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15/6/21

セブの高校でいろいろ考えた(仮題)-日本語教師なのに、なぜか机は保健室-第3話:ラプ・ラプの子どもたち-フィリピンの古都セブ-

Image by Olia Gozha

セブというと白い砂浜、碧い海、こんな風景を思い浮かべ人も多いだろう。もちろん、セブは世界でも有名なビーチリゾートである。もしかしたら、セブがフィリピンにあることを知らない人もいるかもしれない。が、実はセブはフィリピンの首都がマニラに置かれる前、スペイン植民地政府の首府があった古都であり、現在でも250万人を超える人口を抱える押しも押されぬフィリピン第2の都市なのである。

セブ(近隣の5つの市を加えてメトロ・セブ(セブ都市圏)と呼ばれている)の玄関口となるセブ・マクタン国際空港は市街地の対岸にあるマクタンという島にあり、市中心部とは二つの橋で結ばれている。マクタン島にはラプ・ラプ市という小さな町があり、市中心部へ行くときはこの町を必ず通過する。

日本政府のODAで架けられたというこの巨大なつり橋を渡るときに広がる景色はまさに南国。頭上には澄み切った空と白い雲、左右には碧い海が広がり、面前にはセブの山々の緑。熱帯の強い日の光に照らし出されたこれらの色が、原色となって目の前に広がる。

ここで少し時間の針を戻してみたい。

時は1521年、フェルディナンド・マゼランに率いられた3隻の帆船がセブに姿を現した。当時はイスラム王国であったセブの王、ラジャ・フマボンは彼らを歓待し、王は500人の配下とともにキリスト教の洗礼を受けた。こうして、フマボンはフィリピン初のキリスト教徒となった。これに気を良くしたマゼランは、時には武力で圧迫しこの地域の人々を次々にキリスト教徒にしていくのだが、当時の記録を読むと、こんな記述がある。

「人々は温厚で従順である。意に従わせるときには高圧的に接すればよい。」

腹が立つような書きぶりだが、もちろん実際はそうであるわけがなく、マゼランによる布教をあくまでも拒む男がいた。マクタン島の王、ラプ・ラプである。布教を拒む者がいると聞きつけたマゼランはわずか60名の兵力でマクタン島を平定しようと試みる。入念に作戦を練り、1500人もの男を集めたラプ・ラプは、帆船からの艦砲射撃を避けるべく、マゼランを海岸線から陸地に入り込んだ浅瀬に誘い込んで、殺害に成功する(このあたりのくだりは、フィリピンの放送局が制作した国歌斉唱のための動画でドラマチックに再現されているのでぜひ見てほしい。https://www.youtube.com/watch?v=b1E7xLt22ck)。

このようにラプ・ラプは、その後繰り広げられるこの国の長い反植民地闘争の歴史の中ではじめて反抗の狼煙を上げ、かつ勝利した国家的な英雄である。セブの人たちは、この誇り高き英雄の子孫、いわばラプ・ラプの子どもたちである(と言ったら格好良すぎるか)。

ただし、フィリピン初のキリスト教徒になったラジャ・フマボンのほうが、ラプ・ラプよりも権勢があり、ちょうど勤務校があるセブ旧市街の海沿いにこの王の宮殿があった。そうなると、どちらかと言えばわが校の生徒は心優しき「ラジャ・フマボンの子どもたち」というべきだろうか。

とにかく、その後、セブはスペイン艦隊に征服され植民地政府の首府となり、神の福音もこの征服と植民地支配の過程で広がっていった。しかし早くもマニラの利便性に目を付けた初代総督レガスピはセブよりマニラへ艦隊を派遣し、当地に存在していたイスラム王国を征服し、この地を植民地政府の新たな首府とした。マゼランがセブに降り立った1521年からちょうど50年目の1571年のことである。以降、太平洋を挟んだメキシコとのガレオン船貿易で得られる莫大な富によって、マニラは繁栄の歴史を歩むことになる。

というわけで、もともとの首府であったこと、反植民地闘争の先駆けとなった英雄がこの地の人物であったことなどもあってか、セブの人々が抱くマニラに対する対抗心には並々ならないものがある。もっとも、これは歴史的な経緯だけではなくて、マニラの人々が話すタガログ語に対し、セブの人々がフィリピン中南部で話されるセブアノ語(ビサヤ語)を話すことのほうが決定的な要因かもしれない。

僕がセブにいた頃のセブ州知事であったガルシアという女性は、タガログ語嫌いを公言しており、私的な場はもちろんのこと、公式な場は全て英語を使い、タガログ語を決して話さなかった。このタガログ語とセブアノ語には、ある程度の共通点はあるのだが、基本的には異なる言語と言って良いほどである。

そして、マニラのほうでも、セブアノ語話者を「田舎者」として見下す傾向があり、実際に僕もマニラのミニストップでセブアノ語を使ったら「プロビンシャ~(田舎者)」と笑われたことがある。

なので、セブ人(男性は「セブアノ」、女性は「セブアナ」という)にとっては、まずはセブアノ語、そして英語を介して世界とつながり、それから、タガログ語を介してマニラとつながっている、という感じの世界観を持っている人が多い。アイデンティティ的にも、セブ人⇒英語圏の一員⇒フィリピン人というような感覚で、私感だが高い教育を受けた人ほどこの傾向が強く、もちろんこれらの人々はトリリンガル(3言語使用者)である。

ちなみに、マクタン島にはこのラプ・ラプの勝利を記念した公園があり、筋骨たくましいこの男の像のすぐ近くには、マゼランがセブに到来しキリスト教を伝えた記念碑がある。植民地支配による苦難の歴史と、神の福音の記憶。そこには、支配に対する抵抗と、神の福音への帰依と感謝という相矛盾した心理構造がある上に、国内的にはタガログ語のマニラとの相克があったりとなかなかに複雑だ。

まあ、そうは言っても歴史的な経緯はともかく、わが校の心優しき「ラジャ・フマボンの子どもたち」は、緩やかに時間が流れる日々をおおらかに暮らしていた。

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