カリフォルニア州の中部、アプトス市にあるカブリオ・カレッジ、そこにあるお気に入りのベンチに私は腰をかけている。自身のノート・パソコンで宿題やメール・チェックを行う。ふと、私はどこまでやってこれたのだろうか…日本からカリフォルニアまで、を思う。齢29歳。この6年間は、人生で最もドラマチックであった。いまのところ、私の人生は何度も浮かんだり沈んだりだ。何が起こるかなんて想像もつかなかった― 誰かのアドバイスに従って人生の岐路を選んできた。私がこれから話そうとしているのは、そうした生き方から己と他人について学んだこと、そして、その結果についてである。私は、私の為に用意してくれた選択肢を全うしなければいけないと思っていた。必ずしもそうではないと気づいたのは、ある年配の日本人男性との出会いであり、この人物は私にどのように人生を成功させるか― 過去のことは忘れ、前向きに、目標を持ち、他人を思いやる、ということを教えてくれた。
2001年以来、私は、オオサカにある某新聞販売店で働いており、毎週6日間、早朝と夕方の新聞配達、電話受付、その他雑用、そして上司の指示をすべてこなしていた。月々の給料に加え、通っていた大学への授業料を奨学金で全額給付、また会社の寮も与えられた。ひとりの上司には特に気に入ってもらい、私的な会話も増えた。ある時、私がその上司に言ったのは、アメリカのシアトル市にある大学へ留学するつもり、ということであった。私は、その大学で1年間英語とビジネスを学び、そして現地の会社でインターンシップをするつもりだった。私の上司は是非紹介したい人がいると言って、その人物が今働いている同じ職場にいることを明らかにした。上司によれば、その人物は年配の日本人であるが、アメリカの大学を卒業し現地で働いていた、という。
2004年の11月14日は早朝5時半、私は自分の部屋で一本の電話を受け取り、それは私の上司が話していた年配の方からであるとわかったが、名をヒライと言った。カレは私がシアトル留学することを聞き、私と会ってみたいと言った。どうしようか迷ったが、私は紹介をしてくれた上司へ恩義を感じていた。ヒライと名乗る年配の方は近くの公園で会うことを提案した。また、カレは現金3万円を持ってくるように、とも付け加えた。私は困惑した。3万円といったら大金であったし、どのような理由があってのことだろう?また、公園へは30分以内にという新たな条件も加わっていた。頭の中で考えがぐるぐる回っていた、行く、行かない、行く、行かない。私は行くことにした。一番近いATMに急ぎ、必要分を引き出し、指示された公園へ走った。神経質になっていた。まだ外は寒かった。
私がその公園に着くと、一人の年配の男性が園内のベンチに座っているのを確認し、その人の隣に一匹の犬が寝転がっていた。近づくと、この男性がヒライさんに間違いないと思った。カレは軽く会釈した。お互いの自己紹介をすませ、握手を交わした。カレは180cmもの長身で、黄色のパーカをまとい、頭にはドジャースのベースボール帽を被っていた。また、リーバイスのジーンズとナイキのシューズも着こなしていた。カレとの話でわかったことは、歳が63であることだった。ぱっと見ればアメリカの高校生のような雰囲気ともいえた。カレは連れてきた犬を紹介したのだが、名をアガペーといった。
カレがすぐに知りたかったことは、私が例の現金を持ってきたかどうかであった。私は、それを手にとってみせた。カレは私の顔をみて、ほほえみ、そして、こう言った、「実はこれがキミへの最初のテストだったのだよ。」「どんなテストですか?」と、私は尋ねた。「私がキミとうまく歩んでいけるかどうか、それを決めるためのテストだ。」と、カレは答えた。私は、「どういうことかわかりません。」と、言うと、カレは次のように話した、「キミに英語を教えることはできる。しかし、私はそれを超えるものを教えたいと思う。つまり、アメリカ的な成功する人生の送り方、とでも言おうか。」
私はカレに尋ねた、「成功とはどういう意味でしょう?」、と。すると、カレは自身で成功を定義したが、それは金銭的に自立しており、車、家、ボート、など何でも買えるくらいお金に困らない、ということだった。これについて、私は暫く考えた末、自分も成功したいと決心した。「いいお話ですね。では、どのように教えて頂けますか?」と、私は尋ねた。カレは、「では、私の自宅へ一週間に2回来なさい、そして、代価を支払うこと、これが大切。」 私は持っている現金を差し出した。「お金については、後で話そう。」と、カレは少しモゴモゴした。私はカレの自宅の住所を教えてもらった。別れの握手を交わし、その場をあとにした。
私は天にも昇る気持ちであった。ついに、自分の人生を変えるチャンスがやってきた、というたぐいの感覚だった。私はこのとき22歳で、自己嫌悪の塊であり、日本社会を斜めに見ていた。自身の成長過程と家庭環境は決して納得できるものではなかった。幼いころから事情により、父方の祖母が私の面倒を見るようになったのだが、その教育方針はスパルタであった。私の学校の成績は完璧でなければならなかった。自宅での掃除のようなお手伝いは、時間どおり終わらせる必要があり、これもまた完璧にこなすことが必須であった。何をしてもたいてい一言二言文句を言われた。常にイライラしており、その腹いせは私によく向けられた。だが、私は、「いい子」になった。私には弟がいるのだが、小さい頃、わたしより子どもらしく、いい子になるのに抵抗があるようにみえた。一家は、お金の無駄遣いがほとんどなかった。生活に困ることはなかった。祖母は「正しい」服装へのこだわりがあり、たとえば、わたしはシャツやスラックスを着た。小学校のともだちはジーンズやTシャツを着ていた。自分が時代遅れと思った。なかには私のそんな服装をからかう輩もいた。だから、中学校、高校へと入学したとき、みな制服を着ていたので、服へのからかいがなくなると思うと安心した。だが、私の一匹狼的な存在によってか、いじめのターゲットになり、さらに内向的になった。
人生レッスンの始り
ヒライさんに出会った翌日、約束に従って、私はカレの自宅に朝7時ちょうどに着いた。仕事と学校の多忙なスケジュールではあったが、約束を守ることは重要であると認識していた。
私は門を通り抜け、その家の玄関に立った。カレの自宅はとても古く、暗いイメージを抱いた。その玄関は木製でガラス戸であり、光の反射によっては、玄関奥の動きが見えた。その玄関を軽くたたくと、ヒライさんはアガペーと一緒に現れ、和やかに私を迎えた。アガペーとじゃれたあと、ヒライさんは、「ほら、2階へ上がれ、それと、コーヒー持ってあがるから待っとれ。」と、言った。
私は2階にあがると畳の上に正座した。まもなく、カレは階段を上ってきたが、お盆にコーヒーを2カップのせており、ひとつを私に差し出した。私はとても緊張していたので、そのコーヒーを一気に飲み干し、気持ちがいくぶん和らいだ気がした。カレと対面で座っていると、ヒライさんはレッスン中におけるルールについて、説明した。「どんなルールでしょう?」と、私は尋ねた。カレは、「ルールその1、今から、英語のみを使用すること。ルールその2、紙とペンを持参し、話すことすべてを記録すること。ルールその3、トイレに行きたいときは手を上げること。」と、言った。わたしは、同意の旨を伝えた。そして、レッスンが始まった。
この日のレッスンでは、ヒライさんは一枚の紙を差し出したのだが、そこには「新しい一日」という題の詩が英語で書いてあった。この詩は、カレにとってかけがえのないもの、という話だった。アメリカ原住民から伝わるものと、カレは言っていた。(この詩は実際のところ、ドクター ハートスィル ウィルソン氏によるもの、と何年もの後にインターネット検索をして知ることになる。) ヒライさんは、毎日この詩を誇りを持って唱えていた。カレはそれを私と分かち合いたいと考えていた。カレが文毎に区切って読むと、私はそれを真似して繰り返した。
「新しい一日」
「今 新しい一日が始まろうとしている
天は 私に自由に使えるこの一日を与えた
私は この一日を無駄にすることも あるいは 生かすこともできる
しかし 今日何をするかが重要なのだ
なぜなら私は 私の人生の一日という時間を 犠牲にしているからだ
明日がやってくると 今日と言う日は二度と戻って来ない
自身に残るのは その一日で取引したものである
私は それを失うものではなく得るものに
悪ではなく善であり
失敗ではなく成功にしたい
後悔しないように
私が支払った代価に対して」
ヒライさんの説明によれば、この詩は時間への認識と感謝について学ぶものであった。カレは、私がこの詩を理解したかどうか尋ねた。カレが言うには、成功者と呼ばれる人々はいつも時間を大切にしている、という。「新しい一日」という詩は、言い換えれば、人々の心構えを教えるのもであり、それは、待ってましたとばかりに朝を起き、新しい一日を手厚く迎え、去る日からのネガティブな考えを引きずらない、ということだった。ヒライさんはまた、別の紙を私に見せたのだが、そこに示されたチャートからは、一般的に、人々が時間を有効に使っていないことが読み取れた。その日のレッスンが終わり、私が帰ろうとすると、カレは例の3万円について話した。今後の3ヶ月分のレッスンをするにあたり授業料という形で渡した。私は、「新しい一日」の詩を持ち帰り、繰り返し読み、覚えようとした。それまで私は、時間について何とも思わなかった。すると、これまでの時間の使い方を思い出したのだが、たとえば、私は勉強よりもテレビゲームに何時間も熱中した。友人との遊びばかりで、親とはほとんど話さなかった。
翌週の金曜日はレッスンの日であり、私はヒライさんの自宅へ朝7時ちょうどに着いた。いつもの門を通過すると、カレが外に立っているのが見えたが、このときカレは、ドジャースのスタジャンにおそろいのベースボール帽、そしてパジャマのようなズボンに下駄を履いていたこともあり、少々変な感じがした。そんな気をよそに、カレは、私に2階へ上がって待つよう促した。カレはこのとき、熱々のコーヒーに加えて、アメリカ直輸入のチョコレートチップクッキーをお盆にのせて、2階へ上がってきた。レッスンが始まるとカレは、「今日は衛星放送でメジャーリーグの試合を見るぞ。」と、言った。カレはテレビをつけると、メジャーリーグ野球がアメリカ人の大好きなスポーツであることを説明した。また、カレが付け加えたのは、ゲームの開始前に星条旗を歌えることが名誉なことである、ということだった。私も覚えなければ。
ヒライさんはこのときの試合観戦を存分に楽しんだが、私はテレビから聞こえてくる野球解説者の言ってることを理解できずにいた。そのあと、私はカレから英語で書かれた忠誠の誓いの紙を渡された。カレは私にそれを翻訳し、また、あたまで考えずに言えるようにすることを宿題としたが、これは、私が忠誠の誓いを無意識で言えるレベルにするため、だった。一方で、私は仕事と学校の両立で猫の手もかりたいほどであった。宿題をする時間は通学中しか見当たらなかった。それまでそれは、仮眠に使っていた時間だった。だが翌週のレッスンまでに、なんとか暗唱できるようになった。さて、その次のレッスン時、カレは、開始と同時におもむろに立ち、右手を左胸にあて言うには、「こんな風に言うんだ。」、と。カレによれば、アメリカの学生は毎朝、アメリカ国旗の前で忠誠の誓いを暗唱し、その旗はどの教室にも掲げられていたそうだ。この慣例はすべての公的な式前においても行われていたらしい。
「忠誠の誓い」
「私はアメリカ合衆国国旗と、
それが象徴する、
万民のための自由と正義を備えた、
神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、
忠誠を誓います」
最初はこの意味はおろか英文すらよくわからなかった。ヒライさんは私に辞書をつかってこの英文を日本語に訳するよう言い、翌週私は自分の翻訳文を見せた。カレはあまりいいできとは思わず、そのため一語一語意味を私に説明した。
レッスン中、ヒライさんはいつもホットコーヒーとSnickerのチョコレートバーを差し入れた。時々カレは、一品料理をもってくることがあり、たとえばすき焼きだが、これでもかというくらい野菜、肉、そして豆腐が入っていた。とてもうまかったが、カレが作ったのかどうか、不思議に思っていた。というのも、カレはアメリカンフード、たとえばハンバーガー、ピザやホットドッグしか食べていなかったからだ。ある日の午後、カレは一階に住んでいる女性を私に紹介した。奥さんだと、そのときは聞いた。(実は元奥さんだったと知ることになるのはもっと後のことである。)
ヒライさんが一階の台所から戻るのを待っていたとき、私はカレとのレッスン部屋を眺めていた。一枚の表書状が年季の入った額縁に飾られており、その英文で書かれた文章を読むと、ヒライさんがアメリカにおいて1964年に自動車のナンバーワン・セールスマンだったことが判明した。アメリカ・カー・セールス協会からのサインが記載されていた。また、私はレッスン用の机に置いてある数冊の本を手にとって見た。すべて高級車についてだった。ヒライさんは部屋に戻り、いつものように対面して、いつもの使い古した濃い緑色の座布団に座った。この日は、レッスン用の紙を使うことはなく、テレビをつけた。チャンネルを変え、メジャーリーグベースボールの画面になった。カレは、「今日は試合を楽しむとしよう。」と、言い、なぜレッスンになるかを説明した。それは、アメリカの文化に親しむことで、現地に行ったとき、地元の人々と交流できるから、というものであった。2時間ほどテレビ中継を見た後、カレは私に毎日寮で見るよう勧めた。何度も繰り返すが仕事と学校の両立で余分な時間はなかったのだが、インターネットで試合結果くらいは見ようと思った。
とある日のレッスンで、ヒライさんが説明した内容は、日本人のたった5%しか金銭的に成功していない、というものだった。もし、私がそのグループに入りたければ、「シンク・アウトサイド・ザ・ボックス」必要があることだった。「どういうことでしょう?」と、私はカレに尋ねた。一度も聞いたことがないフレーズだったからだ。カレは、「仕事に勉強に努力するのは当たり前だが、アイデアがなければいけない。」、と。私は、「どんなアイデアでしょう?」と、言うと、「誰もがほしがる何かを提供する、アイデアだ。過去にトースター、自動車、電球、などなど 発明はアイデアから生まれた。発明家は長年かけてアイデアを練ったという。誰も途中で投げ出したりしない。オマエラみたいな根性のないワカいモンと違ってな。」と、カレはいつもの皮肉を混ぜて話した。私が門を出たとき、別の詩が書かれた英文の紙を手渡された。
「いけないよ 君 やめては」
「すべて悪天候 すべて悪条件、君 いけないよ やめては
疑いの雲だって銀のおおいだろう
つらいんだろうがガンバローよ
最悪の時こそ 君 いけないよ やめては
あゆみは遅く スロー
だけどあと一歩かも
とぎれる呼吸で見えないんだね
遠くに思えるんだけど近いんだ
君 いけないよ やめては」
私は、以降シアトルへ行くまでのあいだ、毎週ヒライさんのもとへレッスンを受けに行った。教わったすべてに対して、私は感謝の気持ちでいっぱいであった。カレは私のメンターであった。師と仰いだ。3ヶ月間であったが、カレの人生について知ることもできた。
師匠の話によれば、18歳のときに渡米し、その目的は一財産を築くことだった。その理由のひとつが、カレの母親の手術費用に必要なお金を稼ぐことであった。その母親には保険でまかなえる金額は到底なく、かといって手術しなければ先はないというものだった。師匠は渡米後、カリフォルニア州はロサンゼルス市にあるビルナカサキ氏のイチゴ農園で働くチャンスを得た。ナカサキ氏はこの若者すなわち師匠を気に入り、その将来性を見た。ナカサキ氏は師匠がアメリカで合法的に滞在してほしいと思った。そして、保証人になったそうだ。グリーンカードを取得後、師匠に大学へ行くこともすすめた。ナカサキ氏の期待にこたえ、ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学で心理学を専攻した。
当時、師匠は大学の授業料を自分で賄うため、近所の一軒一軒をまわり百科事典を売った。カレは、誰にどんなものでも売ることができた。この経験と心理学で学んだ知識を活かし、カレは本よりももっと儲かる、自動車を売ろう、と決めた。その3年後にカレは、カー・セールス・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
師匠の母親はカレの稼ぎが間に合うのを待たずに他界した。失意の底からなんとかはいあがったものの、収入が増えると、カレはギャンブルにのめりこみプレイボーイの生活をはじめた。人生はよかった、いや、良過ぎた! 26歳のとき、カレは莫大な借金を背負い、アメリカを去らなければならなくなった。日本に戻ると、カレは様々な職に就いた。
師匠は、まもなく結婚してこどもをもうけていた。だが、家族をほったらかすことは頻繁にあり、おもに商業出張であった。カレは、日本国外にいる必要があった。第一次湾岸戦争時、カレは水の供給を手配する中間業者だった。その後シンガポールに移ったときは、地元企業役員に、アメリカスタイルのビジネスを取り入れるよう、研修を行った。カレの妻は、ずいぶん前に夫に愛想をつかし離婚していた。
師匠はふたたび、ひと財産築いた。ピーク時、2001年、カレはニューヨークにあるワールド・トレード・センターに個人事務所があり、ビジネスパートナーもそこにいた。ところが、その年9月11日のワールド・トレード・センター崩壊により、カレはパートナーとビジネスをいっぺんに失った。カレは人生のドン底にたたきおとされ、リタイアすることを決心した。カレの資産は凍結した。一文無しで日本へ戻った。カレは元妻と借家で住む結果にいたった。唯一の収入は、近所の新聞販売店で新聞配達を毎朝毎晩することで得た。以上が、師匠から聞いた話だ。私がカレに会ったのは、それから3年後のことである。
私がときどき感じたのは、どうして師匠のような成功者があんな古びた家に住んでいたのだろう、ということだった。また、カレがなぜ新聞配達をしていたのだろうという疑問もあった。カレが、健康のため新聞配達していた、と言っていたのを覚えている。
ワシントン州のシアトル市
2005年の3月15日、私はシアトルに向かう途中だった。師匠からの最後の言葉は日本に戻るな、であった。カレは、私がアメリカで大学を卒業するよう念を押した。私の父親は、というと、日本に戻り、卒業論文だけを残した大学を卒業するように、と話した。
シアトル行きの機内で太平洋を見下ろしながら、私はたっぷり時間がありそれまでのことを思い出した。なぜ、私はあれほどまでに師匠の言葉を聞き漏らしたくなかったのだろう?カレとのレッスンで学んだことをどうやって生かすか、ほとんど想像できないでいた。どうやって新しい自分をつくるのだろうか、と。それまでの人生、私はずっと臆病であった。言いたいことが言えず、自分に自信がまったくもてなかった。だが、24時間以内に私は新たな環境に突入し、自分で人生の決断をしていかなければならない。不安だった。私の隣に座っている外国人夫婦は、私と会話しようと、どこへ行くか質問してきた。「西です。」とだけ答え、私は寝たふりをした。
シアトル空港では、ホストファミリーが到着にあわせ待機していた。私のホストファミリーはとても人のよさそうな感じで、運転してきた車に招いた。それから、私たちはダウンタウンとその郊外を車でみてまわった。3ヶ月も経った頃、ホストファミリーと別れ、アパート暮らしを始めることに決めた。これは、私の師匠の言っていた、自立をするいいきっかけと、考えての結果だった。私はいつ帰宅してもいい状況を望んでいた。ホストファミリーとの生活では、門限があった。
一年はあっという間に過ぎた。私の英語は上達した。地元IT企業におけるインターンシップはとても興味深い経験だった。主だった仕事のなかに、顧客からの未払いが、あまたあるインターン先の会社の口座の調査、があった。私は成果を上げることができ、2週間で100万円以上の回収に成功した。自慢できるものだった。何か謝礼でもあれば、と思うかもしれないが、契約上、それは違法になるので、考えることはなかった。実際は、謝礼の代わりに、パーティーを開いてもらいスターバックスのギフトカードと副社長からの表彰を社員の面前で頂いた。なんにせよ、私は自分の達成したことに喜んだ。
たまには遊びも、ということで、シアトルでの留学先の大学において、他の学生を巻き込んでダンスクラブを立ち上げた。活動内容は、日本の着物を着て、日本の伝統とヒップホップを合わせたダンスを披露することだった。地元の祭りでのストリートパフォーマンスや、大学での卒業式でゲスト出演した。自分で始めたグループ活動だったわけだが、仲間をひっぱっていった自分自身に誇りをもつようになった。私の師匠は、電話で私の活躍を伝えた際、とても喜んでいたようだった。しかし、やはり日本へ帰ることは選択肢にはないぞ、と言っていた。私は父親とも電話したのだが、やはり日本へ帰国しきっちり大学を卒業するように、と言っていた。
シアトル生活最後の日、私は師匠に電話し、日本へ戻ることを伝えた。カレはそのことに猛反対だった。カレは電話でこう言った、「その決断は正しいとは思わない。やはりオマエはそこへとどまるべきだ思う、が、結局のところはオマエの人生だ。」 私はカレをがっかりさせたことにすまないと思った。シアトルで滞在を続けるには、あまりに障害物が多すぎた。合法的に仕事する許可はなく、一年間留学プログラムは終了し、そして、新たなビザ発行やその後のために必要な金はなかった。私は2006年2月に日本へ帰国した。まもなく師匠は私に電話をかけ、「いいか、オレのレッスンをもう一度受けに来い、そして同じ新聞販売店で働き、自分の力で大学を卒業しろ。」と、言った。以前の新聞販売店との契約はすでに切れていた。私は、新たに一年契約するか、他の方法か、いずれにしろ日本の大学を卒業するつもりだった。結局、一年契約で新聞配達しながら大学を卒業することにした。師匠は別の電話で、「もういっぺん鍛える。ようくそれを考えてみろ」と、言った。
師匠から学んだレッスンは、果たして私のシアトル留学に役に立ったのだろうか?私がシアトルでホストファミリーを離れアパートに引越ししたのは、ルールに縛られない自由を味わいたかったからだ。私は23歳。ナイトライフや女の子との出会いを楽しみたかった。日本では、ひとりも付き合ったことがなく、アメリカ人の彼女ができたらいいなと願っていた。それは、実際には起こらなかった。私はネガティブで内向的で、流暢でない英語で会話し恥をかくこと、をおそれていた。アパート暮らしゆえ、私のコミュニケーションスキルは改善されることはもちろんなかった。学校の英語の授業にはまじめに参加し成績はよかったが、他のクラスメートと話す機会があるたびに、英語を間違えることに怖気づいていた。だから、インターンシップで良き上司に出会い、恵まれた環境で活躍できたことは、驚きと同時に、自分も成長したな、と思えた。
シアトル生活の終始、アメリカの食べ物に目がなかった。私は、ハンバーガー、ポテトチップス、コーラ、ピザ、スパゲッティ、そしてタコスを食べつづけた。顔が丸々太り、人生で初めて腹がたるんでいた。太り続けたので、日本に帰国したとき、私の家族は私を見てショックを隠せなかった。アメリカン・ダイエットと比較すると、日本の食べものは野菜と米が中心で、魚や肉はたまにだ。そして、一品あたりの量が少ない。ともかく私が1年前の体型に戻るのに1年以上かかった。
日本に帰国
同じ年つまり2006年の5月、私は師匠の元へ訪れ、私が日本で就職活動していることを伝えた。大学新卒の就職活動は卒業の一年前から始まっていた。カレは最初がっかりした様子だったが、後に、「まあ、日本で就職することがオマエの望むものであるなら。」と、言った。私たちは夕食をともにし、私のシアトル生活で話が盛り上がった。私がカレのレッスンを生かし卒業式でスピーチをした際、どれだけビジネススクールの講師陣をうならせたか、を話すと、カレは満面の笑顔を見せた。夜遅くまで会話に花を咲かせた。カレの「奥さん」のつくった料理とビールをおいしく頂いた。
翌月、私の将来働くであろう企業は新たに内定を得るであろう学生を、最終面接に招待し、内定通知をした。なぜか、私は自分の将来を考えてワイワイする気にならなかった。毎日他の人と同じように出勤して帰宅して、その繰り返し…私はもっと刺激のある人生― かつて師匠がレッスン中に話した成功の人生、を送りたかった。私は、車に家に、銀行口座にはお金がたーんと、それも、短い時間で、すべてが欲しかった。次の日の夜はほとんど寝ることができなかった。私は本当に就職したいのか?「明日師匠に話そう。」と、私は自分に言い聞かせた。心の中でずっと、私はまわりに言ってやりたかった、私は普通のやつらとは違う、と。私を見下し、あざけり、さげすんだ学校の同級生らに、ぎゃふんと言わせたかった。また、私は、父方の祖母にメンと向かって言いたかった― 私はこんなにも必要とされる大人になった、と。すべてひっくるめて私の夢を叶えるには、どうすれば?
翌朝、私は師匠のもとを訪れた。カレはいつものように微笑んで迎えてくれ、お菓子とコーヒーを運んできた。熱々のコーヒーをすすったあと、私はカレに言った、「ヒライさん、私は決めました。あなたのようになりたいです。成功の人生を送りたいです。どのようにしてこれを達成するか、指導してください。」、と。カレから突然微笑みは消え、そしてカレは真剣なまなざしを見せた。そして、こう言った、「そうか。あい、わかった。良くぞ言った!真に自分で人生の決断をしたのだから。オレは全力で応援するぞ。覚悟しておけ。だが…正直、オマエの気がこのように変わるとは思わなかったがな。」
人生レッスンの追加
師匠の提案に従い、私は再びカレとの個人レッスンを受け始めた。カレは、すでに、私のためにアイデアを用意していた。私は人と違う道を自分で選んだことに安堵していた。ところが、この時期、私を知るひとびとはとても怒りを覚えていたように思えた。というのも、私は就職内定― 具体的には一流企業で安定した収入を得るチャンスをどぶに放り投げたからだ。私の友人や家族のメンバーは、私の気が狂ってしまった、と思った。私の父親は、私が師匠の弟子であることに怪しさを感じており、警告した。父親は毎日通勤し、家族を支えた。他方、師匠は何度も財産を築いては失い、こどもや妻とほとんど一緒にすごさなかった。師匠は同じことを私に約束したのだろうか?私は父親を誰よりも尊敬していた。が、師匠の生き方が刺激的に思えた。
2006年の6月から2007年の3月まで、私は師匠から一週間に1回レッスンを受けた。カレを信じていて、カレの時間を授業料として納めた。年間6万円だった。私は、ひたすら働き、勉強した。優秀な成績で大学を卒業したかった。また、私は、まわりの人々から、自分の決断が正しかったと言ってもらえるよう、そう心のどこかで望んでいた。
師匠とのレッスンを通じて、私はカレ考案による例の新しい計画を学んだ。計画の冒頭部分は、なかなかよさそうな話だった。カレは言った、「オマエの最初のゴールはカリフォルニアにあるパロアルトへ行き、英語を勉強し、仕事を見つけることだ。」 パロアルト市といえば、世界中の優秀な人材が集まるスタンフォード大学がある。そこへ入学ということか。多くのIT関連企業がパロアルトで誕生し、それらの立ち上げにスタンフォード大学の卒業生が多くかかわっていた。ところが、師匠が提案したのは、情報収集にインターネットを含め一切事前収集をしない、ということだった。カレの考えでは、現地にとにかく行って、出会う人々から情報を得る、というものだった。さらに、お金は持っていってはならず、その理由は、私がすぐに仕事できればすむ話だから、であった。パロアルト市に、家族はおろか友人知人はいなかったが、私はある種、楽観的に計画を聞いていた。だが、これは、チャレンジの中のチャレンジともいうべきだった。私が生き延びること、それが、この計画の鍵であった。私の残りの人生に影響するレッスンを学ぶことになろうとは、はてさてこの時点で、どうして想像できたであろうか。
この狂気の計画にそって、リュックかばん、千円札、そして身分証明のためのクレジットカード(残高ゼロ)を持って、私はオオサカ空港までの電車に乗っていた。2007年4月のことだった。前日風邪を引いたせいか、電車の中で気分はまったくすぐれないものだった。私は、家族にメモを残したのだが、そこには次のように書いた、「行ってきます。今生の別れにならないといいです。」 私の父親はその数日前に20万円を私に渡していた。私の持っていた郵便局口座にそのお金を預け、ゆうちょカードと通帳は家に置いてきた。これもすべて、生き残りを賭けた計画を実行するためだった。私は、それまでの人生で、先の安全と保障に準備をしないときなど一度たりともなかった。私の未来は、正に空白のページだった。何を描くのだろうか?
カリフォルニア州のサンホセ市
私はサンホセ国際空港に遅く着いたのだが、それは、飛行機のエンジン・トラブルによる出発のずれのためであった。午後1時に着くつもりが、夜の8時をまわっていた。ともかく帰りの航空券をトイレのゴミ箱に捨て、バスロータリーを探した。夜がふけすぎていて、パロアルトへ行く情報を集めるには遅いと思わざるを得なかった。サンホセのダウンタウンへ行こうとしたが、ライト・レールに間に合わなかった。5マイルほど徒歩で向かうことにした。まず、その日の夜をすごす場所から探すことにした。パッと思い浮かんだことは、野宿するか、24時間開いている場所でぶらぶらすることだった。私は、通りのホテルやバーでアイデアを聞きまわったのだが、みな無愛想だったり、何を言っているのか分からなかった。ある通行人がモーテルをすすめたのだが、それはホテルのようなもので値段が格安、というものだった。
私は歩きまわることに疲れ、同時にお腹がすいた。日本からの長時間飛行が徐々にからだに影響してきた。私がとあるモーテルの主人に出会ったのは、夜の10時を過ぎた頃だった。
あるタクシー運転手が途方に暮れている私を見かけた。「乗らないか?」「いやいいよ。」 泊まる場所を探している、と、私はその運転手に言った。運転手の出身は中東に違いないと思ったが、なぜならその運転手は、口ひげを誇らしくはやし、シャルワール・カミーズを装っていたからだ。結局タクシーでとあるモーテルまで乗っけてくれたのだが、着いた先のモーテルの主人もまた立派な口ひげの持ち主で、シャルワール・カミ―ズを身につけていた。私は主人に泊まれるかを尋ねた。私の身なりを怪しみつつ、主人は私に60ドルとパスポートを見せるよう言った。私は首を振り、「ノー」の合図を送った。好奇心で、主人が話すかもしれない言語で会話を試みたのだが、その言語とはウルドゥー語であり、パキスタンの国語にあたる。その主人は驚いたようで、私がどこでその言語を学んだか聞いた。私は日本にある大学で勉強したことを話した。何がきっかけか、主人は私に家族のように接し、そのモーテルの一部屋を無料で宿泊できるよう手配してくれた。与えられた部屋は最低限の生活用品が整っていた。照明はおぼつかなく、シャワーの水は熱くなることは決してなかった。私は、忘れかけていた風邪に気づき熱が上がり始めたことを、確認した。それでもなお、私は一晩泊まれることにとても感謝した、サンホセでの夜であった。
部屋の近くは騒がしかった。別の部屋から叫び声が聞こえた。喧嘩だろうか?誰か酔っているのだろうか?私は泊まっている部屋にあった椅子に座り、それとセットの机の上で、元気がでる私のお気に入りの本を開いた。私は、なんとかして自分を鼓舞したかったし、師匠から教わったことを思い出そうとした。が、だめだった。かえって不安になった。いまだかつて人生でそれほど孤独を感じたことがなかった。前向きになるよう自分に言い聞かせた。私の目標は何だったか?ああ、思い出せ!「明日街の人々に話しかけよう、そして、必要な情報を集めよう。」
私は記憶をほりおこし、ひとつの詩を思い出した 「いけないよ 君 やめては」
翌朝、私はモーテルの主人に宿泊についての感謝を伝え、挨拶し、コンチネンタルブレックファストを頂いた。私は持参のリュックかばんにマフィンやジャムの袋をいっぱい詰め、二、三日は食べ物に困らないようにした。
午前中はダウンタウンを探索していたのだが、途中のドーナツ屋に立ち寄った、というのも、その店からとてもいいにおいがしたからだ。店内にいる人々に話しかけているうちに、そのうちの一人が私の計画、つまりパロアルトで勉強することに大変興味を示した。その人は地元に住む中年くらいの男性だったが、サンホセ・シティー・カレッジに行けば、いい情報が手に入るのではと提案し、見ず知らずの私をそのカレッジまで車で乗っけてくれたのだ。とっさに思い出したのが、その前の晩に乗っけてくれたタクシー運転手の言葉だったが、それは、「新聞を買えば、仕事の情報が見つかる。」だった。だが、持ち金の約10ドルを見て、新聞を購入する勇気はなかった。
シティー・カレッジにトライ
時間はかかったが、私はこのシティー・カレッジの履修課担当者と会うことができた。その人は若い女性であったが、私は彼女に、ここで授業を登録できるかどうか尋ねた。すると、私に授業履修登録シートの必要事項を記入するよう促した。書けるところだけ空欄を埋め、そのシートをその女性に提出すると、「住所が空欄ということはまだ引越しが決まっていないようね、じゃあ決まったら連絡してください。でも、これであなたはうちの学生よ。ようこそ!」と、言った。私は嬉しかった、というのも、少なくとも、目標のひとつである、パロアルト(に近いであろう大学)で勉強する準備が整ったからだ。「なんだか拍子抜けだな。」と、思った。しかし、一時間後、同履修課のマネージャークラスの人物が、キャンパス内でうろうろしている私を見つけ、そして、誤りがあることに謝罪したのだった。その誤りとは、私がカリフォルニアの住民だと思い込んでいたことに因るものだった。住民でない私はビザなるものが必要と言った。結果、シティー・カレッジで勉強することは白紙に戻った。だが、私は、まだ他に方法がある― パロアルトで勉強することができる道があるはずだ、と信じて疑わなかった。
ウルドゥー語でもう一晩
私はサンホセのダウンタウンへ走って戻っていた。雨が激しく降っていた。私はずぶ濡れで、治りかけの風邪がひどくなった。私は再び同じモーテルに着き、その主人にもう一晩だけ無料の宿泊をお願いした。再び泊まれることができた。こんな話は自分でも信じられないが、日本の大学で4年間ウルドゥー語を勉強し、それが、はるかカリフォルニアはサンホセのとあるモーテルで宿泊と食事を無料で得るきっかけになろうとは。日本の大学時代、私の目標はパキスタンにある日本領事館で働くことだった。が、自身の英語の運用能力が乏しく、その目標は達成できなかった。だがこうしてウルドゥー語が役に立ち、チカチカする照明と冷たいシャワーの付いた部屋を与えられたのだ。ただただ、感謝の気持ちでいっぱいだった。
サンホセに来てから、数日間が経った。私はしぶとくも生きていた。私は師匠のヒライさんが言っていたことを思い出したが、それは、「アメリカには、各市にアダルト・スクールと呼ばれる学校があり、そこでは移民者へ英語教育を提供している。政府や市の援助で学校が運営されているから、授業料はタダだ。」であった。私は、街で見かける人々に一番近いアダルト・スクールの場所を尋ねた。しかし、誰も私を助けてはくれなかった。私は、何か別の方法で情報を集めないといけない、と思った。そこで、思い浮かんだことは、旅行者がその街について情報を得る場所へ行くこと、だった。私は、とある建物へ向かっており、そこへの案内は、サンホセの空港で得たパンフレットに載っていた。パンフレットは、サンホセのダウンタウンに来た旅行者向けにつくられていた。コンベンション・センターは旅行者のための情報を提供するところ、と記されていた。私は、その日の午後2時にサンホセ・コンベンション・センターに着いた。
私は噴水を通り過ごし、その建物に足を踏み入れた。ぐるっと見回すと、入り口付近の受付で座っていた二人の女性が視界に入った。私はその受付へ近寄り、「こんにちは。」と、言った。何とか助けてもらえないだろうか、と思っていた。実際、二人の女性は私の話をまじめに聞こうとした。私が尋ねた内容は、パロアルトにある私の目的地までどんな方法で行けるか、ということであって、また、お金を使いたくないことも伝えた。ヒッチハイクを試すことが答えのひとつだった。今度は、私がたくさんの質問を受けたのだが、たとえば、「あなたは学生ですか?ビザを持っていますか?パロアルトで住むところはありますか?」で、あった。私がこれらの質問にすべて「いいえ。」と答えたとき、二人の女性は大変驚いたようだった。私は言った、アメリカで勉強したい、そして成功したい、と。私は、生き残らなければならない。私は師匠に約束していた。二人の女性は、ビザなしに勉強は不可能である、と教えてくれた。だが、私は、抜け道があると信じきっていた。私は何だかわけが分からなくなり始めた。二人のうちバーバラと名乗った女性は、私の葛藤に気づいたに違いない。私はバックパックを調べたりあたりを行ったり来たり、また窓の外を見たり、そして床に座った。二人の女性には私は正直になり、その日の夜をどこで過ごすかまだわからないこと、そして、持ち金が正味ないことを伝えた。
バーバラさんは信じられないことに、空き部屋があるから私が数晩泊まっても構わないこと、そして、彼女のコンピュータを使って私の目標を達成するための情報を得てもいいことを、言ってくれた。彼女の所有する家は1時間ほど車で飛ばした海岸沿いにあると言った。私は、耳に飛び込んできた言葉を信じられない気持ちで受止めていた!一度深呼吸して、こう言った、「かたじけないです。お言葉に甘えさせて頂きます。」 それはまるで地獄の中で仏に会った気分であった。この女性は、某宗教に伝わる聖バーバラと同じ名前だった、そして、その名に相応しい聖者のように思えた。夕方4時すぎ、私は彼女の車の助手席に乗り、彼女の家まで山を越えるドライブを楽しんでいた。後にわかったことだが、この女性との出会う確率は運命的といわざるを得ないほど低いものだった。実際、私はその日の朝パロアルトへ行く電車に乗る予定だった。しかし、電車は私が着いたときに出発し始めていた。乗車切符をどうやって買うか、値段はいくらか、それらを考えているうちに電車はすでに遠くに見えた。無賃電車はしたくなかった。電車には乗れなかったが、今は快適な車に乗っており、それも運転手は初めて会った見知らぬ人であり、その人は宿泊する部屋を提供してくれていた。私にとって、これは奇跡だった!コンベンション・センターは毎日営業しているわけではなかった。また、受付の女性は5,6人でシフトが変わっていた。こうして、師匠の言っていた、なんとかなる理論が証明された。そう、抜け道はある!粘れ!私はまだ生き延びている!!!師匠はやはり正しかった。
新生活の拠点
バーバラさんが住んでいた家はサンタクルーズ郡のとある小さなコミュニティーにあった。彼女は自宅を案内してくれた。そして、私は個別の部屋とバスルームを手配してもらった。さらに、食事まで、それもプロ顔負けの手料理を!家に入ってからずっと、ぽかーんとしていたのだが、それというのも、すべてがハリウッド映画で見たような大きく広い家だったからだ。私が滞在し始めて、彼女はアメリカ文化を分かち合ってくれた。彼女自身は移民者であり、40年以上前にドイツから来たそうだ。ときどき、私に料理、皿洗い、ガーデニング、などなどを教えてくれた。この時点では、わたしが長居することになるとは考えもしなかった。
最初、私はビザの情報を調べた、というのも、私の目標― パロアルトで勉強と仕事をすることについて、もっと情報が必要だったからだ。その目標達成には、ビザなしで来米したことは絶望的であった。サンホセやサンタクルーズにある政府機関へ足を運び、長い話の末、私は最大で3ヶ月間滞在のリミットがあることを知った。
カブリオ・カレッジとの出会い
「ビザなしだと勉強も仕事もできません。」と、私は何度も法律に詳しい専門家に言われた。滞在先から近くにアプトスという街があり、そこにはカブリオ・カレッジという2年制大学があったので、バスを使って、そこのカウンセラーを訪れた。(バーバラさんは一か月分のバス定期を渡してくれた。) カブリロ・カレッジのカウンセラーはモトコさんで、日本人とアメリカ人のハーフだった。彼女の事務室へ行く途中、私は大学のキャンパスを眺めたが、小さいと思った。ほとんどの建物が木材でできていた。場所は丘の上にあるようだった。上のほうからは、太平洋が拝めた。
私はモトコさんの事務室を見つけた。ノックして入ると、彼女に私の状況と目標を伝えた。彼女は、私に日本へ帰って学生ビザを申請するようすすめた。私はこう言った、「本当にそれだけしか方法はないですか?別の選択肢があるのでは?」、と。彼女は、「それしか方法はありません。」と、言った。もしビザなしで勉強するとしたら、違法になるかを尋ねた。すると、「違法になるでしょう。」と、答えた。私は彼女とのカウンセリング時間がオーバーしたので、ひとまず、カブリオ・カレッジへの入学申請書を持って帰ることにした。
仕事に応募
モトコさんから得た情報に私は大変がっかりした。日本からビザを申請しないと、パロアルトで勉強するという目標が達成できないというのか。師匠との約束はどうなる?しかし、問題はそれだけではなかった。ここで滞在するには、お金を稼ぐ必要があった。誰が私に仕事を紹介してくれるだろう?私はインターネットで職探しを試みた。これまでに出会った人からの話では、ある会社が私のスポンサーとなり、それにより就労ビザを手に入れる方法が唯一のようだった。インターネットにしばらくかじりついた。スポンサー、と検索した。バーバラさんは、私のために、洗練された履歴書を書くのを手伝ってくれた。いくつかの企業が私の応募に興味を持った。とても心が躍った。とある日系企業が電話によるインタビューの機会を与えてくれた。5分ほどで、それは終了した。結果について後日連絡すると言ったきり、電話が鳴ることはなかった。その日本人特有の建前にがっかりした。けれども、私は電話インタビューを始めて経験することができたので、得るものはあった。
アダルト・スクールでレッスン
私が仕事を探していた間、ワトソンビル・アダルト・スクールへ通った。バーバラさんのアドバイスによるものだが、私が時間を有効に使うべき、ということだった。彼女は私がアメリカに合法的にいられる間は滞在してもよい、だから、英語を勉強することを、勧めたのだった。アダルト・スクールの基本理念は私からすれば、とても素晴らしいものだった、というのも、英語を母国語としない移民者に英語を学ぶ機会を与えていて、その英語の運用能力を以って、アメリカ国内でその後の勉強や仕事に就くチャンスが広がるからだった。とりわけワトソンビル・アダルト・スクールでは、一般教養プログラムとして、ESL(第二外国語としての英語)と市民権クラスが豊富だった。ESLのクラスは授業料がゼロだった。私は、毎週火曜と木曜の午前中にある、中上級ESLクラスに入った。また、アメリカ合衆国国旗の意味や大統領、ホワイトハウス、連邦議会について知りたかったので、市民権クラスにも参加した。
すべてのクラスにおいて言えたのだが、生徒のほとんどがスペイン語を母国語とする成人であった。皆仕事に就いていたが、より給料の高い仕事を望んでいた。若い生徒のなかには、高校卒業の資格をとり、カブリオ・カレッジへ入学したいと言うものもいた。私と同じ目標を志す生徒が何人かいた。つまり、大学で勉強し、仕事を得て成功する― アメリカン・ドリーム。アダルト・スクールで学んだことは2つあったが、ひとつは、ワトソンビル市にはアメリカ以外の国から来た貧困に苦しむ人々が多くいて彼らが通っていたこと、そして、もうひとつは、その人々の国によっては公教育の制度が整っていないということ、であった。クラスメートとはしばしば授業外でつきあい、アメリカにおける勉強、政治、法律、そして夢について討論した。彼らとの過ごす時間が楽しかった。また、アダルト・スクールの教師はみなボランティアによるものだが、誰もが生徒のやる気をひきおこす素晴らしい方々だった。余談だが、私はその学校が始まって以来の唯一の日本人学生だったようだ。生徒の大半はメキシコや南米の出身だった。
合法的に戻る方法
去る日、私はサンフランシスコにある日本大使館に電話をかけたのだが、その目的は、日本に戻るための費用を借りることだった。「アメリカ国内もしくは日本にご家族の方はいらっしゃらないのですか?」という担当者の質問に対し、私は、「あいにく。」と、答えた。すると、その人は、「誠に恐れ入りますが私どもではどうすることもできません。」と言った。私は電話を切った。このため、私は帰りの航空券を買うアイデアを考えなければならなかった。ブラウニーをつくって街のイベントで売ったり、レストランの厨房で皿洗いしたり、そうやって小銭を稼ぐのでは、とても間に合うものではなかった。私は身分証明として持ってきていた残高ゼロのクレジットカードを使ってみた。信じられないことに、航空券が買えた。理由はそのとき問題ではなかった。私は、バーバラさんに日本へ出発することとその日付を伝えた。また、アダルト・スクールでの友人に、「帰ることになったんだ。」と、話した。彼らはみな私を励まし握手をした。わずか2ヶ月足らずの出会いではあったが、みな家族のように私に接してくれた。
日本帰国の前夜、バーバラさんは私のために腕をふるって料理してくれた。彼女は素晴らしいコックであり、そして先生でもあった。私に住むところだけでなく、食べ物、着るもの、教育を提供してくれ、そして、自立の意味を行動で教えてくれた。私は師匠のヒライさんが教えようとしたことを理解し始めた。つまり、この狂気の計画で私が自立するよう、そして自律するきっかけになるように、と思ったのだ。結局、パロアルトへ行って働き、勉強するという目標は達成できなかったが、私はそれをどのように達成するか、というアイデアを得ていた。
最後の夕食を食べていたとき、バーバラさんと私はそれまでの日々を振り返って話しをした。そして、私は自分の荷物をまとめ早く寝ることにした。翌朝、朝食をとると、彼女は私をサンホセ国際空港まで車で送ってくれた。空港のチェック・カウンター付近の玄関に着くと、彼女は100ドル札を私に渡したのだが、これはもしかのときに、という心遣いだった。彼女は旅行かばんを前日にプレゼントしてくれており、そこには、凝縮の3ヶ月未満で得た、着るもの、勉強に使ったノート、そして、思い出を詰めた。バーバラさんは、「縁あって会ったのは良かったわ。気をつけてね。」と、言ってくれた。私は彼女に何度もお辞儀をし、「おかげさまで、一生経験できないような日々を送れました。また、戻ってきます。約束です。このご恩は忘れません。では、次回会うときまで、失礼します!」と、別れを告げた。予定通りの飛行機に搭乗し、アメリカを発った。その日は、2007年のアメリカ合衆国が独立記念日を祝ってから1週間後であった。
日本に帰還
カリフォルニア州での約3ヶ月におよぶ冒険もおわり、私は日本に無事戻ることができた。最初にかけた電話は父親へだったが、後日家に寄ったときに、私の残したメモと写真が飾っており、まるで仏壇のようであったのを覚えている。
また、私は師匠のヒライさんに電話を入れ、無事の旨を伝えた。カレは私に自宅へ来るよう言い、次の計画について話し合う必要性を説いた。私がわからなかったことは、カレが、法律、ビザの条件といった、アメリカのカリフォルニア州に滞在するための諸事について知っていたかどうか、であった。カレにしてみれば、それらは、私がカレの計画を遂行できなかった言い訳にすぎなかった。
コンピューターやインターネット検索機能は師匠にとってなじみのないものだった。たしかに、私は前もって、計画に必要な情報を調べることはできた。その場合、違ったルートで計画を進めていたかもしれない。師匠の計画に飛び込んだのは、私が決めたからであった。数日間、風邪、空腹、孤独と対峙した。カリフォルニアでは、天使に会い、自身を見直し、また、合法的にかつ事前の準備をして行くことがどれだけの価値があるか、を学んだ。新たに見つけた目標を達成するために、新しい計画が必要になった。
コーヒーと師匠に再び
「元気だったか?」 通いなれたあのフルイ家の玄関をたたくと、師匠はいつものように私を迎えた。正直、私が無事に帰ることを師匠は予期していなかった、かのように思えた。実際、カレは予期していなかったようだ。「オマエがどうやって生きながらえたのか、想像もつかんわ。いや、本当に。だが、戻ってきて何よりだ。」と、カレは言った。調子狂ったが、ともかく私は二階にあがり、カレを待った。以前のように、コーヒーを2カップ運んできて、一つを私に差し出し、そして、話し合いが始まった。カレは、次のように言った、「さて、オマエはアメリカで滞在して2回とも失敗したので、勉強や仕事において成功したいという気持ちがもろすぎる、といえる。この次は3度目になる。そして、これがオマエにとって最後のチャンスとなるだろう。もし、失敗すれば、オシマイ。だから、ここで勢いをしっかりとつけ、今一度やる気を出さなければならない。とにかく一生懸命働き、カネを貯めろ。」
私は師匠に、アメリカにはチャンスが山ほどあり、通いたい大学があることを伝えた。私にはたくさんのカネが必要だった、というのも、留学生は地元の学生が払う倍以上の授業料を払う規則になっていたからだ。私の新たな計画のために、どのように貯金し投資するかを話し合ったあと、師匠の「奥さん」がつくってくれたアップルパイにアメリカンコーヒーを頂いた。私は今後のレッスン料として6万円払うことで合意した。翌週、私は、ミエに移り、トヨタ系列の工場で働き始めた。以後は、オオサカにいる師匠に会うため、月一回、電車で4時間かけることになった。
トヨタ系の工場
もともと、私は工場で働くつもりはなかった、というのも、ヒルトンオオサカで受付の仕事をするつもりだったからだ。実際、インタビューの結果待ちだった。師匠は、工場で働くように言い、その理由として、カネを稼ぐことだけに集中する必要性を挙げた。また、1,2年で辞めることがわかっていて、正社員に応募することは、会社に失礼である、とも説いた。私は反論する理由がなく、カレのアドバイスに従うことにした。すぐに、トヨタ系列の自動車工場のアセンブリラインで働く一年契約を、派遣業者を通して交わした。小さなアパートを借りることになった。アパートと工場の往復は、送迎バスによるものだった。
私が配属された工場は当時、およそ200人ほどの正社員と1000人もの季節労働者で操業されていた。季節労働者の年齢層は下は18歳、上は50歳くらいまでだった。そのうち、95%は男性だった。以前の会社から解雇されて流れてきたものは多数集まっていた。そのほとんどは高校卒業資格がなかった。私は、明らかに下層階級のたまり場にいた。そういった人々にとっては毎日が変わることのない日々。仕事は一定作業の繰り返しで、その時間配分は恐ろしく早かった。この職場の雰囲気はというと、それまで経験したどれとも、大きく違っていた。私は場違いな気がした。結局、私は一度大学生であり、私の傲慢な態度が変わるのは、もう少し後のことだった。
とはいえ、この環境は私の精神力を鍛えるという意味で、格好の場所だった。私は、師匠の教えを思い出した。「オマエが周りをコントロールするんや。周りにコントロールさせるな。」 つまり、私はこの状況下でも、アメリカ留学の計画を忘れず、やる気を持続しなければならなかった。と同時に、私が思ったのは、工場のヒトやモノの流れ、また、トヨタ方式を学ぶべき、ということだった。しばしば、配属部署の正社員である長と会話した。いつだったか、耳にはいってきたのは、2008年の世界不況のため、大量解雇があるかもしれない、ということだった。契約を新たに更新する場合、手取りがかなり減ることは自然と予測された。
働き始めて一年経ち、私は150万円をためた。私はこれを師匠に送った、というのも、カレは、「オマエはどうせ服や漫画に無駄遣いする。」と、言ったからだ。カレは私のために、知り合いの投資ファンドに話をつけ、倍以上に増やすことを誓った。私は、ぎりぎりの生活を送った。ハンバーガーが大好きだったが、それもぜいたく品とみなし、一切無駄遣いしなかった。
工場内では、一年で部署を二度変わった。初めは、電気自動車を使って、自動車部品を乗せた台車を、工場内で連れまわしては、ラインとよばれる組み立ての工程へ届けることが、作業だった。その作業の要求スピードはまさに、人間業ではなく機械にさせるようなレベルに思えた。部品の種類は100種類だったろうか、それぞれの運ぶ重さ、大きさ、数、置く場所は、決まっているので、覚えてしまうまでが勝負といったところだ。始めたころは特に遅れて部品を届けたり、部品を落としてダメにしたため、暴言を吐かれることは日常茶飯事だった。部署を変わって、慣れてきたころは、部品を受け取る部分もこなし、暴言を吐く作業員の気持ちが分からないでもなかったが、私はそれをする気にはならなかった。その年の冬、大量解雇がいよいよあるらしいという話を、正社員の方々から教えていただき、一足先に工場を辞めることにした。
日本のギャンブル場
エンターテイメント業界というと聞こえがいいが、私はパチンコ会社で働こうと思い、別の派遣会社に履歴書を送り、面接もすんなり通り、長期契約を結んだ。私の職名は、ホールスタッフだった。
私がこの業界に興味を持った理由を挙げるならば、ひとつは、前回の工場のときよりもカネを稼ぐ可能性が十分にあったからだ。ふたつめには、この業界で働いたことがなかったという、単なる好奇心にあるだろう。仕事内容は、おおざっぱにいうと、ホール内のすべての人をVIPのようにもてなし、楽しんで遊戯してもらう、ということだった。また、遊戯説明もときどき必要だった。加えて、犯罪行為もありえることから、監視も仕事のひとつだった。同僚である派遣社員や会社の正社員は平均年齢が若く、業界名に相応しく、活気あふれていた。私は、大きな目で見ると、仕事を良くするようになった。仕事を覚えるのは早かった方で、同僚のなかには、仕事内容について私にアドバイスをくれたり、逆に質問するものもいて、ともにその解決方法を創り上げた。私は自分への自信が少し増え、自律心が育ったように思った。ホールで一日に何十人何百人との生のコミュニケーションがあり、そのおかげで、自分の殻から出ることができた。あるとき、会社の他店からお忍びで見学に来ていた役員クラスのひとりから、直属の上司を通じて、スタッフのお手本である、とお褒めの言葉を預かった。「見本となって示すように」とは、私が師匠から学んだレッスンのひとつであった。
2009年秋までに私は新たに150万円を留学用に貯めた。誇りをもって、師匠の口座に振り込んだ。
ピザとビールのおごり
2007年の夏以降ずっと、師匠と私は一週間に一度必ず、それぞれの携帯電話で英語で会話した。2ヶ月に一回は、電車で4時間かけて、オオサカにあるカレの自宅へレッスンを受けにミエから向かった。だが、2009年冬になると、自宅の代わりに、ピザ屋で会うことになった。時々、そこに若いものも加わった。カレらは、私の新聞奨学生の先輩後輩で、現役のものもいた。師匠がいつも食事代を全額払った。みな、とてもおいしい思いをした。リラックスできていた。師匠が続けていた新聞配達を1年も前にやめていたことを知ったのは、このときが初めてだった。
たまに師匠の自宅でレッスンのときは、コーヒーとチョコレートチップ・クッキーがおなじみだった。カレは、私の振る舞いや英語の発音にまだ納得がいかないようだった。私の職場での活躍もカレにとってはまだまだであった。そして、カレが私の発する言葉について指摘するのが、いつものことであった。言い換えれば、もし、自然と不満をもらすようであれば、私は成功者としての考えかたが身にしみていない、むしろ、失敗者であるということ、だった。ふと、レッスンの部屋で気づいたのは、カレの椅子にかけてあった新しい高級なジャケットで、カレは誇らしくそれを手にとって私に見せた。また、カレはナイキの特注である高級スニーカーも持っていた。カレはポケットから2万円を取り出し、好きなスニーカーを買うようにと、それを私に渡した。私は返した。
また年の暮れ、師匠から、新年会と称していつものピザ屋に招待された。私がそこで師匠に伝えたことは、翌年にアメリカへ留学するつもり、ということだった。カレは、今その時ではない、と言った。しばらく待つように、と付け加えた。私は、年齢も年齢だから、と、もう勉強しなければ、という理由で、出発したい意向を伝えた。フォロー・アップとして、その日のうちに、師匠に改めて、翌年の留学の意志を伝え、私の口座にこれまで預けた金額を、いったん送るようにお願いした。学生ビザのために、私は残高照明をとらなければならなかった。
午前5時半の電話
師匠は、私と二人になってから、私の投資がどうなったかについて語りだした。カレは、それを投資ファンドに送っていたことを話したあと、世界不況のあおりを受けて300万円が170万円になってしまったことを告げた。私は、「残念です。しかし、とにかくそれを私の口座に送ってください。今、残高証明を取る必要があります。それで、アメリカ留学を始められるのです。」と、強気に言った。すると、「あいわかった。少し時間をくれ。4月までに送るよう手配する。」と、師匠は言った。私は電話を切った。私は、ビザ発行に必要な他の書類を集めたり、大学入学志願書の作成に取り掛かっていた。残高証明が最後の鍵だった。
私はもしやという期待で毎日、自分の銀行口座を調べた。もちろん、一円も入ってきていなかった。私は師匠の携帯電話に度々かけた。返事はなかった。留守電に伝言を残したが、どうにも返事がなかった。心配になった。師匠は海外の投資ファンド・マネージャーのところへ行ったのだろうか?あるいは病気になったとか?
2010年の2月28日5時半、携帯電話が鳴ったのを反応でとり、半寝ながらも、電話に出た。それは、師匠からのものだった。
「もしもし、お元気ですか?」
「ああ。」
すぐに私は何かおかしいことに気づいた。カレの声の調子が普段のそれとかけ離れていたからだ。なんだが、鬱というかとても弱々しかった。
「オマエはどうしてる?」
私はいつものように一生懸命働き、勉強している、と返事をした。
「何かあったんですか?」
「オレな………破産したんや。」
カレは、それがつい最近であることを私に伝えた。
しかし、私は、
「だから、何だと言うんです?あきらめるつもりですか?」と、言い。更に続けた、
「あなたは、失敗してドン底に落ち込んでも、次のステップを決め、そして這い上がってきた。加えて、あなたのレッスンには、“周りにコントロールさせるな”とあるではありませんか。この状況をコントロールしないでどうされます?弟子に言っておいて、理想で終わらせるのですか?がっかりの領域を超えて嬉しいくらいです。」
「そうがっかりするな。前向きになれ、いつも言ってるように、身体的にも、精神的にも、心も、強くあれ。」
「問題ありません。来週いつものように電話します。お電話ありがとうございます。では、失礼します。」
そう言って、私は電話を切った。しばらくのあいだ、私は困惑していた。この妙な気持ち― 第六感は何を意味しているのだろうか、と、目をつぶり考えた。再び夢の世界に入った。
翌週、私はいつものように近況報告をすべく、師匠の携帯に電話をかけた。だが、このときは留守電にすぐつながった。伝言を残した。忙しいのだろうか、と思った。その週の終わりになっても、カレからの返事はなかった。さらに次の週、カレに電話したが返事はなかった。こうなってくると、何か通常でないことがカレに起こっているのでは、と考え始めた。結局3月はいちどもカレからの返事が来なかった。
2010年は4月1日、私は、だいぶ前に師匠の「奥さん」から教えてもらっていた自宅の電話番号にかけてみた。すると、ほとんど待たずして、正にその「奥さん」が出た。「もしもし?」 私は飛び上がるように嬉しかった、というのも、ようやく師匠と話の続きができる、そう思ったからだ。私は、「奥さん」に師匠に取り次いでもらうようお願いした。そして、彼女は言った、
「え、あなた知らないの?あのヒト亡くなったんよ。」
オオサカ湾のいずこ
冗談かな、と思ったので、「奥さん」に聞いた。「これはエイプリル・フールっていうものでしょうか?」と、尋ねると、彼女は、「あのヒト死んじゃったの。」と、言った。それから、師匠の死について、語りだした。
2010年2月28日、師匠はオオサカ湾をぐるっとまわる、ヒメジ港発の遊覧船に搭乗した。カレの最後の姿が目撃されたのは、船内の食事処で昼食(?)のラーメンを食べていたときだった。その日は、くしくも、カレが朝5時半に私に電話した、「あの」日だった。サイズの大きい二足の靴が上部デッキの端の近くで見つかった。乗船者のひとりがあとで報告した話によれば、男性が船から飛び降りた、という。師匠のサングラスとウエスト・ポーチは、カレが最後の食事をした、テーブルに置かれていたそうだ。身分証明証がそのポーチから見つかっていた。
私は、そのとき聞いたことすべてを信じることができなかった、というのも、私の知る師匠がとったとは思えない行動ばかり― カレはヤバイ状況や病気になっても自殺することは、ありえない、そういうタイプだった。死ぬまでしぶとく粘ったはずだ。現実は、というと、カレは書類上、すでに死亡扱いとなっていた。ヒメジ港湾警察はカレの遺体を捜索した。それは2日間で見つからなかったので、捜索打ち切りとなった次第だ。
私は、師匠の「奥さん」に話し続けた。
「あの、一度ご自宅に伺いたいのです、そして、私がヒライさんに投資として送ったお金についてお話したいです。宜しいでしょうか?」、と。彼女は、「ええ、どうぞ。うちにおいでちょうだい。私もお話したいことがあるから。」と、言った。日取りを決め、電話を切った。私は、急遽、仕事の休暇をとった。
4日後、私は、「奥さん」の家まで来ていた。その際、40歳になる息子さんもいらした。お互い自己紹介した後、彼は自身の父親について少し話し、私は師匠からの最後の電話について詳しく説明した。「奥さん」が言うには、「うちの家族の誰もあのヒトから電話なんてなかったのに。やっぱり、あのヒトにとって、あなただけが家族のようなものだったと、思うの。あのヒトはほんとあなたによくしてたわ。いつもね、あなたがどうのこうのって、嬉しそうに私に言ってたの。」 私は黙っていた。それからしばらくして、私は、師匠に投資したお金について説明した。その息子さんは、「本当に何とお詫びを申し上げてよいやら。私の父があなたを騙したとみて間違いないです。カレの部屋を隅々まで調べて、何か証明になるものを探しました。とある口座の履歴を見つけ、そこでは、少なくともあなたからの振込みの半分以上が確認でき、父はすぐに引き出していたようです。他の記録はすべて処分されていました。」と、言った。息子さんそして「奥さん」双方、大変げんなりされ、また、残念な気持ちが伝わってきた。二人はお金を賠償すると申し出た。私は、次のように言った、「お気持ちはとても嬉しいです。しかし、それをあなたがたに支払っていただくなんて考えはありません。お二方の責任ではないですから。」 「あの」レッスン部屋に何か手がかりがあるかもという考えで、二階に上がる許可を得た。いざ上ったら、これまで何度レッスンがあり、何杯ものコーヒーをここで飲んだのだろうか、と、ふと考えた。
お金の行方
考えるのをあとにし、私は、その部屋をじっくり見回した。師匠が使っていた携帯電話が机の上にあった。すべての電話登録者名が削除されていた。私のかけた通話記録が残っており、留守電も残っていた。机の上の高級車が写る写真は散乱していた。「ナンバーワン・カー・セールス・オブ・ザ・イヤー」の表彰状はフルイ額縁に入ったまま、傾いているものの、壁にまだかかっている。私は、古びた座布団の上に腰掛け少しの間目をつぶった。カレはかつて言った、「もし、百科事典を売れるなら、何だって売れる。」 カレはたしかにバリバリのセールスマンだった。私には、栄光ある未来を売った、そして、この瞬間において、私はほとんどの持ち金がなかった。3年間働いてきた結果…か。思い出すのは、トヨタで機械のように働き、楽しみをすべて諦め貯金した1年と少しを、そして、パチンコホールで汗水垂らし、倹約して貯めた1年と半年、であった。ふと目をやった部屋の角に、以前見たあの高級なジャケットとナイキのスニーカーが置いてあった。私のお金で買ったのだろうか?みなで食べたピザも全部…?
一階に降りたあと、「奥さん」と息子さんは私を待っていて、お茶を入れてくれていた。しばらく、沈黙が続いた、そして、息子さんが彼の知る限りの父親について真実を語り始めた。
「父は私が幼い頃から、ほとんど家にいませんでした。うちは、だいたい、貧乏に暮らしてました。短い期間でしたが、私たちは人々がうらやむような派手な生活をしていたでしょう、少なくとも父親がそうしていました。イタリアによく旅行しました。一家はマンションに住み、父は高級車をいくつも所有しました。このとき父は、ベルギー・ダイアモンド会社に勤めていました。カレは、モチベーショナル・スピーカーでした。何千という人々がカレのセミナー会場に来ては、ダイアモンドを売って儲けようとしました。日本政府は、同会社の操業方法を調査し、ピラミッド・スキーム、いわゆるマルチ商法にひっかかる部分を発見しました。本格的な捜査と裁判がありました。儲けようとした人々は大変怒っていました。というのも、すべてのカラクリが新聞やタブロイド紙で明らかになったからです。その多くの人々は何年~何十年分のたくわえを失いました。私の父は同会社の職員ではありませんでした。有罪にはなりませんでした、が、ニュース・レポーター十数人が毎朝のようにわたしたちの住む家の玄関に、姿を現しました。父は雲隠れしました。残された私たちは引越しするしかありませんでした。引越し先の住所がどこからかもれると、そのたびに、引越しを繰り返しました。地獄でした。父はその間、たとえば、湾岸戦争のとき中間業者として食料や水の供給を手配していたようです。それから、ニューヨークへ渡りワールド・トレード・センターで仕事の相棒と働いていたようです。そこで、いったい何をしていたかは、家族の誰も知りません。2001年の9月11日に父のビジネスすべてがおじゃんになり、父は文無しで帰ってきました。そして、新聞配達でなんとかご飯だけは自分でしようというプライドがあり、とはいったものの、母の借家の2階に転がりこんだわけです。」
それから、「奥さん」は私に数枚の写真を見せたのだが、そこには元夫がきれいな女性たちと一緒に高級車に乗っていた。「あたしは、カレの生き方に我慢できなかった。あたしたち家族を何度も酷い目にあわせて。こどもなんかほんとうに父親のこと知らないんですよ。だから、離婚してやった。」
人生レッスンの末
その日その家から出たとき、私は感傷的になっていた。お金については許せなかった。かつて尊敬した師の存在がもう過去のことであることに悲しみを覚えた。同時に、自分自身に怒った、なぜ、投資したなら、いくら、いつ、どこからどこへ、そうした月々のやりとりを、レシートかなんらかの紙で記録しなかったのか、ということを。私は、そのヒトを信用していた。カレは私の無知で無邪気な性格をある意味で巧みに利用した。カレは大学で心理学を専攻しセールスマンで成功するほどの実力だ。だが、果たして、カレは本当に死んだのだろうか?海上ですり替えを行い、カネを持って国外逃亡できなかったのだろうか?
もういい、私には、もう新しい計画を立てなければならない、そんな状況だった。結局、いま、新しい一日が始まろうとしている。自分の払った代価に後悔はしていない。
そんななか、私に手を差し伸べたのは私の父だった。私は、父と弟をゴルフ・リゾートの小旅行に招待したのだが、それは、父が定年まで働き、その春に退職するので、それを祝うというものだった。私たちはラウンドをまわり、グリーンを眺めてのディナーを満喫した。もちろん、日本酒も忘れなかった。私たち三人そろって会話する、というのは、過去10年以上、いや、もっと長い間なかった。こうして一緒にいるというのもいいものだ、と思った。夜10時を過ぎたころ、弟は疲れたということでじきに布団に入った。しばらくして、私は、父に、退職後の夢について、聞いてみた。今からそれが楽しみで計画は順調のようだった。そして、今度は私の夢― アメリカ留学について、父は尋ねた。私は、酒を一杯ぐいっといき、伝えたのは、その夢は宙ぶらりんになっているということともうしばらく働いて貯金することで、その理由として、投資を失ったことを話した。父は、なぜそうなったかを言及することはなかった。そして、「オレが金を貸す。今、おまえはアメリカへ行かなければいけない、学生としての年齢を考えると、だ。」と、父は言った。数杯酒を飲み交わし、布団にはいり、部屋の電気を消した。
小旅行から数ヶ月後、私は、お世話になったヒライ元奥さんと、また、新聞奨学生として最後まで連絡を取り続けていた二人の友人と、それぞれに別れを言うため、ミエからふたたびオオサカまで移動した。その際に、履こうとした靴のなかで、元師匠がプレゼントしたイタリア製の高級靴を見つけた。しかし、それを、履く気持ちは、一片もないことを確認した。ゴミ箱に捨てた。
カリフォルニアに返り咲き
5月末には、私は学生ビザを取得していた。自身のアパートにある衣類と勉強道具をまとめた。だが、一つ忘れていた。「どこに住もう?」 私は、バーバラさんに藁をもすがる思いで連絡をとった。彼女は、3年間私からほとんど連絡がなかったのが残念だったけれど、でも、仕方ない、うちに来な、と大きな心で受けいれてくれた。さらに、サンホセ国際空港まで車で迎えに来てくれる、と言ってくれた。私は、どこまで幸運なのだろう。
夏がはじまろうとしていた。サンホセに向かう飛行機内で、私は、これまで学んだことを振り返っていた。頭のなかをかけめぐる主題は、これが最後だから結果をだすまで諦めない、であった。いけないよ、やめては…
私は、バーバラさんの家にある、「あの」部屋に戻っていた。3年ぶりのハンバーガーを食べ、彼女の台所でつくられた手料理をたべ、涙が出ずにいられなかった。私は、念願のカレッジへ正規入学した。カブリオ・カレッジで2セメスターが過ぎようとしていた。いまのところ、編入について必要な授業はすべてAである。スタンフォード大学へ行くくらいの気迫で、狙いを定めた全米短大奨学金をとろうと、必死に勉強している。
そして、今、私は、カブリオのお気に入りのベンチに腰掛けている。太陽がさんさんと照る中、私のこれからについて考えている。毎日が、新しい一日であり… 私は、自身のノートパソコンで宿題をすすめようとしている。私の物語「学生の章」は、まだ始まったばかりだ。。。