どこから書くのがいいのだろうか。
この物語の一番最初は。
今回の出来事は本当に僕の周りのたくさんの出来事が一つに集約し起こせた奇跡だった。
御輿、災害支援、祖父、たくさんの仲間。
少し長くなるが、地震が起きてからあの日、決心して自転車のペダルをこぎ始めた時から書き始めることにする。
2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
それから僕は、何かしたい、しなければ!その思いでいっぱいで一度故郷である横浜に帰ったものの、すぐつくばに戻り自転車で宮城へと出発した。
100㎏を優に超える荷物を自転車に積み

何の当てもなく、ただ行けば必ず何かできる、できなかったとしても、できないことを確認したい。そう思い激動の中でペダルをこぎ続け、茨城県北、福島、仙台に立ち寄りながらちょうど一週間かけて宮城県南三陸町へと辿り着いた。
それから様々な支援を行った。
初めはボランティアセンターに所属し割り振られる仕事をただこなすだけだったがまだ機能しきらないボランティアセンターに満足できず、自ら避難所をまわり何かできませんか?とニーズを探した。
そこで辿り着いたのが入谷小学校という避難所だ。

約40世帯、100人以上が体育館に避難していた。
そこで僕が一番最初に行ったのは机の製作である。
木工の技術と40種類以上の道具を積んでいったおかげで廃材を利用し簡単に作ることができた。
避難所では学校のものを借りているため数や大きさの融通が利かない。
そのためそこにあるもので作れる僕の技術は重宝された。



最終的には机、流し台、長椅子、本棚、さらには洗濯小屋や倉庫、ブランコ、滑り台までも作った。
いつしか避難所の方々にも受け入れられ、家族のようになった。
避難所の子供と毎日サッカーをしたり、釣りに行ったり、家があった場所で思い出を探したり、夜になると薪ストーブを囲んで遅くまで語り合ったり・・・。
しかしいつまでもそんな生活はつづかない。
二次避難で仲の良かった家族が別の避難所へ移り、さらに避難所の統廃合が行われると当然のように僕の居場所はなくなった。
明日から避難所を出てください。
もちろんそれが本来の姿であり何の文句も言えない。
僕は次の日荷物をまとめ避難所を後にする。
その頃になると僕のことを応援してくれていた企業や仲間からの救援物資で荷物もかなり増えていた。道具だけではなく食べ物、衣料などだ。
もちろん自転車では積みきれなかったが非常に幸運なことに軽トラックの支援も受けていた。
企業からの貸与という形だったが僕が管理していたので引っ越しは比較的楽に出来た。
それから避難所常駐、つきっきりという形の支援ではなくなる。
もちろん南三陸町での支援は続いたが、例えば全壊ではなく半壊になった家はなかなか遠慮してボランティアセンターへのニーズ申請をしないので手が足りなくなっていた。
そういった場所でお年寄りにはきつい荷物の移動や使えなくなった小屋などの解体を行うことはできた。
他にも、津波をかぶった寺の木を伐ったり東京で仲間が発足したボランティア団体の斡旋なども行うようになる。

そういえば4月中頃だっただろうか。
自転車で仙台に立ち寄った時に出会った東京から視察に来ていた女性から電話がかかってきた。
彼女は仙台でボランティアをした後一度東京へ帰り仲間を集め新しく団体を立ち上げるという。
舞台は石巻牡鹿半島。
少し離れた場所だったが支援者同士、互いに連携していくことを約束した。
それからは何度か実際に人員や救援物資を送ってもらったりと、かなり協力してもらった。
少しづつ関係を築き、6月。
御神輿を作ってほしい。
そう頼まれた。
僕の祖父は横浜でかつて御神輿を作っていた。
僕自身も真似して学校で簡単な御輿を作り、披露したことがあった。
もう作ることをやめて何年も経つがどうにか作って欲しいらしい。
即答できなかったがとにかく様子をみるのと話を聞くため一度現地に行くことに。
そのころ彼女(中川千鶴さん以下千鶴さん)の団体はトモノテという名前になり活動場所も牡鹿に加え雄勝に広がっていた。
そして千鶴さんと仮設市役所になっている元・老人ホームで再会。
地元雄勝町震災復興まちづくり協議会の高橋頼雄さんを紹介される。
頼雄さんは元々(有)高橋頼母硯店を営んでいた硯屋さんだ。
震災により硯の工場は全て流されてしまった。
僕は頼雄さんと二人軽トラックに乗り、壊れた神輿を見せてもらいに行った。

津波により大きな被害があった雄勝小学校軒下。
土台から真二つに割れ、ぼろぼろになった御神輿がそこにはあった。
かつてこの御神輿は街を巡り、無形文化財となっている雄勝法印神楽とともに新山神社に奉納されていたという。
その新山神社、小学校のすぐ上にあったのだが、神社につづく階段は根こそぎ飲み込まれ、神社のあったところに上がるには崖沿いに行くしかない。
そこにもたくさんのがれきがあり、足場はかなり悪い。
頼雄さんとともに長いバールを一本持ち、その崖を登って行った。
崖を上がるとあまりに悲惨な状況に絶句した。
神社は完全に倒壊、屋根からひっくり返り高台だったからだろうか、設置されていた鉄製のフェンスに引っ掛かっていた。
頼雄さんは是非この神社の材料を使い、神輿を作ってほしいという。津波の記憶を世代を超えて語り継ぐために。もう一度お祭りをするために。
僕は頼雄さんと文字通りがれきの中から材料を探し、軽トラックまで持っていく。
材自体があまりに重いため崖の上から下ろしていくのも一苦労だ。
たくさんの材の中から、僕が選んだのはケヤキ材だった。
しかしケヤキ材は思ったより少なかった。
「ここの神社は一度建て替えたんだ。昔はもうちょっと高台にあったんだけどね、なぜだか今のところへ移築したんだよ。」
その移築がなければ、もしかしたら神社は無事だったのかもしれない。
それから僕が南三陸町まで一度その材を持って帰ってくる間、頼雄さんにの言葉が頭をよぎった。
「雄勝の硯ってのはさ、600年も続いてきたんだよ。その間色んなことがあったに違いない。だから、今度もこんな津波で負けちゃいけないんだ。」
伝統とはそういうことだ。
今ここに守らなきゃいけないものがある。
命がけで守ってきたたくさんの思いがある。
だからこそやらなきゃいけないんだ。
そんな頼雄さんの思いと祖父の神輿への思いを重ねながら僕はひとり軽トラックで三陸道を走っていた。
守るとはどういうことか。
つなぐとはどういうことか。
それから僕はオーストラリアへ南三陸町の子供達を連れて行った。
その詳細はまた別で書くことにする。
僕は長くいた東北を離れた。
神輿を作るために。
東北に向けしなければならないことは終わらない。
やり残したこともたくさんある。
だけど、僕にしかできない復興支援。
それが、御神輿だった。
神輿はただ作ればいいってわけじゃない。
材木の加工ではないのだ。
神輿出来たよ、はい、あげるね。
では済まされない。
それこそ人生かけて一生付き合っていく覚悟が必要だ。
神輿はひとりじゃ上がらない。
そこに神輿の本当の意味、そして魅力がある。
加工は大変なことも多かった。
まず材が古すぎる。
何百年も経っているからだろうか、材が乾ききっていて簡単に割れてしまう。
古いケヤキは、大変弱くなる。思ったより材が古い。
これでは普通の方法での加工は難しい。
何度も失敗しながら手探りでやって行くしかなかった。
そして何より頼りにしていた祖父の体調が震災後帰って来てから急激に悪化に向かい、歩くのも大変になっていた。
祖父はあまり手を動かせない。
やるのは僕一人だ。
作業場は筑波大学構内某所。
夜になると投光器を二つ付け、真っ暗やみの中作業をしていた。
ほとんど一人きりの作業。
寒くても、寂しくても、やるしかなかった。
しかし辛くはなかった。
実際に少しづつ出来あがっていくのはとてもうれしく、楽しかった。

製作の途中、学園祭や横浜の実家の御神輿もあった。
2010年の学園祭で御輿があがり、祖父に来てもらったことは素敵な思い出だ。

また今年も御輿は上がった。
これも守っていかなきゃいけない御輿のひとつだ。

でも今年は祖父に見てもらうことは出来なかった。
もう祖父は歩けなかった。
実家の御神輿でももう茶木をもつことは出来ず、最初と途中だけ少し顔を出しただけだった。
車椅子に座りながらも、嬉しそうにしていた姿は忘れない。
祖父は亡くなった。
あまりに突然、静かになくなった。
朝起きると祖父は床に倒れていた。
最後の姿だった。
じいちゃんはすごいなあ。
あんなに大っきくてたくさんの人に感動をあたえる御神輿を40年以上守ってきたんだ。
今でも毎年たくさんの人が来てくれて、たくさんの人に愛されて。
小さな頃から、たくさんの笑顔に囲まれて大事に大事に担ぎ継がれてきたんだね。
それを僕も守らなければ。
つながなければ。
簡単にもう出来ないなんて言わないで。
じいちゃんが人生をかけて来たの知ってるでしょ?
御神輿作るのどれだけ大変かわかるでしょ?
そこに人生をかけたじいちゃんを知っているでしょ・・・。
御神輿は僕が守らなきゃ。
いや、僕だけじゃ守れないから。
僕と、みんなで。
みんな、守りたい、続けたい、そう思ってくれれば必ず続くし必ず次につながる。
そうやって文化は作られてきたはずなんだ。
雄勝にも、もう一度。
御輿はなんとか完成した。
祭りの朝、雄勝へとたどり着いた。
雄勝は久しぶりだった。
御輿を作り始めてからは一度も行っていない。
千鶴さんや頼雄さんはちっとも変わってなくて、それは嬉しかった。
でも変わっていないのは街も同じ。
何が出来ているわけでもなく、何もないまま。
真っ暗なまま。
このお祭りはただのお祭りじゃない。
仮設商店街のオープニングイベント。
全ての はじまり。
そこに僕が作った御輿があるのは本当に光栄なことだ。
たくさんの人の思いが集まる。
担ぎ手は地元の方々。
そして震災後ずっと雄勝町を支え続けてきたボランティア、LOMのみんなだ。
御輿には 絆 の一文字。

それが上がる風景が、雄勝に少しでも元気を届けていければ。
そう信じ、御輿を組み立てていく。
南三陸から帰り,やっとの思い出作った御輿。
たくさんの思いが詰まった御輿。
それがついに、上がるんだ。



みんなみんな、泣いていた。
悲しくてじゃない。
嬉しくて。
たくさんの人の喜びが御輿を上げた。
必ずまた上がる。
僕もずっとずっと上げていきたい。
この御輿を。
守り、育てる。
みんなで。
そう、神輿はひとりじゃ上がらないんだ。