top of page

15/6/18

勘違いした4年間

Image by Olia Gozha

勘違いした4年間

重圧から逃げたツケが回ったかのように1年間の浪人生活を余儀なくされた。


これが3年間の僕の結果。


いや、正確にはそれでも推薦で入学する事は出来た。


でもそれを拒否した。


もしかすると、これも推薦入学からの重圧から逃げただけかも知れない。


その後の結果で、答えは白にも黒にもなるというのはこの頃から身に付いたのかも知れない。




実は、高校野球で、問題を起こして謹慎が2回、そして本当の引退。


大学入学までの浪人期間。


これらを以下で”仮引退”だとする。笑


他の同世代の野球人に比べて、野球からの離脱が実に多かった。


これは僕自身の素行の悪さや自分勝手さが全ての元凶だったので自業自得。


しかしそんな離脱を余儀なくされた野球からの”孤独な期間”が、他の野球人では到底到達出来ない

未知の領域に結果的には誘ってくれたことになる。


野球に限らず、何事も我慢し続ける事を美として、ひたすら追い込む事を善とする。


それに背けばその先はノーチャンス。


そんな中で、半ば強制的に味わう”謹慎”には普通の野球人は経験したくても出来ない

孤独な期間を正当化してくれるものとなった。



よく聞くと思いますが「引退してから上手くなる人」っていると思いますが

言ってみれば僕は人並み以上"引退"を経験した事になるわけです。笑


そして大学入学後もさらにこの「仮引退歴」は加速する事となる。



その度”野球からの孤独”を味わい、それでも上達の意欲の火を灯し続け、野球の常識や既成概念を客観的に捉える期間へと昇華させた。


よー考えたら野球って、なんかおかしくないか??


ホンマにそれって基本なんか?


もしかしたら間違ってるんちゃう?


やがて僕の闘うべきは「既存の野球概念」へと変わって行き、一つ一つの基本を自分の力で再確認して行く日々。


そんな日々を大学入学後は”予定通り”過ごす事になる。



ただ確信が欲しかった


高校時代に掴み変えてはすり抜けた手応えを忘れた訳ではない。

しかし、手応えを掴みかけては”仮引退”を繰り返して

一向に成長したとはいえなかった。


そんな時

「この手応えをせめて保存できないものか・・・」


いわば自分自身の教科書だ。


でもやはりスポーツ、最後は全て感覚だったため、感覚を保存するなんて出来っこない。


それでもなお、仮引退を繰り返す僕にとってはいちいち振り出しに戻っていては、それは死活問題。


そこで、考えついたのが「感覚の冷凍保存」


つまり「感覚の理論化」です。



感覚を全て理論化出来れば、いつでも自分で解凍して、いつでも自分で引き出せる。



そう考えたのです。


なぜ出来たのか?

なぜ出来ないのか?

何が足りないのか?


それらを確認、仮説、実証、改善。


僕の大学時代の練習はそれに"予定通り"終始した。


そして選んだのは


予定通り終始してもなお試合にも出れる環境。


桃山学院大学。


練習環境の割に大して強くない。


好き勝手しても試合には出れるだろう。


予定通り確認作業に終始するために。


全ての時間、野球の概念を覆して行く日々にするべく。


そんな予定通り過ごした4年間とは、指導者の事など一切構わず、

自身の理論を確証する為の期間。


高校三年間で掴みかけた感覚を

浪人した一年間で、理論として冷凍保存し

それを解凍する為の期間。


そしてさらに理論を昇華させていく。


その為には、どれだけ勝手をしようと試合には出れる環境じゃないと難しかった。


しかし、その環境に埋もれてしまうなら所詮そこまでだという覚悟。


それに大学ではハナから指導者から指導を受けようなんて思ってなかった。


極端な話、指導者なんて誰でも良かった。


そして予定通り、そんな僕でも試合には労せず出れる、そんな環境だった。


1年春からフル稼働でマウンドに上がり続ける事になる。


しかし周りからは

「あいつ推薦断って遊びで野球やりに桃山行きよったで」


上を目指す事を諦めたかのような評価を余儀なくされた。


森田は死んだと思われていたと思う。


そのたび心の中では

「俺まだ死んでへんで」


そう言い聞かせ、全体練習であろうと自主練習であろうと、自分のやるべき事をやる。


そんな日々。


とはいえ、僕がそこまで徹底的に個を磨いた理由はたった一つ。


それは、ただただ目の前の試合に勝ちたかっただけなのだ。


全ては試合で勝つためだ。


ひねくれ者


そういう表現がぴったりの選手だっただろうと思う。


それは今も同じかも笑


しかし、僕がひねくれてるんじゃなくて、あなた方がおかしいんですよ。


といつも言っていた。


やがて反論するものはいなくなった。


正確には言っても無駄だと思われていたのかも知れない。


彼らに僕の言葉は通じないし、僕に彼らの言葉は通じない。




しかし、監督やコーチから、僕に野球の相談をされる事も多かった。


当初は犬猿の仲だったが、やがて僕の評価は信頼以上のものへとなっていた。


事実、僕自身が野球マニュアルを作って渡した事もあった。


しかしそれも当時の選手の理解力が大幅に欠如していて理解不能でオジャンになったが。


なんせ言葉が通じなかったのだから。


なぜそこまでして、僕自身もそれに応じたのか。


それは勝ちたかったからだ。


僕はピッチャーだった為、多くの場合は別メニュー。


僕が抑えても点が取れなきゃ勝てない。


そして、当時の僕はなんせ若かった。


疑い続けた野球の基本。

異を唱えるズレた基本を何の疑いもなく忠実に遂行する様を見て、考えへんねやったらお前ら脳みそいらんやろ!とチームメイトにまじめに伝えた事もあった。


当時は本気でそう思ってたし。


僕一人訴えても焼け石に水。


首脳陣から一目置かれるものの、チームメイトとの溝は深まる。


結果、そんな僕が取った行動はひたすら”練習をサボる事”だった。


そんな練習意味が無い、と訴えるには練習をサボり結果を出す事以外に見つからなかった。


何の疑いも持たずに言われた事をこなす練習へのアンチテーゼ。


練習をサボって結果だけ出す。


そんな練習だと、真面目に練習しても結果出ないぞ、と訴えても響かない。


なら、練習しなくても結果が出てる事実を突きつけるしかない。



走らずともスタミナを付ける方法や、ノックを受けずに守備が上達する方法。

マシンを使わずにバッティングが良くなる方法。

試合で自然と頭を使える方法。


基本を疑い、実証して、そして結果を出す。


そんな練習しても結果出ーへんと、結果を出ない人間をとにかく罵倒する事でしか

当時の僕は「伝える事」が出来なかった。



「お前らのしてる事はただの自己満足や」

「勝ちたいんか、練習してる自分に酔いたいんかどっちやねん」


そんな事を延々と言ってた気がします。


もちろん理解はされません。


しかしながら、僕は本質的に練習が嫌いなわけではなく

むしろ理論を確証する為にはあらゆる事に時間を使った。


練習以外はというと、

ひたすら図書館で人体や脳科学の勉強。

変化球の理論を知る為に運動力学も独学で学び、そしてオフの間も一人グランドで必要な練習のみ行っていた。



オフはみんな休むものだったが、僕の中にはオフなんて別に関係ない。

やりたきゃ勝手に練習するのみ。


体は勝手にグランドへ向いていた。


だからオフも一人グランドで練習をしていた。


ただ、1人だとキャッチボールも出来ないので、誰か誘いたかったが

一人で練習してる所を見られるのが少し恥ずかしかった。笑


そんな様子を知ってるのは、

当時グランドまでの送迎バスの運転手をしていた運転手くらいのものだろう。



あとはたまーにやって来る真面目な後輩に遭遇した事はあったような気がする。


隠す事でもないので、彼らを気にせずに勝手に練習してたが

彼らには、もしかしたら何か伝わってたのかもしれない。


と密かに思いながら。



ただ、これらは別に努力とかそんなものではなくて僕の中で「当たり前」


他人と違う道を歩くと決めた以上、

自ら道を作り、自ら歩かなけらばならない。


でなければ、ただの”文句言い”になってしまう。



こうしてひねくれ者が研ぎすまされ

後に今の自分にも繋がる源泉にようなものが構成された。



そして理論に実証を重ね、確証へと変わってきた理論は

当時、『完成』を迎えた。



最初で最後、結果にコミットした


今まで、結果よりも内容をひたすら重視して、自分の中の”手応え”に執着していた。



やがてそれを理論化し、いつでも解凍可能な状態で保存する事。


その為に野球の基本や概念にひたすら中指立ててやってきた。


しかし、最後のシーズンは違った。


つまりは4年生春・結果に初めてコミットしたシーズンだった。


・防御率0点代

・全試合完投


この二つ。


実は過去に「ストッパー」をしてくれと打診された事があった。


しかし僕は3秒で断った。


「こんなチームでストッパーなんかやってたら、ただの敗戦処理になってまうわ」

「先発できへんならいつでもピッチャー辞めるわ」


そういって反発するように次の日には外野手用のグローブをわざわざ購入して、勝手に外野手の練習に参加して、首脳陣から干された経緯があった。


そうして僕を除いた投手のみでシーズンを闘ったが、案の定投手陣は火の車。


「ほらな?」


そうして僕のストッパー案は消えていった経緯があった。


それから首脳陣との信頼関係が築けて来た気がする。


だからこそ一度上がったマウンドは絶対に譲らない。

森田がマウンドを降りるという事は敗戦を意味する。


これが首脳陣から言われていた言葉だった。


なのでこれも一つ自分を作った大切な要素。



そしてこれらを達成するという事は

一度もマウンドをおりず2試合に1回は確実に勝てる計算になる。


防御率が0点台なのだから。


つまり、よほどの事が無い限り”優勝”出来る計算になる。


そしてこれは、何も夢物語などではなく、現実的に充分可能だと考えていた。


なぜなら、完成を迎えた自負があったからだ。


そしてこれらを達成した先には・・・


社会人か独立リーグで野球をしようと考えていた。



つまり、このコミットした目標とは


”野球を続ける為に課した最終試験”

というわけだ。



それに備えて、前年シーズンを終えてから煙草もすっぱりとやめて

心身ともに最高の形で迎えた。



コントロール、球の切れ、変化球の精度。


どの球種でもストライクを取り、どの球種でも三振を取る。


当時考えうる最高の状態。


つまり『完成』


この表現が今でもしっくり来る。




そんな心身ともに充実した状態で開幕を迎えた。


ふと頭をかすめた。


「中2の冬、骨折してへんかったらこんな感じやったんかな」



懐かしさと充実感と、得体の知れないほんの少しの焦燥感があった事は今でも覚えている・・・




運命のいたずら



開幕戦、楽々2安打完封。

予定通りの発進・・・



と思いきや、僕の今までの野球人生を象徴する”あり得ない出来事”が起きた。


これが何かのシナリオだとしたら、実に陳腐。



0-0で迎えた6回表、自チームが2死満塁で左中間を破る走者一掃の3ベースヒット。


3-0


1点あれば十分やのにな。


と思いきや、バッターランナーが1塁ベースを踏み忘れるというあり得ないミスを侵して結果無得点。


覚えてないが、ベンチで暴れたらしい笑



そしてそのまま0−0、延長戦にもつれ込むことになる。


そして延長14回、自責点も付かぬままサヨナラ負けを喫した。


ひたすら「個」を高め、出来る事は全てやった。


全てできた自負はある。


でも負けた。




この事実が重くチームにのしかかり、歯車は一気に狂う。


投げた試合は全て延長戦。


末に敗戦。


その後実に8連敗する事となる。



まるで何かにイタズラされたかのようなシーズン。



最終的に、7試合投げ2勝4敗1分 防御率1,18 完投7


結果を出せずにシーズンを終えた。


悔しい気持ち、やりきった気持ち。


入り交じってた記憶がある。


しかしどこかで、ふさわしい最後やったな。

などとも思った。


あと一つ、あと1人の打者、踏ん張ってれば防御率0点台達成出来たんちゃうか?

あと一つ、踏ん張ってたら負けた試合も勝てたんちゃうか?


あと一つ、頑張れなかった自分の最後。


チームメイトへの信頼が皆無のまま迎えた事。


あらぬ形で負けた開幕戦。

その後立て直せなかった自分の不甲斐なさ。


だからこそ、これが自分にふさわしい最後なのかな。

と感じたのだと思う。


開幕前に感じた焦燥感の正体はこれだったのだろう。


”野球を続ける為の最終試験、落第”


そして試合終了後、何事もなかったかのように煙草に火をつけた。



個の重要性


と、ここまで僕の壮絶でもない野球人生を壮絶っぽく書いてきました。笑



僕は野球を通じてたくさんの事を学びました。


それは決して礼儀や上下関係などではなくて

「個の重要性」です。


もし僕があの頃、個についてもっと考えていたら・・・


他の選手にも個の重要性を説いていたら結果は変わってたかも知れない。


個の集合体が組織なんだって事を。


当時は個では勝りながらも、組織で負けた野球というスポーツを嫌いになった事もありました。


心のどこかでは、あの成績で負けるってありえへんやろ。


って気持ちもあったと思うし本当はまだまだ出来るって気持ちもあったはず。



そんな気持ちをひたすら隠すべく

「俺ゴルフの方が向いてるわ」

と皮肉混じりに言ってた事もありました。


それはそれで事実かも知れませんが。笑


でも書いてて率直に感じた事は


「やっぱ、いつまで経っても悔しいなー笑」


って事です。



マジでやり直すなら、僕はあの開幕戦のあの瞬間に戻りたいなーと。


ベースだけ踏んでw


それだけでいい、と。


それは冗談ですが、色々思う事ありますけど、あそこでもし結果を無事コミット出来てたら

多分僕の成長は止まってたと思うんですよ。


自分の中で完成を迎えたと感じた時点で止まってたのかも知れません。


もしくは先の環境で、さらなる進化をしたかもしれない。


それは今となっては誰にも分かりません。



ただ、あの”運命のいたずら”のおかげで「個」の次の姿が見えたわけですし

そういう意味ではベース踏み忘れた後輩には感謝してます。笑


というより、むしろ恨む事なんて到底出来ない理由があります。


その後輩というのは、僕の性格を完璧に理解した最高のキャッチャーでもありました。


強気な僕が弱気になるくらいさらに強気なリードで

無言で彼に引っ張ってもらいましたから。


リードで会話出来たのは彼だけです。


「森田さんならここに投げれるでしょ」っていう挑戦的な無言の言葉が毎回感じ取れた。


その期待に応えるべく僕も120%の力を出せたと思う。


最初はデタラメでボロカスでしたが笑


今でも僕は彼と組んだあのシーズンが一番楽しかったです。


また彼とならバッテリー組みたいくらいです。


残念な事に、僕が引退した後すぐ彼はキャッチャーを辞めました。


理由は楽しくないから。


そんな文字通り一心同体だった後輩を恨む事なんて出来ません。


ありがとう。


ベース踏み忘れてくれて笑


野球が教えてくれた事


僕が野球で学んだ事


・感覚を理論化する事の重要性

・既成概念を疑う事

・個の集合体が組織だと言う事


これらは今の僕を形成する大きな要素です。


そして野球を教える立場になった今、

さらに小学生にも分かりやすく説明しなきゃですから本当に大変です。笑



なんせ、大学生にすら理解されなかった僕の考えですから。



なので、当時とは比べ物にならないくらい研ぎすましてるつもりですが、どうでしょうかね。



もうこれから本気で野球をする事もないでしょうし、

多分受け入れれる人もいないでしょうけど

思想としてどこかで僕の野球学を継承していきたいなと思い、野球をひっそり教えています。



運動もろくに出来なかった少年が、

ここまで野球出来るようになったんだから立派なもんでしょ?笑


このSTORYを通じて、センスなんていくらでも創れるって事を少しは示せたかな。


だから、センスや才能を理由に夢を諦めるなんて事はやめようよって言いたい。


これは、縁あって最後まで読んで頂いた方への僕からの一方的なお約束です。


僕も僕の思想をこれから広めて行きますから、それぞれの道でがんばりましょう。


最後になりますが、今まで僕に携わって頂いた方々、ありがとうございました。


そしてこれからも迷惑かけますが温かく見守っててください。


最後まで読んで頂きありがとうございます。


それでは、機会があればどこかでお会いしましょう。


グラッチェ!

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

急に旦那が死ぬことになった!その時の私の心情と行動のまとめ1(発生事実・前編)

暗い話ですいません。最初に謝っておきます。暗い話です。嫌な話です。ですが死は誰にでも訪れ、それはどのタイミングでやってくるのかわかりません。...

忘れられない授業の話(1)

概要小4の時に起こった授業の一場面の話です。自分が正しいと思ったとき、その自信を保つことの難しさと、重要さ、そして「正しい」事以外に人間はど...

~リストラの舞台裏~ 「私はこれで、部下を辞めさせました」 1

2008年秋。当時わたしは、部門のマネージャーという重責を担っていた。部門に在籍しているのは、正社員・契約社員を含めて約200名。全社員で1...

強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話

学校よりもクリエイティブな1日にできるなら無理に行かなくても良い。その後、本当に学校に行かなくなり大検制度を使って京大に放り込まれた3兄弟は...

テック系ギークはデザイン女子と結婚すべき論

「40代の既婚率は20%以下です。これは問題だ。」というのが新卒で就職した大手SI屋さんの人事部長の言葉です。初めての事業報告会で、4000...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

bottom of page