクラスがある訳でも、学校全体でやる行事がある訳でもなく、

規模がデカ過ぎて僕がステージに立つ事は無くなった。


高校では恐らく結構目立っていた方だったのに、大学に入ったらただの人になった。

バンドも次第にやらなくなった。

結局、一歩外に出たら、僕には何も出来ないんだと思った。


うつ病の原因…


そして大学4年の時、バイトしていたところでこんなことを言われた。

「ただの偽善者じゃん。」

僕が善かれと思ってやっていたことが誤解を生み、バイトの子が辞めた。

僕にも原因はあったのだけれど。


それに、僕はとことん素直だったから、僕を利用する人もいた。

僕は、今までやって来た事が

「ただの偽善だったのか?」

と思うようになった。

「僕は偽善者なのか?」

と思った。

社員や、信じてた人にも利用されていたことが分かり、人間不信になった。

その人達は、次第に、

「本当使えねぇな!」

「ダメリーダー!」

「偽善者!」

と日頃から言うようになった。

何かにつけて僕に責任を擦り付けた。

ある意味、信頼されていたのかもしれないが、

誰かや何かに責任を押しつけていては、現状は何も変わらない。

何かの問題はあるのは事実なのに、改善の余地が無いなら、

こんなところで僕がいくら頑張ってもムダなことだと思った。

僕は何だかバカらしくなって、他のバイトに迷惑になるが、ある日いきなりバックれた。

そしてそのまま大学を卒業した。



就活をしなかった僕は、大学卒業と同時にニートになった。


今思えば、僕がうつ病になった原因は、

大学4年〜卒業した辺りのこの時期に大きく関係しているのだと思う。

僕がうつ病になったキッカケは仕事と婚約破棄だったが、

根本の原因はもっと昔のもっともっと深い部分にあったのだと思う。


うつ病になる直前の出来事は、キッカケに過ぎない。

本当の原因は、家庭環境や価値観、

トラウマや幼い頃のショックな出来事、

抱え続けている疑問や葛藤、こういったところにある。

過去に言われたたった一言が原因だってこともある。


実は僕は、何度かニートや引きこもりを経験している。

しかも大学を卒業してから。


僕の闇はどんどん深くなっていった。

高校の時のステージに立っていた僕の面影は無く、

自分のことを「天才だ!」なんて思う事は1ミリもなくなっていた。


でも、そんな時にいつも僕を引っ張り上げてくれたのが、友達だった。

遊びに誘っても、断り続ける僕を、家まで迎えに来て、強制的に外に連れ出してくれた。

お金が無い僕に、

「気にすんなよ!ひーくんいれば楽しいから!」

と言って、よく奢ってくれた。

この友達のありがたい好意のおかげで、

僕はバイトをする事を決断し、そこで婚約破棄になった彼女と出逢った。


それからもバイトを転々としたりしていたけど、本格的に結婚を視野に入れて、就職しようと決めた。僕はまたステージに立ちたいと思っていた。

メッセージを伝えたいと思っていた。

でも、仕事をして家庭を持って、平凡に暮らすのが一番の幸せなんだと思った。

今思えば、この時僕は、何かを諦めたんだと思う。

夢みたいな何かを。

夢よりも結婚が大切なモノだと思ったから。


しかし、何かと上手くいった。

就活すれば、一社目で内定。

一年目で会社内トップの成績、

社長や上司、先輩達にも可愛がってもらえたし、

僕はやっと失っていた自信を取り戻した気がしていた。

「僕って天才!」と思っていた。


しかし、休職、そして婚約破棄になり、

せっかく取り戻しかけていた自信は、また一気に崩れ去った。

というか、跡形も無くなった。

必死で自信を取り戻そうと、日本海へ旅をしても、

たった2ヶ月でバイトに行けなくなり、また自信を失った。

絶望的だった。


そんな時に、躁うつ病と診断された。

これは、かなりショッキングな出来事だったが、と同時に、

「やはり僕には天才の素質があるんだ!」

という全く根拠のない自信にもなったことは事実だ。

何か大切なことを思い出した気がした。


普通じゃない精神状態だったからなのか、僕が単なるオメデタイ奴なのか…。

多分きっと両方だと思う。笑

が、ここでまた僕の考え方が変わった。


「出来る時に全力を尽くせばいい!」


躁うつ病は、うつ病と違い、躁状態と言われる時は、

半端じゃない集中力や、行動力を発揮する。

そのタイミングを利用して、出来る事をとことんやって、

その間にカタチにしてしまえばいいと思った。

その後のうつ状態はこれまた半端じゃなくうつになるのだけれど…。

何かが出来る時に何かを成し遂げたら、

それが自信になって、うつの状態もそこまで酷くならないんじゃないか?と考えた。


今の僕に足りないのは、自信。

今の僕が必要なのは、自信。


「何か一つでも出来る事を積み重ねていくことが大切なんだ!」と思った。



知らぬ道、一度通れば恐くない!


躁状態のときは、詩を書きまくった。

色んな事を考えまくった。


どんな時にどんな感情になるのか?

何をすれば調子が良くて、何をすれば調子が悪くなるのか?

うつ状態の時の感情や状態、考え方や行動はどうなっているか?

何が足りないのか?

何が必要なのか?

どうすれば治るのか?


哲学みたいに誰もが考えもしないような当たり前の事をめちゃめちゃ考えた。

元々、哲学的なことを考える事とか、それを詩にするのが好きだったというのもある。


思ったこと、思いついた事は、その場で携帯にメモし、カタチに残した。

「今その時の感情を忘れない。」


人は常に変化している。

以前の状態に戻る事はない。

絶対に忘れていくものだ。

僕は、この経験をいつか絶対に活かしたいと思っていたから、

その時の感情を書き残した。


6ヶ月程で、300以上の詩が今も残っている。


こうして自分の感情や行動、考え方を分析してみると、何かしらの法則が見えてくる。


・やろうと思っていた事、思いついた事を実際に行動に移せれば、出来た出来ない関係なく、調子がいい。

・逆に、やろうと思っていたのに行動に移せなかったときは、後悔し、自分を責め、調子が悪くなる。

・予定がある日は、朝、下痢と嘔吐する。

・湯船に浸からない日が続くと、調子が悪くなる。

・何もしたくないからと言って何もしないでいると、そのことに罪悪感を感じ、また更に調子が悪くなる。

・落ち込んだ姿を家族以外の誰かに見せると、後で罪悪感でいっぱいになる。

・友達と遊んだ次の日から3日間くらいは特に調子が悪くなる。

・眠れなかった日の調子は最悪。

・知らない場所に行き、新しい発見があると嬉しい。

・川を見るのが好き。



こんなことが分かって来た。

こういったことが分かれば、何らかの対策を打つ事が出来るようになる。


なぜ、こんなことをしたのかというと、

1月の末から始まったNLPの授業で、とても興味深い事を学んだからだ。


「なぜ恐怖を感じるのか?」

「恐怖を感じるときはどんな時か?」


その答えは、


「分からない時」


人間は、分からなかったり、知らなかったり、

経験が無かったり、予想が出来なかったりする時に、

恐怖を感じるということだった。


そのため、恐怖を取り払うためには、

「よく知る」ということが大切になってくる。


「なるほど!」


と思った。


幽霊や宇宙人、動物や知らない人、

これらは、どんな存在なのかが分からない。

何をしてくるのか分からない。

予想が出来ない。

だから恐怖を感じる。

どんなに恐ろしい出で立ちをしていても、

絶対に自分に危害は加えないと分かれば、大して恐くはなくなるはずだ。



ただの道だって、知らなければ最初は歩くのが恐い。

しかし、一度通ってしまえば、次は大した事は無くなる。



『知らぬ道、一度通れば恐くない』だ!



外に出るのが恐い、人と話すのが恐い、治るか不安だ、

将来が不安だ、と恐怖を感じるのは、

「ただ知らないから」であって、

そんな状態で恐怖を感じるのは当たり前の事なのだと分かった。


たったこれだけを知っただけで、

僕の抱えていた得体の知れない恐怖はかなり小さくなった。


そして更に、人は経験を元に未来を予想する。


この場所は良い思い出があるから、素敵な場所だ。

この人に優しくしてもらったから、きっとまた優しくしてくれる。

一度成功しているから、次もきっと成功する。


と思う。


しかし逆を言えば、


この場所で恐い思いをしたから、この場所ではきっとまた恐い事が起こる。

この人に傷つけられたから、きっとまた傷つけられる。

一度失敗したから、次もきっと失敗する。


と言う事にもなる。


そしてやっかいなことに、良い事よりも、ショックな事の方が印象に残りやすい。


そしてその印象は、あやふやになり、肥大していく。


「この場所」から、「外の世界」はきっと恐い事が起こる。

「この人」から、「みんな」に傷つけられる。

「一度」から、「これからずっと」失敗する。


このように、悪い妄想を膨らませていってしまうものなのだ。


これは、自分を危険から回避するための、

「自己防衛本能」によって創り出されるもので、脳の典型的な仕組みである。


この膨れ上がった悪い妄想には、たくさんの矛盾がある。

その矛盾を、冷静に、客観的に見つめ直し、

「これは事実じゃない」「間違った認識なんだ」

ということを脳に気付かせてやるのが、この妄想を取り払う術になる。


この方法は、実際に治療にも使われる。

今、様々な事を経験し、学んできた結果、これこそ心の治療そのものだと僕は思う。

悩み解決やトラウマの解消、セルフイメージの向上に大きな役割を果たし、

実際に僕はこれを自分で繰り返し繰り返し行い、

時間はかかったが、結果的にうつ病を治した。

それどころか、今は、昔以上に自分に自信を持つ事が出来ている。



何はともあれ、


「知ること」


がとても重要なことなのだ。


だから、僕は自分を分析しまくった。

行動、感情、考え方、価値観。


「なんでこうなるんだろう?」

「どっからこうなるんだろう?」

「どうやったら出来るだろう?」

「まずは何をしたらいいだろう?」


考えて落ち込むのでなく、冷静に分析した。


そして、


「今の僕に足りないもの、必要なものは何か?」


ということを考えた。


そのためには、まずはゴールを設定する。

それから、「そうなるにはどうしたいいか?」を遡っていく。


『自立する』(ゴール)

  ↓ためには?

『仕事をする』

  ↓ためには?

『リハビリする』

  ↓ためには?

『うつ病を治す』


そうすると、今必要なのは、まずはうつ病を治す事だということが分かる。


そして、それをまたゴールとし、そのために「必要なこと」を遡っていく。


『うつ病を治す』

  ↓ためには?

『自信をつける』

  ↓ためには?

『成功を積み重ねる』

  ↓ためには?

『出来る事をやっていく』

  ↓ためには?

『動ける状態になる』

  ↓ためには?

『体の健康と、心の健康』が必要。


そしてまた、それをゴールに、

今度は「今出来ること」にまで具体的に落とし込んでいく。



『体を健康にする』

  ↓ためには?

『規則正しい生活をする』

  ↓ためには?

『朝起きて夜寝る』

  ↓ためには?

『体を疲れさせる、ご飯食べる、湯船に浸かる、薬飲む』

  ↓ためには?

『外に出る、日光浴をする』

  ↓ためには?

『まずは窓越しに光を浴びてみよう!』

  ↓ためには?

『起きたらカーテンを開けよう!』




『心を落ち着かせる!』

  ↓ためには?

『自分を責めない』

  ↓ためには?

『後悔しない』

  ↓ためには?

『決めた事はやる』

  ↓ためには?

『出来ないこと、出来ない約束はしない』

  ↓ためには?

『無理をしない』

  ↓ためには?

『病人なんだから、負担を掛けないことを最優先にする』

  ↓ためには?

『休んでもいいことにする』

  ↓ためには?

『何もしない事にも意味を持たせる』

  ↓ためには?

『考え方を変える』

  ↓ためには?

『僕は自由だ。何をしてもいい。と思おう!』



こんなことを導きだした。


こうすると今やるべき具体的な手段が分かる。

恐怖や不安を感じるときは、「分からないとき」だ。

しかし、これは最終的なゴールが分かれば良いという事ではなくて、

大切なのは、

「今から出来ること」

「今から始められること」といった、

本当に目の前のステップを理解しなければならない。

それさえ分かれば、

あとは「やるか、やらないか」これだけだ。


やらなきゃ全く変わらないし、やれば必ず次のステップに進む。

本当に達成したいなら、やらない理由がないから、結果的にやる。

そうやって、ゴールに一歩ずつ進んでいくのだ。


もしも、やるか、やらないかで悩むようであれば、

「決断する!」ということが必要。覚悟を決めないと前に進めない。

どうしても覚悟が決まらないなら、それは本当に望んだゴールじゃないのかもしれない。

その場合は、またゴールの設定からやり直す。

自分自身のことだから、どんなゴールだって構わない。

人に笑われるようなことでも、

「本当にやりたい!」「やってみたい!」

と思ってるなら、挑戦する価値は十分にあると思う。

ゴールを設定して遡ってみれば、本当にやりたいことなのかどうかも分かると思うしね。

何より、本当は出来たのにやらなかったことが、一番後悔することだから。



この方法は、今でも非常に役に立っている。

というか、どんな場面にでも役に立つ。

何より、こういう道筋を立てるお手伝いをするのが、今の僕の仕事だ。

悩み解決、目標達成、自己啓発、人間関係、ビジネス…

カウンセリング、コーチング、コンサルティングでよく使われる手法。


これがすべてじゃ全然ないけど、実際、何十万とお金を払って学ぶことだと思う。

僕も実際そうだったし。

それくらい価値のあるスキルだと思ってる。

それくらい効果のあるスキルだと思ってる。


僕がこうしてストーリーに残すのは、

負の連鎖を断ち切り、新しい連鎖を始めるため。


解決法を知らない、

やり方が分からない、

教えてくれる人がいない、

というような負の連鎖を断ち切り、

うつ病は治るんだ!

解決法はあるんだ!

教えてくれる人はいるんだ!

という新しい連鎖を始めるため。

もちろん、自分のためでもあるけど。


ただ一つ、何でもそうだけど、

「人に解決してもらおう」と思ってはいけない。

何かや誰かのせいにしてたら、自分自身は何も変わらない。

人の手や、知識、スキルを借りる事は必要な事だと思う。

でも、その問題は、誰のものでもなく自分の問題。

自分自身が解決しようとしなければ、何も解決しない。

そういう意識があれば、

自分から「何とかしよう!」っていう行動に繋がっていくから。

調べてみたり、

聞いてみたり、

会ってみたり、

やってみたり。


まずは自分が決断しないと何も始まらない。

どんなことを知っても、

どんなことを教えられても、

どんな人に会っても、

どんなことをやっても。


「絶対に変わるんだ!」っていう覚悟が必要。

その覚悟と、意識があれば、

どんなことでも勉強になるし、

どんな話でもヒントになるし、

どんな人に会っても学べるし、

どんなことをやっても得るモノはある。


どうか、覚悟を決めて決断して欲しいと思う。

そうすれば、絶対に変わるんだから。



今、自分に必要なこと、やるべきことが分かった僕は、早寝早起きをして、早朝ランニングを始めたり、天気の良い日は外に出掛けたりして昼間動いて、夜眠るという規則正しい生活をすることから始めました。

しかし、薬の副作用で体重が1ヶ月くらいで一気に15kg増えたり、衝動買いが半端無かったり、「薬飲んでも治らないなら、飲まない!」って勝手に薬を止めてしまったり、かなりアップダウンが激しい時期に入りました。

それでもずっと家にいるわけにはいかないので、職業訓練校に通うことにします。

そこでも困難はたくさんありました。

今回は長くなってしまったので、次回にまたその辺をお話ししたいと思います。


最後まで読んでくれてどうもありがとうございました。

このストーリーをキッカケに新しい連鎖が始まってくれたら嬉しいです。


次回もよろしくお願いします。

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