重圧から逃げた3年間
お久しぶりです。
以前、中学までのお話だったのでその先少し、またストーリーとして残そうと思います。
中学三年間を”終わりよければ全て良し”状態で終え
意気揚々と高校野球の世界へ足を踏み入れた。
そしてその後
不甲斐なかった高校一年生。
手応えと評価を勝ち取った高校二年生。
諦めと悪あがきの中で苦しんだ高校三年生。
ただただ納得出来なかったが大学進学。
孤独と楽しさを取り戻した浪人時代。
手応えを掴んだ大学一回。
ケガと挫折と謹慎を味わった大学二回。
空白の半年がもたらした大学三回生。
集大成の大学四回生。
こんな風なSTORYになるのかなと、ざっと書いてて感じました。
どの時期が欠けても今の自分は無かったし、今の考え方にはならなかったでしょう。
あそこで結果を出してたら・・・
あそこで結果出せてなかったら・・・
どちらも今の自分を創る大切な要素だったんだなぁとしみじみ思います。
高校野球・現実は、井の中の蛙だった
有終の美を飾った僕は、チーム内競争が激しい強豪校へ入学した。
そんな中でも当時は「誰にも負ける気はしなかった」
事実、入学後、いや正確には入学前から三年生の試合にも出ていた。
「俺が甲子園連れて行ったる!」
しかし、中学とは違い連日のハードな練習に身体も気持ちもついていなかった。
はっきり言えば、サボる事しか考えてなかった・・・
正確には練習に付いていけないからサボるしかなかっただけだったが。
入学当初は大きい目標があったが
徐々に目標など薄れていき「今日を耐え忍ぶのみ」というような
目の前の目標しか見れなかった。
ただただ組織に従うだけの期間。
ついていくのがやっと・・・
まずはこの状況に慣れなければ。
著しくマイペースな僕にとって、これは最大の苦痛でもあった。
「こんな姿、見られたくない」
これは小さなプライドかもしれないが、僕を形成する大事な要素でもあった。
行動はまだまだ伴わないが、心だけは折れてなかった。
折れかけた心を繋いだもの
とはいえ「俺はこんなもんか・・・」という諦めにも似た感情と
謙虚ではない弱気な面も多々顔を覗かせた。
客観的にみたら、別に大した選手じゃない。
やっぱ高校野球ってレベル高いんやな。
そんな諦めの付きそうな言葉で必死に今を取り繕っていた。
しかし、結果は"勝手に"付いてきた。
折れかけて心をつなぎ止めたメンバー発表。
与えられた「背番号17番」
「背番号、もらえて当然やろ」
そんな強気な自分と弱気な自分が混在する中で
本当は滑り込みだったけど「背番号」という結果は
単純な僕をつなぎ止めるには充分だった。
なんでお前がメンバー入るねん!
という声を影で言われる程、良く思わない人もいたようだったが。
心では「俺が決めたんちゃうわい」と思いながら右から左だ。
しかし、秋季大会は強豪・大体大浪商に出番すらなく、まさかのコールド負け。
前年の大阪大会準優勝から一転、三回戦でコールド負け・・・
チームの不調はよそに、その頃ようやく森田一也が息を吹き返した。
滑り込みながら、メンバーに入った事。
練習環境にも慣れてきた事。
このような事実も重なり
この冬は、やったるで!!!!
と、やる気だけは入った。
それまでは毎週のように入ってくる試合のなかで
ただただその試合に向けた準備をする日々。
そんな日々も終わる、シーズンオフ。
野球人の冬。
それは自分を見つめ直すには最高の時間。
半年以上経過し、練習にも慣れて目標も見つかった高校一年の冬。
そんな気持ちに比例するかのように、確かな手応えを掴んで行く事になる。
自信→確信→過信
高校2年の春は昨年とは一転して、主戦投手として春季大会を迎えた。
公式戦初登板となった、大会3回戦で
7回参考記録ながら公式戦初登板でノーヒットノーラン。
そして次の試合は、秋季大会で出番すらなくコールド負けしたあの大体大浪商との再戦。
ここでも完投勝利をあげ、冬場に得た自信は、やがて確信へと変わっていった。
そんな自信そのままに、当時の大阪の最高峰・名門PL学園との対戦を迎える事になる。
中学時代から知らない者はいないスーパースター軍団、昨年の甲子園にも出場したテレビの中の人もいる。
特にエースも4番も2年生だったため、そのまま残っていた。
(のちにレギュラーのうち4名がプロ入りする)
そんな最強軍団との対戦に、ほんのつい一年前までは、
練習すらまともに付いて行けなかった2年生がマウンドに立つ事になる。
世間は昨夏の決勝戦の再戦だ。
多くの注目を集めた。
自信が確信になった途端、彼らを目の前にし自信はもろくも崩れ去った。
初めて肌で感じた威圧感という言葉。
後にも先にも「雰囲気に飲まれた」のはあの試合のみ。
最強軍団の醸し出す圧倒的な存在感の前に
7回途中ノックアウト・・・
ところが、周りの評価は対照的で終盤までもつれた試合を評価した。
実際圧勝しなかったのは履正社戦のみ。
他は圧勝での大阪制覇だった。
「あのPL学園を終盤まで追い詰めた」
「まだ二年生だから先が楽しみだ」
「夏の大会までに伸びれば面白い存在」
などなど、高まる期待とはよそに肌で感じた僕の感覚は素直だった。
格が違う・・・
よく例えとして、10回対戦したら3試合は勝てる。
などと表現する事がありますが、この試合に関しては
10回やって1回も勝てない、と感じた。
むしろ10回やって7回まで持ちこたえれる可能性がせいぜい1回。
今になるとそれが妥当な見解だろう。
正直終盤まで抑えれたのが不思議なくらい。
しかし、単純な僕は”周囲の評価を受けて”どんどん「過信」して行く事になる・・・
その頃感じた違和感には一切目を背け、ただただ”過去の結果”に酔っていた。
夏はいけるんちゃう?
過信→崩壊
春季大会が終われば、高校球児にとって最高の舞台「甲子園」が始まる。
その予選を闘う為に6月は最後の準備期間でもある。
そこで事件は起きた。
練習試合で、1回4失点ノックアウト・・・
築き上げた信頼が一気に崩れ、掴んだ確信が過信だと確信した瞬間だった。
なんとなく気付いてたけど、目を背けた結果がもたらした必然。
そしてその後、ある事件からしばらく練習にも参加出来ない日々。
周囲の期待とは裏腹に身内の期待を裏切る日々。
そんな複雑な状況の中で、当時高校二年生の僕が
正常な心を保つのは実に困難だった。
そして1年前もらった時のような背番号の重みを感じる事無く
容赦ない再び二ケタの背番号が妙に軽く感じた。
そうこうしながらも、二度と来ない高校生の夏は始まる。
しかし、ここでも実力以上の結果を出してしまう事に。
この年は、かなりハイレベルで、春に大敗した名門PL学園の他にも強豪がひしめいていた。
大阪だけでドラフト一位が何人出るか?
そんな戦国大阪大会だった。
そして春の選抜でベスト4まで勝ち進んだ関西創価高校がなんと3回戦の相手だった。
「全国ベスト4」の関西創価対「3回戦コールド負け」の履正社・・・
下馬評ではもちろん関西創価。
それに優勝候補筆頭。
しかしなんと、僕らは勝ってしまった。
6回から4イニング登板し、無失点の好リリーフを見せる活躍。
しかしそれは、相手の自滅によって出た偶然の結果に過ぎなかった。
と、自分だけはちゃんと分かっていた。
「たまたま」だった事を。
そんな事など御構い無しに勝ち進んで行く夏の大会。
そしてベスト8も無事勝ち進み、甲子園まであと”二つ”というところまでやってきた。
負けは蒔け、勝ては糧
ベスト4で対戦したのは創部間もない上宮太子高校。
結果は大差で破れ、秋季大会3回戦敗退から大阪大会ベスト4という成績で幕を閉じた。
とはいえ、当時履正社高校は2年生が主体だった事もあり、秋以降はかなり前評判の高いチームとして認識されていた。
優勝候補筆頭
心の幼い高校生を狂わすには十分な言葉だった。
個がバラバラになった最終学年
まだまだ幼い高校生にあって、周囲の評価は時に球児を狂わせる。
そんな歯車を狂わされた球児達という表現は決して他人事ではない。
それが僕たち履正社昭和59年生。
もちろん僕もその一人。
なぜなら前年度のいざこざで好き放題な選手を抑制する監督が不在、そして先輩の不在。
そして評判通り、連戦連勝だったオープン戦。
楽観するには充分過ぎた。
大阪大会は楽勝やろ。
そんな雰囲気すら漂っていた。
少なくとも危機感なんて皆無。
そして手応えとは裏腹に怪我もあり減った出番に腐る自分。
そんな選手は一人や二人ではなかった。
そうしてチームはバラバラになり個人の能力が高く、前評判も高いまま格下相手に秋季大会はあっさり敗戦。
近畿大会出場を逃した。
気がつけば、5回あった甲子園の挑戦権は、あと1回だけになってしまった。
そしてその1回も、挑戦権すらないまま終わるとは、この時は予想もしなかった。
しかし、前年の春の大会の好投、夏の大会での活躍もあり
最高学年になってからは、試合の出番すらろくにないまま、プロ注目選手に名前だけを連ねていた。
MAX142キロ右腕。
プロ注目選手。
出番の無い公式戦。
そんな状況を正確に捉える心なんて当時は持ち合わせてなかった。
自分を客観的に見る事はなかなか出来なかった。
ホントの自分はどこなんかな?
そんな事を思いながらも手応えを感じながら3年春を終えた。
夏は森田がエース。
その言葉にまたもや過信した。
涼しい夏
最後の夏を迎える準備期間である6月、異変が起きた。
それは生まれて初めて味わう”肩痛”
記憶が正しければ、歯磨きも痛かった。
ちぎれそうなくらい痛かったし、何をしても治らなかった。
マウンドからホームベースすら届かない・・・
最後の夏、ケガで終了。
よく聞く話にまさか自分が。
認めたくもないが、現実に相当やばかった。
そんな状況の中、幸か不幸か、足の肉離れも起こす。
投げれなくても投げていただろう肩。
トドメを刺すように訪れた肉離れ。
あのまま投げてたらもしかしたら・・・
今となっては救いの怪我だった。
これにより誰よりも早く、最後はマウンドに上がる事無くスタンドで高校野球を終える事となる。
久しく経験のないスタンドでの応援。
屈辱や空しさや不甲斐なさや、とにかく心のやり場に困った。
勝ち進むにつれ、選手からは甲子園まで絶対行くからその時はメンバーに入ってくれ。
そんな声ももらったが、正直当時はもうすでに心は折れていた。
ベスト8で予選敗退し、本当の終わりを迎えた。
僕の高校3年間は、実力以上の結果からは逃げ、過去の結果にはしがみついた。
重圧からはとにかく逃げ続けた。
全てが中途半端で不完全燃焼だった3年間だった。
そんな不完全燃焼を象徴するかのように、その夏はやけに涼しく感じた。
思えば野球のない夏なんて、物心ついた頃から経験がなかったからだ。
どんな形であれ、高校野球を引退すれば否が応でも次の進路を余儀なくされる。
しかし、そんな状況で進路なんて決めれなかった。
何も決めぬまま、言われるがままに以前から推薦をもらってた大学へ入学するかどうかの選択を迫られた。
しかし当時の僕には、この先4年間を選択する決断力なんてなかった。
断腸の思いで土壇場になって全ての誘いを断り、関係者にはほんと迷惑を掛けてしまった。
結果、浪人する事になる。
しかし、この推薦を断り浪人した事が後の人生を大きく変える事となった。
そしてそれが勘違いした4年間を引き起こし、
この勘違いから生まれた「本当の手応えの正体」を形成する源泉となっていた。
そして、闘うべき対象が徐々に野球の既成概念へと変わって行った。
そんな野球と対峙し、勝てると本気で思えた時期でもあった。
勘違いした4年間に続く・・・