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15/5/31

男だけのクリスマスがきっかけで、ぶっとんだ話。

Image by Olia Gozha

「ぶっとんだ創造者たちと、とにかく世の中を面白くする」





2015年2月11日、この想いからQREATOR AGENTは始まりました。

色んな業界のクリエイターと彼らのプロデューサーが集結した会社で、

クリエイターが業界の垣根を超えて連携をとりあい、さらに面白いものを創り出してくことを企業活動に据えています。


吉本興業で生まれた気付きから

代表の佐藤は元々吉本興業のマネージャーで、ナインティナインやロンドンブーツ1号2号を担当してきました。彼が吉本興業のマネージャーとして働く中で生まれた気付きが、QREATOR AGENTを形作っていったのです。


ー<文・佐藤>ー

2005年4月に吉本興業に入社して最初につかせてもらったのはナインティナインさん。昔からテレビで見ていた人とご飯を食べたり、助手席に座らせてもらったり、さらに、社の上司が厳しい方だったためほぼ毎日緊張状態でした。そのためか、この時期の事はほとんど記憶にありません。


記憶があるのは海外ロケで寝坊し飛行機に乗り遅れ空港で坊主にしたこと。


番組企画でねるとん企画に出演させていただいた時、番組中におもいっきり話を振られたこと。


しかし、この時ナインティナインのお二人の話や空気を5M以内で毎日体感できたこと、めちゃイケなど日本一の現場を体感できたこと、番組収録の空き時間に日々アイディアノートをつけていたことが今の財産になっています。


この時期、ナインティナインさん以外にもエンタの神様で大人気だったまちゃまちゃさん、ブレイクする前のCOWCOWさんや若手芸人さんたちを10組ほど担当していました。


今考えると恥ずかしくなるくらい芸人さんに何も貢献できていなかったと思います。


言われたこと、頼まれたこと、それを必死でこなしていました。まちゃまちゃさんとは朝まで一緒に泥酔してテレビ番組に向かったり、COWCOWさんとは勢いでギャグイベントを日比谷野音でやったり。


とにかく、芸人さんの近くにいて、芸人さんのやりたいことを実現することで認められたかった、褒められたかったのです。


それだけ芸人さんには魅力があります。僕は芸人さんが好きで吉本興業に入ったわけではないですけど、芸人の皆さんは、人として大きく何かが欠けている代わりに、とんでもなく大きな熱を持っていました。そして、その熱で人を笑わし続けていました。


いつの間にか僕は芸人さんを大好きになっていました。


あっという間に2年が経ち、突然、『ロンドンブーツ1号2号』を担当することに。

記憶が正しければ、チーフは特におらず、スケジュールも僕がいきなり持つことになったと思います。

いわゆる「プロデューサー」です。

うれしかったです。入社してから2年間で考えていた様々な妄想を僕が実行し、ロンドンブーツ1号2号で表現できることがうれしかったのです。


様々な才能に溢れるお二人に、3年計画をプレゼンし、議論し、当時の彼らのキャラクターからは飛躍のあった「笑っていいとも!」のレギュラー獲得や、田村淳キャスター化、田村亮パパキャラ化を提案し、共に実現しました。


もちろん運やタイミング、周りのスタッフのサポート、そしてなにより本人の創造的パワーのおかげでしたが、彼らの才能はもっと別にあるとマネージャーである僕が信じ、営業したことで全てが始まりました。

(中略)

「誰がプロデュースをやっても芸人さんは変わらないのではないか?」そんな思いをずっと持っていましたが、ロンドンブーツ1号2号さんをプロデュースさせて頂く中で、プロデューサーが担当芸人さん

の人生を少なからず変えられることがあるという自信と責任感が持てました。

ーーーーーーーー

プロデューサーとして活躍していた佐藤ですが、

プロデューサーであり続けることに疑問も頂き始めます。

ー<文・佐藤>ー

今度は自分の力でものを創ってみたかったのです。マネージャー(プロデューサー)は良い意味で他力本願です。いか芸人さんに優秀なクリエーター(他力)をつないで価値を最大化していくかという作業。

僕は自力に憧れていました。そんな僕は会社にわがままを言い、マネジメントの部署から企画の部署に異動させてもらいました。

異動して早速「パパ」の需要を当時感じていたので、「パパパーク」というプロジェクトを立ち上げました。

吉本興業内に「パパ芸人」のエージェントをつくるプロジェクトです。

「パパ芸人を使いたい時はパパパークへ」。

多くの方のおかげでステップワゴンなど様々な「商品PR」のお手伝いやゴリさんと家族お揃いパーカーなどの「商品開発」やあたりまえ体操アプリなどの「コンテンツ開発」をしました。

また、東京学芸大学との共同プロジェクト、小学生向けのワークショップスクール「笑楽校」もはじめました。表参道ヒルズで行ったオープニングイベントでは1万人近くのお子さんに参加いただきました。

ジュニアさんと行った5年間チケットを発売し続けた「千原ジュニア40歳ライブ 千原ジュニア×」も創りました。

8000人近くのお客さんが両国国技館で感動してくれました。自力を志したら、多くの芸人さんと様々なものを創ることができ、その先にいる多くのお客さんを楽しませることができたのです。

でも、結果僕は独りで何もできなかった。

常に「人」と一緒に「もの」を創っていたのです。パパ芸人や学芸大学の先生方や作家さんや芸人さんと「もの」を創っていたのです。

結果僕はクリエーターではなく、プロデューサーだったのです。

それが天職とようやく気がついたのです。

しかし、もう一度芸人さんのプロデュースをするのか?

結論は違いました。

最近出会う起業家、職人、デザイナー、作曲家、市長、調理師、どんな職種にも何か欠けているけど吉本興業に入社して1年目に芸人さんに感じたあのドキドキした感じをもった熱い人がいっぱいいました。

もっともっとおもしろい人に会ってドキドキしてみたい。そして、僕の今までの経験をその人たちのために使ってみたい。そう考えたのです。

また、そういう方は自分でリスクを背負い、独りでチャレンジしている人がほとんどでした。

僕もリスクをとり、同じ立場になることでもっともっと深くいろんな「人」を理解してみたい。付き合ってみたい。その先にお客さんがもっと楽しめるものを創れるはずと信じたい。


僕は吉本興業を辞めることを決意しました。

ー「吉本興業を辞めてまで、僕が挑戦したかったこと/佐藤 詳悟」より

 http://storys.jp/story/14450

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吉本興業に入社してから10年、辞表を提出し、

2015年の2月にQREATOR AGENTは生まれました。




佐藤と僕の出会い


ところで、申し遅れましたが、ストーリーを書いている僕は、QREATOR AGENTのプロデューサー・齋藤圭祐といいます。


僕が佐藤と出会い、そしてQREATOR AGENTに参画したのは、2014年12月25日クリスマスの渋谷でした。今思えば、なんでクリスマスだったんだろう...。


きっかけは、前職場の先輩からのメールでした。携帯がなったのは、前日24日のクリスマス・イブ


先輩「齋藤くん、明日クリスマスだけど、空いてるでしょ?? ちょっと紹介したい人がいるから明日会ってみない?」


いやいや、明日クリスマスなんだけど、空いてるわけないでしょ。何考えてるの先輩。空いてた。

クリスマスの夜、哀しくもそんな流れでした。でも、今考えると大きなクリスマスプレゼントもらったのかもしれません。


2014年の12月25日。

夜、あるシェアオフィスで待ち合わせることになりました。




窓の外にはきらめくイルミネーション。手をつないで通り過ぎていく男女たち。

世の中は圧倒的なまでにクリスマスでした。

席に座って待っていると、爽やかな白シャツを着たおでん君が歩いてきました。佐藤でした。






佐藤と会って話してすぐに、こんなにも同じ発想を持っている人が、それもこのタイミングでいたんだと知って驚きでした。


初めて会って30分くらいで、会社に誘われて、

初めて会って30分くらいで、一緒にやりたいと思いました。


佐藤はあらゆる分野の面白い人たちを結びつけていきたいと思っていたように、
僕も、色んな人のチカラを集約して教育や健康の分野を発展させていきたいと考えていました。


僕が、一番入社したくて入社することができた広告代理店をやめ、健康x教育の分野に転職し、そこもやめて独立した、やっと本気になれるものが見つかった、そんな矢先のことでした。


僕はずっと、子供の頃から「本気になれない」ところがありました。

なにをやってもすぐに飽きてしまい、長続きしない。昔から典型的な器用貧乏だったんだと思います。

ずっと嫌でした。自分の特技、本気でできるもの、圧倒的に活躍できるものがないこと。


でも、ある時に、あきらめることに成功しました。自分にはやりたいことがないのだと。

進路選択の時期に差し掛かっていましたが、そう割り切ることにしたんです。


そして、やりたい事はないけど、何かを行なう時は上手くいく方法を沢山考えたり、多方面の人にお願いしたりしてたなと、思ったんです。そして、これってプロデューサーに向いてるってことなのかなと。


じゃあ、プロデューサーのような動きができて、さらにその機会が多いところってどこだろうと考え、最終的に広告代理店の営業を志望することにした。


広告代理店の営業の動きはまさに想像した通り。
もちろん色々な縛りはあったものの、動きの根源はプロデューサーでした。


でも、本気になれなかった。 気がついたら、六本木で遊んでいて。

遊んだ次の日は、もっとできるだろ、ちゃんとやれよ、と猛烈な自己嫌悪。

そんな繰り返しだった気がします。ずっとそれが気持ち悪くて。

月々のパフォーマンスに関係なく貰える高い給料。

何かをするとき、会社名があるから、話せる安心。

よくわかんないけれど、会社という家がある甘え。


本気じゃない。本気になるにはどうしたらいいのか。


同時に、広告代理店の優秀なクリエイター、会社のお偉いさんが考えたかっこいいCM、WEB施策、ポスターにも違和感が芽生えていきます。


広告は、「人の心をどう動かしていくか」について徹底して考え作られます。訴求するためのデザインが敷かれ、キャッチコピーが紡がれ、そして最近売れている芸能人、イメージにあった芸能人がキャストされます。


プロモーションの数々は、テレビを飾り、駅の構内を彩り、「○○ちゃんが出てるCMみたー?」と人々に話題を与えるものでした。面白く、格好よく、たしか笑えるものでしたが、どこか表層的に感じられました。

人の不安を顕在化させることで訴求するものがあったり、イケメン俳優の言葉を使って、商品のイメージアップを(半ば強引に)狙うものがあったり。その広告によって、人々は意志をもって購買しているというより、流されるように購買している感じがありました。


もちろん、そういった広告をすべて否定するわけではありません。素晴らしいところも沢山あります。

ただ、それは僕がやんなくてもいいことなのかなって。


人々が流されて行動する、そのキッカケを作る仕事ではなく、

人々が自分の意志で行動する、そのキッカケを作る仕事を作りたい。

もっと“人間くさい仕事”をしたいと感じました。


そうして飛び込んだのは、ベンチャー企業で、前職とは違ってコピー用紙さえまともにない、書類を保存する習慣さえない会社でした。でも、とても楽しかった。 大企業にしか勤めたことのない僕にとって、これがベンチャーなのかと。ミーハーっぽいですが、そういう感じでした。


それまで1人も部下なんて持ったことがない僕が、いきなり事業部長になり、わけもわからず会社全体をみることにもなって。もうダッシュしながらいろいろ考えて、どんどん施策をつくっていきました。


あの時はホントに何でもやっていて、浜辺で開催するヨガイベントの会場が、まさかの台風で海藻まみれになってたときは、朝から全力で海藻を広いまくったり。




でも、ふと気付けば、また自分が本気になれてなくて。


その頃、会社は3年後の上場のために向けて動いていた頃でしたが、

自分の人生をかけたビジョンのために会社を飛び出すか、

会社に残って目標である上場のために尽力するかを考え、

独立することを選びました。


やっと25年間、やりたいことがない人生を生きてきて、一生懸命になれない、死ぬ気になれない自分が、ようやくなんか自分のやりたいことが見えたなら速く動けと、答えは割とはやくでて。


・・独立を選んで、最大のプレッシャーをかけてみる事にしたんです。そうすれば怠け者のわたしでもやる気になるだろう、お金がなくなったら自然に飲みに出かけてしまうこともなくなるだろうと。


ワガママな判断でしたが、有り難いことに社長も応援してくれました。


会社を離れ1人になってしまったけど、そこからちょっとずつ動いていって、徐々に色んなことがスタートしていきました。大学関連、産学連携、認知症予防のエクササイズの動き、ベンチャーの手伝いなど、自分のライフワークをカタチにするプロジェクトの構想を練っていきました。


「よーし、こっからはひとりでときに貧乏もしつつ、がむしゃらに!」

と意気込んでた矢先に、佐藤との出会いがありました。


前述のように、クリスマスイブに代理店時代の先輩からメールが来て、「齋藤くんに紹介したいやつがいるんだけど、明日空いてない?」と言われ、お会いしてみたらトントンと話が進んで。


折角1人で走り始めたところだったので、出鼻をくじかれた感もありましたが、やってみようかと。
それほど、ピッタリ重なったんです。

僕は、QREATOR AGENTのプロデューサーになりました。


代表の佐藤からは、

佐藤「齋藤君がやっていきたいことはやってください。副業もオーケーです。ただただ、自由に。」

とだけ。

その言葉通り、ほんと自由にやらせてもらって、いまは自分の会社も立ち上げて、何足のわらじを履いているか分からないですけど、


結局、“人”の結合でなにかを生もうとしている軸は一緒なので、いくつも走ることができています。


あのクリスマスの出会いから、

僕の人生が一気にドライブしていくのを感じました。

本当に楽しかった。


以上が、僕がQREATOR AGENTのプロデューサーになるまでの話です。


「人」の一文字


最後になりますが、QREATOR AGENTは、「人」という漢字の一文字を企業理念に掲げています。


人とのつながりで世界を豊かにしていきたいという想いからです。

会社が始まってまだ3ヶ月とちょっとしか経っていませんが、その理念のもと、本当に沢山の方々にお会いさせて頂きました。

レストランプロデューサー、予防医学博士、起業家、ゲームクリエイター、元パラリンピックの銀メダリスト、アーティスト、ダンサー、オタク、墨職人、セックスアドバイザー、農家さん、研究者・・、数えきれないくらいです。


こんな方たちが世の中にはいるんだなあと。皆さんとてもぶっとんでいて、最高に刺激的で、彼らが掛け合わさることで、とても面白いものが生まれていくように思っています。表現が正しいかわかんないですけど、【ぶっとんだ人の動物園】なんです。

今後その方達のことを発信していけるのが楽しみです!


・・・僕は、新しいイノベーションは、他ジャンルの人が交わることでしか生まれないのかもしれないと思っています。だからこそ、QREATOR AGENTという組織から、ルネサンスを起こせるんじゃないかとも。


やりたい事はないのだと諦めた学生時代でしたが、だからこそ今、人と人を繋げるQREATOR AGENTのプロデューサーとして、毎日にやりがいを感じる自分がいます。


とにかく世の中を面白くしていきたいです。この時代は、自分たちが今まさに生きている時代だから。


そんな思いで、これからも走っていきたいと思います。


最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました。


QREATOR AGENT

齋藤圭祐


「※今後ストーリーを通じて、QREATOR AGENTのことを発信していきます。次回は、QREATOR AGENTのプロデューサーとして、QAが始まってからのこの3ヶ月で学んだことをご紹介できればと思います。」


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